ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

教養って何? 06 精神分析 じぶんを知る、ということ。

2018-06-11 | 雑読日記(古典からSFまで)
 きのうの日曜に当ブログの過去記事を読み返してたら、今と比べると文章はカタいが、意外と悪くなかった。最近のぼくがモヤモヤと考えていることを、ソリッドにまとめた記事があったりもし、勉強になった。いや勉強になってどうする。でも「えっオレ昔のほうがアタマよかったんかい?」とか思ったのは確かだ。ニーチェの話なんてだんぜん昔のほうがいい。今ニーチェについて書いてもあんな綺麗にまとまらない。
 ただ、「物語」についての考えは今のほうが深くなっている(と思う)。広くなってもいるんじゃないかと思う。総じて、「思考が柔らかくなっているのだ。」と、前向きにとらえることにした。あと、たぶんそれとも関連してるが、じぶんより年下の論客、はっきり名をいえば東浩紀さんと宇野常寛さん(の著作)に対する評価が激変した。ぐーんと上がったのである。
 これまで東さんや宇野さんの書かれたものを正面切って取り上げたことはないけれど、たとえば2016年6月25日に再掲した(初出は2013年6月)「佐藤優『功利主義者の読書術』/情報の集積体としての小説」のなかでぼくは、
「佐藤さんは根っこに≪神学≫をもっているからけしてポストモダニストにはならない。だから軸足がぶれることがなく、東浩紀のような人よりぼくにとっては重要だ。」みたいなイヤミな書き方をしてる。そして、ハーバマスの「公共圏」というアイデアを(佐藤さんからの孫引きの形で)紹介して、「ネットが公共圏になれば。」などと、まるで朝日新聞の社説レベルの、お気楽なことを述べている。
 しかるに東浩紀さんの『一般意思2.0』(講談社文庫)を読むと、そんな発想はまるでもう小児の寝言であって、東さんのような人は遥かに高度なことを十数年も前に考えておられるのであった。この本が文庫になったのは2015年だから、遅くとも3年まえには読んでおかねばならなかったのだ。いやあ反省反省。
 宇野さんの『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎文庫)も、やや状況を単純化しすぎてるかなとも思うけど、やっぱり面白くてタメになった。「後生畏るべし」という金言を、あらためて肝に銘じねばなるまい。
 さて。「教養って何?」というカテゴリが、2017年12月1日の「05 政治の話は難しい。」で止まっているのだけれど、ここで完結ってわけではない。「もうちょっとだけ続くんじゃ。」という気分でいる。このセリフ、まんが好きの人でなきゃわからないかな? つまりまあ、成り行きしだいではまだ結構つづくかも、ということです。
 文藝、歴史、科学、経済、政治ときて今回は「精神分析」なんだけれども、これは正直、「あまり素人が踏み込まんほうがよろしい」とそのむかし筒井康隆さんが言っておられた分野なので、挙げる本は一冊のみといたします。ただ、その前にちょっと雑談を。
 大学に入ったとき、級友のひとりが「心理学をやる。」というので何の気なしに「なんで?」と訊いたら、「それで人間心理を学んで、対人関係に生かす。」という返事だったから、「あー、でもここの大学は実験心理学専門で、ネズミに迷路を走らせてどうの、という世界だから、それはあまり期待できんと思うよ。」と答えた。それは実際その通りだったんだけど、それでがっかりしたのかどうか、その人は途中で退学してしまった。
 あのとき、「それはつまり人間の心についての洞察力を身につけたいってことだよね? それだったら何よりもまず、良質の純文学を読んだらいいよ。」と付け加えることができなかったのが、30数年経った今でもまだ心残りなのである。文学部なんだからそんなこと言わずもがなと思ったんだけど、なかなかそうでもないぞってことが後になってわかった。そう。優れた純文学は、かなり精度の高い「人間心理の研究記録」でもある。十分に「実用書」たりうるのだ。で、このことはあまりみんなに意識されていない。機会さえあれば繰り返し喧伝したいところだ。
 こういうのはかえって現代小説より古いもののほうがよくて、漱石の『三四郎』なんて、「ここんとこ、このキャラはどういう気持ちでいるのかな?」と、学校の国語の授業みたいなつもりで気を張って読めば、それだけで相当なトレーニングになるはずだ。
 ただ、そうやって身の周りにいる他人のこころに気を配るのも大切なことではあるけれど、心理学、というか、精神分析を学ぶのは、何よりもまず「自分を知る」ためじゃないかとぼくなんか思う。
 自分語りはイヤなのだが、話が話だから自分のことを語らなければしょうがない。小学生の頃ぼくは、「ノストラダムスの大予言」にハマった。「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる」というアレである。
 今ならば、これは聖書のなかの「黙示録」の当世風のバリエだよなってわかるんだけど、当時はなにしろガキなんで、かなり狼狽えた。中学、高校に上るとさすがに不安は薄れたが、「東西冷戦」がまだ続いていた時代でもあり、「ひょっとしたらアタマの上にミサイルが」みたいな気分はどこかにずっと持ち越していた。それは今日においてもまだ、北朝鮮などへの懸念となって残っている(仮に米朝首脳会談がうまくいっても、それでとたんにすっきりするってもんでもない)。
 フクシマ以降は「原発」のほうにシフトしているけれど、大江健三郎さんも昔は「核ミサイル」「核ミサイル」と頻繁に言っておられたし、もろ作品の題材に取り上げたこともある。たぶんぼくと似た体質なのであろうし、逆にそれゆえぼくが大江文学に惹かれたところもあるんだろうけど、大江さんはさておき、ぼく自身についていうならば、この種の「根源的な不安」はぜんぜん政治的ではなくて、ひとえに心理的なものだったのである。
 それが自分でわかったのは、ずいぶんと後になってからだ。
 さらに自分語りになってしまうが、うちの母親はぼくを産んだ直後と、ぼくが3歳になるやならずの時と、2度にわたって長期入院した。すなわちぼくは、生後間もなく、さらに物心つくかつかぬかのころ、2度にわたって母親から引き離されたわけだ。まあ、ふつうに考えてなかなかにクリティカルな生育環境といえよう。これにより、「自分を守ってくれるひとが傍にいない」「いつ自分の足元が崩れ落ちるかわからない」といった不安が根付き、小学生の頃から、おそらく今に至るまで、ずっと持ち越してるわけだ。
 てるわけだ、などと、あっさり書いているけれど、自らのこういった本質的な資質というのは客観視ができないゆえに自己分析が難しく、ぼくにしても、素人なりに精神分析の本を読みかじらなければ、たぶん気づかなかったと思う。
 気づかなかったらどうなるか、というと、その「不安」に突き動かされて、いらざる「欲望」が生じ、たとえば怪しげなカルトに嵌ったりなどして、人生が無駄にややこしくなる可能性があるのだ。そういうリスクを減殺してくれるのだから、やはり本代を惜しんではいけない。
 以上、「精神分析を学ぶのは、何よりもまず自分を知るためだ」とぼくが考える理由を述べました。
 では最後に本の紹介。2018年5月22日の「物語/反物語をめぐる50冊 2018.05 アップデート版」でも再三再四お名前をだした河合隼雄さんの『こころの最終講義』(新潮文庫)。『こころの処方箋』のほうがより平易で、ロングセラーになってるけど、今回はこちらを推したい。講演集だが、河合さんらしい柔らかな語り口でなされた講義録といったほうがよい。このたびの記事で述べたことがらのほとんどを含み、さらなる深みへと読み手を導く好著だと思う。




