とりたてて専門分野をもたないことはわたくしも同断です。お返事を書くさいは必死になってあれこれ調べまわってますし。むしろブログ本編を書くときのほうがずっといいかげんですね(それでよくツッコミを頂戴するわけですな)。各領域にわたる幅広い知識を蓄えて、マクロ的な広がりをもちつつミクロ的な細部もおろそかにしない自分なりの「世界像」を育みたいと若年の頃に発心してより早や幾年、いたずらに齢ばかりかさねて「日暮れて道遠し」を実感する日々です。とりあえず当面は、アマチュアながら筋金入りの知識人というべき出口治明氏を目標にさせて頂いてます。まあ出口さんはサブカルには関心がないと思いますが。
雪舟等楊のお話をうかがって、司馬さんの『空海の風景』(中公文庫)の中の逸話を思い浮かべました。こちらはさらに660年くらい前になりますけど。渡航して命からがら海岸にたどり着いたのに、海賊扱いされてそのまま50日ほども留め置かれ、業を煮やした空海が福州の長官へ嘆願書を出す。その書体と文章があまりに見事だったため、あわてて長安入りを許されたという。いま見たらウィキペディアにも載ってますね。
歴史小説つながりでいうならば、井上靖の『敦煌』は、北宋の若き知識人が西夏の文化の高さに魅せられるところからストーリーが始まります。莫高窟の謎を作家の想像力で解き明かした長編で(今ではこの説は否定的にみられてるようですが)、佐藤浩市・西田敏行で映画化もされましたねえ。いま思いつくのはこんなところです。中国の歴史に明るかったら、もっといろいろ浮かぶんでしょうが。また機会があったら軍人以外でも好きな傑物を教えてください。ぼくは王安石が気になってますが。
「草原の民はなぜ漢籍に比肩しうるほどの文献を自らの手で残せなかったのか。」を考えるばあい、たしかに、文字という要因はものすごく大きいですよね。「残虐な破壊者」というモンゴル族のイメージが近年になって急速に書き換えられていったのも、ペルシャ語やトルコ語の文献が大量に発見されたことに端を発しているそうだし(明朝サイドはとうぜんボロカス書いてますもんね)。
前段で述べた西夏にも「西夏文字」があったし、コメントで書かれていたとおり、ウイグル文字、パスパ文字というのもあったんだけど、結局は歴史の中に埋もれてしまった。たとえば教育制度とか科挙とか、他にもさまざまな条件が重なってのことでしょうが、やはり「漢字」の力がむちゃくちゃ絶大だったってことですかねえ。
世界には、「口承文化」ってものがけっこう多いんですよね。むしろきちんと文字化される文化のほうが少ないんじゃないかな。それが紙媒体などの形で留められ、さらに風化や火災や戦乱や水禍などをくぐりぬけて後世まで遺るってことは、じつは奇跡みたいなものかもしれません。その点まことに支那文明は素晴らしいもので、そこはもちろん大前提なんですけどね。
ともあれ、このたびのコメントで書かれていたような「文献学」的なお話も、つっこめばつっこむほど面白そうです。
冒頓単于のような人物については、それこそ小説家が想像力をふるって創作したら面白いんじゃないか……と書こうとして、ネットを逍遥していたら、「小説家になろう」で発表してる方がおられましたね。ざっと見たかぎり、文体も内容もなかなか本格的です。ただし未完のようだけど。
日本語は世界でいちばん美しい言語だとぼくは思っています。これは昔よくブログを訪問して下さっていた方にコメント欄でたしなめられたんだけど、そこだけは譲りませんでした(笑)。「漢字」という直線的で詰屈した、厳めしい字面の中に「ひらかな」といふ、みるからにたおやかでやわらかな文字が立ち交わって共存している様は世界中どこを探してもほかの言語にみられないものです。わたしはひょっとしたら「日本」という国そのものよりも「日本語」が好きなのかもしれません。そのなかでも最高峰に近いのは泉鏡花でしょうか。鏡花の文章に淫していると幾らでも時間が過ぎ去って、じぶんの小説が書けません。ろくでもないです。
チンギス・ハーンとティムールとの内面のちがいを云々できるほどには私はこの2人に馴染んでいないんですが……鉄木真(テムジン)こと成吉思汗(チンギスカン)にかんしては井上靖さんの『蒼き狼』(新潮文庫)がありますし、新しいところでは「義経=ジンギスカン説」を臆面もなくマンガ化してみせた瀬下猛さんの『ハーン―草と鉄と羊』(モーニングコミックス)なんてのもあるようですが、ティムールを正面から描いた創作は意外なくらい目ぼしいものが少ないですね。学術書では、先に名をあげた出口治明さんが川口琢司氏の『ティムール帝国』(講談社選書メチエ)を高く評価してました。このあたりもぜひ読みたいんだけど、「読みたい本リスト」が積み上がるばかりで、やはり「日暮れて道遠し。」ですねえ。
