これは2013年1月24日に発表した記事に手を加えたものです。文中では小説「共喰い」の核心部分およびラストに触れています。つまり、いわゆるネタバレを含んでおりますので、当の作品を未読の方はくれぐれもご注意ください。
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芥川賞の受賞に際し、古風な小説、との世評を見た。なるほど、同時受賞の円城塔と並べて読むと、いっそうその感が強くなる。舞台は昭和63年7月。昭和最後の夏だ。土地の名前は明記されてないが、少なくとも都会ではない。これも多くの世評に倣って、「川辺の田舎町」と荒っぽく呼んでもいいだろう。青山真治監督による映画版は、北九州でロケをしたそうだが、むろん、作家の故郷である下関にも、似たような地域があって不思議ではない。
古風とは、とりあえずは文体のことか。一読したかぎりでは、いかにも「ニッポンの純文学」の系譜に属する文章ではある。村上春樹を通過した目には、かえって新鮮にすら映る。影響を受けた作家として、田中さんは谷崎、川端、三島の名前を挙げている。源氏物語を五回読んだ、とも述べている。とはいえ、流麗で美しい文章、とはいえない。端正には違いないけれど、どことなく佶屈している。これがこの作家の個性なのだろう。そしてそれは、必ずしも古めかしいばかりではない。
一本の汚れた川が、冒頭からラストまで、この小説の風土を貫いて流れている。出だしの部分、その川を埋めているさまざまなゴミを描出した中に、「もし乗れたとしても永久に右に曲がることしか出来そうにない壊れた自転車」という一文が見える。こういう言い回しは、やはり平成の感覚だろう。その次の「折れた骨を檣のように水面から突き出している黒い傘」で「帆柱(ほばしら)」をわざわざ「檣」と書くのは三島調だが、ふだん見かけない異様な漢字が使われているのは、ぼくの見たところここだけだ。平野啓一郎の『月蝕』とは違うのである。
17歳の男子高校生がいて、一つ年上で別の高校に通う恋人との交情に溺れながら日々を送っている。彼女があまり美人でないことは、主人公の母親が彼にいう台詞からわかる。彼の住居のすぐ脇を流れるゴミだらけの川は、下水と海のにおいに満ちている。彼は実の父親およびその内縁の妻と暮らす。実母はひとり、橋の向こうで魚屋を営んでいる。父親が交情のさいに殴りつける悪癖を持つうえ、女癖もひどく悪いため、彼が生まれて間もない時分、耐えかねて出ていったのだ。それでも遠くへは行かず、間近でずっと息子を見守り続けている。
母親は空襲で右手を失い、今は義手をつけているのだが、かつてその義手を作ってやったのは父親だった。壊れているようでいて、妙な絆で絡み合っている家族関係なのだ。陰惨というべき情景ながら、筆致が乾いているために、読み進めるのに苦痛を覚えることはない。
父は35歳の内縁の妻と夜な夜な性交を重ねるいっぽう、近くのアパートに住む風変わりな女性と交わってもいる。そのいずれに対しても、やはり彼はいつも交情の折りに殴打しているようだ。そうしなければ交情ができないらしいのだ。性と暴力の臭いを濃密にまとった父親。成熟したエロスを湛えたその愛人。烈しさと母性とを共に備えた異形の母親。かなり歪(いびつ)にデフォルメされてはいるものの、このオイディプス的な(もしくは、王女メディア的な)煮詰められた関係性もまた、「古風」という形容に値するのかもしれない。
ただ、いくぶん捻った言い方をすれば、その一見「古風」な構図がかえって新しいともいえる。1972年生まれの田中慎弥は、いまどき珍しい昔気質の文学青年なのかもしれないが、やはり相応にドラマや映画などから影響を受けているとも思える。源氏や谷崎や川端や三島だけでは、このような作品は出てこない。昭和の純文学は、これほど劇的な構成を立てない。もっとぐずぐず日常性に流れていく。昭和の純文学ならば、登場人物の面々は、これといったカタルシスもないままに、噎せ返るような川のにおいに圧し拉がれながら、便々と日々を送ったはずだ。だから昭和を舞台に据えてはいても、これは確かに平成の小説なのだ。