教養って何? 05 政治の話は難しい。

2017-12-01 | 雑読日記(古典からSFまで)
 シリーズ「教養って何?」の第5回、「やっぱ経済のあとは政治でしょ?」というつもりで草稿をいくつか作ったんだけど、どうも政治の話は難しいですね。うまくまとまらない。ただ、経済と政治とは不可分だから、前回の記事だって、政治的といえば政治的だろう。
 ぼくは毎年8月になって終戦記念日が近づくと、妙に興奮してきて政治がらみの記事をアップする。今年はなにを書いたろう、と思って参照してみたら、こんな具合だった。
「何よりも、自由。だれしもが(良識の範囲で)言いたいことを言い、意見の対立があれば話し合いによって解決に努める。とりあえずこれがいちばんだ。その裏打ちとなるのは、公正で堅実な競争社会。だから市場原理は必要だ。この点で共産主義はだめ。国家が個人を押し潰して呑みこんでしまう全体主義ももちろんだめだ。」
 さらに、
「いっぽう、市場原理だけをやみくもに推し進めるのもよくない。それはそれで逆方面からの人間性の破壊をもたらす。伝統をないがしろにせず、共同体を保ち、次代に繋げていくためには、あるていどの平等も不可欠だ。ゆえに社会民主主義的な政策は時に応じて取り入れていくべきだ……。」
 と付け加えてもいる。
 昔のブログ記事を読み返すと「なんじゃこりゃ」と思うことも少なくないが、さすがにこれは4ヶ月前だけあって違和感はない。4ヶ月で激変したら逆に心配である。今だって、言葉にすればアタマの中はそんな感じだ。前回の記事との整合性もとれているだろう。
 まあ、当たり前のことを述べているだけという気もするが。
 文中に「共同体」というキーワードが出ていた。ぼくは「健全な中間層に支えられた日本という共同体」を信じている。だからその点においては、あえて「右か左か?」という乱暴な仕分けをするなら「右」に属するとは思う。いっぽうで、ニッポンの近代およびその帰結としての先の大戦には、ものすごく複雑な思いをもっている。
 ぼくなんかが子供の頃から20代の終わりくらいにかけては、「とにかく日本は悪かった」「近隣諸国に多大な犠牲を強いた」という発想が大前提になっていた。今どきの用語でいえば「デフォルト」か。20世紀の終焉あたりから、いわゆる「新自由主義史観」を掲げる一派があらわれ(その大衆普及版が小林よしのり氏)、少なくとも国内では、その空気はずいぶん変わった。
 しかし、当の「近隣諸国」においては風化どころか糾弾の勢いは一向に衰えず、「慰安婦像」はまさしくその象徴である。
 ぼくは率直にいって慰安婦像はやりすぎだと思うし、不愉快なのだが、といって、向こうの気持ちがまるっきり分からぬわけでもない。
 なまじ文学をやっているために、反対の側にいる相手にも、あるていど感情移入してしまうのだ(相手には、大きなお世話だ、と言われるかもしれないが)。こんなふうだから政治の話は苦手なのである。
 戦前の日本に生まれ、軍国主義のなかで思想形成をした知識人が、運よく戦死を免れて、戦後の社会のなかでものした著作には、当然ながら根底に「軍国主義許すまじ」との一念がある。どれほど理性的に書かれていても、その思いが煮え滾っている。
 そのような方々が遺した著作のうち、もっとも良質なものをあげるとしたら、加藤周一『夕陽妄語』1~3(ちくま文庫)だろう。「夕陽」は「せきよう」と読む。長年にわたって朝日新聞の夕刊に連載されていた。諸般の事情でラストのほうが単行本化されてなかったのだが、近年になってちくま文庫で書籍になった。
 ぼく自身は、近年の中国の台頭や、さらに今の北朝鮮のやり方を見るにつけ、加藤さんのお書きになったことはすでに過去のものだとは思う。ただ、戦後日本の生んだ名著として、『夕陽妄語』は若い世代にも読んでほしいとも思う。
 その加藤さんより5歳年長で、従軍経験のある政治学者・丸山真男の『政治の世界 他十篇』(岩波文庫)と杉田敦・編『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー)も挙げておきたい。
 いっぽう、高度成長以降に生まれ、いわば「わがまま放題」に戦後を享受した世代の知識人にとっては、どれほど書物で追体験しても、「軍国主義」の恐怖はしょせん他人事でしかない。そんな世代のなかでもっとも良質の文章を書く著作家のひとり福田和也の『近代の拘束・日本の宿命』(文春文庫)と『日本の家郷』(新潮社)は、残念ながらどちらも絶版で、電子書籍化もされてないようだけど、機会があれば目を通しておいて損はない。
 どうもしかし、なんだか古くさく、狭苦しい話題になっちまってるなあ。やっぱりぼくは政治の話が下手だ。
 冒頭にも記したとおり、経済と政治とは不可分だ。革命家マルクスはどうしてせっせと『資本論』を書いたか。けだし、経済を度外視して政治だけ語っていても意味がないからだ。
 北朝鮮もブキミきわまりないけれど、もっと大きな視点に立つなら、いま私どもがもっとも切実に直面している「政治」的な課題とは、すなわち「グローバル資本主義」にほかならない。
 そういう意味では、ぼくがいま「これだけは読んでおかないと」と思う本当の政治の必読書は、アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート『マルチチュード』上下・NHK出版だけである。
 マルチチュードとは、あえてひとことで言うならば、「グローバル資本主義に抗う、グローバルな民主主義の運動体」のことだ。
 コトバにするとたいそう気恥ずかしいけれど、ここを恥らっていては今や政治の話はできない。
 とにもかくにも、『マルチチュード』上下。これに付け加えるならば、與那覇潤『中国化する日本 増補版』(文春文庫。タイトルが紛らわしいけど「嫌中本」ではありません)と、柄谷行人『柄谷行人講演集成 1995-2015』(ちくま学芸文庫)か。




