「ダウンワード・パラダイス」は、2014年の9月に、今は亡きocnブログからここgooブログにお引越ししたのだけれど、その頃の記事を読み返してみると、当時はまだまだ「純文学」を信頼してたなあ……と思う。
当節は「純文学」が衰え、「物語」が世を覆っている。しかし物語とは、(ハリウッド映画によく見られるとおり)個別の人間をかんたんに「キャラ付け」して「味方」と「敵」とを分かち、じっさいには豊かでふくざつな「現実」を、陳腐にストーリー化してしまう。これはよくない。
と、いったようなことを力説していた。
「物語」は面白い(これもハリウッド映画を思い浮かべればわかる)。そのパワーは絶大だ。ただ、そんな「物語」にばかり浸っていると、状況に流され、きちんと自分でものを考えなくなってしまう。
そんな「物語」の威力に抗うために、やはり「純文学」は必要なのだ。みなさん純文学を読みましょう。
おおむねそういう論旨である。
間違ったことを言ってはいない……と今でも思うが、なんか空回りだなあ……との感は否めない。すくなくとも、今のぼくは、どのような形であれ、そこまで「純文学」を顕揚(けんよう)したい気分ではない。
たんじゅんな話、もし「物語」に対する免疫力をつけたいなら、べつに「純文学」ならずとも、「教養って何?」で紹介しているような、他のジャンルの優れた本を読んでもいいわけで。
ともあれ、2014年の9月にそういうことを書いて、いま2018年5月。「純文学うんぬん」というテーマにつき、このかんに起ったもっとも大きな出来事といえば、村上春樹の新作『騎士団長殺し』の発売……ではなくて、結局のところ、2015年下半期の又吉直樹『火花』芥川賞受賞だと思う。
小説としての『火花』については、2015年の9月7日に記事を書いた。読み返してみると、言うべきことはぜんぶ言ってて、とくに付け加えることはない。言っちゃなんだが、もともとそこまでたいそうな小説でもないのだ。
ただ、この作品はドラマになった(さらにそのあと映画化もされたが、そちらの話は割愛し、ここではドラマ版についてのみ述べる)。
製作から放映の経緯は、wikipediaによれば以下のとおりである。
「 2015年8月27日、有料動画配信のNetflixと吉本興業によって映像化されることが明らかになる。
同年11月上旬にクランクイン。全10話のドラマとなり、2016年春から、Netflixにて全10話一挙配信された。2017年2月26日から4月30日までNHK総合にて、約45分(最終回のみ50分)に再編集して放送された。」
ぼくは全話通して見たんだけれど、これがほんとに良い出来だった。原作を読んで感じた「物足りなさ」がことごとく丁寧に埋められ、情感あふれる青春ドラマに仕上がっていた。脚本も監督も、複数の方が分担で担当されていたらしいが、全体に筋が一本通って、冗漫なシーンはまったくなかった。主演の林遣都という青年がことのほか良くて、これまで見たテレビドラマの中でも五本の指に入ると思ったほどだ。
先輩芸人の神谷は、原作ではちょっと掴みどころがなく、芥川賞選者のひとり小川洋子さんなど、「天才気取りの詐欺師的理屈屋」とひどいことを言っておられたけれど、ドラマ版では、「才能はあるのに、性格が詰屈していて、客に媚びることができず、自分のスタイルにこだわりすぎて売れない」ところがきちんと出ていた。
ただ、波岡一喜という役者さんは、ぼくの思い描く神谷とはやや違っていた。ぼくの感じだと、あんなに鋭くはなくて、それこそ「天然ボケ」というか、もうちょっととぼけた空気を漂わせているように思うのだ。それでいて、滴るような色気がある。正直なところ、ぼくのなかでは、町田康さんのイメージが最初に読んだ時から確立していて、ほかのひとが浮かばないのである。これはまあしかし、極私的な思い入れです。波岡さん、スタッフの皆さん、ファンの皆さん、すいません。
ともあれ、よいドラマだったのだ。へんな話、あれを見たことで、原作に対する自分の評価が跳ね上がったのである。あのドラマを生む母体に、核(コア)になったのならば、『火花』はやはり名作だ。そう思った。
しかし、裏返していえば、それは小説としての『火花』が、あらためて弱さを露呈した、ということでもある。いわば大勢のスタッフやキャストたちとの「合作」によって初めて「作品」となりえた。文学作品として、独り立ちできてはいなかった。
版元の文藝春秋社にとって、『火花』は慶賀すべきヒット作であったろう。そのご、第二作をゲットした新潮社にも、その恩恵は及んだであろう。しかし、又吉直樹という作家の登場によって、ジャンルとしての「純文学」が息を吹き返した、というものではない。
