「旧ダウンワード・パラダイス」では中上健次についてもずいぶん書いた。あれはどういう弾みだったのか、2010年の1月に発表したごく簡単な紹介記事が、GOOGLEで「中上健次」と検索を掛けたらトップから十番目にくる、という異常事態が半年にもわたって続いたことがあり、あのときは嬉しいというより、この国の純文学のことが本気で心配になった。それから一年ほどして「軽蔑」が高良健吾、鈴木杏主演で映画化され、中上についての記事もネット上に多くみられるようになり、ぼくの記事は虹の彼方に消えていった。正直、ほっとしたのを覚えている。
なんかもう、アホと思われるのを承知で身もフタもないことを書いてしまうが、中上の小説は読んでいてちっとも楽しくないし面白くない。文体の呼吸も自分のリズムとぜんぜん合わない(あの文体にリズムの合うひとって居るんだろうか? ああ、居るよなあ、青山真治とか)ただその底から噴き上がってくるパワーはほんとに凄くて、好きじゃないのに気になって気になって、折にふれて読み返さずにはいられない。という変なポジションのまま十代の末期からずっと付き合っている。こんな作家はほかにはいない。
中上については分厚い論考を正面きって一本立てるというよりも、3行くらいの箴言みたいのをいっぱい連ねて、ちょっとずつ溜めていく感じで取り組んだほうがいいのかもしれない。それで一冊の本になるくらいの分量が溜まれば、結果として、まともなことが少しくらいは言えてるかもしれない。そんな気がする。
だからここに転載する記事も、読み返せば不備なものばかりだけれど、作家案内としてはそれなりに意義がなくもないと思う。ひとつだけ付け加えるならば、中上はたぶん日本の小説家としていちばんランボーを血肉化したひとだと思うんだけど、あまりにも血肉化しすぎて、ランボーの小骨すら見えなくなってしまった。それってたいそう勿体ないことではなかったのかしらん。
あ。もうひとつ言いたいことがあった。中上の小説世界においては、「光」や「水」や「火」や「土」といった、根源的なイメージをあらわすことばが異様なまでに力を帯びる。あれはほんとに凄いことだなあ、と書いて、そのことは、ついさっき上で述べたこととモロに抵触するような気がしてきた。うーん、だめだな、中上について語ろうとすると、いつもたいていパラドックスに陥るのじゃ。
イントロデュース 中上健次
初出 2010年1月19日
ブログを始めてからずっと、いつかは中上健次について書こうと思ってきた。だけど文学、とりわけ純文学なんてものに興味を持たない人たちに対して、あの癖の強すぎる作家のことをどう紹介したらいいんだろう。
ぼくの父親は、もともと司馬遼太郎とか池波正太郎くらいしか読まない人だけど、かれこれ十年くらい前、ぼくがあんまり誉めるので、中上を手に取ったまではいいのだが、ものの五分も経たぬうち、「なんじゃこりゃ」と言って投げ出してしまった。ぼくは父とのコミュニケーション・ブレイクダウンを再確認して悲しかったが、その心情はよーく分かった。中上文学の「読みにくさ」というやつは、大江健三郎のそれともまた違う。
『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫)の中で、四方田犬彦はこう発言している。「日本には村上と同世代だがまったく対照的な作家がいます。中上健次です。中上は日本のローカルなものに固執し、日本の内外の問題を自分ひとりで背負おうとした人間です。彼はフィッツジェラルドには無関心でむしろガルシア=マルケスやフォークナーのような作家の影響を受けました。そして日本の中でタブーとされ、人々が絶対語ろうとしないものについて、生涯をかけて描き続けました。」
「彼の登場人物はわれわれが理解できない他者=ストレンジャーです。そういったアグレッシブな作品を書いてきた作家です。じつをいうと、村上は現在日本では多くの文学者に無視されています。彼を論じるのは社会学者であって文芸評論家ではありません。しかし海外ではものすごくブームになっています。中上はどうかというと、江藤淳のような保守的な批評家にはじまってきわめてラジカルな左翼の批評家まで、多くの人が彼について論じ、そしてモノグラフィーを書いています。」
「しかしその胃にもたれるところが災いしてか、海外ではフランスを除いてはそれほど読まれていません。英語の翻訳もようやくポツポツ出始めたくらいです。ほぼ同じ世代で同じようにジャズが好きなこのふたりの作家ですが、ローカリティーに向かうかどうかということがはっきり海外での受容のされ方に現れています。」
シンポジウムでの発言だから、かなり簡略化しているし、控えめな表現に留めているので、中上文学を知らない人には、いまいちピンとこないかも知れない。しかし、さすがにかつて『貴種と転生・中上健次』という評論を上梓し、中上の盟友・柄谷行人氏をして、「ぼくはこれを読んで、もう中上について言うことがなくなった。」とまで言わしめた批評家の言だけに、適確に急所を押さえた要約だ。
代表作『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の主役・秋幸は、三人の父親(母の前夫・実父・現在の母の再婚相手)と、ざっと十指にあまる兄弟姉妹(腹違い・種違い・義理を含めて)を持っている。さらにここから、当然のごとく叔父伯父叔母伯母甥姪従兄弟従姉妹といった縁戚関係が繁茂していく。もちろんそれは、中上当人の生い立ちを色濃く反映してもいるのだが、ごくごく単純に言って、こんな小説を書く作家ってのはまずいない。ちょっと思い浮かぶのは、紀南と紀北の違いはあれ、同じ和歌山出身の有吉佐和子さんだけど、中上の場合、柳田国男・折口信夫から構造主義に至る知見までをも総動員して、主人公を取り巻く関係性に神話的な広がりと深みを与えたところが突出している。