教養って何? 04 空しき経済

2017-11-12 | 雑読日記(古典からSFまで)
 「教養とは?」を考えるシリーズ、次なるお題は「経済」と致す所存なのだけれども、ぼくには経済のことがよくわからない。
 「経済」とはもともと「経世済民」、すなわち「世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと」の意だ。しかし実情はどうか。
 いきなりアレだが、いまの日本は相当にヤバいと思うわけである。卑近な例をひとつあげると、駅前の商店街で、なじみの店が次々と潰れる。あとに100均ショップのチェーンが入る。これがどうにか営業を続けていたのがイチゼロ年代初頭くらいまでで、今ではそれすら立ち行かず、ほとんどがシャッターをおろしたままになっている。いわゆるシャッター街だ。そりゃ100均がダメなら他にやりようがないわなあ。もしここにまた店が入るとしたら、中国系しかないだろうという気がする。
 中国といえば、もはや日本経済そのものが中国人観光客なしではやっていけない状態だ。海外からの客を招くのが悪いとは言わないが、それは国内の景気が健やかに保たれている場合の話で、地元の店がよそからの外貨を頼りにかろうじて営業を続けている状態が好ましいはずがない。はっきりいって、病んでいる。
 こんな事例をあげつらうよりも、30代以下の若い世代の正規雇用の割合ならびに平均年収、結婚率といったデータを出せばもっと明確になるだろう。どんどん下がっているのである。ようするに日本経済は、というか日本という国そのものが、明らかに衰えつつあるのだ。
 こんなことになってる理由は明白で、それこそ「30代以下の若い世代の非正規雇用の割合ならびに平均年収、結婚率」が物語っていることだ。つまり、かつての高度成長を支えた、日本の誇る「中間層」が壊れてしまったせいである。
 「中間層」とは、今ちょっとネットを見たら色々ごちゃごちゃ書いてあったが、そんな難しい話はどうでもよろしい。ぼくの定義では「遅くとも20代の終わりまでに就職・結婚し、半生にわたって一定の所得を維持して税金を納め、2~3人の子どもを育て上げて社会へ送り出し、しかるのちに定年を迎える層」である。
 この「中間層」こそが、作り手として、また消費者として社会を拡大再生産し、GDPを成長させてきた。それがかつての日本だ。若い世代ほど、それが壊れつつある。そもそも人口が減ってるし。だから日本は衰える。シンプルな話である。
 「価値観の多様性を無視している」とか、「男性中心主義ではないか」といった批判が出るのは予想できるが、とりあえずぼくは、「それがいいか悪いか」と、ジャッジしているわけではない。「なぜ日本が衰えたか」を自分なりに分析しているだけだ。
 じっさい、「それで生き方が多様になって、個々の自由度が増したんだからいいではないか」と述べる若手の社会学者もいるようだ。こういう学者さんは、日本全体が衰退することについて何ら痛痒を感じぬどころか、むしろ良いことのように思っている節がある。こういうのをポストモダニストというんだろうか。しかし、多様性などといっても国が弱ればそのしわ寄せはけっきょく個人に、とくに若い世代にかえってくるのだ。大学院まで出て、そんなこともわからぬのだろうか。わしにはその気が知れぬ。
 世間知らずの講壇の学者先生が何をいってもいいんだけども、問題は為政者のみなさんである。かんじんの政治が、いっこうに対策を講じる様子がない。日本の衰退が中間層の破壊によるものならば、その復活のためには中間層を再建すればよい。いや、しなくてはならない。ぼくみたいな素人にすらわかる話だ。それが財務大臣だの日銀総裁だの、行政の長(おさ)たちにわかっていないはずがない。わかってるのに何もしない。むしろ、ますます中間層をぶっ壊すような政策を続ける。
 おっそろしい話である。北朝鮮のミサイルも怖いが、この現状もそれに劣らず怖い。この国の土台ががらがらと突き崩されていくのを、ただ茫然と見ていなければならないのだ。
 先の衆院選が盛り上がらなかったのも、野党第一党がわざわざ勝手に自分からコケたという以前に、どこが政権を取っても、誰がトップに就いても、この情況はたぶん変わらないだろうという遣る瀬ない気分が国民に行きわたっているせいではないか。
 なぜこの国の政治家は中間層の再建を目指さないのか。そのような経済政策を取らないのか。
 そこにはやはり、なにか理由があるのだと思う。この国のトップにさえも御しえないほどの、なにか大きな理由が。それは世界全体を覆った「グローバル資本主義」というシステムそのものなのかもしれない。ただ、そこがぼくにはよくわからない。畢竟(ひっきょう)これがわからなければ経済のことも本当にはわからぬであろう。ゆえに冒頭、「ぼくには経済がわからない」と述べた次第である。
 といったありさまだから、今回はブックガイドといってもはなはだ心許なくて、なんだろう、「東洋経済」とか「ダイヤモンド」とか、ああいう雑誌を週に1回読んでりゃそれでいいんじゃないすか?といって終わりにしたい気もするが、しかしやっぱりそういうのは「教養」とは違うだろう、とも思う。
 中公、ちくま、岩波、講談社あたりの新書はその時々に応じてタイムリーな経済ものを出す。1992年の中公新書・宮崎義一『複合不況』なんてさすがに今は絶版のようだが、かつてはポスト・バブルの必読書として扱われていた。
 ただここでは、そういった新書でもなくて、よりベーシックな本をあげます。
 まず、ちくま学芸文庫『入門 経済思想史 世俗の経済学者たち』。ロバート・L・ハイルブローナー著。八木甫(はじめ)ほか訳。
 これは2001年から(単行本も併せればもっと前から)版を重ねている好著で、経済学の成立から20世紀後半あたりまでのことが一通り学べる。ユーモラスな筆致で、今回あげる中ではいちばん読みやすい本だ。
 次に新潮文庫『ケインズかハイエクか』。ニコラス・ワプショット著。久保恵美子・訳。
 前回述べた「Science & History Collection」シリーズの一冊。20世紀を代表するふたりの大経済学者につき、現代史の流れの中でよくわかる。
 今日の世界を覆う「グローバル資本主義」のことをダイレクトに扱ってるわけではないが、こういう基礎をしっかりと心得ておけば、未知の事態にも或るていどは対応できると思う次第であります。
 この2冊をきっちり読み込んだら、そこそこのものだと思うけど、他にどうしても挙げておきたい本がある。
 伊藤誠『「資本論」を読む』。講談社学術文庫。
 宇野弘蔵『恐慌論』と『経済原論』。ともに岩波文庫。
 「資本論」なんて言ってるんだから、とうぜん左寄りの本である。だからいささか気が引けるのだが、心強いのは、売れっ子著述家の佐藤優さんが、ことあるごとにこれらの書名を出すことだ。「現代を読み解くための必読書」とまで言っていた。
 かんたんにいえばこうだ。マルクスって人は、最終的には「革命」に依らずして理想社会の建設はない、と考えていた。きわめて過激なのである。しかし、「革命」の夢は20世紀終盤、ソビエト連邦の崩壊によって完全に潰えた。それでマルクスの理論もすべて灰燼に帰したのだろうか?
 そうではない、と佐藤氏はいう。マルクスの思想は「革命」というイデオロギーに染まっていたが、それはそれとして、「資本主義経済の分析」という点では、今なお他の追随を許さない。極端にいえば、「資本主義社会でいかに成功を収めるか?」を学ぶうえでも、マルクスは役に立つのである。
 だから、マルクスからイデオロギーを脱色して、純粋に「社会分析」のためのエッセンスだけ抽出すれば、今でも使える。使えるどころか、それは人類にとっての財産となる。そして、それをやったのが宇野弘蔵だ。
 ということになる。念のため繰り返すが、これを言ってるのはぼくではなく、佐藤優さんである。
 佐藤さんはこれをずいぶん前から述べている。そのプッシュが功を奏したか、入手の難しかった『恐慌論』が2010年に、『経済原論』が2016年に、ついに岩波文庫に入った。伊藤さんの『「資本論」を読む』はそれより前の2006年に文庫となり、ずっと読み継がれている。この方は宇野さんのお弟子さん筋だ。
 『「資本論」を読む』はまあまあ読める。しかし宇野先生の本は、数式が入ってたりして難しい。一般レベルの教養書とはいいづらいかもしれない。しかし名著には違いない。
 ぼくの大雑把なアタマでは、「ようするに、富の再分配なくして社会の健全なる発展および再生産はありえないってことだよね?」という感じに読めるのである。その読みはそんなに間違ってもいないと思う。ただ、上に述べたとおり、この国の現状はまるっきり真逆の方向に突き進んでいる。それが世界規模の潮流でもある。だからいくら理論を磨いても、ムナシサだけがあとに残る。やはり、「東洋経済」とか「ダイヤモンド」を閲読してたほうがいいのかも知れない。



