ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

文学とは。

2019-12-12 | 純文学って何?
 文学とは、個たる人間の根源においてその社会・世界・宇宙とのつながりを全体的に把握しながら、人間であることの意味を認識してゆこうとする言葉の作業である。


 岩波書店『ゲド戦記』第1巻「影との戦い」のあとがきで、訳者の清水真砂子が書いている言葉。清水さんはこの一文に続いて「……といわれます。」と、あたかも引用のように記してらっしゃるけれど、とくに出典があるわけではないようだ。ご自身がふだんの読書と思索から導き出されたもので、この方のオリジナルといっていいと思う。
 見事な定義だが、「社会」のまえにまず身近にいる個々の相手とのつながりが生じるはずだし、「全体的」だけだと何だか『戦争と平和』クラスの大長編を思い浮かべてしまう。梶井基次郎のあの散文詩みたいな美しい掌編なんかが零れてしまう気もする。
 こうしてみたらどうだろう。


 文学とは、個たる人間の根源において、他者および社会・世界・宇宙とのつながりを、全体的に、かつミクロ的にも把握しながら、人間であることの意味を認識してゆこうとする言葉の作業である。




☆☆☆☆


 ガルシア=マルケスと並び称されるラテンアメリカ文学の大物で、ノーベル賞も取ったバルガス・リョサさんの文章で、こんなのもあった。


 小説を書くということは、現実に対する、神に対する、神が創造された現実に対する、叛逆行為に他ならない。それは真の現実を修正、変更、あるいは廃棄することであり、それに変えて小説家が創造した虚構の現実をそこに置こうとする試みに他ならない。小説家とは異議申し立て者であり、あるがままの(もしくは彼ないし彼女がそうだと信じる)生と現実を受け入れ難いと考えるが故に、架空の生と言葉による世界を創造するのである。人がなぜ小説を書くのかといえば、それは自分の生に満足できないからである。小説とは一作、一作が秘めやかな神殺し、現実を象徴的なかたちで暗殺する行為に他ならない。






 何しろ言ってる当人が超弩級の作家なんだから、たんなる現実逃避とか、願望充足のための手慰みみたいなことではない。ラストの一行がおそろしく利いている。仮にもキリスト教圏のひとが「神殺し」なんてセリフを口走るのは、よっぽどの覚悟がある時だけなのだ。







どうせ読まないだろうな、と思いつつも若い世代にかなり本気で勧めたい純文学のこと。ほか。

2019-05-27 | 純文学って何?
 元はといえば「なんで純文学はこんなに読まれないんだろう😢」という切実なギモンを抱いて、大塚英志さんはじめ「物語」にかんする論考を読んだり、エンタメ小説を読みはじめたところ、これがむやみに面白くて、どんどん深入りしていった。それも、ケン・フォレットあたりに夢中になってるうちはまだよかったんだけど、
「いや、現代における真の《物語》とはエンタメ小説でもなればラノベでもない。つまり活字媒体ではない。むしろマンガやアニメこそが、現代社会の物語と……否、《神話》と呼ぶべきだ!」
 なんて逆上せあがってしまったもんで、気がつけばアニメ関連のカテゴリのほうが多くなり、ネット上から拝借した画像を貼りまくったりして、すっかりカラフルでポップなブログになってしまった。
 それはそれでまあ、かまわないんだけど、ふと我に返ってみると、「あれれ……?」という気分もある。
 たしかに今や自分の中の「純文学信仰」はかなり薄れてしまったが、むろん、「純文学など無用」「純文芸誌は出版社にとっての不良債権」「芥川賞なんて文芸春秋社のための単なるイベント。やめちまえ」とまで考えているわけではない。良質の純文学は、いつの時代にも、どんな社会にも必要だ……と思ってはいるが、とりわけ若い世代に幅広く純文学が読まれるような世の中は、よほどのことがないかぎり、もう二度とこない気がする。
 それでも、『火花』が芥川賞をもらえばベストセラーにはなる。ただのミーハー気分(死語?)もあろうが、「純文学ってなんかムツカシそうだけど、どんなんだろう? この機会にちょっと見てみたいな」という知的好奇心も少しは与っているはずだ。
 アマゾンを見ると、『火花』の文春文庫版には現時点において1500件弱のレビューが付いていたが、ふだん純文学を、というかおそらく小説自体をあまり読まないそんな若い人たちの赤裸々な意見がみられる。
 「くだらなすぎて呆れた。小説というものは、もっときちんと勉強をした、高い品性の持ち主が書くべきだ。」
 などという率直な感想もあって、おもしろい。じゃあ町田康や村上龍の受賞作はどうなるんだろう……とも思うが、これはもう、ノースロップ・フライというカナダの優秀な文芸批評家が述べているとおり、「時代が進めば進むほど、小説の主人公はますます卑小になっていく。」のだから、しょうがない。
 小市民的になるのだ。それこそ「物語≒英雄譚≒神話」から遠ざかっていくわけである。
 もし仮に、自分の身近にまじめで優秀な高校生がいて、
「ちゃんとした文学ってものを読みたいんだけど、何がいいですか」
 と訊かれたら、