じつはぼくも、まさかここまで複雑ではないが、核家族のマイホームとはかなり趣を異にする家庭で育った。インテリとは程遠く、あまり柄がよくない環境だった点もちょっぴり似ている。たしか中上は村上龍との対談の中で、「俺はなあ、もし育ちさえ良かったら、クラシックの音楽家になるはずだったんだよ。それがあんな境遇じゃ、いやでも内面が過剰になっちまって、文学をやるしかねぇじゃねえか。」という意味のことを言っていた。その伝で言えば、ぼくだって、ほんとなら理系の技術者になっていたはずだよなあと思う。本を読むのは好きだったが、思春期までは別に文学青年ってわけじゃなく、数学に夢中になっていたからだ。
中上健次を読むようになったのは高2の夏だ。もし自分が、いうところの文学青年として「青春」を送ったのだとしたら、それはあの時に始まったと思う。村上春樹は19の春に初めて読んだ。それ以降、この二人のあいだを、ぼくはしばらく行ったり来たりしていた気がする。大江健三郎を中心に据えて、南と北の極北にこの二人の作家を置いたプライベートな聖域の中で、十代の終わりから二十代の半ばくらいまでを過ごしていたような記憶がある(あくまでも、文学的には、ということですよ。実際には、もっと色んなことをやっとりました。当たり前ですが)。
もし中上健次を初めて読んでみたいと思う人がいたら、講談社文芸文庫の『戦後短篇小説再発見』シリーズの第2巻「性の根源へ」を手にとって、そこに収録されている「赫髪」という作品を、ほかの名だたる作家たちの収録作と読み比べてみてください。テーマの性質上、かなり露骨な表現に満ち満ちているこの巻の中にあって、中上の紡ぎ出す言葉が、なお群を抜いて生々しく、むせ返るほどの肉のにおいを放っているのに気がつくはずだ。そのことを、こんなふうに言い換えてみてもいいかもしれない。中上の描く人間たちのリアルさに引き比べると、ほかの作家の手になる人物は、それがどれほど精巧で緻密であっても、あたかもロボットみたいに見えてしまう、と。
18年前に46歳で夭折したこの作家が遺した作品を読み返すたび、小説という器の底知れなさを思う。
中上健次を読む・参考文献
初出 2010年3月9日
グーグルで「中上健次」と検索したら、ぼくの本年1月19日の記事「中上健次について」が、とんでもない上位に来ていた(この記事の投稿に伴い、「イントロデュース 中上健次」と改題)。こちらとしては「瓶の中の手紙」よろしく、思いつくまま書き綴ったものをネットの海に投擲しただけで、あとは藻屑のごとく漂い流れるばかりと思っていたから、いささか驚いている次第だ。プロの読み手はもちろんのこと、文筆で身を立てているわけではないアマチュアの中にも、ぼくなんかより遥かにコアな中上ファン、中上フリークは山とおられるだろうに、汗顔の至りと言うほかない。ただ、中上の小説は底知れぬ魅力を湛えている反面、お世辞にも口当りがいいとは言いがたく、心酔する向きはとことん心酔するけれど、「ナカガミ? だれそれ」と切って捨てる若い人たちが、すでに圧倒的多数となっているのも事実だろう。
ここ数年では、「文芸」別冊のKAWADE夢ムックと「ユリイカ」が中上特集をやったくらいで(ぼくは生憎どちらも読んでないけど)、ほかには目につく顕彰もなく、小学館文庫版『中上健次選集』全12巻も、大半が品切れとなっている状態だ。どの分野でもそうだろうけど、特定の対象に入れ込む人と、それ以外の人たちとの間には、どうしても溝が生じてしまう。「専門家」たちは、相応の知識を前提とし、往々にして自分たちにしか通じない概念や用語を使って論を立て、「素人」たちはおいそれと入っていけない。理系のジャンルならそれも致し方ないことだろうが、文学とはもともと万人に開かれてあるべきものだ。わが拙文にいささかの取り得があるとするならば、中上の名前くらいは耳にしたことはあれ、さしたる関心を持たない向きに対して、多少なりとも好奇の念を掻き立てるべく、(蓮實重彦流に言うならば)ささやかな「扇動」を試みている点であろうか。
ともあれ、グーグルでの上位ランクがいつまで続くか分からぬにせよ、「中上健次」と検索をかけて当ブログへ来られる方がいる以上、少しは有益な情報を記しておかねばと思い、これから腰を据えて中上文学にアプローチしようかという人たちのための、参考文献を掲げることにした。むろん小説ってのは何よりもまずテキストそのものに惑溺すればよいわけで、作品論、作家論へ手を出すのは二の次、三の次なんだけど、中上という人は、文学はもとより哲学、思想、民俗学などの本を片っ端から「馬が水を飲むように」貪り読み、自らの血肉としながらも、小説においてはそれらを完全に昇華して、勉強の痕跡を微塵もおもてに出さない。この点では大江健三郎さんのほうがかえって取っ付きやすいのだ。だから一見すると中上文学は、なんだかむやみに複雑な血縁関係で絡まり合った荒っぽい人たちが、原形質のように麗しい自然の中で、労働したり性交したり憎しみあったりするだけの小説。であるかのように見えてしまう(『日輪の翼』以降の主人公たちは、もはやその《原形質のように麗しい自然》からも追い立てられ、さらに地縁・血縁からも切り放たれて、彷徨を余儀なくされるわけだけど)。