教養って何? 03 科学のお勉強

2017-11-04 | 雑読日記(古典からSFまで)
 ぼくたちが暮らしているのはハイテク社会だ。もし電気ってものがなくなってしまったら、日々の生活がどうなるか、SF作家の想像力を俟(ま)つまでもない。それでいきなり破滅にまでは至らぬだろうが、とりあえず、この文明が維持できないのは確かである。これだけの恩恵をこうむってるのに、ふだんそのありがたさについてしみじみ感謝したりしない点では、科学技術はあたかも水か空気みたいだ。
 ふだんそのありがたさを忘れてしまってるほどだから、ぼくたちは科学について知るところがあまりに少ない。ぼくなんて、物理や化学に関する知識は、文学に関するそれのおそらく十分の一以下だろう。いかんなあとは思うけれども、つい好きな方面にばかり偏っちまうのは人間の性で、しょうがない。
 そう言いつつも、前回からの流れで、学校教育に物申したきことがひとつある。
 「好奇心」がなかったら、「学問」への取っ掛かりも生まれない。
 しかし、裏返していえば、「好奇心」さえ生じたら、それは「学問」への、もっというなら「教養」への扉をひらく鍵を手にしたも同じってことになる。
 だからEテレで昔やってた「さかのぼり日本史」みたいに、「その時のもっともホットなトピック」を取り上げ、「そこから問題の因って来る史実へと遡行していく」ような授業はできないものか。文科省はそんなカリキュラムを組む度量はないか。
 そんな話を前回やった。
 これは歴史の勉強のことだけど、科学についても同様だ。
 なぜスマホで会話ができたり、あまつさえ、音声や画像や動画がやりとりできてしまうのか。
 これをきちんと説明するには、けっこうな知識が入り用である(あなたはできますか。ぼくは正直、自信ないです)。
 授業をいきなり「力学」の基礎からではなく、逆に、今のスマホの例のように、もっとリアルな話から始められないものか。
 細かい計算や、法則の暗記は、ひとまず後回しでもいいではないか。
 車はなぜ走るのか(これはさすがにぼくにもわかるが、でも原理から説明するのはやっぱり大変だ)。冷蔵庫はなぜ冷えるのか(この説明には化学の知識もいる)。そもそも電気はどうやって作られるのか。
 そういう授業なら、今より確実に一般生徒の「食いつき」はよくなると思うわけである。
 上(文科省)から、学校を通じて「とにかくこれとこれとこれをやれ。」と強制するのではなく、下(学生たち)の好奇心を汲み上げる。
 トップダウンではなく、ボトムアップ。
 そのほうが着実に身につくはずだ。現行のカリキュラムは見事なもので、きれいに体系立っているけれど、研究者や技術者になる人を除けば、大半の生徒は受験が終わるとその内容を忘れてしまう。もったいないじゃないですか。
 さらにまずいのは、文系のばあい、国立一期校レベルでさえ、受験科目にそれがなければ、最初からまともにやらないケース。
「これは技術立国・日本の危機だ。官僚が最先端の物理や化学を知らなかったら、国の舵取りなんてできるか」
 と立花隆さんが憂えていたのは、はや20年も前の話である。はたして今のニッポンはどうなったか。
 いずれにしても、100のことを教えて、いざ社会人になったら3か4しか残ってないというよりは、とりあえず高校の課程を終えたら、「なぜスマホで音声や画像や動画がやりとりできるのか。」について全員がきちんと説明できる。そっちのほうがいいんじゃないかとぼく個人は思う。
 これはまあ、ぼくの長年の持論だけれども、どうせ仮想の話であり、「われわれ忙しい社会人が教養を身につけるにはどんな本を読めばいいか」という今シリーズの主題と直接のカンケイはない。
 で、本題。「われわれ忙しい社会人が教養を身につけるにはどんな本を読めばいいか。第3回・科学編」である。
 上でさんざん学校教育に難癖をつけてアレだけれども、まず手元に置きたいのはやはり高校教科書の副読本(図録)で、
『視覚でとらえるフォトサイエンス 物理』『視覚でとらえるフォトサイエンス 化学』がたいへん良いとぼくは思う。とにかく綺麗でわかりやすい。共に数研出版。同じシリーズで生物と地学も出ている。
 一般書籍だと、やはりぼくはこの方面に疎いので、すこし心許ないが、
『世界のたね 真理を探求する科学の物語』(アイリック・ニュート 猪苗代英徳・訳(角川文庫 上下)
 が、すこぶる評判いいようだ。学生向けに書かれた本で、語りかけるようなくだけた口調なんだけど、中身はしっかりしている。人類の歴史とからめて、科学史や科学の考え方が身につく。『ソフィーの世界』の科学版と評してる人もいた。なるほど。
 より本格的なものをというならば、これも名著の誉れ高い『近代科学の源流』(伊藤俊太郎 中公文庫)か。
 現代科学の最先端にかんしては、これはもう専門書ってことになるのでぼくの守備範囲を離れてしまうが、一般書のレベル内なら新潮文庫の「science & history collection」がいい。このシリーズの『人類が知っていることすべての短い歴史』(上下)は、楽しみながら天文・地学・生物・物理などの最前線にふれられる好著。著者ビル・ブライソンはサイエンス・ライターではなく、旅行記で知られる人らしいが、ひとたび特定のジャンルに興味を抱くとばりばり猛勉強して専門家はだしの本を書き上げてしまうとか。
 ただこの本、「電気」にかんする言及が意外と少ない。あたかもそこを補うように、同シリーズからデイヴィッド・ボダニス『電気革命 モールス・ファラデー・チューリング』が出ている。この2冊にかぎらず、新潮文庫の「science & history collection」はどれもミステリ小説なみに面白く、講談社新書のブルーバックス・シリーズよりも、個人的には好きである。
 


教養って何? 02 生きた歴史をまなぶ

2017-10-26 | 雑読日記(古典からSFまで)
 大岡信さんの『折々のうた』(岩波新書)全19巻は、いわば言葉の宝石箱だ。「教養」を育むには、こういう本に親しむに如(し)くはない。しかし、このせわしない現代社会にあって、終日(ひねもす)ただうっとりと、古典美の優雅な世界に耽溺してはいられないのも自明である。そう思えば、一冊の豊かな本を心ゆくまで読み耽るのは、東京ディズニーリゾートで朝から晩まで愉しむよりも贅沢なことかもしれない。
 日々のたつきを得るため出勤する。電車に乗ればすし詰めだし、車で行けば朝っぱらから渋滞だ。もちろん、勤め先に着いた後には、さらに苛酷な時間が控えている。仕事も8時間では終わらない。サービス残業が前提だ。消費税は上がる。物価も上がる。しかしこちとらの給料は据え置き。暮らしはどんどん苦しくなる。政治家たちは底知れぬほど無能で、笑えないドタバタ喜劇に明けくれている。この国はいったいどうなるのか。
 時間がない。カネもない。精神的なゆとりも乏しい。こんな日々のなかでなお、わずかな隙間を縫うようにして、教養を磨くためにはどうすればいいか。これもまた、今回のシリーズの主題である。
 教養の礎(いしずえ)は言葉(母国語)だ。ことばは文芸作品においてもっとも鮮やかに働く。だから古典から近代から現代まで、優れた文学はなるべく読んでおきたい。ただ、詩歌や小説ばかり読んでても、それだけで教養が身につくわけではない。
 次にたいせつなのは、歴史を知ることではないか。
 歴史といえば、わが国の戦後教育は一貫して近代史をまともに生徒に教えず、サザンの桑田佳祐がそれを揶揄して(もしくは嘆いて)歌ってるくらいだ。すこしまえ、ETVで「さかのぼり日本史」という企画があったが、本来はあれが、歴史を学ぶ態度だろう。そう思うと、文科省の制定している受験用のお勉強ってものがいかに貧しいものかがわかる。いや、内容が貧しいわけじゃない。ボリュームはたっぷりあるんだけれど、それを調理して学生に供する手際が拙(まず)すぎるのだ。わざと歴史をつまらないものに見せようとしてる気さえする。
 もっとも、「さかのぼり日本史」だって、「その時のもっともホットなトピック」(たとえば竹島問題とか)を取り上げ、「そこから問題の因って来る史実へと遡行していく」ものなんだから、万が一、文科省がこの方式を採用したって、そもそも学生の側が「ホットなトピック」に初めからなんの関心もなければ、これはどうしようもない。
 「好奇心」がなかったら、「学問」への取っ掛かりも生まれないのだ。
 しかし、裏返していえば、「好奇心」さえ生じたら、それは「学問」への、もっというなら「教養」への扉をひらく鍵を手にしたも同じってことになる。
 なぜアメリカはトランプ氏のようなひとを大統領に選んだのか。なぜIS(イスラミック・ステイト)は生まれたのか。なぜ日本は平和憲法をもっているのか。なぜ北朝鮮はミサイルに執着するのか。なぜ中国は民主国家ではないのにあれほど強くなれたのか。なぜ日本の政治(家たち)はこれほどまでにダメなのか。そもそも、なぜ日本はほぼ80年前アメリカと戦争を始めたのか。
 すべて学問への、教養への鍵だ。しかし、われわれの忙しすぎる日常は、それらのギモンを落ち着いて解きほぐすだけの時間を、なかなか与えてくれないのである。
 一般書籍で歴史を学ぶといえば、すぐに思いつくのは中公文庫のシリーズだ。『世界の歴史』は、むかし全16巻だったのをぜんぶ新たに書き下ろして全30巻となった。『日本の歴史』のほうは、よほどしっかりしたものだったらしく、約40年前のものが表紙を変え、詳しい「あとがき」を書き加えただけでそのまま出ている。全26巻。
 これらを図書館で借りて(財布やスペースに余裕があるならもちろん買って)頭から順に、あるいは、関心のある巻を中心に据えて読んでいく、というのがもっともオーソドックスな勉強法だろう。そのさい、カラー図版がふんだんに入った高校の授業の副読本がべらぼうに役に立つ。というか、これなしで字だけ読んでても、そりゃあアタマに入らない。
 印刷技術が格段に進歩してるから、眺めてるだけでも楽しい。amazonですぐ手に入る。だいたい1000円くらいである。
 そういう「図録」「図説」みたいなやつは世界史と日本史それぞれ一冊ずつ手元に置いといて損ではないとは思うが、しかし中公文庫の30巻+26巻併せて56巻は、とてもじゃないが読んでる間がない、とおっしゃる方も多かろう。
 ぼくもそうだ。いや古いほうの版は十数年かけて少しずつ読んでいったし、ことに日本史の「近代」以降は繰り返し読んだが、新しい版のほうの世界史は、まだ一冊も手に取っていない。
 じつはそういう向きにお勧めの文献がある。文藝春秋が年に何度か出してる臨時増刊「文藝春秋special」だ。季刊号とはいえ雑誌扱いなので、半年も経てば電子書籍で安く手に入る。
 最新号がこの8月に出た2017年秋号で、「世界近現代史入門」700円。
 3月に出た春号「入門 新世界史」が、なんと99円。
 2015年夏号「大世界史講義」が300円。
 2015年春号「大人の近現代史入門」が300円。
 ほかに中国を取り上げたものや、昭和史を扱ったもの、世界三大宗教にスポットを当てたものなどがあるが、なにしろ文藝春秋だから、どれもたんなるお勉強ではなく、「さかのぼり日本史」みたいに、その時点でのもっともホットなトピックに絡めて執筆・編集されている。面白い。
 忙しい現代人が「教養」を身につけるためには、こういうものを活用するのも手だと思う。