 『三四郎』夏目漱石 新潮文庫ほか
 『若き日の詩人たちの肖像』堀田善衞 集英社文庫
 『迷路』野上弥生子 岩波文庫
 『野火』大岡昇平 新潮文庫
 『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫
 『豊饒の海』三島由紀夫 新潮文庫
 『流れる』幸田文 新潮文庫
 『芽むしり 仔撃ち』大江健三郎 新潮文庫


 あたりを挙げるだろう。社会や歴史の実相を学ぶ上での勉強になる、ということもあるけれど、これらの作品には、登場人物の「内面」「省察」「思想」がしっかり叙されているからだ。
 W村上よりも上の世代ばかりだが、やはり龍さんが華々しくデビューした1970年代半ば(昭和だとちょうど50年代)から、ニホンにおいては「小説の主人公がますます卑小になっていく」勢いが加速し、主人公たちからは内面や省察や思想がなくなって、薄っぺらになった。
 『限りなく透明に近いブルー』のリュウなんて、卑小どころか犯罪者である。麻薬及び向精神薬取締法違反。あと暴行罪も成立するか。
 ついでだから書いておくけれど、あの中にはヘロイン、モルヒネをはじめ「総ざらえ」といいたいくらいに各種の麻薬が出てくるが、違法薬物は、どんなことがあろうと絶対、絶対、やってはいけない。いけません。
 文学史には「薬物系」という流れがあり、20世紀にはバロウズという怪物的な人も出たけれど、それはそれ、これはこれで、「虚構」と「現実」とは厳正に弁別されねばならない。
 あと、村上龍という作家はその後、起業家などとの交流を広げ、作品をどんどん分厚く、大きくしていったわけだけど、それもまた別の話だ。
 話を戻そう。「小説の主人公がますます卑小になっていく」ことは、社会学のレベルでいえば、「モダン(近代)の終焉」「知識人の解体」と軌を一にしている。
 「目指すべき理想の社会(未来)」とか、それに伴う「目指すべき理想の人格」ってものが霧消してしまった、なくなっちゃった、ということだ。
 だから「内面」もなければ「省察」も「思想」もない。必要ない。むしろ邪魔かもしれない。
 いまは「なんでもいいからカネをいっぱい儲けた奴が勝ち」という社会で、それはまあ、世の中なんていつの時代でも、どこの地域でも蓋を開けてみりゃそうなんだけど、ただ、それでも昔はどこかに遠慮というか恥じらいがあって、ここまで露骨に、傍若無人にオモテに出すことは慎んだもんである。
 マイケル・ルイスの『世紀の空売り』(映画『マネー・ショート』の原作。文春文庫)は面白くてタメになる一冊で、ほんとうに優秀な高校生ならば、上に挙げた「純文学」より先にこちらを読むべきなのかもしれないが、この解説を藤沢数希さんが書いている。
 文庫版が出たのは2013年で、「解説者略歴」には、「ツイッターのフォロワー7万人超」とある。
 その続編の『ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる』も14年に文庫になっており、そこでの解説者略歴だと、「ツイッターのフォロワーは9万人」である。
 いま2019年現在、フォロワーは16万人半ばである。ツイッターのことはよく知らぬが、テレビにしょっちゅう顔を出すタレントでもないのにこの数は、かなり多いほうだろう。
 なぜそんなに読まれてるかは、じっさいにツイッターをみれば瞭然だ。
 5月25日時点だと、こんな具合である(時系列順に編集)。