それゆえ中上健次においては、ほかのどんな作家にもまして、本丸である小説のほかに、彼自身の評論/エッセイと、かてて加えて、優れた評者による中上論とが不可欠だと思う。それらを併せ読むことで、中上文学が、どれほどの分厚い層の上に立って形成されているかが明らかとなる。もとより中上は柄谷行人という盟友を終生伴っていたわけだけど、その柄谷さんの論考以上に重要だろうと思われるのが、四方田犬彦さんの『貴種と転生・中上健次』(新潮社 平成8 ちくま学芸文庫 平成13)で、この一冊ばかりはどうしても必読と言わざるを得ず、ひょっとしたら中上文学は、彼自身の全作品と、この『貴種と転生・中上健次』とを併せて初めて完結するのではないかと思えるほどだ。
あえて付け加えるならば、その四方田、柄谷氏を含め、三浦雅士、渡部直己、浅田彰から安岡章太郎、水上勉さんに及ぶ中上論のアンソロジー『群像 日本の作家 中上健次』(小学館 平成8)だろうか。アンソロジーという性質上、一本ずつの論考が短いのが難だけど、どれも漏れなく面白いうえ、巻末に文献目録が付いており、参考になる。「現代批評の見本帖」とも呼びうるこの一巻に欠けている名前は、吉本隆明を除けば、「物語としての法」もしくは「中上健次論 物語と文学」(ともに『文学批判序説』河出文庫 に収録)の蓮實重彦くらいではなかろうか。
また「国文学」平成3年12月号「中上健次 風の王者」には、野谷文昭による「中上健次とラテンアメリカ文学」、荒このみによる「《南部》のセクシュアリティー」といった海外文学との比較論のほか、「中上健次作品登場人物図」として、「秋幸」(岬・枯木灘系列)および「中本タツ」(千年の愉楽系列。いわゆる「中本の一統」ですね)の系図が収められている。これはずいぶん貴重なもので、やはり系図を書かねば中上文学は分からない(むろん、秋幸側の系図だけなら、河出文庫版『枯木灘』の巻末に附されているわけだけど)。確かにまあ、すべての事象を斫断し、数学的とも詩的とも言い得る美文へとまとめあげてしまう恐るべき批評機械・浅田彰氏がいうとおり「彼自身は、鳥になること、植物になること、女になり子供になること、その他ありとあらゆる生成において、エリック・ドルフィーに近かった」のだから、松浦寿輝のように、「日本語が笛のように吹き鳴らされ、シンバルのように打ち鳴らされ、その音楽がこちらの皮膚にじかにシャワーのように降りそそいで来るという感覚」に身を委ねるのもひとつの「読み方」ではあるんだろうけど、それだけでは畢竟、「中上を読む」という快楽=苦痛の、とば口に立ったにすぎないのだ。
余談ながら、フォークナーを介して中上文学と並行関係にあるともいえるガルシア=マルケスの『百年の孤独』も、系図と年譜を作らねば読みおおせない小説であり、本来ならば自分でノートを取って作成しなけりゃいけないんだけど、その手間が惜しいというのなら、池澤夏樹の『ブッキッシュな世界像』(白水Uブックス)に収められた考証が不可欠となる。それにしても、こういった地道な作業はもともと、「文学の悦楽」の主要な部分を成すものなのに、「エヴァ」の解読になら血道をあげる若者たちは、どうしてこっちには無頓着なのか……って、なにもことさら問いを立てるまでもないか。如何せんブンガクは、アニメに比べて「萌え」の要素が希薄ですからね。どっぷり嵌まれば、けっこうそうでもないんだけどなあ。いやいや、これは脱線が過ぎました。ともあれ、樹海みたいな中上サーガに分け入るためには、この三冊が格好の地図になるんじゃないか。ぼく自身、いずれは自己流の中上論を試みたいとは思いつつ、現代日本の文芸批評の頂をなすようなこれらの面々の論考を前にすると、つい腰が引けてしまう、というのが偽らざる実情なのだった。
そうそう、ひとつ言い忘れていた。蓮實重彦、浅田彰(やれやれ。この方々のお名前を出すのはこれが三度目か)といったこわもての諸家の絶賛を浴びた映画『EUREKA』の監督にして、三島賞作家でもある青山真治は、その(小説の)創作において、一貫して中上の文体を援用するという営為を続けておられる。それは模倣(パスティーシュ)の域を超え、すでに青山さんご自身の文体に、すなわち氏の思索の軌跡とその叙述のスタイルとなっているようにも見受けられるのだが、これもまた、中上健次を今日に引き継ぐ所業のひとつと見るならば、『ホテル・クロニクルズ』(講談社文庫 平成20)を、かなり異色ではあるけれど、四冊目の「参考文献」に挙げておくべきかも知れない。
追記) 高山文彦による詳細な伝記『エレクトラ―中上健次の生涯』が2010年の8月に文春文庫から出た。
中上健次の『軽蔑』について。
初出 2011年5月23日
このマイナーなブログの更新を楽しみにしている方がいらっしゃったならごめんなさいよ。「最低でも週イチ」というノルマをあっさり破って、前回の谷山浩子の記事いらい、ほぼ2週間が夢のように過ぎ去ってしまいました。むかし、まだ三波伸介が司会していた頃の「笑点」で、「1週間が夢のように過ぎ去りまして。」というクスグリがあって、それは地方でのロケを同じ日に二週録り(たぶん客の入れ替えもせずに)していたゆえに成立したギャグだったわけだけど、今そんな話はどうでもいいな。まあとにかく、お久しぶりでした。べつに不測の事態に見舞われたんじゃなく、このたび映画化され、劇場公開を待つばかりとなっている中上健次の『軽蔑』について書こうとしたら、アタマの中がごちゃごちゃになって、どうしても草稿がまとまらなかったんですわ。風化を防ぐという意味で、中上文学が映画になるのは大歓迎だけど、どうしてそれが『軽蔑』なんだ?という思いはずっとありました。ただこのたび、鈴木杏演じる真知子の妖艶なポールダンスの写真を見て、すこし得心したところはありますね。ははあ、「掴みはオッケー」か。みたいな。
