将棋ってものが極限まで抽象化された用兵術のモデルであるとするならば、ぼくも小学生の頃から「戦術に関するシミュレーションをよく行ってい」たことになるかもしれませんけども。
将棋の起源は古代インドと言われていて、それが東西に広がって多数のバリエーションを生んだんだけど、取った敵駒を再び盤上に打つ、つまり再利用できるのはすべての類似ゲームの中で日本の将棋だけなんですよ。この「持ち駒を打つ。」というのはかなり特異なことだなあ。と昔から思ってて、なんだろう、「捕虜をうまく使う。」ということなのかなあとか、考えたことがあるんですが、しかし飛車みたいなむちゃくちゃ強力な駒をいきなり敵陣に打ち込むなんてのは明らかに尋常じゃないんで、そんなレベルのことでもない。かりに武器に例えれば、「大砲」、いやむしろ「ミサイル」くらいの感覚ですが、だとすれば、昔の武将や軍師にとっては、日本の将棋は思考モデルとしてはあまり役に立たなかったかもしれません。
どれくらい後世の潤色が入ってるのかはわからないけど、劇画などでみる名将や名参謀はむしろ囲碁を好む傾向がある。大所高所から戦況を鳥瞰するにはそちらのほうがいいのかもしれない。しかし自ら戦陣に立って全軍を差配するイメージはやはり将棋のほうですよね。ティムールは将棋が趣味だったと伝えられてますが、これは日本の将棋より枡目も駒の種類も総数も多く、その代わり、取った駒を使うことはできない大将棋でしょう。
ともあれ、戦力が完全に互角であっても、用兵の巧拙によって勝敗がはっきり分かれることはこの手のボードゲームを想定すれば明らかです。だから「寡兵を以て大敵を討つ。」たぐいの武将が存在するのもわかります。陳慶之なんて人は(ぼくは今回初耳でしたが)、たぶん羽生善治レベルの天才だったのでしょう。
横山光輝といえば、ぼくも小学生のころ夢中になりました。こちらはたまたま『水滸伝』でしたが。長じてのちは王欣太の『蒼天航路』で、これはまさしく三国志です。ただし、かなり大胆な翻案で、曹操が主役ですけども。そういえば、『映像研には手を出すな!』の後番組は、『キングダム』の新章ですね。
ところで、『キングダム』『蒼天航路』『水滸伝』と並べて、いうまでもなくこれら3作はひとくちに「中国を舞台にした戦記物」といっても大きく時代が隔たっているわけですが、少なくともぼくなんかが劇画でみるかぎり、戦争の形態がそんなに激変してると思えないんですよね。つまり歩兵がいて騎兵がいて、武器は主に刀槍、飛び道具は弓、といったような編成ですね。カタパルト(投石機)なども見えますが、これもあくまで人力ですし。つまりは、持ち駒を使えない将棋っていうか。
軍事史における「革命」というべきはやはり火薬の導入でしょう。これは釈迦に説法ですが、火薬といえば製紙技術、羅針盤とならぶ中国の三大発明。しかし火薬が「てつほう(鉄砲)」として本格的に戦闘に利用されるようになったのは元代、すなわちモンゴル帝国の時代からといわれていますね。そこから西欧に伝わっていった。
それやこれやを考え合わせると、今までのやり取りにもあったとおり、「軍事」ってものはその国(共同体)の最先端の科学技術を如実に反映するものだし、それを裏打ちするのは産業構造や経済力や政治力や教育水準であったりするわけで、「軍事的な観点から歴史的事象を見る」というのは卓抜な感覚であると思いますよ。ひょっとしたらそれは、いちばんリアリスティックな観点なのかもしれません。
やや取り止めなくなってきましたが、「書きながら思考をまとめている」ところもあるのでご容赦のほど。とにかく軍事の話は尽きません。サブカルとの絡みについては、また次回といたします。ご返事はまだ続きますが、このまま見守って頂いてもよいし、この時点でまたツッコミを入れていただくのも一興です。そういうわけでよろしく。