教養って何? 01 折々のうた 大岡信 岩波新書

2017-10-24 | 雑読日記(古典からSFまで)
 「教養」を身につけるための手立てはいくつかあると思うけれども、中でも「古典を読む」のは有力だ。ただ、古典というのは高密度の原液みたいなものだから、これをすんなり飲み干すことは、現代人には難しい。若い人たちにとってはなおさらだろう。
 と、いうような趣旨の話を前回やりました。
 だとすると、いま私たちが暮らしているこの場所と、「古典」の世界とをなだらかに繋いでくれるような本。そういう本があるならば、とりあえず、それを読むのがよいのではないか。まあ、それすらもめんどくさいというならば、これはもうしょうがないけども。
 古典といってもいろいろある。前回例にあげたホッブズなんかもむろんそうだ。ここではまず、学校の「古文」の授業であつかう、文字どおりの古典文芸にスポットを当てたい。源氏物語とか、古今和歌集とか、あの類いだ。
 なぜ古典文芸なのか。国語のことを母国語ともいう。面白いことに、英語でもmother tangueという。われわれは、正確にいえば「われわれの自我は」というべきなのかもしれないが、好むと好まざるとにかかわらず、「国語」から生まれ出てるのである。
 ゆえに、「教養」を育むためには、「母国語」により深く習熟したい。そのためには、古来より先人たちが積み重ねてきた上質の日本語にふれるのがよい。そこに一級の現代日本語が添えられていれば、これに越したことはない。
 てなわけで、大岡信『折々のうた』。
 学匠詩人として知られる大岡さんが、毎日ひとつの俳句か短歌(和歌)、もしくは詩の一節を取り上げ、簡明にして豊かな「鑑賞」を付けたもので、長年にわたって朝日新聞の第一面に連載されてきた。
 きちんといえば、1979(昭和54)年の1月から、2007(平成19)年の3月末日までである。何度かの休載期間を挟んではいるが、じつに四半世紀以上におよぶ。偉業といっていいと思う。日本文化にとっても偉業だし、氏にとっても、結果としてライフワークとなった。
 一年分をまとめたものが、岩波から新書のかたちで刊行されてきた。総索引を除いて、全19巻。10巻目でいったん区切って、11巻めからは「新 折々のうた」とタイトルがかわる。「折々のうた」全十巻と、「新 折々のうた」全九巻である。
 記念すべき初回は、志貴皇子(しきのみこ)「石(いは)ばしる垂水の上のさ蕨(わらび)の萌え出づる春になりにけるかも」
 当時48歳の大岡さんの附した「鑑賞」はこうだ。

「『万葉集』巻八の巻頭を飾る。春の名歌として愛されてきた。「石ばしる」は石の上をはげしく流れるさまをいう。「垂水」は滝。石の上をはげしく流れる滝のほとりに、さわらびも芽を出す季節になったのだ。冬は去った。さあ、野に出よう。
 志貴皇子は天智天皇の皇子。万葉には六首残すだけだが、おおらかな調べは天性の歌人たることを示している。右の歌は『新古今集』にも若干歌詞を変えて採られている。」

 歌にまつわる「文学史的な履歴」をきっちりと抑えつつ、詩人ならではの感性で、本職の国文学者には書けないようなところにまで、大胆に筆を伸ばしている。「さあ、野に出よう。」なんて、歌には書かれてないのである。だけど、「さ蕨(わらび)の萌え出づる」というイメージには、たしかにそれくらい、心の弾む様子がみえるのだ。
 ぼくなんかが面白く思うのは、こんにちの若者文化を語るうえで欠かせぬ「萌え」というキーワードが、ここに見られることである。これなどまさに、記紀万葉の時代から、ハイテク時代の現代まで、「母国語」を介して日本人のなかに、ひとつの大切な感受性が脈々と受け継がれてることの証じゃないか。
 この一首から始まった大岡さん(と、朝日新聞のまじめな読者たち)の歴程は、上に述べたとおり足かけ29年続き、現代の俳人・長谷川櫂の、

 水 の 色 す い と 裂 い た る さ よ り か な

 で終わる。これも春先の歌だけど、すこし冬の冷たさが残ってる感もある。
 「折々のうた」がすごいのは、まあ「折々」なんだから当然だけど、365日ぶん、季節の移ろいに応じてその日その日にふさわしい詩歌が選ばれているところだ。しかも、季節感だけでなく、意味においてもひとつひとつがそれとなく連なっているのである。もちろん、すべてが完璧に連環しているわけではないが、それにしたって、並外れた才幹と博識と労力なくしては能(あた)わぬ離れ業であろう。
 現代における「教養」ってことを考えるとき、ぼくがまっさきに思い浮かぶのは「折々のうた」だ。


教養って何?