ちょっと中上健次を読んできた人なら誰でも感じると思うけど、『軽蔑』は、それまでの彼の重厚な作品世界の系列からかなり離れたところで展開している小説なんですよね。四方田犬彦の『貴種と転生・中上健次』(新潮社/ちくま学芸文庫)には、とりあえずこう書かれてます。「中上健次の『軽蔑』を読み終わったとき受ける印象とは、これが作者の他の長編のどれともまったく似ていないという、隔絶したものである。」 はい。ぼくも朝日新聞連載時からそう思ってました。ただし、さすがに四方田さんはそんな表層レベルに留まってないで、『軽蔑』がかつての名作『鳳仙花』の構造をなぞっているうえ、『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の「秋幸3部作」という「男系」の作品群とは別の「女系」の作品群を切り開くはずのもの(作者が46歳の若さで早世しなければ)であった、とも指摘しておられるわけですが。なるほど。さすがは全集の編纂に携わってるほどの、日本でも有数の「中上読み」の見解ですね。プロの批評家の読みとはこういうものかと感心します。
ただ、こんど映画をきっかけに初めて中上健次を読もうと思って、集英社文庫版だか角川文庫版だかの『軽蔑』を手に取る若い人たちにとっては、そんなのはぜんぜん知ったこっちゃない話ですよね。いま読んでるその小説が「面白い。」とか「すげぇ。」とか「かっこいい。」とか、とにかくそういう何かしらの感動を呼び起こしてくれるか否かが重要なわけで、他の作品との比較だのなんだのは、当面のあいだ関係がない。そういう意味で言うならば、『軽蔑』は正直なところざっくり読んでそれほど面白い小説でもなくて、中上文学の作品系列から離れてるどうかなんてことよりも、この場合、むしろそっちのほうが問題でしょう。その「面白くなさ」を分析してるうち、ぼくも今回アタマが混乱しちゃったわけですが。
もちろん、純文学の「面白さ」ってのはエンタテインメントのそれとは性質の異なるもので、両者を同列に論じることは初歩的なミスなわけだけど、「いやいや、それにしてもなあ。」っていう話なんですよ。ストーリー自体は、まあ単純すぎるほど単純で、新宿歌舞伎町のトップレス・バーで踊り子をしている真知子が、旧家の御曹司でプレーボーイの「カズさん」と恋に落ち、なんだかあまり同情できないゴタゴタのあげく、最後には破局に至る、というだけのこと(それがどのような形の「破局」なのかは、ネタバレになるのでさすがに控えておきますが)。ラストシーンでリアリズム小説の制約を打ち破る試みがなされていることを除けば(ただし四方田さんは先述の著書の中で、この「もみあっている中から、一人、抜けて出てきた男」が「彼」ではなくて山畑である可能性に言及しておられますが)、昔から、わりとよく見るパターンですよね。無軌道な若い男女が乱脈な生活のあげく破滅に至るお話、と乱暴に括ってしまっても、けして誤りとはいえないでしょう。
物語の冒頭、カズさんは、くだんのトップレス・バーの営業中に、「警察の手入れだーっ。」と騒ぎを起こし、鏡張りのカウンターの上で踊っていた真知子(際立った美貌に加えて大胆でダンスも上手く、店いちばんの売れっ子です)をかどわかすように車に乗せ、そのまま自分の郷里への逃避行を開始する。ずいぶん無茶な話だけれど、この二人は以前に情を交わした経験もあり、真知子は内心ではもう彼に首ったけだったから、これはべつだん「拉致」というわけではありません。ともあれ、かくしてふたりの「愛の生活」が始まるわけですが、ご覧のとおり、この小説の世界においてはヒロイン真知子もさることながら、主役の「カズさん」が尋常じゃないほど魅力的でなきゃ駄目っていうか、もう話そのものが成立しないわけですよ。ところが集英社文庫版全495ページの本編を読めども読めども、カズさんはさっぱり冴えないままで、ついに最後まで見せ場らしい見せ場もありません。
そもそも当の騒動自体が、当のトップレス・バー(を経営する組織)が裏でやってる野球賭博で借金を背負ったカズさんが、情婦に愛想をつかされて、故郷の実家に泣きつきに帰る途中、行きがけの駄賃に仕組んだ狂言だったという次第で、そのあとも一事が万事その調子、どう贔屓目に見たところで、カズさんって男は甘やかされたええかっこしいの不良のお坊ちゃんとしか思えません。これで面白くなるはずがない。
ただ、彼が真知子のことを愛しているのはけっして嘘ではないんですね。真知子もまた、カズさんのことを本気で一途に愛している。その点でこの小説は間違いなく真正のラブ・ストーリーです。ただしかし、四方田さんも強調しているように、けっしてただのメロドラマには収斂しない。カズさんは身の周りに他の女性たちの気配を色濃く漂わせながらずっとぐだぐだしているし、真知子もまた、「男と女、五分と五分」と護符のように繰り返しながら、ほかの男と性交したり、一人で東京に逃げ帰ったり、より頼もしい年上の男に心を移したりもする。ここのところが巷にあふれる凡百の、わかりやすくて柔弱なラブロマンスとはまったく違ったこの小説の凄味でありまして、エンタテインメント的な意味での「面白さ」は度外視したうえで、そこをこそ味わわなければならないのだと、ぼくもこの記事を書くにあたって読み直してみてよくわかりました。カズさんのダメダメぶりが醸し出す停滞感の底で、さながら濃密な花弁のように幾重にも広がり重なり合っていく真知子の心理と情愛の縺れを愉しむことが、『軽蔑』を読む本当の醍醐味なのでしょう。……ってことで、難航に難航を重ねた記事にようやくケリがつきました。なお、映画版の高良健吾さんはぼくなんかから見ても滴るようにいい男で、脚本や演出の細かいところがどうなっているかはわかりませんが、とりあえずビジュアル面では、彼の演じるカズさんは説得力を持っていそうに思いますね。