「性」と「暴力」のイメージはまた、母親の商う、あるいは主人公が川で釣りあげる「沙魚」や「鰻」に仮託され、小説のそこここで蠢いてもいる。このあたりの細工も、いかにも「純文学」というべきか。
「愛」ということばを使うなら、主人公の遠馬と恋人の千種とのあいだに愛はなく、ほぼ情欲だけがある。十代における性交なんておおむねそんな程度のものなのだし、それを「愛」だと履き違える、というか、自他ともにごまかして目先の快楽を貪るのが十代の性交というものなのだから、リアル世界においては、十代のうちはせいぜい健全なお付き合いをして、あとは勉強したりスポーツしたりして清らかな毎日を過ごすのが結局はいちばん賢明だとぼく個人は思う。ただしこの作品における遠馬には、情欲に溺れるだけの背景がある。千種のほうの事情は描かれない。
遠馬は中上健次の作中人物がそうであるように、オイディプスの末裔のひとりなのだから、物語の文法に従って、父親の内縁の妻・琴子に暗い情欲を抱いている。必ずしもそれだけではないが、千種を彼女の代替として扱っている節もある。
そしてこの愛なき関係性は、これも物語の文法にしたがい、父親によって、より暴虐な仕方で反復される。すなわち、父親の円(まどか)はこともあろうに神域(神社の境内)において息子の恋人・千種を襲い、暴行をふるい、犯す(この事件の起こる少し前、自らの妊娠を知った琴子は円に内緒で家を出ている)。事件を聞いた母親の仁子(じんこ)は、息子に代わって、義手と刃物で円を刺し殺し、その屍骸を川へと流す。つまりこれは、オイディプス譚であるとともに、王女メディアの物語の変奏曲でもあるわけだ。
川に浮かんだ父親の屍骸の描写は圧巻だ。「男、つまり父の死体の腹には、川辺の者なら誰でも知っている魚屋の女主人の義手が、深々と突き刺さっていた(……)。増水した川を塞いだごみと一緒に海へ向かっていた死体から生えたその奇妙な金属の塔が、川が国道の下へ吸い込まれていく暗渠の入口の天井部分に引っかかっていたために、どうにか海まで流れずに発見された。」
冒頭部分で見かけた異様な一文字の漢字「檣(ほばしら)」がここで生きてくる。父親の腹から生え出して、彼の海への葬送を拒んだその「奇妙な金属の塔」はどうしても帆柱ではなく「檣」でなくてはならない。それはもちろん屹立するペニスでもあろう。オイディプスと王女メディアとが、泥絵具で描かれた劇画チックな風景の中で混じり合う。「母」と「父」とは、息子が女性と交わることのできる年齢に達した今、あらためて、憎しみの果てに激烈な交情をかわしたのだ。だからこそ、かつての夫を刺殺した後で、母親は「鳥居を避ける。」 すなわち、齢60近くになって、「やまっちょったもんが、また始まった」のだ。義手を介して、十数年ぶりに夫と交わり、死へ至らしめたことで、再び「女」に戻ったのである。
だから、拘置所に主人公が母親を見舞うラストの3行、
「差し入れ、出来るみたいやけど、ほしいもん、ない?」
「なあんもない。」
生理用品は拘置所が出してくれるのだろう、と遠馬は思った。
……はまさにこれしかないオチなのだ。これを「息子のお前なんぞに生理用品の心配をされる筋合いはねえ!」と茶化している山田詠美選考委員は、作品の核心をきちんと捉えているのかどうか。また、「戦後間もなく場末の盛り場で流行ったお化け屋敷のショーのように次から次安手でえげつない出し物が続く」と罵倒したあげく、この回を以て委員を辞した石原慎太郎選考委員は、「完全な遊戯」をはじめとするご自身の作品をいまいちど読み返されてはいかがかだろうか。
