藤井聡太竜王(王位・叡王・棋王・王将・棋聖)が4勝1敗で渡辺明名人を下して名人位を奪取したのは、長野県高山村の老舗旅館「緑霞山宿 藤井荘」に於いてのことだった。これにより、最年少名人の記録を塗り替えると共に、羽生さん以来の「7冠制覇」を成し遂げることにもなった。
羽生さんの時には「叡王」はなかったから、「7冠制覇」は「全冠制覇」でもあった。いま藤井さんは「王座」を保持していないため、7冠ではあっても全冠ではない。それにしてもしかし、「最年少名人」はまだしも、「最年少7冠」という語はどこかナンセンスに聞こえる。
羽生さんの時には「叡王」はなかったから、「7冠制覇」は「全冠制覇」でもあった。いま藤井さんは「王座」を保持していないため、7冠ではあっても全冠ではない。それにしてもしかし、「最年少名人」はまだしも、「最年少7冠」という語はどこかナンセンスに聞こえる。
つまり、名人位はじめ、タイトル保持者は必ず年に一回更新されるので、「最年少」というのも意味をもつけれど、「7冠」とはそういうものではないからだ。本来ならばありえない事象なのである。
羽生善治が25歳の時にとんでもない偉業をやり、藤井聡太が20歳の時にとんでもない偉業をやった。その5歳の差にどれほどの意味があるんだろうか……。どっちにしても、そんなのは、この二人だけのことに違いない。
まして8冠同時制覇となると、これはもう疑いもなく「絶後」のことになるだろう。そんなことをやってのける棋士がいずれまた出るとは思えない。
名人位は慶長年間(江戸時代の初頭)の大橋宗桂に端を発するのだけれど、長らく名誉称号であった。近代になって「実力制」として制度化されたわけだが、この時に初代名人となったのが、今もなお「角換わり」という戦型において不滅の「木村定跡」に名を留める木村義雄。1937(昭和12)のことだから、まだ「戦前」である。
藤井聡太新名人は、ここから数えて81代めに当たる。「81」といえば将棋盤の枡目の数であり、古来、81歳のことを「盤寿」と呼び習わしている。さきの「藤井荘」といい、「81」といい、どうにもいちいち出来すぎており、練達の脚本家がかいたシナリオだって、なかなかこうは運ばないだろう。ぼくは超越的なことを一切信じない主義だが、「将棋界」という極めて限られた小世界においては、「天意」というものの存在を認めてもいいかな……という気もする。
これは、いたずらに藤井聡太という棋士を神格化しようという話ではなくて、並外れた才幹を持って生まれたひとりの人物が、日々たゆまぬ研鑽を重ね、いかなる重圧にも屈せぬタフな精神と、頑健な体力をもって一勝ずつを積み上げた結果、「奇跡」とでも呼ぶしかないような事態をしぜんに招来している……そんな現実に対して、ぼくがシンプルに感嘆しているということである。
じっさい、盤上での駒さばきだけでなく、インタビューや対談にみる受け答えや態度、ことばの選び方なども、端々まで行き届いており、どうすればこんな青年ができあがるのかと、不思議な感じがする。じぶんの20歳の頃なんて、生意気で、世間知らずで、なんの実績もなく、ただ口先ばかり達者で、騒々しく走り回っているだけだったが……(今でもまあ、さほど進歩したわけでもないけども)。
もちろんぼくは、輝かしい記録の数々とか、ご本人の立ち居振る舞いの見事さだけで、かくもアツくなってるわけではない。とうぜんながら、藤井さんの生み出す棋譜が(それはもとより卓越した相手があってこそだが)美しく、華があって、面白いからだ。
そういう意味で、優れた棋譜は「作品」と呼ぶにふさわしい。いい棋譜を並べることは、いい小説を読み、いい絵画を鑑賞し、いい音楽を聴くのとなんら変わりはない。
むろん隈なく理解できるわけではないけれど、藤井7冠の棋譜をいささかなりとも味わえるのはありがたいことで、ぼくがこれまで多少なりとも将棋に入れあげてきたのは、このためであったろうか……と思ったりもする。
ぼくの個人史などどうでもいいが、いちおう説明のために断っておくと、「町道場の三段」レベルである。最近は将棋ウォーズの段級位でいうのが通例になっているようだが、ネット将棋での対人戦はやったことがないので、わからない。
PCには「bonanza」と「技巧2」をインストールしていて、もっぱら「技巧2」を使っている。
この将棋ソフトの発達が「将棋」というゲームの成り立ちそのものを揺るがせたことはいうまでもない。2017(平成29)年に時の名人・佐藤天彦九段がソフトに敗北したことで、「もはや人間はソフトに勝てない。」ことが明らかになった。しかもその前には竜王戦という大舞台の前段階で「ソフトの不正使用疑惑」なるものが持ち上がっており、関係各位に深い傷を与えた。谷川会長以下、複数の理事たちも責任を取って退任した。