中上健次について、私が本当に言いたかったこと。
初出 2011年5月27日~29日
前回の記事、「中上健次の『軽蔑』について。」が、「中上健次 軽蔑」の検索ワードで、7位か8位かくらいにランクインしています(5月27日現在)。まことにありがたいことながら、いささかのプレッシャーも感じますね。たぶんこうなるだろうと思ったから、2週間近くも草稿をまとめかねていたわけですが。しかし、いざ上位にピックアップされてみると、やはりあの記事は質量ともにあまりに貧弱、とてものことに軽蔑「論」などといえるような代物ではありません。せいぜい「覚え書き」といったところでしょう。まだまだ言い足りないことがある、というか、言いたいことはほとんど述べてない、というべきですね。何しろ、草稿の2割弱くらいの分量を取り急ぎ要約しただけだから。
もったいぶらずに思いきって言ってしまいますと、中上健次って、器用な作家じゃないんですよ。純文学と娯楽小説とを股にかけて活躍する達者な若手がたくさん出てきた今日の基準からすると、むしろ、かなり下手くそな部類に属するんじゃないかな。えっと、これ、自分としてはけっこう爆弾発言のつもりなんですけどね。このひとことが言えないばかりに、『軽蔑』についてあの程度の文章を発表するのに、2週間近くかかっちゃったということはありますね。いかに個人で気ままにやってるブログとはいえ、中上といえば一部で神格化されてる存在だし、ぼく自身、ずっと尊敬しているし。
慌てて付け加えておきますが、もちろん中上は、たんに不器用で下手な作家ってだけじゃないですよ。それなら別に論ずるまでもない。問題は、文章やストーリー・テリングがあれほど下手であるにも関わらず、彼の作品が圧倒的な重さと密度と強さを備えてわれわれに迫ってくるという事実でありまして、この辺りの機微を考えるとき、ぼくはいつでもゴッホあるいは棟方志功を連想します。たまにいるでしょ、デッサンや遠近法のような基礎的な訓練を積むことなしに、表現欲に突き動かされるまま、我流のやり方を貫いたあげく、アカデミックな秀才が及びもつかない独自の境地に達してしまうアーティストが……。中上はまさしくそういう存在で、たぶん彼の作風は、美術用語で言ったら表現主義ってことになるんじゃないかな。中上のことを「最後の自然主義作家」と呼ぶ方もおられるようですが、それはちょっと疑わしいんじゃないかとぼくは思っています。彼の小説が異様なくらいリアリスティックなのは確かだけど、変な話、ただのリアリズムだったら、あれほどのリアリティーは出ないだろう。中上の「夏芙蓉」は、いわばゴッホの向日葵ですよ。表現主義のリアリズムだ。
村上龍の衝撃のデビュー作にして出世作、『限りなく透明に近いブルー』(1976年)は、中上の『灰色のコカコーラ』に触発されて書かれたものですが、この二作を読み比べると、両者の資質の違いがよく分かります。『ブルー』については、かつてぼくも短い論評を書いたけれど、龍さんが、セックス&ドラッグ&ロックンロールに加えてアメリカ・コンプレックス、基地問題、乱交パーティー、暴力、そして妄想や幻覚めいたイメージの奔流といった派手な道具立てをこれでもかこれでもかと繰り出してあからさまに売れ線を狙ってるのに対し、『灰色』のほうはひたすら卑小で地味で貧乏くさく、それゆえひどく切実です。ぼくは無軌道な青春時代を送った経験とてないまったくの小市民ですが、『ブルー』に出てくる連中についてはまったく感情移入できない反面、『灰色』の主人公の心情は、中年になった今でも泣きたいほどよく分かりますね。そこのところが『灰色』と『ブルー』との差異であり、中上健次と村上龍との差異であるわけです。
村上龍という方は、何しろ芥川賞の選考委員を務めておられるくらいだから、世間では純文学の作家と認知されているのでしょうが、だけどふつうの純文学作家は『半島を出よ』みたいなものは書かないし、テレビで嬉々として若手の起業家と対談したりしませんよね。いわばあの方は極めて尖鋭な作家的資質を持った社会批評家であり、その本質はエンタテインメント(娯楽小説)にあるとぼくはつねづね思ってきました。良くも悪くもサービス精神旺盛で、「売れる」ことを前提として作品を構想・執筆・発表します。そういった姿勢は、純文学と娯楽小説とを融合させたスタイルをも含めて、たとえば吉田修一・古川日出男などといった俊英に大きな影響を与えていると思います。つまり、今の日本の出版界(のフィクション部門)の趨勢を形作ってきたといっていい。
いっぽう中上健次は、ほかにあまり類例のないことながら、いわば根っからの純文学作家としか言いようがなく、たとえばNYを放浪しても、今をときめくミュージシャンやら写真家と親交を深めても、現代思想の勉強をしても、それをストレートに自作に持ち込むことはありませんでした。必ずやいったん咀嚼して、身の周り半径100メートル位の濃密な人間関係の縺れへと還元してしまわずにおかない(「路地」とはよくぞ名づけたもんですよ)。それが彼の信念であり、また、そうしなければ小説が書けなかったのでしょう。なにぶん1946年生まれなんで、ハリウッド映画やマンガやアニメに取り囲まれて育ったわけじゃないですからね。ジャズは血肉化するほど聴き込んでたけど、ロックやポップスには疎かったし。サブカルの素養がほとんどなかった。龍さんのほうは1952年生まれで、この6歳の違いはけっこう大きい。そういったわけで中上の作品は、圧倒的な重さと密度と強さを備えている半面、どうしたって泥臭くて垢抜けないという印象を拭えないのです。