補足・オイディプスとクリュタイムネストラ(初出・2013年1月29日)
田中慎弥の「共喰い」について書いた前回の記事、こまめに当ブログのトップページを開いて下さっている方はお気づきのことと思うけど、最初は副題が「~オイディプスとエレクトラ」になっていた。投稿の翌日に間違いに気づき、「あわわわ。」などと言いながら、取り急ぎ改めたのだった。精神分析用語で「オイディプス」と対になるのは確かに「エレクトラ」だけど、これはふつう、(それこそオイディプス・コンプレックスの裏返しで)父親を愛する娘が母親に対して抱く憎悪を指すものだとされているから、「共喰い」には当て嵌まらない。「共喰い」に出てくる人物の中で「娘」に該当するのは千種さんくらいだが、彼女の背景はまるで描かれてはいない。あくまであれは、息子・遠馬と母・仁子、そして父・円との物語なのである。
ぼくとしては、ずっと王女メディアのつもりでいた。草稿を書いている時も、「ホレむかし蜷川幸雄の演出で平幹二朗が女形をやった例のホラあれ。」と頭にイメージを浮かべていたのだ。それがすっかり「エレクトラ」に置換されてしまっているのだから、やっぱ齢は取りたくねえなあという感じなのだが、ただ、メディア・コンプレックスという用語は正式な精神分析用語としては存在しないし、カタカナでたんに「メディア・コンプレックス」などと書いてしまったら、「複合商業施設」みたいな意味に取られそうである。そもそも、ギリシア神話およびギリシア悲劇に出てくる「王女メディア」は、夫の愛人(?)及びその父親と、さらに夫とのあいだに設けた自分自身の二人の子供までをも手にかけてしまう烈婦だけれど、肝心の(?)夫その人には手を下さない。「共喰い」の仁子さんとは、かなりズレがあるのも事実なのだ。
じつは、このたび気づいたのだが、「夫を殺害する妻」という典型ないし類型が、世界(日本をも含む)文学史の中にすぐには見当たらないのである。これはなんとも不思議なことで(だって、いちばんドラマの題材になりそうじゃないですか)、ひょっとしたら大きな見落としをしているのかもしれないが、いま改めて考えてみても、やっぱり思い浮かばない。マクベス夫人は違うしなあ……。あっ。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のコーラですか? 81年にリメイクされた映画版では、ジェシカ・ラングが演ったやつね? 大胆な描写が当時は話題になりましたが……。だけどあれはなあ……。いや、べつにミステリーだからって別扱いにする気はないけれど、しかしあの原作は1934(昭和9年)に発表されたということなので、いささか重みに欠けるというか……。風俗資料的な用語としてはいいんですよ、まあ「コーラ・コンプレックス」でもね。ただ、精神分析用語となると、もう少しこう、歴史の厚みみたいのが欲しい。民族の、さらに言うなら人類の集合的無意識によって練り上げられた重層的な厚みが不可欠なんですよ。それでこそ、コンプレックス(複合観念)の名に値するわけで。
安手のミステリーでよく見かける「妻が不倫相手と共謀して夫を殺す」パターンがどうしても薄っぺらになるのは、そこに「子供」が介在しないからだろう。つまり、女と男(と男)の話になってしまって、家庭劇にならない。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は安手のミステリーではないし、そもそも、単純にミステリーと呼んでいいかどうかも疑わしいくらい完成度の高い作品だけど、残念ながら、その点においてはやはりシンプルすぎると言わざるを得ない。「共喰い」の仁子さんの場合、息子オイディプスの代理として、息子の父たる自分の夫を(ペニスの代替物たる義手で以って)刺殺するわけで、しかも昔その義手を作ってくれたのは当の夫であるという、冨澤たけし風に言うならば、「ちょっと何言ってんだか分からない。」ほどの、幾重にも錯綜した関係性を生きている。その複雑さたるや、とてもじゃないけどコーラみたいなちんぴら姐ちゃんの比ではないわけで。
