ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

21.10.05 試論・ニッポンの現状の総括①

2021-10-05 | 戦後民主主義/新自由主義







 「保守」と「自由主義」とは、正反対とまではいえないにせよ、本来ならば相容れぬ用語のはずだ。自由主義はいうまでもなく闊達な市場経済を諒とするが、そのばあいの市場とはすなわちカネ・商品・ひと(労働者/消費者)が流通する場の謂(いい)であり、その流れの度合が甚だしければ甚だしいほど「景気が良い」とされる。80年代(エイティーズ)後期ニホンのバブル経済が好例だ。あのときは土地(の資産価値)までもが目まぐるしく市場を駆け巡り、そのたびにますます価値を跳ね上げていた。狂奔に近い。


 バブルの例は極端にせよ、一国がそのような状態にあれば旧来の枠組は急激に崩れ、新たな形態へと変動していくのが道理である。しかもその変動のプロセスには絶え間がない。いうならばそれが「モダン(近代/現代)」のありようといっていい。「近代」そのものが自由主義的なのである。いっぽう、「保守」とは「変動を好まぬこと」なのだから、「保守」と「自由主義」とは相容れようはずがない。


 幕末、「桜田門外の変」(安政7年3月3日/太陽暦では1860年3月24日)のさいに犯行に及んだ水戸浪士たちの「自訴状(素懐痛憤書)」のなかに、「實ニ神州古來之武威を穢し、國體を辱しめ、祖宗之明訓孫謀ニ戻(もと)り候……、」との一節がある。「神州」とはむろん日本のことをいっている。「國體」は厄介な単語だが、まず「長い伝統によって培われたこの国のありよう」くらいの意だろう。あえてここでは簡明にすべく「国の体面・面目」と訳してみると、「(外国人を受け入れたことで)この神の国が古来より誇ってきた威光を汚し、国の体面を丸潰れにして、祖先たちの尊い教えや深い思慮に背いた……、」と憤激しているわけだ。


 水戸は御三家の一つ(慶喜が出た)でありながら名だたる尊皇藩だった。1860年といえば、「日米和親条約」から既に6年が経っている。幕府そのものが開国へと舵を切っているのだ。それに抗って「攘夷」を叫び、幕閣のトップの暗殺にまで及ぶ。たかだか250年余りの歴史しか持たぬ幕府より、2500年を超す「皇紀」を絶対視せんという姿勢である。「保守」というならこれこそまさにそうだろう。ほとんど「妄信」ないし「狂信」にまで高められた信念。「近代」にあっては、「保守」を貫徹するために「熱狂」が必要となるのだ。ここにひとつの逆説がある。


 日本近代史のみならず日本史そのものにとっての最大の出来事のひとつというべき「開国」を経済の面から大きく見れば、「自由主義への転換」と要約できよう。江戸期後半には大都市を中心に商品経済がかなり発達してはいたのだが、根底には農本主義が横たわっており、それゆえにあまたの矛盾が蓄積されてきた。開国そのものは外発的な要因だが、内側もそれなりに熟していたのだ。そのような時に黒船が来た。日本がアジアで最も迅速かつスムースに近代化できた所以はそこにある。しかし後進はあくまで後進である。ここから日本は、欧米の主導する「近代世界システム」へと否応なしに組み込まれていくことになる。


 概念としての「自由主義」の行きつく果て、完成形は「リバタリアニズム」である。なにもかもが自由になる。さすがに「他者の身体および正当に所有された物質的・私的財産を侵害せぬ限り」という但し書きは付いているものの、原則としては、個人は己の欲望の赴くままに何をしてもよい。まだ新しい理念であるからいろいろな論者がいるが、「最終的には政府の解体 ~ 国家の廃止にまで至る。」と説く人もいる。アナーキズムだ。私のような性格の者は、アナーキズムと聞いたら「北斗の拳」で繰り広げられる劇画チックでグロテスクな弱肉強食の地獄絵巻しか思い浮かばないが、「すべての人間が解放された理想郷」を思い浮かべる人もいる。どのみち夢想のなかの話だから、各々がその世界観・人生観に応じて、これら両極のあいだに自分なりの像を結べばいいのだろう。夢想のなかの理念としては、リバタリアニズムはたしかにそれなりの魅力を放ってはいる。


 現実のニホンが依拠しているのは新自由主義(ネオ・リベラリズム)だ。これも新しい概念であり、日本版wikiには「1990年代以降この用語は定義困難となり、思想、経済理論、開発理論、経済改革政策などを表現する複数の意味で使用され、……」などと心細いことも書かれてあるが、一般的には、当の日本版wikiの冒頭に記してあるとおり、アメリカの経済学者でノーベル賞も取ったミルトン・フリードマン(1912 明治45/大正元 ~2006 平成18)の提唱した、「自己責任を基本に小さな政府を推進し、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、グローバル化を前提とした経済政策、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などの経済政策の体系」を指すとみなすのがふつうであろう。


 日本で初めて本格的にこれを導入したのが中曽根康弘内閣(1982 昭和57 ~ 1987 昭和62)であり、「郵政民営化」(当時のぼくにはユーセーミンエーカ、ユーセーミンエーカという謎の呪文としか聞こえなかったが)を声高に叫んで絶大な支持を集めた小泉純一郎内閣(2001 平成13 ~ 2006 平成18)もそれを引き継いだとされる。ただ、ニッポンという国の特殊さは、小泉純一郎本人よりも、一介のブレーンであるはずの竹中平蔵という実業家が異様なほどの存在感を発揮し、しかもなおかつ、その後もずっと、自民党という政権与党と癒着しながら、安倍内閣はいうに及ばず、ついこないだの菅内閣までずっと中枢に居座っていたことである(まあ菅内閣は安倍内閣の「延長戦」みたいなものではあったが)。


 なぜこの人物が長期にわたってこれほどの権力を握り続けているのか……につき、三橋貴明は「国際金融資本の代理人だから」と述べている。平たく言えば、日本の国富を海外にせっせと献上するための窓口だから、ということになるのだろうが、肝心のその「国際金融資本」の定義に関して、三橋さんは必ずしも明瞭には述べていないため、いまひとつ釈然としない。この件は深すぎるのでここではこれ以上は踏み込まない。


 リバタリアニズムと新自由主義(ネオ・リベラリズム)とは違う。げんに、かくもネオ・リベラリズムが進んでも、ニッポンは、正確にいえばニッポンで暮らす民衆の大半は……とくに若い世代に顕著だが……貧しくなっている。貧しいとは不自由であるということだ。つまり、まったく自由が増えていないどころか、むしろ自由が奪われている。給与は少なく、いっぽうで税金と社会保障費は上がり、サービス残業は増える。可処分所得も可処分時間も減っている。自由が奪われているとはそのことである。


 ネオリベラリズムのいう「自由」とは、企業家やグローバリストにとっての自由であり、一般の労働者を益するところはほとんどない。そのことをまず抑えておきたい。