今回の映画をきっかけに、中上を初めて読んでみようと思って集英社文庫だか角川文庫だかの『軽蔑』を手に取る若い人は少なくないと思いますが、果たしてその中の何人くらいが最後のページまで辿り着けるか、正直ぼくは不安なんですよね。村上春樹をはじめとする現代作家の洗練された文体に馴染んだ今の読者の目に、あの文体がどう映るか。中上の文章はよく「烈しい」とか「ごつごつしている」と評されますけど、『岬』や『枯木灘』や『千年の愉楽』はともかく、この『軽蔑』の場合はそれとも違いますからね。『軽蔑』の冒頭の数行を読んで、「ああ、やっぱ純文学って難しいんだなあ。」と溜め息をつく若者がいたら、「いや、それは純文学の責任ではないし、ついでに君の読解力の責任でもないよ。」と声をかけたい気はしますね。……純文学の文章とは、たとえば以下のようなものを申します。
「ゆっくり起きだして洗面所に行き、壁に作りつけられた両開きの棚からいつのものだかわからないアスピリンを探しだして水道水を注いだコップに投げ入れると、細かい空気の泡が音を立てて勢いよくわきあがり、その大半がぷつぷつと宙に消えたのを見届けてから舌にかすかな刺激のある即席の水薬を飲み干した。」
当代日本語散文の有数の使い手というべき堀江敏幸の芥川賞受賞作、『熊の敷石』の冒頭部分の一文です。この文章を「たいそう、きもちがいいのだ。それなのに、不安なのである。」と的確に評したうえで、なぜ「気持がいいのに不安なのか。」を鮮やかに分析しているのは講談社文庫版に付された川上弘美の解説ですが(この解説を読みたいばかりに、ぼくは単行本を持っているにも関わらず、文庫のほうも買いました。まあ堀江さんの本だしね)、すなわちそれは、一人称《私》が省かれた文章のなかで、「細かい空気の泡が音を立てて勢いよくわきあがり、」の部分だけが主語である《私》の動作ではなく、つまりここだけ主格が巧妙にずらされており、この一瞬の《ずれ》のすぐ後で、何くわぬ顔で再び文章が《私》を主体とする動きへと戻る、その揺れ動きが醸し出す効果であり、さらにまた、「いつのものだかわからないアスピリン」「投げ入れる」「かすかな刺激のある」「即席の水薬」といった《隠されたあらあらしさ》の効果である、ってことになるわけですが、いうまでもなくこれらの効果は、作者の綿密な計算の上に生み出されたものです。
これこそが純文学の文体です。純文学と娯楽小説との違いについては、さまざまな角度からさまざまな定義が可能でしょうが、早い話、作者が当の文章そのものにどれほど心を配っているのか、それこそが最大の要諦といっていい。むろん、心を配ったからってそれだけで純文学になるわけじゃなく、そこには一定の修練、および相応の才能ってやつが不可欠なんですが、ともあれ、この見事な一文に比べると(いや、ことさら比べるまでもないですけど)、『軽蔑』の出だしは唖然とするほど稚拙です。
「舞台用の衣裳と言っても、幅一メートル足らずの鏡張りのカウンターの上で、トップレス・バーの踊り子として踊る為の衣裳だけだったから、真知子もフィリピン人のマリアも、化粧バッグを衣裳バッグに兼用し、化粧バッグ一つ持つだけでいつもマンションを出た。」
中上健次というブランド名がなかったら、何じゃこりゃ、と言いたくなる文章ですね。カルチャースクールの「創作講座」みたいなところに提出したら、真っ赤に添削されて返ってくると思います。まず、一文に情報を詰め込みすぎている。そのことが、たんに読みづらさを助長しているのみならず、作品に膨らみを持たせるための「含み」や「溜め」を消してもいる。このふたりが「トップレス・バーの踊り子」であることは、なにもこうして一行目から性急に述べ立てずとも、ストーリーの進行とともにじわじわと読者に伝えていけばいいことです。新聞での連載だから、どうしても早いうちに「幅一メートル足らずの鏡張りのカウンターの上で踊る」真知子のイメージを打ち出しておきたかったのかもしれないけど、それにしたってもう少し後回しでもいいでしょう。「フィリピン人の」はべつにここでは不要だし、「化粧バッグ」が間をおかずに二度繰り返されているのも見苦しい。
冒頭シーンはこう続きます。「本国に送金ばかりしているマリアはイミテーションの、真知子は本物の、一目で相当張り込んで購入したと分かる白いミンクの毛皮をはおり、化粧バッグを持った二人が、マンションを出てタクシーを停めるために歩道に立つと、決まって人の突き刺さるような視線を浴びる。」
依然としてごちゃごちゃしてるのは、「マリア」の前に「本国に送金ばかりしている」という形容詞句がくっついていたり、もともと二行に分けられるべき文章が無理やり一行に押し込められてたり、またしても「化粧バッグ」が繰り返されたりしているせいですが、ふつうならここは、「マリアはイミテーションの、真知子は本物の、見るからに高価な白いミンクの毛皮をはおり、タクシーを停めるべく歩道に立つ。周りの人々がいつものように、突き刺すような視線を浴びせてくる。」くらいに収めておくところでしょう。マリアがフィリピンから出稼ぎに来ていることも、本国に送金しているために吝嗇であることも、実際このあと嫌というほど出てきますし。
その次の一行、「行き交う男らも女らも、真知子やマリアを同じ人間ではないように反応した。」も何だか拙い文章で、「反応」という動詞をこんなふうに使うのがそもそも変だけど、ともあれ、「真知子やマリア」は「反応した」の副詞格であって目的格ではないわけだから(「彼の声に反応した。」とは言うけど「彼の声を反応した。」とは言わないでしょ?)、ここでの「を」は「が」が正しい。つまり、テニヲハを間違っちゃってるわけです。芥川賞クラスの作家の文章で、テニヲハの誤りに出っくわすのはたいそう珍しいことですが、でも、これが中上健次なんですよ。
