ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

震災後文学

2022-11-17 | 純文学って何?
22.11.19

 追記・訂正)
 本文中に、「(ヒロインであるすずめが)福島に立ち寄ることはない。」とありますが、これは完全な事実誤認で、すずめは、東京から東北へと向かう途中、福島県を通過していました。双葉町近辺とのことです。その場所で、わりと重要な会話が交わされてもいます。ぼくはその会話のことは印象に残っていたのですが、そこが双葉町であることはまったく見落としておりました。しかも、カメラが移動すると、遠くに第一原発が映りこんでいるとか……。それはぜひ、2回目の鑑賞で確認しようと思ってますが……。いやはや……。新海誠監督の「覚悟のほど」を甘く見積もっておりました。お恥ずかしい。この見落としによって、この記事そのものの立脚点も危うくなるわけで、削除しようかと迷いましたが、それでもやはり、『すずめの戸締まり』がファンタジーであり、エンターテインメントであることは確かなので、こうやって事実誤認の訂正だけして、記事そのものは残すことにします。「うかつな観客ならば見逃すほどの慎重さで、フクシマが描かれていた。」ということでご理解ください。超弩級のスペクタクルに気を取られがちですが、さりげない日常パートの細部にも、隅々まで気が配られているわけですね……。

☆☆☆☆☆☆☆

23.02.06

 さらに追記)

 これですね。右側の遠景に注目。




☆☆☆☆☆☆☆


 『すずめの戸締まり』は本当に素晴らしかった。ファンタジーとして、エンターテインメントとして、脚本から映像美までひっくるめて、現代アニメ表現の最高の水準に達していると思う。
 しかし同時に、それはあくまでもファンタジーであり、エンターテインメントであるゆえに、とうぜんながら限界はある。どうしても越えられない一線がある。
 たとえば、本作はロードムービーなので、ヒロインのすずめは、宮崎→愛媛→神戸→東京→東北へと旅をしていくのだが(熱心なサイトでは、具体的な地名も特定されている)、福島に立ち寄ることはない。
 新海誠監督は、覚悟を決めて3・11と向き合い、アニメ作家としてぎりぎりのところまで踏み込んで本作を創ったのだと思うが、それでもフクシマの地に立つヒロインの姿を描くことはできなかった。




 それは新海監督の限界ではなく、ファンタジーの限界であり、エンターテインメントの限界というべきだろう。
 フィクションというジャンルにおいて、「ファンタジー」なり「エンターテインメント」なりの対蹠にあるのは「純文学」だ。
 このダウンワード・パラダイスはもともと「純文学ブログ」であるはずだが、ときに「サブカル上等」の物語論ブログであったり、政治ブログであったりもする。
 それでも、「本分は純文学にあり。」という信念を失ってはいない(つもりでいる)。
 純文学は、アニメに比べて遥かに小さな訴求力しか持てないが、その代わり、もろもろのタブーに縛られる割合が少ない。
 だからもちろん、フクシマのことを正面から描いた作品もある。
 新海監督は、劇場用特典の「新海誠本」に収録されたインタビューのなかで、
「(本作は)震災文学の流れの中の、数ある作品のうちの一つに過ぎません。」
 と謙虚に述べておられるのだが、ただ文学サイドでは、「震災」そのものを描くというのではなく、「震災によって変貌してしまった日常や生活」を描く小説の総称として、「震災文学」ではなく、「震災後文学」という言い方がすでに確立され、多くの作家や批評家によって採用されている。




作家たちは「3.11」をどう描いてきたのか
多和田葉子、桐野夏生、天童荒太……
〜「震災後文学」最新作を一挙紹介!
文・木村朗子(津田塾大学教授)
https://gendai.media/articles/-/48063





今こそ読みたい「日本とドイツの震災後文学」
お話を聞いた人 クリスティーナ・岩田=ワイケナントさん
http://www.newsdigest.de/newsde/features/11808-katastrophenliteratur/







 とはいうものの、ぼくはこれまで、「震災後文学」をきちんと追ってきたわけでもなく、大半の作品はこれらのサイトによって教えられた。知っていたのは、


いとうせいこう『想像ラジオ』
天童荒太『ムーンナイト・ダイバー』
多和田葉子『献灯使』
和合亮一『詩の礫(つぶて)』(これは小説ではなく、詩集)
川上弘美『神様2011』
岡田利規『現在地』


 ……くらいのものだ(もし中上健次が存命ならば、間違いなくここに加わったろうな、と埒もないことを思ったりする)。
 それにしても、作家・重松清の2013年の発言として、上掲サイトの中で引用されている、
「(いわゆる「ビッグデータ」を集めるのは有意義なことだが、しかし)『ビッグ』とは『無数のスモールの集積』であるということを忘れてしまうと、その途端、解析の網の目から大切なものがこぼれ落ちてしまうだろう。(中略)『震災ビッグデータ』では、死者の記憶を追うことはできない。死者の声を記録することもできない。だが、人間はそのために想像力を持ったのではないか。(中略)ここからは文学の出番だよなあ、と痛感する。」
 という一節は、文学の本質を突いたものとして、印象ぶかいものである。
 そして、この精神は、ファンタジーといい、エンターテインメントといいながら、『すずめの戸締まり』にも共有されているはずだ。
 とはいえ、上にも書いたが、アニメを享受する層に比べて、小説を読む層はずっと少なく、ましてや純文学となると、文字どおり「数えられるほど」だというのが現状ではないか。
 若い人たちの中から(べつに若い人でなくてもいいが)『すずめの戸締まり』の鑑賞を機に、ことばで紡がれた「震災後文学」にも目を向ける人が出てくれればいいなァ……と思ってはいる。









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