みんなが思い描くキラキラのホワイトカラーって、有名大学の平均的な学生の卒論ぐらいのワークを会食とかがポンポン入ったりする環境で、毎週涼しい顔してやってくぐらいの情報処理量とアウトプットなんよ。マジで。こんな仕事みんなが目指すべきものなんかな、という気がする。


年収が高いキラキラのホワイトカラーって、まあ、有名大学の平均的な学生の2倍とか3倍ではなく、10倍オーダーの知的生産性で、はじめて平社員みたいな感じなんよね。これが。


日本でも有名大学のトップ1%ぐらいの学生の知的生産性は、同じ大学の平均的な学生の知的生産性の20~30倍ぐらいはあるな。


それで、なぜこうなってるかというと、何か意味のあるアウトプットをすることを、たとえばボールを壁の向こうに投げるゲームに例えると、その壁の高さがちょうどトップ1%ぐらいの人が必死で投げるとたまに超えるぐらいになってるんよ。平均的な人だと1000回投げても1つも壁を超えないのよ。


僕がサラリーマン時代に嫌だったことのひとつは複数の仕事を同時にやらないといけないことだった。研究者気質だったんでひとつの仕事に集中して片付けて次に行くほうが効率いいだろう、とずっと思っていた。しかし自営業になって誰からも指図されなくなってからも常に2つ3つの仕事を同時にやってる。


世界は自分を中心に回っていないので仕事は自分が一つずつ集中できるようにタイミングを合わせてやってきてくれない。で、サラリーマン時代に培った、マルチタスクでも質を落とさずやっていくスキルは、大変に役に立っている。


最近は親も学校の先生も会社の上司も厳しいことを言わなくなった。結果、多くの若者は、何も言われないまま、次の声がかからない、という穏当な方法でビジネス社会から見限られ、底辺に落ちていき、そこで暮らしていくことになる。




 おもしろい。
 これは藤沢さんではなく、「藤沢さんのようなタイプの人たち」として、あくまでも一般論としていうのだが、このような方々は端的にいって「成功者」であり、いまを存分に謳歌している。もし仮に安倍内閣がとんでもない失政をして、日本の国益を損なったとする。おおかたの大衆はまるで気づかず、一部の聡い人たちだけが気づく。もちろん「成功者」たちは「聡い人たち」でもあるから即座に気づく。
 ただ、こういう方々は気がつきはしても批判などしない。するはずもない。批判などしても一文の得にもならず、むしろ損になるからだが、もっと大きな理由がある。
 それは「ビジネスチャンス」に他ならないからだ。日本の国益が損なわれるということは、そのぶん誰かが儲けるということである。であれば、何食わぬ顔でその「儲ける人たち」の中に加わればよい。それで今回のゲームの勝者になれる。
 それでこの国の将来がめちゃくちゃになったら? もちろん、そんなことは構いやしない。潤沢な資金を蓄えて、海外の住みよい国へ移住すればいいだけのことだ。
 念のため繰り返すが、これは特定の方をさして述べているのではなく、いまどきの「成功者」たちの心性ってものを、ぼくが勝手に邪推して書いてるだけなので誤解なきよう。
 『世紀の空売り』『ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる』を読んでから、藤沢さんの一連のツイッターを拝見してたら、そんな妄想というか、邪念のようなものが黒雲のごとく脳裏にわきあがってきた。失礼の段はご容赦ください。
 ただ、ひとつだけかなりの確実性をもっていえるのは、藤沢さんも、その16万人超のフォロワーの方々も、きっと『若き日の詩人たちの肖像』も『迷路』も『野火』も読んでおられぬだろうな、ということだ。
 むろん、やっかみ半分でいうのだが、少なくともその点に関しては、ぼくはそんな人生はイヤである。














新装版『限りなく透明に近いブルー』を読む。

2019-02-02 | 純文学って何?