中上が推敲をしなかったのは有名ですよね。彼にとり、小説を書き綴るという行為は、ジャズのインプロビゼーション(即興演奏)に匹敵するものだったのでしょう。クラシック演奏のような完成度ではなく、スピード感と勢いを重視したのだと思います。『軽蔑』の文章がここまで粗いのは、新聞連載であることと、すでに体調が悪化していたこともあるんでしょうけど、いずれにせよ、彼がもともと《名文家》でなかったことは確かでしょうね。よく言えば、市民社会の枠内で流通する、いわゆる「文章読本」的な「名文」を無化してしまうような文体ってことになるわけですけど。
まあ即興演奏だけに、ストーリーが進んで人物が動き始めるとさすがに文章も乗ってきて、カズさんと真知子の道行きに差しかかる頃には、いつものビートのきいた中上節が聞けるんですが、それにつけても『軽蔑』という長編全域を覆うこのぎこちなさ、だらだら感、めりはりのなさは何なんでしょうか。同じ朝日新聞の連載小説、しかも男女の逃避行の話ということで、どうしても比べてしまうのですが(枚数も同じくらいじゃないのかな。朝刊と夕刊の違いはありますが)、吉田修一さんの『悪人』が、無駄のない文体を駆使し、気のきいた表現を織り交ぜながら、視点の切り替え、時間操作、巧みな伏線といった技法を用いて緊密にひとつの人間ドラマをまとめあげているのに対し、『軽蔑』はいかにも隙だらけという感じがします。会話の運びもほんとにまずくて、そうそう、会話がとことんダサいのも、もはや「芸」ともいうべき中上文学の特徴の一つですね。そして、恐ろしいことに、そのことがまた彼の作品のリアリティーを保証しているのです。だって現実のぼくたちは、けして村上春樹の登場人物たちみたいには喋りませんもんね。
ほかの作家の名前を出したついでに、お遊びで、ちょっと強引な仮定を試みますと、もし村上龍が『軽蔑』を書いていたならば、たぶんストーリーそのものをもっと劇的に仕立てたろうと思いますね。具体的には、きっとカズさんの見せ場をきちんと作ってやったことでしょう(敵対する暴力組織に誘拐された真知子を命がけで助けに行くとかね。いや、さすがにそれはベタすぎるかな)。ともあれ、博打狂いのしょうもないダメンズであっても、他の女と浮気していても(!)、ただいちど、ここぞという時に真知子への愛をまっとうしさえするならば、カズさんはこの作品世界において、燦然と光り輝くことができたのです。いやむしろ、ふだんがだらしなければだらしないほど、ここ一番での活躍は鮮烈に映ることでしょう。ついでにそのまま殺されちゃったら完璧ですね(ぼくがもし脚本家で、あの原作を渡されたなら、どうしてもそっちのほうに持っていくと思うけど、さて、今度の映画はどうなっているんだろう……)。
しかし実際の『軽蔑』の作品空間は、ぼくたちの生きるこの日常にひどく似通っていて、いわば真綿で首を絞められるような、ぬるーい地獄の底なんですよね。何ひとつ大きな事件は起こらない。ただ田舎のじっとりと粘っこく湿った人間関係があって、カズさんはその中でずるずると破滅に向かって滑り落ちていき、真知子はそんな愛人を目の前にしてどうすることもできぬまま、いたずらに懊悩と焦燥を重ねていくという……。まあ、ただ悶々としてるだけじゃなく、カズさんに心底惚れ抜きながら、ほかの男に恋心を抱いたり、行きずりに等しい相手と性交したりしちゃうのが、真知子およびこの小説の凄いところなんですが。いずれにせよ、『軽蔑』の作品空間において、徹頭徹尾カズさんは、「侠(おとこ)」としての華を咲かせる機会を奪われ続け、あっさりと死んでしまいます。
集英社文庫版の解説の中で、四方田犬彦はこう書いています。
「『岬』に始まる秋幸のサガでは……(中略)……見えない宿命に主人公が突き動かされていた。『枯木灘』における秋幸の弟殺しはすでに準備されていたものであった。そして『地の果て 至上の時』の龍造は、悲劇的世界観が織りなすすべての経緯を見据えたうえで、その物語の力学に争うようにして自死をとげる。『軽蔑』のカズさんの死は、これとは対照的である。彼はなんの運命の必然によっても保証されず、また運命という観念に争うという意識もないままに、あっけなく死んでしまう。それは『千年の愉楽』や『奇蹟』における路地の夭折者の死とも異なっている。自分の背丈を越えて先行している物語が死を指し示すといった事態から、カズさんの死はどこまでも遠い。」
ざくっと纏めてしまうなら、ようするに、カズさんの死はどう見ても無意味だってことですね。娯楽小説の主人公としても無意味なうえに、物語論的な視点からいっても無意味だという……。「賤なる者」が、物語と詞(ことば)の類い稀なる呪力によって「高貴なる者」に聖化されるという、かつての中上文学の主人公たちに与えられたあの栄光からさえも、カズさんはすっかり見放されてるってことですよ。こりゃあほんとにどうしようもないですね。救われないし、浮かばれない。
娯楽小説の主人公としても、物語論的な視点からいってもまるで無意味な死を死ぬカズさんは、ではまったく無意味で無価値な存在なのでしょうか? おそらくそうではないですね。だって、もういちど虚心にこの分厚い文庫を手に取って、任意のページを開いてみてください。そこには真知子の目や、耳や、鼻や、唇や、肌が感じたカズさんの魅力の断片が、まるで花びらを手づかみで巻きちらしたかのごとく、散りばめられてはいませんか。
「踊り場に立ち、背筋をぴんとのばし、股を広げたカズさんの背後に寄り添いながら、自信に溢れ、若さに溢れ、男らしさに溢れたカズさんに物言うように(真知子は)体を寄せ、背中に手を当てる。」
