ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「社会主義」はなぜ危険なのか。03

2020-12-17 | 戦後民主主義/新自由主義

 サブタイトルの「社会主義」に「」が付いているのは、ここまで2回の記事を費やして述べたとおり、マルクスが構想した本来の社会主義ではなくて、ソ連、中国がそうであったような「戦争の混乱に乗じて成立した過激かつ急進的な共産主義政権」という含みである。そのような体制が危険なものになるのは自明といえば自明であって、ことさら力をいれて弁じるまでもない。つまりとうぜん予想されるべき反革命の動きや、暴動、内紛、クーデターなどを抑え込むために、自由を極度に制限した、強権的かつ抑圧的な姿勢を取らざるをえないからである。秘密警察の網がくまなく張り巡らされ、密告が横行し、「収容所群島」とまで呼ばれた旧ソ連とはそれが常態化した国家であった。


 しかし問題はたんにそういった統治技術だけにかかわることではない。より本質的なこととして、そのような政権が過去の伝統をばっさり断ち切って、すべての権威を否定し尽くしてしまうところが真に恐ろしいのである。そうして自分たちを、いや、往々にして頂点にいるただ独りの「指導者」だけを、絶対不可侵の位置に据えてしまう。これがすなわち独裁者で、かほど恐るべきものはない。政治学的な用語にすれば、「法治」主義ではなくいわば「党治」主義、さらには「人治」主義である。


 それは自らの権力が及ぶ範囲において「神」になるほどの所業といっていい。ぼくがまっさきに思い浮かべるのは1590(天正18)年、小田原の北条氏を征伐してほぼ天下を平定してから、1598(慶長3)年に没するまでの豊臣秀吉だ。法もなければ議会もなければ裁判所もない。彼の機嫌の良しあしで、あっさりと人が処刑されてしまう。しかしそれは、けっして400年余り前の遠い昔の話ではない。じじつ、現代であっても、それに近い国はある。条件さえそろえば実際に起こることである。人間とはそのていどの動物であるということだ。弱くてしかも傲慢なのである。


 だから、ひとは何かしら大いなるものに対して畏怖なり敬意なりをもっていなければならない。その感情を≪信≫と呼んでもいい。さもなくば際限もなく増長し、暴虐な幼児と化すであろう。これはこのあいだまでやっていたakiさんとの対話にかかわるものでもあるけれど、倫理や法律は≪信≫の領域からやってくるものなのである。いや、倫理や法律だけではない。文学や芸術、あるいは哲学や思想はもちろんのこと、さらには政治と経済にいたるまで、ひとの営みとはおしなべて、≪信≫の領域にこそ淵源を、根拠をもつものなのだ。ぼくが若年のころ熱中したニーチェから逆説的に学んだのはそのことだ。ニーチェ自身がはっきりそう述べたわけではないが、彼の思想を突き詰めていけばまざまざとそれが視えてくるのだ。そしてそれは、マルクスでもフロイトでも同じである。


 人間と人間との関係などはいわば平面のうえで互いに右往左往してるようなもので、本当はそこに絶対の基準などはない。「理性」だの「正義」だのといっても空しいばかりだ。双方がともに「こちらのほうが理性的だ。」「正義は我にあり。」と主張をしたらまさに平行線である。客観的な第三者の裁定を仰ぐといっても、その第三者とやらも結局は同じ平面のうえの人間なのだ。「絶対」なんてないのである。それは≪信≫の領域にのみ存するもので、しかもぼくたちがそれを確かめる術はない。


 マルクスは貨幣(商品)について徹底的に考え詰めることでそのことを暴いた。だから彼の理論は実践理論としては誤っていても稀有の人間学として今もなお屹立している。じつは「市場(しじょう)」にだってべつに根拠はないのである。われわれの欲望の総量と、漠然たる、それでいて不思議と強固な信用の体系がそれをがっしり支えているだけだ。それは健康なことだとぼくは思うが、しかしそれでも根拠がないことに変わりはない。


 だからあらゆるものを市場にゆだねる極端な新自由主義、市場原理主義もまた同様に危険であるのはいうまでもない。イギリスの産業革命のあと、近代的資本主義の揺籃期には、少なからぬ数の労働者(プロレタリアート)が悲惨としかいいようのない状態にあった。日も射さぬ穴倉のような塒(ねぐら)に何人もが折り重なるようにして暮らし、工場では年端もいかない児童が十数時間ぶっ通しで毎日朝から晩まで働かされた。日本で明治がはじまって間もない1871年……フランスではパリ・コミューンが成立してあっという間に制圧された年だが……この頃のイギリスの平均寿命は41歳といわれている。年少者の死亡率がそれだけ高かったということだ。もとよりそれは日本においても同断であった。


 それはすなわち「人権」の概念が皆無だったということだが、マルクスの理論はこのような背景のもとで形成されたわけである。しかるにその後、資本主義の成熟に伴い、また社会主義的な思想の広がりも与って、選挙権・累進課税・団結権の保障(=組合を作れるということ)・物品支給の禁止・8時間労働・未成年の就労禁止・労働保険といった民主的な政治改革や福祉政策が少しずつ進められていった。裏返せばそれは、「資本」の原理が暴走するのに社会が(システムが……というべきか)歯止めをかけたということになる。


 かくしてほぼ150年後のこんにち、われわれはそれなりに幸福な社会に生きている(と思う)のだが、ブラック企業の横行に見られるごとく、この現状が盤石のものといいがたいのもまた確かだ。それどころか、ハイパーな情報化社会の到来および世界規模での資本・商品・人材・技術・情報の爆発的な往来をバックに、悪しき意味における「社会主義」と悪しき意味における「資本主義」とがハイブリッドに統合された世の中が、意外なくらい呆気なく、現実のものになろうしている。かに見える。それも何処かの国の特定の政党を中核として。それをアメリカにおいて嬉々として推し進めているのが民主党で、それに抗すべく懸命に奮闘しているのがトランプ。だから何が何でもトランプを応援しなければならない。ぼくの理解したかぎり、今回の米大統領選でトランプを支持する人々がいっているのはそういうことなのだ(ただしぼく自身はその見解に賛同しているわけではないが)。