 『限りなく透明に近いブルー』を再読する。再読というか、20代このかた限りなく読み返しているので正確には何度めか判然せぬが。ただし今回は2009年に出た新装版。解説が三浦雅士(なぜか名義は今井裕康だったが)から綿矢りさになり、「年譜」が割愛され、表紙がかわっている。



旧版の表紙。単行本とほぼ同じ。武蔵野美大中退の龍さんが自ら描いた。あとがきによると、リリーをモデルにしたものらしいが、お世辞にもうまいとは言い難い。そもそもあの「あとがき」自体がフェイクなわけだが、刊行から50年近くが過ぎた今もなお、純朴な青少年たちがころころと転がされてるようだ



この表紙の版もある。これも龍さん自身が監督した映画版のワンシーンから取ったもの。ぼくが17のとき買ってずっと手元に置いてたのはこの版だ





これが新装版。べつに限りなく透明に近くはない。ただのブルーである





 龍さんの自筆になる年譜はなかなか面白かったんで、これがなくなったのは惜しいが、総じていえば、一冊の本としてはずっと良くなった。何よりも字体がいい。むかしの講談社文庫は活字がわるかった。小さいし、組み方もまずく、堅苦しい。
 べつの小説に生まれ変わったようにさえ映る。
 いい小説だ。純文学のことしかアタマになかった頃とは違い、マンガやアニメを見まくって、「物語」についてあれこれと思いめぐらせた今なればこそ、この小説の良さがわかる。ひとことでいって、面白いのである。
 1976(昭和51)年に発表され(て一世を風靡し)た『限りなく透明に近いブルー』は、中上健次の短編「灰色のコカコーラ」を先行作品としてもつ。「灰色のコカコーラ」とは、クスリ(錠剤)を溶かして変な色になったコカコーラのことだ。この短編は集英社文庫『鳩どもの家』に収録されていて、その解説を龍さんが書いてるのだが、「ブルー」が今もなお熱く読み継がれてるのに対し、『鳩どもの家』はとっくの昔に絶版である。面白くないからだ。
(とはいえ佐藤友哉さんに『灰色のダイエットコカコーラ』なるオマージュ作があり、こちらは今も新刊で売っている。)
 「灰色」と「ブルー」とを読み比べれば、村上龍という作家が、デビュー当初から「いかに書けば読み手を面白がらせることができるか」にとても気を使ってたのがわかる。
 田舎から上京してフーテンをやってる若者の生態って点では同じだけど、ブルーが横田基地周辺に材をとり、セックス&ドラッグ&ロケンロール&黒人兵(政治的に正しくいえば「アフリカ系アメリカ人兵士」)たちとの乱交パーティー。なんて美味しいネタをこってり詰め込んできてるのに対し、灰色のほうは、新宿のジャズ喫茶で政治くずれや文学かぶれがうだうだクダを巻いてるだけ。BGMもジャズである。ンなもん、面白くなるわきゃない。
 戦後生まれ初の芥川賞作家・中上健次は、6歳下の村上龍の登場により、「これではとても敵わんぞ」となって、紀州の「路地」に作品のトポス(根拠地)を移した。そんな見方もできるはずだ。
 じっさい、東京を舞台にした中上作品はろくでもなくて、『讃歌』(文春文庫版は絶版で、いまは電子書籍化されている)もほとほと詰まらない。
 ただ、ひとたび紀州をトポスに据えれば話は別だ。若き日の健次VS龍の対談集『俺たちの船は、動かぬ霧の中を、纜を解いて』(角川文庫版のタイトルは『ジャズと爆弾』)の巻末に、龍さんの「部屋」と中上さんの「神坐」、ふたつの短編がおまけみたいに付いてるのだが、ここは紀州の神事を題材とした「神坐」の圧勝である。並べてみると「部屋」のペラさが際立って、晒しものにすらみえる。
 しかし、いまの若い子が予備知識なしに読んでどっちを面白がるかっていうと、やっぱ「部屋」のほうかもなって気もする。ペラいってのは、ある面、おシャレってことでもあるのだ。