あのときは、いくぶん大袈裟にいうならば、プロ棋界が存在意義を問われていたのではないかと思う。ぼく自身、プロの棋譜を見ることにほとんど関心を持てなくなっていた。
藤井さんの登場はそんな空気を一変させた。たんに新たなスターの出現というだけではない。藤井聡太という棋士は、ソフト相手に勝ち負けを争うのではなく、「ソフトの助けを借りて研究を深めることにより、人間はどこまで強くなれるのか。」を、身をもって追求していたのである。いわば、このときに人間と将棋ソフトとのあいだで、より新しく、豊かな可能性に満ちた関係性がひらかれたのだった。
まして8冠同時制覇となると、これはもう疑いもなく「絶後」のことになるだろう。そんなことをやってのける棋士がいずれまた出るとは思えない。
名人位は慶長年間(江戸時代の初頭)の大橋宗桂に端を発するのだけれど、長らく名誉称号であった。近代になって「実力制」として制度化されたわけだが、この時に初代名人となったのが、今もなお「角換わり」という戦型において不滅の「木村定跡」に名を留める木村義雄。1937(昭和12)のことだから、まだ「戦前」である。
藤井聡太新名人は、ここから数えて81代めに当たる。「81」といえば将棋盤の枡目の数であり、古来、81歳のことを「盤寿」と呼び習わしている。さきの「藤井荘」といい、「81」といい、どうにもいちいち出来すぎており、練達の脚本家がかいたシナリオだって、なかなかこうは運ばないだろう。ぼくは超越的なことを一切信じない主義だが、「将棋界」という極めて限られた小世界においては、「天意」というものの存在を認めてもいいかな……という気もする。
これは、いたずらに藤井聡太という棋士を神格化しようという話ではなくて、並外れた才幹を持って生まれたひとりの人物が、日々たゆまぬ研鑽を重ね、いかなる重圧にも屈せぬタフな精神と、頑健な体力をもって一勝ずつを積み上げた結果、「奇跡」とでも呼ぶしかないような事態をしぜんに招来している……そんな現実に対して、ぼくがシンプルに感嘆しているということである。
じっさい、盤上での駒さばきだけでなく、インタビューや対談にみる受け答えや態度、ことばの選び方なども、端々まで行き届いており、どうすればこんな青年ができあがるのかと、不思議な感じがする。じぶんの20歳の頃なんて、生意気で、世間知らずで、なんの実績もなく、ただ口先ばかり達者で、騒々しく走り回っているだけだったが……(今でもまあ、さほど進歩したわけでもないけども)。
もちろんぼくは、輝かしい記録の数々とか、ご本人の立ち居振る舞いの見事さだけで、かくもアツくなってるわけではない。とうぜんながら、藤井さんの生み出す棋譜が(それはもとより卓越した相手があってこそだが)美しく、華があって、面白いからだ。
そういう意味で、優れた棋譜は「作品」と呼ぶにふさわしい。いい棋譜を並べることは、いい小説を読み、いい絵画を鑑賞し、いい音楽を聴くのとなんら変わりはない。
むろん隈なく理解できるわけではないけれど、藤井7冠の棋譜をいささかなりとも味わえるのはありがたいことで、ぼくがこれまで多少なりとも将棋に入れあげてきたのは、このためであったろうか……と思ったりもする。
ぼくの個人史などどうでもいいが、いちおう説明のために断っておくと、「町道場の三段」レベルである。最近は将棋ウォーズの段級位でいうのが通例になっているようだが、ネット将棋での対人戦はやったことがないので、わからない。
PCには「bonanza」と「技巧2」をインストールしていて、もっぱら「技巧2」を使っている。
この将棋ソフトの発達が「将棋」というゲームの成り立ちそのものを揺るがせたことはいうまでもない。2017(平成29)年に時の名人・佐藤天彦九段がソフトに敗北したことで、「もはや人間はソフトに勝てない。」ことが明らかになった。しかもその前には竜王戦という大舞台の前段階で「ソフトの不正使用疑惑」なるものが持ち上がっており、関係各位に深い傷を与えた。谷川会長以下、複数の理事たちも責任を取って退任した。
あのときは、いくぶん大袈裟にいうならば、プロ棋界が存在意義を問われていたのではないかと思う。ぼく自身、プロの棋譜を見ることにほとんど関心を持てなくなっていた。
藤井さんの登場はそんな空気を一変させた。たんに新たなスターの出現というだけではない。藤井聡太という棋士は、ソフト相手に勝ち負けを争うのではなく、「ソフトの助けを借りて研究を深めることにより、人間はどこまで強くなれるのか。」を、身をもって追求していたのである。いわば、このときに人間と将棋ソフトとのあいだで、より新しく、豊かな可能性に満ちた関係性がひらかれたのだった。