2017-10-22 | 雑読日記(古典からSFまで)
 前回の記事を書いて、「教養ってのは何だろう?」とあらためて思った。高校の授業で古文や漢籍の代わりにプログラミング言語を教えようかというこの時代、ぼくなんかの学生の頃と比べても、「教養」ということば(概念)そのものが変質してるのは間違いない。
 たぶん、もっとも初歩的な用例としては、「これくらいは知っとかないと恥ずかしい」ような事柄を指すんだろう。「社会人としての最低限の教養」みたいな使い方で、ほぼ「常識」ということばで置き換えられる。しかしこれではいかにも浅い。
 広辞苑第四版にはこうある。「たんなる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。」
 さすがに立派なものである。なるほど。「雑学」だの「豆ちしき」の集積ではないのだ。受験用のお勉強とも少し違う。それでクイズ王になれたり、ただちに東大に受かったりするものではない。
 もっと体系立っていて、より深く本質的なところで、それぞれの「世界観」や、さらにいうなら「人格」そのものにまで結びついている知見。それが本来の意味での「教養」だろう。
 だから例えば、「漱石は教養として読んどいたほうがいいよ」というばあい、「漱石くらいは読んでおかないと恥ずかしいよ」ではなく、ほんとうは、「君の世界観をより濃やかで奥深いものに練り上げるために、夏目漱石を読むことはきっと役に立つはずだよ」という含意が込められてなきゃだめなのだ。しかし、後のほうの意味で若い人たちにそんな助言ができる大人はどれくらいいるもんだろうか。それこそ「教養」の度合いが問われるところだ。
 いずれにしても、どうしたってプログラミング言語は「教養」とは呼べない。ただ、それじゃあやっぱり高校生には、そんな実用オンリーの技術ではなく、旧に復して、もっときちんと古文やら漢籍を教えよと主張するべきなんだろうか。なんだかそれも違う気がする。
 正直いって、ぼくみたいな本好きですら、10代のころに、教科書に載ってた古い文章が楽しくすらすらカラダに沁みこんできたわけではない。ましてやスマホ時代の今の学生たちにおいてをや。カラダに沁みこんでいかないようでは、「教養」にはならないんじゃないか。
 漱石もそうだが、文学にかぎらず、教養を身につけるうえで欠かせないのが「古典を読む」ことだ。近代政治学の始祖といわれる17世紀イギリスのホッブズ。日本では徳川幕府が盤石の封建体制を固めていった時期だが、先進国イギリスにおいては絶対王政が各層からの批判を受けて内乱によって倒され(ピューリタン革命)、そこで成立した共和制がすぐに行き詰まって王政復古~名誉革命を経て立憲君主制となる激動の時代であった(ただし名誉革命は1688=元禄1年、ホッブズは1679年に死去しているから、厳密にいえば名誉革命には立ち会っていないが)。
 自らもその激動に翻弄されながら生きたそのホッブズの主著「リヴァイアサン」(岩波文庫・全四冊)は、「万人は万人にとっての狼である。そんな《自然状態》の危うさは、各人が自己の権利を一人の主権者に譲り渡す社会契約によってのみ解消される。それが主権者としての国家である。ただし、国家と国家との間は《自然状態》にとどまり、それを超える存在はない。」と要約できる。
 それから3世紀近くの年月がすぎ、凄惨きわまる第二次大戦を経てようやく国連が形を整えたけれど、これが今なお「世界警察」と呼ぶに足るほどのものでないのは周知の事実だ。厳密には、いまも「国家と国家との間は《自然状態》にとどまり、それを超える存在はない。」
 今日はたまたま衆院選の投票日だけど、北朝鮮や中国、さらにはとうぜんアメリカとの関係性を踏まえたうえで、平和憲法について改めて思いを巡らせるとき、ホッブズの遺した思索はなまなましく我々のまえに迫(せ)り上がってくる。今も新しく、なまなましく、未来においても新しく、なまなましい。真の古典とはそういうものだ。
 しかし、そのホッブズにしても、ぼくがそれなりにあれこれ経験を積んでこの齢になったからこそ凄さがわかるわけであり、高校の「倫理社会」の授業で習ったときは、ただの古いガイジンのおやっさんであった。
 だいたいにおいて、人間ってものは、10代の時分にはまだ脳ができあがっていない。これは比喩的なことではなく、生物学的・医学的にみて、じっさいに脳がまだ完全ではないのである。発達途上なのだ。藤井聡太くんなんかを見ていると、人(個体)によってはかなりのところまでいけるもんだなあと感服するが、それでも総じていうならば、未成熟なのは間違いない。
 まして、このネット社会である。ぼくが小学生のころ、万博を機に「未来学」というのがかるく流行ったけれど、どんなSF作家も、未来学者(?)も、このような社会をクリアに予見できはしなかった(小松左京さんなどは、いま読み返すと、作品のなかでワールド・ワイド・ウェブに近いイメージを断片的に提示しているが)。
 放っていても「情報」(有益なものから有害なものまでひっくるめて)が洪水のごとく向こうから勝手にどばどば押し寄せてくるこの時代、若い人たちにとって、ひいては社会人たるわれわれにとっての「教養」とは、はたしていかなるものであるのか。
 よくわからないなりに、自分なりに考えてみようと思い、新しくカテゴリを立ち上げた次第であります。