 『限りなく透明に近いブルー』も、一見すると、どろどろ、ぐちゃぐちゃ、もう腐った泥沼に喉元あたりまでどっぷりですわー、みたいな小説だが、「文学」としてみるならば、きらびやかで、おシャレである。
 「汚辱の果ての生」をくるっと「美」に転じてしまうのが、「文学」ってもののもつ力のひとつなんである(ろくでもない力であり、このために有為な若者に道を誤らせたりもするのだが)。
 そもそも頽廃とか、倦怠とか、それを具現化した「腐敗」やら「廃墟」みたいなものを「美しい」とみる感性を打ち立てたのはボードレール(1821~1867)だった。フランスの詩人、批評家。
 文政4~慶応3だから、日本でいえばまさに幕末だ。
 「近代の美意識をつくった」といってもいいくらいの人で、詩集『惡の華』は入手しやすいものだけで4種類の邦訳がある。直接の関係はないが、同タイトルの漫画(アニメ化もされた)もある。
 散文詩集『巴里の憂鬱』もすばらしい。批評家としても目利きで、美術評論、音楽評論に健筆をふるった。
 このボードレールの系譜のうえに、ロートレアモン(1846~1870)がいて、ジャン・ジュネ(1910~1986)がいて、バタイユ(1897~1962)がいる。みなフランスの物書きだけど、澁澤龍彦や栗田勇や生田耕作といった人たちの手になる良い邦訳があって、60年代から70年代前半の「政治の季節」には熱狂的に読まれた。ことさら文学青年ってわけじゃなくても、ちょっと尖った若者ならば、「読んでなきゃ恥」ってくらいのモンだった。
 『限りなく透明に近いブルー』もまた、もちろん、直近の中上健次以上に、それらフランス作家(の翻訳)の影響下にある。
 だから「ブルー」を論じるにあたり、まっさきにバタイユやジュネの名が出てこないってことがおかしい。小林秀雄のせいかどうかは知らぬが、どうも、この国の文芸批評はおかしいのである。
 講談社文庫の解説をやってる綿矢りさも書いてない。今の若い子はジュネだバタイユだっつってもピンとこんだろうから、そこは言わなきゃわからんじゃないか。そういうことを前提として確立せんから、「リリーのモデルって誰なんですかー」とか「あのカンブリア宮殿の村上とかいうおっさん、あ、ハルキじゃないほうな、あれって昔、横田基地の傍ですげえことやってたんだぜ」とか、そんな中2レベルの話が、そこらに蔓延しちゃうのだ。
 しかしまあ、それは1984年生まれの綿矢さんのせいだけじゃなく、前の版で解説をやってた1946年生まれの三浦雅士さんも書いてなかった。この小説が大騒ぎになった1976年この方、バタイユ、ジュネの係累として村上龍をきちんと論じたエッセイをぼくは読んだことがない。
 『ジャズと爆弾』のなかで、中上健次はもちろん、そのことにちゃんと言及していたが、それだけでもう、「はい。この件はOKね」みたいに済まされている。おかしい。
 「ブルー」に書かれたもろもろが、どこまで若き村上龍之助(本名)の体験で、どこからが虚構か、そこを解析するのは難しい。だけど、ひとつ間違いなくいえるのは、作家ってものは、自分の体験だけをたよりに作品を書くことなんてありえないってことだ。夏休みの絵日記じゃないんだからね。
 どんな小説にも必ず「先行作品」はある。ジュネ、バタイユ、さらにはロートレアモン、ボードレールを念頭に置かずに『限りなく透明に近いブルー』を読むことは、そりゃあまあ、「何をどう読もうが個人の好き好き」って点では好き好きには違いないけども、「もったいない話だぞ。」とはいえる。
 さて。『限りなく透明に近いブルー』、旧版と新装版との違いがもうひとつあった。文庫カバー裏の(編集者が付けた)コピーだ。

