ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

定家と親鸞

2020-11-12 | 歴史・文化






 akiさんから返事がこないので、宗教とはまた別の見地から、親鸞という人について書きたい。前々から気になっていたことでもある。それにしても宗教の話は難しくて、本来なら私信でやり取りすべき内容をブログでやっちゃってるのかなあ……という懸念もじつはあるのだ。ぼくからの前回の返事は、おそらく期待に沿うものではなかったであろう。このまま打ち切りとなってもそれはそれで仕方がないのかもしれない。もちろん続けば続いたで有り難いことで、この先のことは風まかせとでもいうよりない。


 親鸞さんは藤原定家とほぼ同時代人になる。定家といえば、一般には百人一首の編纂で知られるが、精緻華麗な作風を誇る天才歌人である。かの塚本邦雄は、「人麿、家持、貫之、定家、芭蕉、蕪村の六人を究明すればこの国の伝統詩歌のおおよそは語りうるというのも逆の証明となるだろう。他の諸家は極論するなら彼らの描いた円周の中に、多種多様な軌跡を残しつつ、結果的には吸収包含されるとみてもよかろう。」とまで言っている(原文は旧かな・旧漢字。以下も同様)。


 さらに塚本さんは、「さらにこの六人の中でも定家の独自である点は、彼が時代の異端児でありながら、ついに正統としてまかり通り、一時期の、単なるアンチ・テーゼとはなり終らなかったことであろう。」と続ける。ここでいう「異端」とはただ「規矩(きく)から外れていた。」という意味ではない。外れていたのは確かだが、巧すぎて突出していたゆえに外れてたのである。しかも、それでいて正統でもあった。なにしろ「家元」になってしまったわけだから。


 定家には、のちの用語でいえばほとんど「シュール」というべき歌もある。「狂言綺語」などとも評されたらしいが、言の葉をぎりぎりまで酷使して、虚構のなかでしかありえない幻の世界を綾なす歌だ。その真価はほかの歌人たちの作品と見比べると明瞭に浮かび上がってくるのだが、ぼくたちがあまり古文に親しんでいないため、どれもみなほぼ一様に「古めかしくてようわからん。」といった具合に見えてしまい、定家ひとりの凄味ってものが容易には視えづらいのはいかにも惜しいことである。


 シュールであり、前衛でありながら正統にもなりえた定家のありようは、当時の時代状況を離れては感得できない。それはまた親鸞も同じことである。定家は1162(応保2)年に生まれて1241(仁治2)年に没した。親鸞は1173(承安3)年に生まれて1263(弘長2)年に没している。お二方とも当時としてはかなり長命であったはずだがほぼ10歳年下の親鸞のほうがさらに長生きであった。前に当ブログで中世について話をやりかけたことがあったが(例によって中途でアイマイになっちまってるが)、イイクニつくろう鎌倉幕府。が「中世」の始まりって認識は今や古くて、さいきんの史学では中世の濫觴はそうとう早くに想定されている。


 ただ、定家が生き親鸞の生きたこの時代が「公家社会の終わり=武家社会のはじまり」たる激動期だったのは間違いないことで、それは社会の上層部のみならず下層の民衆たちにも(いやむしろ「民衆たちにこそ」というべきか)ただならぬ余波を及ぼした。シュールであり前衛でありながら正統でもあった定家の作風も、宗教者としての親鸞の教えも、そのような背景と切っても切り離せないのは言うまでもない。もとより下層の民衆たちに近かったのは圧倒的に親鸞さんのほうなのだけれども。


 このあたりの機微についてはいずれまた機会があればやりたいと思うが(たぶんやらないのだろうが)、ひとまず私の当面の疑問として、ほぼ同時期に京都で活躍をしたこの二大巨人に接点はあったのか否か、ということがあったわけである。むろん直に顔を合わせるとは(大河ドラマの強引な演出ででもなければ)まず考えられないから、どちらかがどちらかを噂にでも聞いたことがあるか、という話になるが、これもまた、親鸞のほうが宮廷のなかの定家を知る由はないので、結局は「定家が親鸞の、というか師の法然をふくめた浄土宗の集団の活動を知っていたかどうか。」という疑問に収斂する。


 こういう件は資料がなければほぼお手上げに近いのだが、歴史家や文学研究者にとっては幸いなことに、定家は大歌人であると同時に几帳面な記録者でもあったのだった。18の齢から晩年まで、およそ56年にわたって日記をつけ続け、その記述が「癇性」といっていいくらいに綿密なのだ。この貴重な記録は『明月記』といい、定家ファンでもある堀田善衞さんの手によって、『定家明月記私抄』『定家明月記私抄 続篇』として、二冊のアンソロジーが、ちくま学芸文庫から刊行され、長らく版を重ねている。一般読者でも手に取りやすくなっているわけだ。


 ちくま学芸文庫版『定家明月記私抄』『定家明月記私抄 続篇』の二冊は家のどこかにあるはずなのだが、埋もれていてすぐには見つかりそうにない。Googleにて「定家 親鸞」と検索をかけてトップにきた真宗大谷派・東本願寺のホームページから、「師教の恩厚を仰ぐ」という文章の一節を引用させていただきます。
http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/kyoken/syu1311.html







 『小倉百人一首』の撰者として名高い藤原定家は、宗祖(引用者注・親鸞聖人のこと)と十一歳上の同時代人である。彼は一一八〇年(十八歳)から五十六年間にわたり、ほぼ毎日日記を綴った。その全文が、のちに『明月記』と題して世に出、公家の世から武士の世へと転換していく中世初期の社会のありさまが知れる貴重な史料となった。
 その日記の一二〇七(建永二)年一月から三月にかけての記を見ると、宗祖が越後へ遠流となった「承元の法難」に関する生々しい記事が散見される。まず一月二十四日の日記に、次のような記事があらわれる。


「専修念仏ノ輩(やから)停止(ちょうじ)ノ事、重ネテ宣下スベシト云々(専修念仏を広める人々に対して、再び停止せよとの天皇の命令がおりた)」〔以下( )内は意訳〕と。続いて二月九日、「近日、只一向専修の沙汰。搦メ取ラレ、拷問サルト云々。筆端ノ及ブ所ニアラズ(近頃は、毎日一向専修の人々の裁判がどうなったのかという話ばかり。今日は数人が捕縛されて拷問を受けているとのこと。その有り様は筆に書きとめられないほど過酷なものである)」。




そして二月十八日、裁決が出、住蓮・安楽など四名斬首、法然・親鸞など八名、俗名を与えられて遠流に処され、三月十六日、還俗させられ俗名藤井元彦となった法然が鳥羽の近くで乗船したと言われている。
(以下略)




 引用ここまで。




 親鸞の名は記載されてはいないのだけれども、少なくとも、定家がこの時期に起こった新しい仏教の運動につき、浅からぬ関心をもっていたのは確かであろう。ただし、伝聞で知った事実を冷厳に記しているだけで、それを聞いて定家が何を感じ、何を考えたかについてはついに分からぬままなのだが……。中世人の記述なのだから仕方ないところはあるにせよ、せめて片言隻語なりとも留めておいてくれたならばと残念に思う次第である。











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