前回の記事に対して、常連の「かまどがま」さんから、「つまり物語とは共同幻想のことでしょうか?」というコメントを頂いた。詳しいことは前回のコメント欄を参照して頂ければ幸いだが、あらためて繰り返すならば、「物語」とは確かに共同幻想に近いけれども、キャラやプロットや舞台設定などの点で、より緻密に構造化されたものだといえるであろう。何といっても物語ですからね。
神話をはじめ、民話(昔話)、伝説、童話などといったものは典型的な物語だ。現代においても幅広い人気を集める娯楽作品は必ずやその構造を内包している。「冒険もの」でいうならば、「主人公」が「助っ人」の力を借りて「悪者」の魔手から「囚われの姫」を救い出すというのが分かりやすい例で、宮崎駿の『天空の城ラピュタ』は完全にその様式に則っている。
だから、前回の記事でぼくが「物語」のことを、「《世界》に意味を付与するもの、もっと言えば、《世界(社会)のなかを寄る辺なく漂う私》に《生きることの意味》を与えるもの。」だと定義したのはやや説明不足であった。正確にいえば、ひとは自らが「物語」のなかの有力な登場人物(キャラ)として位置づけられた時に《生きることの意味》を与えられ、充足感に満ちるわけである。
ナショナリズムが最大最強の「物語」たりうるというのはそれゆえだ。「国家」の成員として「祖国」を護って「敵」と戦うというのはこのうえもない生の動機づけになる。ただ、本当はさらにこれを凌駕する物語がないわけではない。この日本でもかつて、「人類全体の霊的進化」のために無差別殺人を実行した教団があった。その20年ほど前には、「革命=プロレタリアートの解放」の名の下に殺人を犯した集団もあった。
そういった「教義」や「イデオロギー(政治的理念)」もやはり「物語」の変種である。しかも、自分たちをその物語の主人公として「歴史」や「社会」を主体的に変革していく担い手に擬しているから厄介なのだ。そこでは殺人さえも正当化される。宮台真司のような人は、90年代の後半において、「そのような《大きな物語》を希求することなく、いかに退屈で詰まらなかろうと、今のこの《終わりなき日常》をまったりと生きよ。」という意味のことを述べていたはずである。
しかるにそれからさらに20年がすぎて、あらためてナショナリズムが「大きな物語」として立ち上がってきている。ぼくはそれに懸念を抱くが、「物語」を希求し、あわよくば自らもその中の有力なキャラになりたいというのが人間の本性である以上、やむをえないとも思う。しかし「物語」の蔓延を押し留めるのは難しいけれど、どうにかして、少しずつでも物語を「解毒」していく手立てはないか。微力ながらも「純文学」はそんな役目を負えないだろうか。
じっさいには「純文学」はてんで読まれてないわけで、正直いって読まれないものに役目もヘチマもあるものか。しかしぼくにはもはやそれくらいしか「物語」に抵抗する手立てが見当たらぬのである。あとは、かまどがまさんへのご返事にも書いたが「フェミニズム批評」も含む「批評的言説」くらいだろうか。このブログなどもその一環のつもりなのだが、「読まれない」という点では「純文学」よりもさらに深刻なような気もする。ともあれ次回は「純文学」の特性について考えてみたい。
ところで、画面との向き合い方というかいじり方のコツをつかむのが極端に苦手なのですが、左側のカテゴリーの「戦後短編小説再発見」はこれから書きたいことの分類の項ということでしょうか?それとも見られないのは私の何かの操作ミスなのか考えこんでいます・・すみません。
一昨日だったか、OCNのほうのダウンワード・パラダイスの2月7日の記事「佐村河内問題、ほか。」に旅マンさんからコメントを頂きまして、けっこう面白いと思うので、お暇な折に読んでみて下さい。
トップページを開いて、ずっと下っていくと、左端に「最近のコメント」という表示が現れるので、そこの「佐村河内問題、ほか。」という緑色の文字をクリックするとダイレクトに行けます。世に倦む日日と、あと少しフェミニズム関係の話もしています。
「ナショナリズム」という概念は、たしかに明治以降に「輸入」されて確立したものですね。ただ、水戸学派にせよ宣長にせよ、「国粋主義」的なるものの系譜はずっとあったわけです。それは「支那」に対するものでしたが、幕末になって黒船が来ると(正確にいえば、黒船が来たから「幕末」になったわけですが)、「米英」の脅威が身近に迫って、米英向けの「尊皇攘夷」思想となる。
じきに開国をして明治となった。しかし、それは本当の意味での「近代化」ではなかった。なぜならば、「古事記」や「日本書紀」という「神話=物語」を「国体」の基盤として採用したから。そして、それがずっと尾を引くことになる。
さらに時代が下っていって、昭和初期、もろに「米英」と敵対するようになると、その「神話=物語」が、国家全体を覆い尽くすようになっていく。その中で多くの人が死にました。国の内でも外でもね……。物語はそれほどまでに強力なものです。ニッポンの近代史を「物語論」の見地から読み解くと、そういった具合になると思います。