そこでまた、ぼくの考えは一回りして、エレクトラに戻ってくるのだが、「息子」と「父」「母」との関係性に重点を置いたフロイトに対し、ユングはもっと女性原理に着目し、エレクトラ・コンプレックスなる概念を唱えた。これの元になったのは、アテナイの英雄アガメムノンの娘エレクトラが、父親の仇を討つために、母親とその愛人とを殺したというエピソードだ。エレクトラがそんな挙に出たのは、父アガメムノンがその妻、つまり自分の母親であるクリュタイムネストラに殺害されたからである。しかし、ではクリュタイムネストラが稀代の悪女だったのかと言えば、そんな単純なことでもなくて、もともとクリュタイムネストラには相思相愛の夫タンタロスがいたのだが、彼女の美貌に惹かれた従兄のアガメムノンによって、夫は敵中に置き去りにされ戦死させられたのだった。ほとんど略奪されたようなものである。
さらに、その亡き前夫との間にもうけた唯一の男児も遺恨を恐れたアガメムノンに殺され、しかも最愛の長女イピゲネイアまで生贄と称してアガメムノンに命を奪われた。このイピゲネイアもまた、一説によれば前夫タンタロスの忘れ形見だったらしい。(このあたり、いろいろと文献によって異同があるので、とりあえず日本版ウィキペディアをほぼ丸写しにしております)。クリュタイムネストラが夫の戦役(トロイ戦争)による不在中に愛人をつくり、その男と共謀して夫アガメムノンを殺すのには、それだけの背景があったのである。
夫アガメムノンを殺したあと、彼女もまた遺恨を恐れ、実の息子であるオレステスを殺害しようとするのだが、それを阻んだのが次女エレクトラだ。姉弟はミケーネを脱出し、長じてのちに帰還して、母クリュタイムネストラとその愛人を殺害する。殺人が殺人を、復讐が復讐を呼んで骨肉相食む殺伐たるドラマである。オレステスは母殺しの罪によって一時は狂気に陥り放浪するも、やがて回復し、さらなる復讐の血に塗れたあとで、ミケーネに戻って王となる。いやはや。さすがはギリシア悲劇。善悪のスケールが違い過ぎ、もはや何が何だか分からない。なお、エレクトラがその後どうなったのかはぼくは知らない。ちょっと調べたけれども探しきれなかった。
長々と書いてきたけれど、耳慣れぬ固有名詞の連発にめげずに付き合って下さった方ならお察しのとおり、「夫殺し」というテーマにおいてはエレクトラではなくクリュタイムネストラこそが主人公といえる。息子を殺そうとしてるのだから、やはり「共喰い」の仁子さんとはズレるけれども、「複雑きわまる家庭劇としての夫殺し」という点で言うなら、「王女メディア」よりも「クリュタイムネストラ」のほうがより相応しいようだ。だとすれば、前回の記事の副題は、むしろ「~オイディプスとクリュタイムネストラ」とすべきだったのか? ちょっと長いし、あまり一般受けはしそうにないけど。
それにしても、「コンプレックス」という概念はじつに多種多様なるものなのだから、「オイディプス」と「エレクトラ」だけに占有させておくのは誠にもったいないことだ。日本では、仏教説話から取って「阿闍世コンプレックス」なる用語が創られたけれど、この手の工夫がもっともっと取り揃えられていて然るべきだと思うのである。たとえば、「ナオミ・コンプレックス」とか「葵の上・コンプレックス」とか「ムラサキ・コンプレックス」とかさ、どうして言わないんだろうと思うよ。