ぼくとしては、失礼ながら、又吉さんの生みだす「小説」にはさほどの関心はない。むしろ、マスメディア(というか、テレビ業界)における又吉さんの受容ぶりのほうに興味をひかれる。
又吉サイドからいうならば、芥川賞作家となった芸人・又吉直樹の、テレビ業界における振舞い方、ということになるわけだが。
ぼくはめったにテレビを見ないので、はっきりしたことは言えないのだが、テレビの中の又吉さんは、和服を着て、長髪で、けっしてはしゃいだりはせず、ぼそぼそと、口ごもるように発言する、という印象がある。
その発言はことさら面白いわけでもないのだが、どこかしらユニークで、人情や世相の機微にふれている……。周りのひとは、ああ、やっぱりこの人は、ふつうの人とはちょっと違うな、作家なんだな、という目で彼を見直す……。
正鵠を射ているかどうかは不明ながら、ぼくが又吉という人に抱いているイメージはそんな感じだ。
これがもし当たっているとするならば、又吉さんは、この純文学不振の時代にあって、「文豪」のパロディーを演じることで、独特の存在感を放っている、ということになる。
「パロディー」というのもいささか荒い言い回しだけれど、「世間のもっているステレオタイプを弁えたうえで、それを自己流に演じ直して見せる」ことをパロディーと呼ぶなら、それはまさしくパロディーだろう。
文豪といっても、谷崎潤一郎や志賀直哉のごとく、「文壇に君臨する」といった感じではなく、このばあいは、人気はあっても終生ずっと異端者であり、けっして「権威」にはなりえなかった太宰治タイプである。繊細で、ナイーブで、青くさい。そのくせ結構したたかで、人を食ったところもある。
いいかえれば、それは「純文学」というジャンルそのものに対して、今も昔も世間が抱くパブリックイメージなのかもしれない。
そういう点では、おかしな話、村上春樹や村上龍や島田雅彦といった人たちよりも、又吉直樹ははるかに「純文学作家」ぽくって、少なくとも外見としてこれに匹敵するのは、世代としてはずうっと上の筒井康隆だけだ。
なお、筒井さんもまた、まさしく「文豪」と呼ばれるに足る業績の持ち主であると同時に、芸能プロに籍を置く俳優であり、自覚的な演技者である。
この高度ハイテク大衆消費社会にあって、「純文学」というジャンルの存在のありようを文字どおり「体現」しているのは、案外と又吉直樹(くどいようだが、その作品ではなく、ご本人そのもの)かもしれない……。
これもまた、「純文学は救いようのないところまで衰えた」といういつもの嘆きを、べつの表現で言いなおしているだけなんだけれども。
当節は「純文学」が衰え、「物語」が世を覆っている。しかし物語とは、(ハリウッド映画によく見られるとおり)個別の人間をかんたんに「キャラ付け」して「味方」と「敵」とを分かち、じっさいには豊かでふくざつな「現実」を、陳腐にストーリー化してしまう。これはよくない。
と、いったようなことを力説していた。
「物語」は面白い(これもハリウッド映画を思い浮かべればわかる)。そのパワーは絶大だ。ただ、そんな「物語」にばかり浸っていると、状況に流され、きちんと自分でものを考えなくなってしまう。
そんな「物語」の威力に抗うために、やはり「純文学」は必要なのだ。みなさん純文学を読みましょう。
おおむねそういう論旨である。
間違ったことを言ってはいない……と今でも思うが、なんか空回りだなあ……との感は否めない。すくなくとも、今のぼくは、どのような形であれ、そこまで「純文学」を顕揚(けんよう)したい気分ではない。
たんじゅんな話、もし「物語」に対する免疫力をつけたいなら、べつに「純文学」ならずとも、「教養って何?」で紹介しているような、他のジャンルの優れた本を読んでもいいわけで。
ともあれ、2014年の9月にそういうことを書いて、いま2018年5月。「純文学うんぬん」というテーマにつき、このかんに起ったもっとも大きな出来事といえば、村上春樹の新作『騎士団長殺し』の発売……ではなくて、結局のところ、2015年下半期の又吉直樹『火花』芥川賞受賞だと思う。
小説としての『火花』については、2015年の9月7日に記事を書いた。読み返してみると、言うべきことはぜんぶ言ってて、とくに付け加えることはない。言っちゃなんだが、もともとそこまでたいそうな小説でもないのだ。
ただ、この作品はドラマになった(さらにそのあと映画化もされたが、そちらの話は割愛し、ここではドラマ版についてのみ述べる)。
製作から放映の経緯は、wikipediaによれば以下のとおりである。
「 2015年8月27日、有料動画配信のNetflixと吉本興業によって映像化されることが明らかになる。
同年11月上旬にクランクイン。全10話のドラマとなり、2016年春から、Netflixにて全10話一挙配信された。2017年2月26日から4月30日までNHK総合にて、約45分(最終回のみ50分)に再編集して放送された。」