(つづく)
もう七年前になるのですかね。ディズニーの『アナと雪の女王』において、主題歌『Let It Go』が公開45か国語に翻訳されてそれぞれの言語の歌として公開されたのですが(今でもyoutube上で視聴することができます)、その中でも松たか子さんが歌った日本語版『ありのままで』がネット上で絶賛された、ということがありました。もちろん日本語を知らない外国の人たちに、です。彼らいわく、「かわいらしい歌」なのだそうです。ほえ~。
私はそういう話題だけは聞き知っていましたが、肝心の映画そのものに興味がなく、歌の方もスルーしていたのです。
・・・・で、今回eminusさんのお言葉を聞いて、「そういえば・・・・」と思い出し、改めてyoutubeの動画を視聴してみたところ・・・・。
まあ日本語版の歌詞が刺さる刺さる。感動して何十回も聴き直してしまいました。
あまりに感動して、「英語版の歌詞はどうなっているのか」が聴きたくなり、そちらも視聴してみると、再びびっくり。
なんと、英語版と日本語版、大筋の意味が違うのです。
英語版は「周りからどう思われようとかまわない。私は自由よ!」(超意訳)というニュアンスなのですが、日本語版の方は「自分を好きになって、自分を信じて、ありのままの自分を受け入れよう」という感じ。これは、訳詞を担当された高橋知伽江さんに、「観客の方々が自分と重ねて聴けるような」訳にしてほしい、という注文が出されたそうで、聴いた人が勇気づけられるように、との願いが込められているそうです。
個人主義のアメリカと、世間をまず考える日本。その違いがここにも表れているのか、と実に興味深く思ったものです。
同時に、この「意訳」の在り方こそが、「日本人の心」を表しているようにも感じました。だからこそ、日本語は美しい、と。
今年続編が公開されましたし、さすがにこの作品のことはeminusさんもご存じかもしれませんが。私も俄然興味が湧いたので、近いうちに金出してでも見ようかと思いました。
「アナと雪の女王 MovieNEX」Let It Go<25か国語 Ver.>でしょうか。ずいぶん前に聴いたんですが、これを機に聴きなおしています。
意味のほうはまるっきりアレなんだけど、耳ざわりでいえば、最初のほうの、虚空に舞ってはかなく消える淡雪みたいなフランス語の響きがぐっと来ますね。そのあと、わりとゲルマン語系の、かっちりした発音の言語がつづくんだけど、すべて女声の歌唱のせいか、そんなに硬い感じはしません。あと、北京語が意外なくらいフランス語に似てる。
1回目のサビの「ありのーままのー、姿見せーるのよー」が松さんになってるのは、これは日本版の編集だからかな? あるいは、全世界にこのヴァージョンが流れてるってことでしょうか。だったら凄いですね。そりゃ絶賛されるわな。
まろやかな母音で音をつらねる日本語は発音しやすいし、耳ざわりも良いと思います。たぶんイタリア語あたりが近いんだろうけど、イタリア語は舌を巻きますからね。
日本語ってのは行儀がよくて、崩しづらいですね。端正な言語だと思います。また松たか子さんがそういう風情の方だし。
あ。ここまで書いたら、「アナと雪の女王 MovieNEX」Let It Go<25か国語 Ver.>が終わって、「Let It Go - Behind The Mic Multi-Language Version (from "Frozen")」というのが始まりました。あっ。こりゃすげぇわ。内容はまったく同じだけど、映像のほうは、歌い手の方々がじっさいに収録しているもようを繋いだものです。いやー、皆さん力入ってますねー。綺麗だし。
だけど、まあ、こうやって聴き比べてみると、言葉ってのはどこの国のも美しいです。25人もの美人の熱唱を聴いたせいでしょうか、なんかちょっと、ぴんぼけのご返事ですみません。
追記) さらにこのあと、この<25か国語 Ver.>から漏れているヒンディー語やアラブ系の言語を含む「Saara Aalto - Let It Go (Frozen) Multi-Language, 15 languages」というのも見つけました。Saara Aaltoさんが一人で15か国語を歌い分けてます。日本語もうまい。素晴らしいですね。