「カズさんは電話ボックスを開ける。/あらかじめ事務所のそばから電話をかけると決めていたのか、ジャケットの胸ポケットからカードを取り出して電話機に差し込み、ボタンを押す。/何の変哲もない動作だが、一つ一つがきびきびしているので、体全体から男の色気が浮きあがる。」
「カズさんは紅茶の入ったカップの柄を指で持ち、紅茶から立つ湯気が眼にあたるのを防ぐように、眠気が少し残っているのか、こころもち腫れぼったいまぶたを閉じぎみにして、唇に持ってゆく。/紅茶をすすり、カップを放し、手を無造作にテーブルの上に置く。/その総てが好きだ、と真知子は性の昂ぶりに襲われたように思う。」
「カズさんほどいい男が、他にいるだろうか。/まだ齢若いから、マダムの話が描き上げるお爺さんほど凛とした紳士ではないが、日本どころか世界のどこに出しても、羞ずかしくない優しさと男らしさを持っている。」
「真知子は、鋭い形のよい、その線一つだけで男として上等だと分かる顎の骨を指でなぞり、不意にカズさんの首を指で絞めてしまう気がし、指を離し、のしかけていた体を脇にどけた。」
「カズさんの故郷では、カズさんには仕事があり、真知子にも炊事、洗濯の細々とした雑事があってくっきり見えなかったが、生活臭の一切ないホテル暮らしをしてみると、真知子はカズさんがどのくらい若い美しい牡の性を持つ男だったか、と気づくし、……(後略)」
「……(前略)カズさんの為に、真知子がブティックで見立ててプレゼントした春夏物の淡い緑、萌黄色のイタリア製ジャケットは、テーブルの燭台の炎に浮かびあがり、カズさんをアジア系、しかも東の方の貴公子のように見せ、……(後略)」
これらの描写が、性愛の悦びにのぼせあがった若い娘の幻覚なのだと言ってしまえばそれまでですが、こんなふうには考えられませんか。客観的に見たならば、ちょっと様子がいいだけの、甘やかされた田舎の不良の兄ちゃん、しかも作者によって「聖」に転化することすら封じられた男が、濃やかな日常のディテールのなかで、風に揺らめく焔のように、きらきらと儚い光を放っている。その一瞬のきらめきが、真知子の五感を介して、スナップショットのように捕らえられていると……。ひょっとしたらそれは、「物語」を解体し、それまでの自分の小説のノウハウまでをも解体するに至った中上が、最後の最後に産み落とした、究極のヒーロー像だったのかもしれません(しかも彼は、驚くべきことに、ラストで「復活」を遂げてしまうんですからね……)。
そのように仮説を立てたとき、ぎこちなく、だらだらして、めりはりがないと思えたこの長編が、まさにこのようにして書かれるほかなかったもののように見えてくるから、中上文学ってのはどうにもやっぱり、厄介で怖い代物ですよ。『軽蔑』のディスクール(書き方)は、近代小説を説話的な語りが揺さぶっているとも、近代的自我を無意識のマグマが溶融させているとも、女性原理が男性原理を突き破っているともいえる。この作品の《面白さ》はそこにこそ存すると思うのですが、さて、あなたはどのようにお読みになりますか。
いただいたコメント
はじめまして。
ラストをどう解釈していいか分からず、「軽蔑」について書かれているブログを探し回ってたどり着きました。
警察の手入れがカズさんによる嘘であって欲しい真知子は、別の男とカズさんを重ねて見てしまっているのかと…
カズさんの「復活」とは、どういう意味でしょう?
2011-06-05 マチルダ
コメントありがとうございます。
どうもいささか思い入れ過剰の文章で、ふつうの解説文とは趣きを異にしているため、読みづらかったのでは?と恐縮してますが……(笑)。
批評家の四方田犬彦さんは、『貴種と転生・中上健次』(新潮社/ちくま学芸文庫)の中で、この「もみあっている中から、一人、抜けて出てきた男」が、山畑である可能性に言及しています。
もちろん、マチルダさんのおっしゃるように、カズさんのことを忘れられない真知子が、冒頭のシーンと同じシチュエーションの中で、体格や顔立ちの似通った男を見間違えたという読み方もありますね。この手の店って、たぶん照明も暗いんだろうし。
しかしぼくは、やっぱりこれは他ならぬカズさんその人であると解釈しました。「復活」と書いたのはそういう意味です。
中上の最高傑作(とぼくが判断している)『奇蹟』では、いわば現世と≪異界≫とが混然一体となり、登場人物が、必ずしも、≪死≫によって作品世界から完全に退場してしまうわけではありません。
『軽蔑』はリアリズムの手法で書かれているから、そのような事態が起こったらルール違反なのですが、中上はこのラスト四行で、確信犯的にそのルール違反を犯したのではないでしょうか。
リアリズムの制約を破ってカズさんが再登場することで、小説全体に活が入り、このお話が初めて作品として完成すると思えるのですが、いかがでしょうか。
2011-06-06 eminus(当ブログ管理人)
追記)2016年に、生誕70年を記念して、島田雅彦さんが中上のことを語ったトークセッションの記録を見つけたんで、アドレスを貼っときます。中上といえば何よりもまず「旅のひと」であり、「やたらと他者にコミュニケートするひと」だったんだよね。ぼくのエッセイにはそういう視点が抜けてますね。ちょっと反省。
「生誕70年!中上健次文学その意義と軌跡」をテーマに、島田雅彦×中上紀×高澤秀次がトークセッション……
https://pdmagazine.jp/background/nakagami-event-report/
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