気になる日本語① 「世界観」

2016-08-12 | 雑読日記(古典からSFまで)
 べつに偏屈を気取るわけではなくて、正味の話、オリンピックに興味がもてない。
 まあ、この国のうえには一憶数千万もの人がいるのであるからして、ぼくみたいなタイプも、まるっきりの異端ってほどでもないと思う。
 もともとふだんはテレビを見ないのだけれど、ニュースだの天気予報だの、必要に応じてスイッチを入れる。NHKなど、一日の大半が五輪中継である。
 それに文句をつけるつもりはない。これはそういう趣旨の文章ではない。四年にいちどのことであり、次期に東京を控えていることもあり、盛り上がるのも当然だろう。
 というか、もともとテレビを見ないのだから、文句をつける筋合いもない。
 書きたかったのは、表題のとおり、コトバのことだ。
 開会のすぐ後だったか、たまたま付けたら、「現地に入ってみると、やはりオリンピックの空気感には特別なものがありますねー」というようなことを、アナウンサーが述べていて、これが気になった。競技の結果は気にならぬのに、こんなことが気になるのである。
 「空気感」という言い回しはいつごろから出てきたのだろうか。少なくとも、ぼくの子供の頃(昭和五〇年代)なら、間違いなく「空気」で済ませていたところだ。
 「現地に入ってみると、やはりオリンピックの空気には特別なものがありますねー」
 これでとくに問題はあるまい。「空気感」とは、たぶん広辞苑の最新版にも載ってないだろうから、つまりは造語ということになる。ただ、もちろんこの発言者の造語ではなくて、広く行きわたっている造語だろう。ぼくだって、ほかで耳に(目に)した覚えはある。
 ところで、この発言をしたのはアナウンサーではなく、スポーツ解説者であったかもしれない。もうひとつ、「オリンピックの空気感」ではなく、「リオの空気感」だったかもしれない。なにしろパッと付けて、すぐに消してしまったから、そのへんがアイマイである。
 これはけっこう大事なことで、国営放送のアナウンサーならば、日本語の使い方について相応の訓練を積んでいるし、マニュアルも与えられているはずだ。個人的な言語感覚だけで軽々しく喋ったりはできない。あくまでも一般人たるスポーツ解説者とはその点が違う。つまり、もしあれが実際にアナウンサーの発言であったなら、「空気感」という造語は、いうならば、「NHK公認」のものだってことになる。
 ただ、「空気」ではなくわざわざ「空気感」と称する気持もわからなくはない。「空気」というのは、「都会の空気は汚れている」といった具合に、「大気」の意味でも使うからだ。「リオの空気には特別なものがある」という言い方では、「リオの空気は東京ほどは汚れてなくて快適だ」という意味に取られるかもしれない(まあ、じっさいにそう取る人はほとんどいないとは思うが)。
 「空気感」は、われわれの周りに客観的/物理的に存在している「空気」ではなく、「雰囲気」なり「ムード」、そして、それを感じ取るわれわれの「感覚」そのものを指し示している。そのぶんだけ、行き届いた、念入りな言い方だとはいえる。
 ただ、「念入り」と「冗漫」とは紙一重である。また、「空気」に「感」を付ける造語法そのものにいささか無理があるようにも思える。このあたりはそれこそ個々の言語感覚に委ねられるところで、難しい。
 「空気感」で思い出したのは、「世界観」という用語だ。「空気感」とは違って、「世界観」という熟語は昔からあり、その点において造語ではない。ただ、昨今の使われ方を見ていると、あきらかに、従来よりも拡張/深化された意味を担っている。
 調べれば淵源を絞れるのだろうが、今回の記事は雑談であって論考ではないので、このまま筆を進める(正確にいえば「このままキーボードを叩く」だが、それだとどうも有難味がないね……)。
 ぼくの感じだと、今日の意味での「世界観」は、どうやらアニメ由来の用法だろう。「宮崎駿の世界観」「細田守の世界観」「エヴァンゲリオンの世界観」といった類いだ。
 ひとりの(複数による共同作業のばあいもある)アーティストがつくりあげた作品の総体を指して、「世界」と称する用法は古くからあって、むろん今でもよく使われる。個展の際に「モネの世界」「いわさきちひろの世界」「藤城清治 影絵の世界」といったタイトルを付けるのはしぜんなことである。
 あらためて繰り返せば、このばあいの「世界」とは、「特定のアーティストがつくりあげた作品の総体」である。
 しかし、数が多けりゃいいってもんではなくて、「世界」と呼ばれるからには、それ相応の大きさ、深さ、複雑さを伴っていなければならない。だから大抵、「誰それの世界」という「誰それ」の所には巨匠の名前が入る。むろん画家とは限らない。「黒澤明の世界」「手塚治虫の世界」「大江健三郎の世界」「ビートルズの世界」。どれも成立可能だろう。
 例外として、必ずしも「巨匠」というわけではないが、他とは明らかに一線を画した、ワン・アンド・オンリーの表現者に対しても、「世界」という用語は似つかわしいだろう。今ぼくがぱっと思いつくのは谷山浩子だ。あの不思議なシンガーソングライターの生み出す独特な作品の総体を呼ぶには、「谷山浩子の世界」という言い回しのほかに考えられない。
 いずれにしても、この場合の「世界」とは、「つくられたもの」、すなわち生成物である。箱庭をイメージするのがもっとも適切だろうか。音楽だの映画だのは「箱庭」ほど明瞭な実体を伴わないにせよ、それが「生成物」であることに変わりはない。
 いっぽう、「世界観」は「生成物」ではない。「観」なのだから「モノの見方」である。
 「誰それの世界観」とは、「誰それのつくりあげた作品の総体」ではなく、「誰それによる世界の見方」なのである。
 同じようでもまったく違う。「世界」というのはこのばあい、誰かの作った箱庭ではなく、われわれが生きて生活しているこの世界そのもののことになる。むしろ、「社会」といったほうが正しいかもしれない。
 そのような意味での「世界」や「社会」が、われわれの主観を離れて客観的/物理的に「存在」しているかどうかというのは極めて哲学的な問題だけれど、話がややこしくなるのでそのことは置く。「世界」や「社会」は客観的/物理的に「存在」する。そう仮定して、さて、その「世界」なり「社会」を、誰それはどのように観て(捉えて)いるのか。
 「世界観」とはそういう含意だ。
 今ちょっとネットで調べたら、こんな定義が見つかった。
「世界およびその中で生きている人間に対して、人間のありかたという点からみた統一的な解釈、意義づけ。知的なものにとどまらず、情意的な評価が加わり、人生観よりも含むものが大きい。」
 けっこういい線いってるんじゃないか。つまり、「世界認識」と言い換えてもいいんだろうね。「誰それがつくった作品群」ではなく「誰それによる世界の見方(認識)」、それが「世界観」なのである。
 いまどきの「世界観」という言い回しに、ぼくはつねづね違和感を覚えているのだけれど、その最たる理由がこれだ。
 「宮崎駿の世界観」は、「宮崎駿による≪世界の見方≫」なのだ。これはまだいいとして、「エヴァンゲリオンの世界観」は「エヴァンゲリオンによる世界の≪見方≫」である。何のこっちゃ。あの乗り物なのか生物なのかも定かならざる巨体が、どのように「世界」を見ているかなんて、わしゃ知らんぞ。
 これはまあ、「作者たる庵野秀明が、≪エヴァンゲリオン≫という作品を介して≪世界≫を観て(捉えて/描いて)いるその方法」というふうに翻訳可能ではあるけれど、こうなるともう、「世界観」という熟語は、はっきりと誤用されているといっていい。
 もし仮に、「空気」を「空気感」と念入りに呼び変えるようなつもりで、従来の「世界」という用語を念入りに呼び変えたいならば、そこは「世界像」と呼ぶのが正しいはずだ。
 「宮崎駿の(創りあげた)世界像」。「細田守の(創りあげた)世界像」。「エヴァンゲリオン(という作品が表しているところ)の世界像」。
 これでなにか問題があるだろうか。
 もしくは、もっと明確に「作品世界」といったらいい。これならばまったく紛れはない。
 もちろん、「宮崎駿の世界観」「細田守の世界観」、そしてまた、「庵野秀明の世界観」という言い方が成立しないというのではない。「細田守は、あるいは庵野秀明は、ぼくたちの生きるこの現代社会を、どのように観て/捉えて/描いているのか?」という意味で、「世界観」という言い方を使うのはまったく正しい。
 たぶん、「世界観」という用語が今のような形で流通するようになった端緒は、そのように使われていたはずだ。
 ただ、あちこちで濫用されているうちに、本来なら「世界像」なり「作品世界」というべき際まで、「世界観」で賄われるようになり、そのまま定着してしまっている。
 あげくのはてに、近頃では、「尾崎世界観」とかいう芸名を名乗るひとまで出てきたらしい。なにがなんだかわからない。別にまあ、いいんだろうけどね。
 ともあれ、「世界観」の濫用および、「世界像」との混同は、現代日本語の用例として、ぼくがたいへん気になっていることのひとつである。
 これはたんに重箱の隅を突ついてるのではなくて、コトバの乱れ、ひいては言語感覚の乱れは思考の鈍化に直結し、それがまた、全体としては文化の衰退に繋がっていくので、自分としては書かずにいられないのであった。
 気になる日本語はほかにもたくさん目につくので、また機会があれば書いていきたい。

『一言芳談』のこと。

2016-06-25 | 雑読日記(古典からSFまで)
初出 2010年09月。のちに一部を加筆修正。

 『一言芳談』といえば、読んだことはなくとも、たいていの人は名前だけは聞いたことがあるんじゃないか。よく国語の教科書でみる小林秀雄の「無常という事」(昭17)で取り上げられているからだ(最近の教科書はかなりポップになってるらしいけど、小林秀雄の人気は衰えてないようだ)。取り上げられてるっていうよりも、この短いエッセイそのものが、『一言芳談』抄の中の、以下の簡潔な一文から生まれたものだといったほうがいいけれど。


 或云、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。その心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、この世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々。


「ある人が言った。比叡の神社で、偽って巫女のいでたちをした若い女房が、十禅師の御前において、夜がとっぷりと更け、人も寝静まってから、たぁーんたぁーんと鼓を打って、澄みわたった声音で、どうでもいいことでございますよねえ、そうでしょう、ねえねえ? と謡っていた。その気持を人から詰問されて答えたことには、生死無常のありさまを思えば、この世のことはどうでもよい、ただ後の世のことをお助け下さいと申し上げたのです、とのことであった。」


 あえて現代語訳すれば、こんな感じになるだろうか。ちなみに十禅師とは、「コトバンク」によれば、

[1] 〘名〙 昔、宮中の内道場に奉仕した一〇人の僧。知徳兼備の僧をえらんで任命した。内供奉(ないぐぶ)との兼職で、あわせて内供奉十禅師といわれた。
※続日本紀‐宝亀三年(772)三月丁亥「当時称為二十禅師一。其後有レ闕。択二清行者一補レ之」
[2] 日吉山王(ひえさんのう)七社権現の一つ。国常立尊(くにとこたちのみこと)を権現と見ていう称。瓊々杵尊(ににぎのみこと)から数えて第一〇の神に当たり、地蔵菩薩の垂迹(すいじゃく)とする。僧形あるいは童形の神とされた。現在は樹下神社と称し、祭神は鴨玉依姫和魂。
※梁塵秘抄(1179頃)二「神の家の小公達は、八幡の若宮、熊野の若王子子守御前、比叡には山王十禅師」


 ……となるが、ここでは[2]の意味である。現在の滋賀県大津市、日吉大社摂社樹下宮のことだ。ぼくはまだ行ったことはない。

 しかし考えてみると、このシチュエーションはかなり異様だ。女房とは、今みたいにそこいらの奥さんのことではなく、宮中に仕える女性をさす。そんな女性が、なんで夜中にそんな所でそのような真似をしてたんだろう? しかし小林秀雄はそこを追究するわけじゃなく、タイトルどおり、「無常」というテーマだけに的を絞る。今もなお信奉者の絶えない大批評家には違いないけれど、小林さんの文章はどれもみな、気障な文飾が論理の筋目を見えにくくしていて、昔からぼくは好きになれない。厳密にいえばあれは批評(分析)の文体ではなく、小説(レトリック)の文体だ。