「福生の米軍基地に近い原色の街。いわゆるハウスを舞台に、日常的にくり返される麻薬とセックスの宴。陶酔を求めてうごめく若者、黒人、女たちの、もろくて哀しいきずな。スキャンダラスにみえる青春の、奥にひそむ深い亀裂を醒めた感性と詩的イメージとでみごとに描く鮮烈な文学。群像新人賞、芥川賞受賞。」
 これが旧版。

「米軍基地の街・福生のハウスには、音楽に彩られながらドラッグとセックスと嬌声が満ちている。そんな退廃の日々の向こうには、空虚さを超えた希望がきらめく——。著者の原点であり、発表以来ベストセラーとして読み継がれてきた、永遠の文学の金字塔が新装版に! <群像新人賞、芥川賞受賞のデビュー作>」
 これが新装版。

 旧版のだってべつに悪くはないと思うが、「黒人」だの「女たち」だのといった表記が今日の人権感覚では耳ざわりなのか。しかし「もろくて哀しいきずな」とか「スキャンダラスにみえる青春の、奥にひそむ深い亀裂を醒めた感性と詩的イメージとで……」といったあたりは的確だった。
 新装版のほう、「ロック」と書きゃあいいのになんで「音楽」なんだ?と思ったが、いちおうジャズも出てくるからかな。妙に律儀である。そんなことより注目すべきは、「退廃の日々の向こうには、空虚さを超えた希望がきらめく」だろう。
 希望。これは旧版のほうにはなかった一語だ。ラストパート、リュウが「夜明けの空気に染ま」ったガラスの欠片に見る「限りなく透明に近いブルー」に「希望」の兆しを読み取っているわけだ。このくだりを導いたのは綿矢りさの「解説」だろう。綿矢さんは「救い」と書いてるけど、このばあいはほぼ同じとみていい。
 綿矢りさの文章は「自分語り」をからめて生々しくてリアルで、じかに身体に響いてくる。旧版解説の今井裕康(三浦雅士)さんが「村上龍が、まさにその文体その方法において、現代というこの奇怪な生き物の核心に迫ったことは明らかだろう。」なんて高みから述べているのと対照的だ。作家と評論家との違いといえる。
 ラス前のパート、リュウは重度のパニック障害みたいな按配となり、さしもの寛大なリリーにまで逃げ出されてしまうのだが、綿矢さんはその理由を、「彼もまた傷ついている。すべてを見尽くしたあと、彼は狂ったように苦しむ。」と書く。
 さらにそれを敷衍して、「ひどい私刑が起こっても、女友達が暴力を振るわれてもリュウは見てるだけ、助けもしない。でも彼は実際は赤ん坊ではなく目の前で起こっていることを理解しているから、無言のうちに目の前の光景を身体のなかに通し、その度に傷ついている。電子レンジの光を浴びているみたいに、表面的にはなんの変化が無くても中から熱くなり破裂する。」と続ける。
 臨界点を超えた、という感じであろうか。
 そのあげくに例の「大きな黒い鳥」を視てしまうわけである。
 この解釈は、ぼくがこの小説を初めて読んだ17の頃からずっと思い込んでたのよりも深くて、さすがだと思った。
 ぼくはたんに、「仲間たちとの蜜月が終わって寂しかったせいだろう」と思っていたのだ。それも間違いではないが、リュウが「見る」という行為にあそこまで拘っているのを鑑みれば、そりゃあ綿矢さんの読みのほうが深い。
 136ページ、ケイとヨシヤマ、レイ子とオキナワ、モコ、カズオ(この2人だけはカップルではない)たちが、「みんな帰っていっ」て、リュウは独りになる。
 ちなみに、この中で、それぞれの母親と父親について繰り返し言及されるのはケイとヨシヤマだけである。2人は作中に現れた時からもうギクシャクしているが、そのきっかけとなったのもヨシヤマの母の葬儀(にケイが参列させて貰えなかったこと)だった。
 レイ子とオキナワは、当時まだアメリカ領だった沖縄県の出身で、それにまつわる挿話もいくつか出てくる。
 ケイとレイ子は日本人の母とアメリカ人の父をもつが、モコはちがう。のみならず、どうやら中産家庭の子女のようだ。リュウ自身およびモコ、カズオの3人は、そんなに逼迫した出自にはみえない。
(リュウがどうやって生計を立てているのかは、じつはよくわからない。巧妙にぼかされている。リリーに養って貰っているわけでもなさそうなので、たぶん親からの仕送りに頼っているのだろう。そう考えると少し笑ってしまう。)
 そういった各々のキャラが、むろん事細かにではないが、ちゃんと描き分けられている。
 内容のどぎつさや、全編を彩る詩的イメージや、基地問題(日米関係)といった要素に紛れてなおざりにされてきたけれど、『限りなく透明に近いブルー』はきっちりそういった人物造形をやってる小説であり、のちの「純文学系・物語作家(エンターテイナー)」村上龍は、デビュー当初からその片鱗をみせていたのである。
 ともあれ、あそこまで無軌道な暮らしが何年も続くわきゃないので、破綻するのは時間の問題だったんだけど、ケイとの大喧嘩(というか一方的なDV)のあと、ヨシヤマは自殺を図り、入院し、一命は取り留めて戻ってきたものの、ここで7人の関係は修復不能の域に達したといえる。
 でたらめなりに一定の親密さを保っていた空気は、どうしようもなく冷めていき、険悪さすら帯びる。
 そして「みんな帰っていっ」て、独りになったリュウはリリーの部屋を訪れる。優しいリリーはいつものように迎え入れてくれるが、リュウがあまりにも異常な態度をとるもんで、怖くなって逃げ出してしまう。
 「血を縁に残した(リュウ自身の血である)」ガラスの破片に、「夜明けの空気に染ま」った「限りなく透明に近いブルー」をリュウが見るのは、リリーを失い、ふらふらと外に彷徨い出て、「病院の庭」の草のうえまで辿り着いたあとだ。
 それを「救いの色」と綿矢りさはいい、文庫裏のコピーもその意を汲んで「希望がきらめく」とうたった。2009年の新装版・解説において綿矢さんがそう書き記すまで、「限りなく透明に近いブルー」が「救いの色」「きらめく希望」だと明言した批評はなかった。これも奇妙な話である。奇妙な話である、と私は思う。
 かつて中上健次は、つねに路上に屯する「フーテン」こそが、家の中やクルマの中に居てはわからぬ「微細な色調の変化」を感じ取ることができるんだよな、とこのくだりを評したものだ。
 しかしもちろん、「救い」といい「希望」とはいっても、それは一瞬のできごとにすぎない。まるで錯覚か、一時の気の迷いとしか思えぬほどに。
 「空の端が明るく濁り、ガラスの破片はすぐに曇ってしま」うのである。
 とはいえ、「僕は地面にしゃがみ、鳥を待った。」と書かれる「鳥」はもう、あの「大きな黒い鳥」ではない。いずれ暖かい日の下で、「長く伸びた僕の影」に(腐れたパイナップルの切れ端もろとも)包まれるていどの、「灰色の」鳥なのだ。
 青春の一局面の終わりと共に、リュウは、襲来してくる得体のしれない巨大な不安を、ひとまずは「対象化」できたのだった。


