ダウンワード・パラダイス

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「社会主義」はなぜ危険なのか。01

2020-12-12 | 戦後民主主義/新自由主義

(文化大革命の悲劇を描いた世界的ベストセラー『ワイルド・スワン』。映画化もされた。画像は文庫版。今は電子書籍で出ている)


☆☆☆☆☆☆☆


 中国で暮らすふつうの人たちをどうこういう気はもちろんなくて、やばいのは共産党っていうか、社会主義そのものなのである。この点だけははっきりさせておかねばならない。


 社会主義と共産主義ってどう違うの?という質問をよく見かけるんだけど、その前にまず、よりわかりやすい対立項として、「資本主義」と「社会主義」との違いを押さえておこう。ざっくりいえば、日本やアメリカ、その他の多くの国々が取っている政体が市場原理を旨とする「資本主義」であり、「社会主義」とはそれに対する概念である。資本主義が「自由」を「平等」よりも上位に置くのに対して、社会主義は「平等」を「自由」のうえに置く。ゆえに開かれた市場で個人事業主や企業が互いに競い合うことを認めず、全員が同じだけ働き、全員がその成果を共同で分かち合うのを理想とするわけだ。


 しかし、小学生でもわかるとおり、そんなことはじっさいには不可能である。小さな村くらいならともかく、膨大な数の民が複雑に絡み合って営まれる社会が、すべての面で完全に平等な共同体に成りうるはずがない。国の主要産業が農業から商工業に移行するにつれて、都市が増え、大きくなり、必然として市場(しじょう)が生まれる。それを無理やり抑圧すれば、ひどい歪みが起こっていずれは崩壊に至るであろう。もちろん中国も、遅くとも80年代にはそれに気づいていた。


 80年代末から90年代初頭にかけて、いわゆる「(六四)天安門事件」を経験し、さらには隣の巨大な社会主義国ソ連の解体を目の当たりにした最高指導者・鄧小平氏は、「社会主義の体制下でも市場経済を導入し、経済発展を進めることはできる。」との声明を出した。1992(平成4)年の「南巡講話」である。その前後から、かの国は改革開放路線を推し進め、経済面では立派な資本主義国となった。ただし、共産党の一党独裁という政体は頑として維持したままで、だ。われわれ西側諸国が採用している意味での「議会」もなければ「選挙」もない。すなわち「民主主義」を認めていない。ここが大変な違いである。


 つまり今の中国の体制は、「社会主義」を標榜してはいても、ありようは「国家」の力がべらぼうに強い、いわば「国家資本主義」なのだ。そして、その国家の中枢というか、頂きにあるのが「共産党」だ。


 おわかりだろうか。「社会主義」国家である中国の中枢ないし頂きにあるのは、「社会党」ではなく「共産党」なのだ。そしてこれこそが、冒頭においた「社会主義と共産主義ってどう違うの?」という問いの答えにもなっているのだが、しかしそれはどういうことか。


 清王朝を倒した1912(明治45)年の辛亥革命いらい(念のため言うが、この革命は共産主義革命ではない)、中国という国には、今に至るまで、西側でいう意味での議会もなければ選挙もなかった(辛亥革命のあと共和国として出発した中華民国に議会や選挙がなかったわけではない。しかし軍事力をバックにした大総統の力が強すぎて、とても民主的とはいえなかった)。


 つまり民主政治の経験を積んでいないのだ。そして第二次大戦終結の後は、内戦によって軍事的に政権を取った組織が、法的な点でも実態においても、ずっと政権の座に就いている。毛沢東の率いた中国共産党である。日本(当時の大日本帝国)との戦争のあと、蔣介石率いる中華民国を台湾に追放し、中華人民共和国を建国。1949(昭和24)年のことだ。それほど遠い昔ではない。


 これは1917(大正6)年に政権を取ったレーニン率いるロシア共産党にしても同じなのだが、革命を成功させたソ連にしても中国にしても、「資本主義」に対立する政体として「社会主義」を名乗ってはいたのだけれど、それはこれら両国が依拠する思想的基盤としてのカール・マルクス(1818 文化15/文政1 ~1883 明治16)が唱えた「社会主義」とはまるっきり違うものだったのである。


 ざっくりいえば、マルクスの思想とは、「十分に発展した資本主義社会が爛熟の果てに行き詰まり、自壊を起こして必然的に次のステージに移行する。」というものだった。その「次のステージ」が社会主義体制なのである。つまり、近世/前近代(封建主義)が行き詰まって近代(資本主義)となり、それがまた行き詰ったあげくにようやく達するものであり、「近代」よりもさらに進化した「超―近代」のことだったのだ。ポストモダンとは本来、理念の上では、「社会主義体制」のことだったわけだ。


 しかるに、1917(大正6)年のロシアはもとより、1949(昭和24)年の中国でさえも、いうまでもなく「十分に発展した資本主義社会」などではなかった。むしろ近世/前近代からいきなり、近代(資本主義)の段階をすっ飛ばして「社会主義」に移ったわけで、ほとんど「開発独裁」に近い。中央に権力を集中し、計画を立て、めんどうな手続きを略して矢継ぎ早に実行にうつす。これは前近代からの移行期というか離陸期においてはたしかに有効なのである。思えばわがくにの明治新政府にしても、最初の20年ばかしはそうとうに荒っぽいことをやっていたのだ。


 いま明治政府の例を出したが、あの「ご一新」は薩摩や長州といったいくつかの「藩」の武力と政治力が基盤になっていた。主体となったのはそれら大藩の優秀な若手たちである(彼らは役割としては官僚であり活動家であり政治家であり軍人でもあった)。そして約270年にわたって政権を担った「征夷大将軍」の15代目を江戸城から(結果的に)放逐し、代わって天皇を奉戴することで、自分たちのつくった新参の政府を、脈々とつづく日本の伝統と接合することに成功した。明治維新が「革命」とは呼ばれぬ所以である。


 いっぽう、それから50年遅れて起こったロシア革命(これは第一次世界大戦がなければありえなかった)と、それからさらに約30年遅れで起こった中華人民共和国の建国(これも日中戦争なしには考えられない)の2つの革命は、共産党という組織が主体となっていた。ロシアはそのころ立憲君主制になっていたが、皇帝の一族を追放して王朝を断絶させた。中国においてはもう王朝は倒されており、すでに皇帝はいなかった。だからどちらの国でも彼ら自身が当然のごとく最高権力の座に就いた。まさしくこれは「革命」である。

つづき 
「社会主義」はなぜ危険なのか02




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