ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

あらためて、純文学について。その02 「物語」について、もう少し緻密に。

2018-05-27 | 純文学って何?
 「物語」を批判して、「純文学」を持ち上げよう、てな趣旨でブログをやってるわけだけど、「物語」って用語はいかにも射程が広すぎて、ほんとは整理が必要なんである。たとえば、「ポストモダンとは、≪マルクス主義≫に代表される≪大きな物語≫が無効になった時代のことだ。」なんていうばあい、ここでの≪物語≫とは「人類全体がそれを目指して進みゆくべき理想の未来……を示すに足るだけの精密かつ壮大な理論体系」みたいな含意であって、ものすごくでっかい。バカでかい。
 とりあえず、これを「物語①」としておこう。
 いっぽう、「ロシアの民俗学者ヴラジミール・プロップは、物語を31の機能に分類した。」というばあい、まあ厳密にはこれは「ロシアの魔法昔話」に限定されるんだけど、ここでの「物語」とは、いわゆる「説話」である。「説話」にはおおよそのパターンがあって、いちばんわかりやすい例だと、「勇者」がいて「お姫様」がいて「ドラゴン(悪者)」がいて「勇者がピンチに陥ったとき助けてくれる奇特な人」がいて……みたいなことだ。
 「ドラゴン(悪者)」が「お姫様」を迫害し、むやみに追っかけ回したり、捕まえて塔とかに幽閉したりする。「勇者」はそれを敢然と救い出そうとするけれど、いかんせん力不足で、なかなか思うに任せない。反撃を食らって一敗地にまみれたりする。そこで、例えば「老師」であったり、「かつてのライバル(最初の敵)」であったり、なんかまあ、そういったような人たちが、何らかのかたちで力を貸してくれる。それによって勇者はふたたび立ち上がり、恐るべき「ドラゴン(悪者)」に再挑戦して勝利を得、「お姫様」を救出するわけだ。
 現代アニメでいうならば、宮崎駿のテレビアニメ『未来少年コナン』と、それを濃縮して映画版にしたような『天空の城ラピュタ』が典型的だけど(これをルパン三世の基本設定を借りてやったのがご存知『カリオストロの城』)、この基本パターンを変奏すれば娯楽作品の無限のバリエーションが得られる。スターウォーズももちろんそうで、こちらのばあい、さらに「父殺し」という本質的な物語要素も加わってくる。
 この「説話」のことを、「物語②」と呼んでみる。
 「物語①」と「物語②」とはもちろん違う。だからほんとは別個の名まえで呼ぶのが望ましいのだが、どうもいまいち、適切な用語が見つからなくてそのままになってる。これはこのブログだけのことじゃなく、世間に出ている評論なんかでもそうだ。たとえば宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫。とても有益な本だ)なんかでも、これらの「物語」がけっこう混在して使われている。
 これら二つと通底してはいるけれど、またちょっと別の意味の「物語」もある。前回のリストで二番目にあげた内田樹さんの『映画の構造分析』(文春文庫)21ページにあるやつだ。


「物語を語るな、ということは、知ることも、批評することも、コミュニケーションすることも、すべてを断念せよということです。そんなことできるはずがありません。
 私たちはどのような出来事についても、そこから「有意なデータ」を選び出し、「どうでもいいデータ」を棄て、ひとまとまりの「情報」単位を構成します。私たちはかならずデータの取捨選択を行っています。
 私はただそのデータの選択のことを、「お話を作る」というふうに言い換えているだけのことです。」


 ここで内田さんのいってる「お話」はもちろん「物語」と同じで、ようするに、「世の中にあふれる情報の海の中から取捨選択して、意味のあるひとつらなりの単位にまで再構成されたデータ」を「物語」と呼ぼうということだ。
 これを「物語③」とする。
 「物語③」は、より根本的で、一般的な「物語」だ。いちばん汎用性が高い用法である。そしてまた、日々の暮らしを送るうえで、意識してか無意識のうちにかに関わらず、誰しもがやってることでもある。このカオスのような世界から、適切な情報を抜き出し、それを再構成して自分にもっとも使い勝手のよい「ひとつらなりの単位」をつくる。むろん人生における経験値が増すほど、その「物語」は膨れあがり、複雑さの度を加えていくだろう。
 「物語」とひとくちにいっても、ざっと見ただけでこのとおり幾つも用例がある。それらはむろん、根底では繋がり合っているけれど、しかしやっぱり違うものではあるわけで、使うほうは自分のなかで仕分けてるからいいけれど、読むほうがぼんやりしていると、混乱を招くおそれもある。
 当ブログでもこれらの用法を一緒くたにしていて、それぞれに、なんか適切な言い換えはないもんかなあと思ってるのだが、そうやすやすとは見つからない。
 さて。冒頭へと戻って、「《物語》を批判して、《純文学》を持ち上げよう」というばあい、この《物語》ってのは、上で述べたいろいろなものを含むのだけれど、身近なところで、どうしても、「エンタメ小説」を指すことにもなる。
 エンタメ小説とは、たんじゅんにいえば「芥川賞」系に対する「直木賞」系だ。しかし直木賞受賞作なんて、一年を通じて最多でも4作までだから、ラノベまで含めた膨大な量の作品群をとうてい包摂しきれるものではない。
 ぼくは純文学を愛するあまり、ずっとエンタメ小説を敵視していた。ところが、現代史を描いたケン・フォレットの大作を読んで、それまで持っていたエンタメ小説への偏見がなくなり、熱心に読むようになった、という話を去年の夏くらいにした。
 定期的にブックオフを回って、100均の棚を漁り、目ぼしいやつをごっそり買いこむ。
 知っている名前も当然あるが(それこそ直木賞作家のものも)、まるっきり初見の名前のほうがはるかに多い。この100均の棚で出会わなければ、あるいはずっと知らないままに終わったかもしれない面々だ。
 それでまた、そんな作家たちの作品がめっぽう面白いのである。まあ「面白い」って形容の定義にもよるが、「どんどんページを繰ってしまう」という点においては、どう考えても「文學界」「群像」「新潮」「すばる」に載ってる小説とくらべて面白い。純文学バカのぼくの目から見てもそうなんだから、そりゃ一般の読者がこっちにばかり惹きつけられるのは当たり前だ。
 昨年の8月30日にやった「これは面白い。と心底思った小説100and more」には盛り切れなかったけれど、ほかにもエンタメ小説で、「めちゃオモロい」と思ったものは少なからずあるのだ。
 とはいえ、「これはぜったいエンタメ小説には逆立ちしてもできんぞ」という、純文学だけの「面白さ」もある。好きすぎて、これまで当ブログでもきちんと論じたことはないんだけれど、古井由吉さんの小説(というか文章)を読み進めるときの高ぶりは、ほかのいかなる小説からも、けっして味わえないものだ。
 ずいぶん前にも書いたけど、エンタメ小説と純文学とは鳥の両翼、どちらが欠けても一国の文芸はうまく飛べない。双方が補い合ってこその出版業界だと思う。「近代小説の成立からほぼ150年、純文学は終わった。」という説の可否をもふくめ、純文学について書くべきことは、まだ色々とあるはずだ。