ぼくは全話通して見たんだけれど、これがほんとに良い出来だった。原作を読んで感じた「物足りなさ」がことごとく丁寧に埋められ、情感あふれる青春ドラマに仕上がっていた。脚本も監督も、複数の方が分担で担当されていたらしいが、全体に筋が一本通って、冗漫なシーンはまったくなかった。主演の林遣都という青年がことのほか良くて、これまで見たテレビドラマの中でも五本の指に入ると思ったほどだ。
先輩芸人の神谷は、原作ではちょっと掴みどころがなく、芥川賞選者のひとり小川洋子さんなど、「天才気取りの詐欺師的理屈屋」とひどいことを言っておられたけれど、ドラマ版では、「才能はあるのに、性格が詰屈していて、客に媚びることができず、自分のスタイルにこだわりすぎて売れない」ところがきちんと出ていた。
ただ、波岡一喜という役者さんは、ぼくの思い描く神谷とはやや違っていた。ぼくの感じだと、あんなに鋭くはなくて、それこそ「天然ボケ」というか、もうちょっととぼけた空気を漂わせているように思うのだ。それでいて、滴るような色気がある。正直なところ、ぼくのなかでは、町田康さんのイメージが最初に読んだ時から確立していて、ほかのひとが浮かばないのである。これはまあしかし、極私的な思い入れです。波岡さん、スタッフの皆さん、ファンの皆さん、すいません。
ともあれ、よいドラマだったのだ。へんな話、あれを見たことで、原作に対する自分の評価が跳ね上がったのである。あのドラマを生む母体に、核(コア)になったのならば、『火花』はやはり名作だ。そう思った。
しかし、裏返していえば、それは小説としての『火花』が、あらためて弱さを露呈した、ということでもある。いわば大勢のスタッフやキャストたちとの「合作」によって初めて「作品」となりえた。文学作品として、独り立ちできてはいなかった。
版元の文藝春秋社にとって、『火花』は慶賀すべきヒット作であったろう。そのご、第二作をゲットした新潮社にも、その恩恵は及んだであろう。しかし、又吉直樹という作家の登場によって、ジャンルとしての「純文学」が息を吹き返した、というものではない。
ぼくとしては、失礼ながら、又吉さんの生みだす「小説」にはさほどの関心はない。むしろ、マスメディア(というか、テレビ業界)における又吉さんの受容ぶりのほうに興味をひかれる。
又吉サイドからいうならば、芥川賞作家となった芸人・又吉直樹の、テレビ業界における振舞い方、ということになるわけだが。
ぼくはめったにテレビを見ないので、はっきりしたことは言えないのだが、テレビの中の又吉さんは、和服を着て、長髪で、けっしてはしゃいだりはせず、ぼそぼそと、口ごもるように発言する、という印象がある。
その発言はことさら面白いわけでもないのだが、どこかしらユニークで、人情や世相の機微にふれている……。周りのひとは、ああ、やっぱりこの人は、ふつうの人とはちょっと違うな、作家なんだな、という目で彼を見直す……。
正鵠を射ているかどうかは不明ながら、ぼくが又吉という人に抱いているイメージはそんな感じだ。
これがもし当たっているとするならば、又吉さんは、この純文学不振の時代にあって、「文豪」のパロディーを演じることで、独特の存在感を放っている、ということになる。
「パロディー」というのもいささか荒い言い回しだけれど、「世間のもっているステレオタイプを弁えたうえで、それを自己流に演じ直して見せる」ことをパロディーと呼ぶなら、それはまさしくパロディーだろう。
文豪といっても、谷崎潤一郎や志賀直哉のごとく、「文壇に君臨する」といった感じではなく、このばあいは、人気はあっても終生ずっと異端者であり、けっして「権威」にはなりえなかった太宰治タイプである。繊細で、ナイーブで、青くさい。そのくせ結構したたかで、人を食ったところもある。
いいかえれば、それは「純文学」というジャンルそのものに対して、今も昔も世間が抱くパブリックイメージなのかもしれない。
そういう点では、おかしな話、村上春樹や村上龍や島田雅彦といった人たちよりも、又吉直樹ははるかに「純文学作家」ぽくって、少なくとも外見としてこれに匹敵するのは、世代としてはずうっと上の筒井康隆だけだ。
なお、筒井さんもまた、まさしく「文豪」と呼ばれるに足る業績の持ち主であると同時に、芸能プロに籍を置く俳優であり、自覚的な演技者である。
この高度ハイテク大衆消費社会にあって、「純文学」というジャンルの存在のありようを文字どおり「体現」しているのは、案外と又吉直樹(くどいようだが、その作品ではなく、ご本人そのもの)かもしれない……。
これもまた、「純文学は救いようのないところまで衰えた」といういつもの嘆きを、べつの表現で言いなおしているだけなんだけれども。