ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「社会主義」はなぜ危険なのか。02

2020-12-14 | 戦後民主主義/新自由主義






 こんな話をはじめたのは、むろん、まだ係争中の米大統領選のことが背景にあるからなんだけど、日本のマスコミの報道姿勢ゆえに、日本に住む大半のひとが事の重大さをわかってないのは恐ろしい。「トランプがわけのわからない難癖をつけて事態を混乱させている。」くらいに思っている人が殆どではないか。いやそもそも、「それ何いってんの? ぜんぜん知らないんだけど。」という人のほうが多いかもしれない。


 ジョー・バイデン氏の子息が複数の疑惑で捜査されていることがようやく明らかにされた。これはトランプ氏に批判的、というより敵対的なアメリカ主要メディアも報じたのだから歴然たる事実である。この父子はことのほか中国とのかかわりが深いといわれている。これもまた半ば公然の事実である。「かかわりが深い」というのは精いっぱい礼儀正しい言い方だ。あとはお察しいただきたい。


 バイデン氏が大統領の座に就けば、これまでの4年間とは比べものにならぬくらいアメリカは中国を優遇する。それはすなわち日本が冷遇されるということだ(追記。2022年4月現在、幸いにしてこの予測は外れていますね。アメリカの対中姿勢はトランプ時代と比べて変わっていない。ただしそれで日本が厚遇されているとも思いませんが)。


 そしてアメリカの影が弱まれば、かの国が経済面のみならず軍事面でもますます圧迫を強めてくるのは自明である。この一点を取っても今回の大統領選はまったく他人事ではないのだが、そういったことが何ひとつわからぬ人が国民の過半を占めているというのは、やはり「大衆にものを考えさせない。」というマスメディアの方針が戦後75年にわたって貫徹された証左であろう。今まではそれでもよかった。通用した。なぜ通用したのかはわからない。たぶん運がよかったんだろう。でもこれからはそうはいかない。ほかの国々、とくに中国がべらぼうに力をつけてきたからだ。言い換えればそれは、ぼくたちが明治この方の先人たちの遺産をほぼ食い潰してしまったということである。これからはひとりひとりが知識を蓄えて先へ先へと物事を考えていかねばならない。とりあえず、お笑いとゴシップだけのテレビはもう消したほうがいいかもしれない(追記。このあたり、かなりコーフンしておりますが、当時は米大統領選の帰結についてそれくらい危機感を抱いてたのです)。


 社会主義は危険である。それがどの国のどのような指導者によって運営されるものであろうともだ。社会主義という思想そのものが根本的に危険性を抱えているのだ。しかしそのことを理解している人はどれだけいるか。旧ソ連のノーベル賞作家ソルジェニーツィンの『収容所群島』はぼくなんかの高校の頃には近所の本屋で新潮文庫の6巻セットで売っていたが、すでに絶版になって久しい。前回の記事に画像を貼ったユン・チアンの『ワイルド・スワン』と、これはジャンルとしてはSFになるけど、古典中の古典ジョージ・オーウェルの『一九八四年』。新訳が先ごろハヤカワ文庫で出た。この2冊だけは目を通しておいたほうがいい。村上春樹の『1Q84』は読んだけど、オーウェルはまだという人は、完全に順序が逆である。


 「社会主義と共産主義ってどう違うの?」という質問に対する答が前回から持ち越しになっている。しかし、明敏な人ならおおよその察しはつくだろう。「十分に発展した資本主義社会が爛熟の果てに行き詰まり、自壊を起こして必然的に次のステージに移行する。」というのがマルクスの本来の構想だったという話はやった。そのとき主体となるのは労働者階級(プロレタリアート)だ。ただ、プロレタリアートは潜在的には莫大なパワーを秘めてはいるが、そのままでは覚醒できない。いわば厚い殻のタマゴの内に閉じ込められているようなものだ。だからだれかがきっかけを与えて殻を破ってやらねばならない。それが前衛党、すなわち共産党である。共産党の指導によって、プロレタリアートは自分たちの使命に目覚め、はじめて歴史を担う主体となる。これがマルクスの革命理論であった。


 マルクスが天才だったのは間違いない。でもだからといって言ったことすべてが正しいわけではない。それはニーチェにしてもフロイトにしても同じである。


 マルクスはドイツ生まれのユダヤ系だが、生涯をほとんど海外で送った。コスモポリタンといえば聞こえはいいが、ありようはほぼ流浪者である。だが、いずれにしても彼の関心は西ヨーロッパにあった。西ヨーロッパで革命が起こると思っていたのだ。ウラル山脈の向こうのロシアのことなど知ったことではない……どころかむしろ嫌っていた。その彼の思想を換骨奪胎してスラブの大地に取り込んだのはたしかにレーニン(1870 明治3 ~1924 大正13)の力業である。


 革命前のロシアはもう立憲君主制になっていたから、いわば「社会党」に該当する政党もあったのだ。しかしそこから、より先鋭かつ過激な人たちが分派して、もっと急進的な党派をつくった。それがレーニン率いる「共産党」だ。先鋭で過激で急進的だから、初めは小さい勢力だった。しかるにそれが、第一次世界大戦による混乱のなか、あまたの政争と内戦のすえに、結局は政権を取ってしまった(このかんの経緯は、ノンフィクションとして読むぶんにはとても面白い)。ゆえにあの革命は社会主義革命ではなく、共産主義革命なのである。


 それが1917(大正6)年10月のこと(ちなみにこれは『鬼滅の刃』の時代設定とほぼ同時期だ)。その2年後の1919(大正8)年、世界に革命を輸出するため(つまりソ連の味方……もっといえば手下……となる国を増やすため)の機関として「コミンテルン」が創設される。隣国であり、1912年の辛亥革命いらい混乱の渦中にあった中国はもちろん最有力の候補となる。1921(大正10)年、上海にて中国共産党設立。正確には、コミンテルンから「中国の共産党」として承認された。毛沢東(1893 明治26~1976 昭和51)はその創設メンバーだ。ただし、この時はまだ50人余り(!)の小さな組織であったが。


 日中戦争をあいだに挟んで、28年後にはその共産党が政権の座に就くのだから、勢いとは凄いものである。しかしそれまでの混乱を力ずくで捻じ伏せ、あの広大な版図の全域にわたって、いくつもの民族を含む膨大な人民を統治するわけだから強圧的にならざるをえない。そこはソ連(ロシア)とまったく同じだ。「計画経済」の失敗によって大量の餓死者が出たり、粛清が起こったりしたのも同じである。言いたいことが思うように言えない息苦しい社会になったのも同じだ。それが社会主義なのだ。


 百歩譲って、マルクスが構想(正しくは夢想というべきだろうが)したように、民主主義に支えられた資本主義が爛熟の果てに行き詰まり、そのあげく自壊を生じて必然として到達する「社会主義」の世がもしも可能ならばそれはよかろう。そこでは「自由」と「平等」とが比類なきバランスによって実現されているのかもしれない。しかし、現にぼくたちが知っている「社会主義」の国家はいずれも過激かつ急進的な「共産主義革命」を経て成立した国々なのである。その首魁であるソ連は1991(平成3)年に崩壊・解体してロシアに戻った。しかし中国は、絶えず危機を喧伝されつつも、ずっと勢威を保っている(ようにみえる)。ほんとうは、このことに隣国のぼくたちはもっと驚いてなければおかしいのだ。


 過激かつ急進的な「共産主義革命」を経て成立した国がなぜ本質的に危険なのかを次回に述べたい。ようやく本題に入れる。

つづき
「社会主義」はなぜ危険なのか03