 ともあれ、ここで小林秀雄が言いたいのは、「歴史とは、過去から未来に向けて単調に伸びた無味乾燥な年表のようなものじゃなく、われわれがそれを《思い出す》ことによって、いつだって生き生きと眼前に現れ出る現象の集積である。」ということらしい。それこそが「常なるもの」であり、これに相対するのが、「何を考えているのやら、何を言い出すのやら、しでかすのやら、自分のことにせよ他人事にせよ、わかったためしがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。」という「生きている人間」であり、これが「人間の置かれる一種の動物的状態」、すなわち「常ならぬもの」=「無常」であるというわけだ。このような小林一流の(プラトニズム的な?)考え方を、のちに坂口安吾は「教祖の文学」で痛烈に批判した。

 「現代人は、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである。」というのが、この名高いエッセイのラストの決め台詞である。つまり小林は、「なま女房」のことばを、「この世のことなど何ひとつ信用がおけないから、わたしは後の世に望みを託します(それこそが常なるものですから)。」という決然たる意志表示だと解釈しているわけだ。

 しかし、中路正恒さんの「玉依姫という思想」
 を読むと、この小林秀雄の読解自体が、いかにも「現代人」のものだなあと痛感させられる。本来は、もっと神秘的というか、呪術的ともいうべき深遠な含みがあったというのだ。

 あれあれ。『一言芳談』のことを書こうとして、えらく道草を食ってしまった。ここからが本題である。この印象的な短文が含まれている『一言芳談』とは、ちくま学芸文庫版の紹介によると、こうである。「ただよく念仏すべし。石に水をかくるやうなれども、申さば益あるなり……。十三世紀末から十四世紀半ばにかけて成立した仮名法語集。法然上人、明遍僧都、明禅法印など三十四人の念仏行者、遁世者が、ひたすら往生を求めて語りかける。浄土門の信仰が平易なことばで綴られた文言集。」

 つまり、鎌倉から室町にかけての、「他力」を旨とする念仏者たちの箴言やら寸話を集めた法話集といえばいいのか。この本が有名なのは、小林秀雄の功績のほかに、『徒然草』の吉田兼好が心を寄せていたとされるからだ。小林自身が、例の「なま女房」のエピソードをさして、「この文を徒然草のうちに置いても少しも遜色はない。」と言っている(裏返せば、『一言芳談』の中の他の文章は、『徒然草』に比べると数段落ちるといっているわけだが)。

 このあたりのことは、上田三四二の『徒然草を読む』(講談社学術文庫)の「六 補遺」に詳しい。上田さんによれば、兼好は『一言芳談』に対して絶妙な批評的距離を置いている(まあ、すべてに対して絶妙な批評的距離を置くのが吉田兼好というエッセイストの魅力なんだけど)。第九十八段のなかで兼好は、「尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談とかや名づけたる草子を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども」と述べて五つの項目を挙げ、残りは、「この外もありし事ども、覚えず。」と切り捨てている。

 「ああそうか。この五つ以外は忘れちゃったのか。」と通り過ぎるのは高校生の読みであって、ここで兼好が、『一言芳談』のエッセンスとして、自分はこの五項目を採る、あとは認めない、とやんわりと表明しているのを見抜かなければいけない。そして、それら五つの項目とは、「仏の道を願うとは、とりたてて特別のことではなく、暇のある身となって、世間のことを気にかけない。」という心構えと、あとは「自分にまつわるすべてのものを捨てること、持たぬこと、執着せぬこと。」との覚悟に尽きる。

 すべてをうち捨てたうえで、なお不足をかこつことなく、憂いもなしに徒然に生きる。これぞすなわち隠遁者のライフスタイルにほかならず、兼好はふかく共感した。しかしそれ以外の部分となると、概して『一言芳談』はあまりに現世を厭い、生を疎んじすぎている。そりゃあ濁世を逃れて極楽浄土に救いを求めるのが浄土思想の根幹だとはいえ、とことんそこに偏したら、やっぱりそれは、思想としては奇怪な様相を呈することになろう。

 「法然は言うに及ばず、(……)重源の事蹟ひとつをとってみても、彼が東大寺の勧進と別所経営のために発揮した情熱と才幹は、この《捨聖》のけっして《死聖》に終わるものでなかった事情を明らかにしている。」と但し書きを付けたうえで、上田三四二はいう。「『一言芳談』の生が死を待って寝そべっているとすれば、『徒然草』の生は、死ちかきがゆえに覚醒せよと言う。両者の見つけたところが同じ隠遁の境涯だったとしても、その意識のあり方は大変ちがったものだといわねばならない。」……つまり、兼好はここに言行を留める念仏僧たちよりも遥かにしたたかなのだというわけである。

 『徒然草』の岩波文庫版は、昭和3年に出ていらい改訂されて版を重ね続けているが、『一言芳談』のほうは、小林秀雄が読んだであろう岩波文庫版も、そのずっと後、平成10年に出版された小西甚一校注のちくま学芸文庫版も、長らく品切れのままとなっている。おそらく、その理由のひとつはここのところにあるんだろう。そういえばぼくも昔、書店の店頭でぱらぱらと見て、かなり迷ったが結局買いはしなかった。これも同じ理由からである。だけど今は、ちょっと後悔しています。


追記)そのご、古書にて岩波文庫版を入手。思いのほかの名著であった。



スティング「シェイプ・オブ・マイ・ハート」(STING  The Shape of My Heart)和訳

2016-06-18 | 雑読日記(古典からSFまで)





 ずいぶん前に劇場でみた映画『レオン』の主題曲。ふいに聴きたくなってYOU TUBEを探したら、あった。こういうのはほんとにありがたいなァ……。ナタリー・ポートマンは今や世界を代表する美女となった。ジャン・レノは今やドラえもんになった。サイコっぽいブチ切れ演技をみんながやるようになったのは、この映画のゲイリー・オールドマンからだと思う。いろいろな点で記憶に残る作品だ。

 スティングという歌手については、名前はもちろん頻繁に耳にしてきたけれど、じつはそんなに詳しくない。ただ、「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」やこの曲を聴くかぎりでは、都会の底に生きるオトコの孤独を巧みに歌うシンガーと見た。ポーカーで飯を喰っているプロの賭博師(じっさいにそんな人がいるのかどうかは分からぬが)を歌ったこの詞は、ジャン・レノの演じた孤高の殺し屋とも重なるし、もっと普遍的に、日々のキビしい生存競争にさらされるオトコたち一般のことだとも取れる。

 今回はじめて英語の歌詞をじっくり読んで、あんまりカッコよかったので自己流の訳をつけてしまった。こういうの、著作権はどうなるんだろう。もし問題があるならすぐに削除するので、もし関係者の方がおられたら、怒る前にご面倒でもコメント欄にご一報ください。



 さながら瞑想するように、彼はカードを捌く。

 心を乱すことはない。

 カネのためにやっているのではない。

 敬意がほしいわけでもない。

 ただ答を見つけるためだ。

 チャンスという聖なる幾何学

 起こりうる結果の奥に隠された法

 数字だけがそれを導く。



 わかってる。スペードは兵士が手にする剣。

 クラブは戦いのための棍棒。

 ダイヤはこのゲームのもたらすカネだ。

 だがハートは、おれのハートの形とは違う。



 彼はダイヤのジャックを切ることもできる。

 スペードのクイーンを仕掛けることもできる。

 手の内にキングを隠すこともできる。

 やがてあの想い出は薄らいでいく。



 わかってる。スペードは兵士が手にする剣。

 クラブは戦いのための棍棒。

 ダイヤはこのゲームのもたらすカネだ。

 だがハートは、おれのハートの形とは違う。

 おれのハートはこんなじゃない。



 もし愛してるなんて口にしたら

 「どうかしてる」って言われるだろう。

 おれには多くの顔はない。

 かぶる仮面は一枚きりだ。

 喋りたてるのは無知な奴らで、

 無知の報いをその身に受ける。

 ツキのなさを呪う奴、怖れに自分を失う奴、

 そんな連中はどこにでもいる。



 わかっている。スペードは兵士が手にする剣。

 クラブは戦いのための棍棒。

 ダイヤはこのゲームのもたらすカネだ。

 だがハートは、おれのハートの形とは違う。

 おれのハートはこんなじゃない。

 おれの心はこの器では量れない。