ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

教養って何?

2017-10-22 | 雑読日記(古典からSFまで)
 前回の記事を書いて、「教養ってのは何だろう?」とあらためて思った。高校の授業で古文や漢籍の代わりにプログラミング言語を教えようかというこの時代、ぼくなんかの学生の頃と比べても、「教養」ということば(概念)そのものが変質してるのは間違いない。
 たぶん、もっとも初歩的な用例としては、「これくらいは知っとかないと恥ずかしい」ような事柄を指すんだろう。「社会人としての最低限の教養」みたいな使い方で、ほぼ「常識」ということばで置き換えられる。しかしこれではいかにも浅い。
 広辞苑第四版にはこうある。「たんなる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。」
 さすがに立派なものである。なるほど。「雑学」だの「豆ちしき」の集積ではないのだ。受験用のお勉強とも少し違う。それでクイズ王になれたり、ただちに東大に受かったりするものではない。
 もっと体系立っていて、より深く本質的なところで、それぞれの「世界観」や、さらにいうなら「人格」そのものにまで結びついている知見。それが本来の意味での「教養」だろう。
 だから例えば、「漱石は教養として読んどいたほうがいいよ」というばあい、「漱石くらいは読んでおかないと恥ずかしいよ」ではなく、ほんとうは、「君の世界観をより濃やかで奥深いものに練り上げるために、夏目漱石を読むことはきっと役に立つはずだよ」という含意が込められてなきゃだめなのだ。しかし、後のほうの意味で若い人たちにそんな助言ができる大人はどれくらいいるもんだろうか。それこそ「教養」の度合いが問われるところだ。
 いずれにしても、どうしたってプログラミング言語は「教養」とは呼べない。ただ、それじゃあやっぱり高校生には、そんな実用オンリーの技術ではなく、旧に復して、もっときちんと古文やら漢籍を教えよと主張するべきなんだろうか。なんだかそれも違う気がする。
 正直いって、ぼくみたいな本好きですら、10代のころに、教科書に載ってた古い文章が楽しくすらすらカラダに沁みこんできたわけではない。ましてやスマホ時代の今の学生たちにおいてをや。カラダに沁みこんでいかないようでは、「教養」にはならないんじゃないか。
 漱石もそうだが、文学にかぎらず、教養を身につけるうえで欠かせないのが「古典を読む」ことだ。近代政治学の始祖といわれる17世紀イギリスのホッブズ。日本では徳川幕府が盤石の封建体制を固めていった時期だが、先進国イギリスにおいては絶対王政が各層からの批判を受けて内乱によって倒され(ピューリタン革命)、そこで成立した共和制がすぐに行き詰まって王政復古~名誉革命を経て立憲君主制となる激動の時代であった(ただし名誉革命は1688=元禄1年、ホッブズは1679年に死去しているから、厳密にいえば名誉革命には立ち会っていないが)。
 自らもその激動に翻弄されながら生きたそのホッブズの主著「リヴァイアサン」(岩波文庫・全四冊)は、「万人は万人にとっての狼である。そんな《自然状態》の危うさは、各人が自己の権利を一人の主権者に譲り渡す社会契約によってのみ解消される。それが主権者としての国家である。ただし、国家と国家との間は《自然状態》にとどまり、それを超える存在はない。」と要約できる。
 それから3世紀近くの年月がすぎ、凄惨きわまる第二次大戦を経てようやく国連が形を整えたけれど、これが今なお「世界警察」と呼ぶに足るほどのものでないのは周知の事実だ。厳密には、いまも「国家と国家との間は《自然状態》にとどまり、それを超える存在はない。」
 今日はたまたま衆院選の投票日だけど、北朝鮮や中国、さらにはとうぜんアメリカとの関係性を踏まえたうえで、平和憲法について改めて思いを巡らせるとき、ホッブズの遺した思索はなまなましく我々のまえに迫(せ)り上がってくる。今も新しく、なまなましく、未来においても新しく、なまなましい。真の古典とはそういうものだ。
 しかし、そのホッブズにしても、ぼくがそれなりにあれこれ経験を積んでこの齢になったからこそ凄さがわかるわけであり、高校の「倫理社会」の授業で習ったときは、ただの古いガイジンのおやっさんであった。
 だいたいにおいて、人間ってものは、10代の時分にはまだ脳ができあがっていない。これは比喩的なことではなく、生物学的・医学的にみて、じっさいに脳がまだ完全ではないのである。発達途上なのだ。藤井聡太くんなんかを見ていると、人(個体)によってはかなりのところまでいけるもんだなあと感服するが、それでも総じていうならば、未成熟なのは間違いない。
 まして、このネット社会である。ぼくが小学生のころ、万博を機に「未来学」というのがかるく流行ったけれど、どんなSF作家も、未来学者(?)も、このような社会をクリアに予見できはしなかった(小松左京さんなどは、いま読み返すと、作品のなかでワールド・ワイド・ウェブに近いイメージを断片的に提示しているが)。
 放っていても「情報」(有益なものから有害なものまでひっくるめて)が洪水のごとく向こうから勝手にどばどば押し寄せてくるこの時代、若い人たちにとって、ひいては社会人たるわれわれにとっての「教養」とは、はたしていかなるものであるのか。
 よくわからないなりに、自分なりに考えてみようと思い、新しくカテゴリを立ち上げた次第であります。