☆☆☆☆☆☆☆
参考資料

サイト「芥川賞のすべて・のようなもの」より、当時の芥川龍之介賞選考委員の選評を引用。

吉行淳之介(当時52歳)
「この数年のこの賞の候補作の中で、その資質は群を抜いており、一方作品が中途半端な評価しかできないので、困った。」「どこを切っても同じ味がする上にやたら長く、半ばごろの「自分の中の都市」という理窟のような部分に行き当って、一たん読むのをやめた。」「作品の退屈さには目をつむって、抜群の資質に票を投じた。この人の今後のマスコミとのかかわり合いを考えると不安になって、「因果なことに才能がある」とおもうが、そこをなんとか切り抜けてもらいたい。」

丹羽文雄(当時71歳)
「芥川賞の銓衡委員をつとめるようになって三十七回目になるが、これほどとらまえどころのない小説にめぐりあったことはなかった。それでいてこの小説の魅力を強烈に感じた。」「若々しくて、さばさばとしていて、やさしくて、いくらかもろい感じのするのも、この作者生得の抒情性のせいであろう。」「二十代の若さでなければ書けない小説である。」

中村光夫(当時65歳)
「他の六篇とはっきり異質の作品」「技巧的な出来栄えから見れば、他の候補作の大部分に劣るといってもよいのですが、その底に、本人にも手に負えぬ才能の汎濫が感じられ、この卑陋な素材の小説に、ほとんど爽かな読後感をあたえます。」「無意識の独創は新人の魅力であり、それに脱帽するのが選者の礼儀でしょう。」

井上靖(当時69歳)
「私は(引用者中略)推した。芥川賞の銓衡に於て、作者の資質というものを感じさせられる久々の作品だったと思う。」「所々に顔を出す幼さも、古さも、甘さも、この作品ではよく働いていて、全篇をうっすらと哀しみのようなものが流れているのもいい。」「題材が題材だけに、当然肯定もあり、否定もあると思う。肯定と否定とを計りにかけ、その上でどちらかに決めさせられるような作品である。そういう点も、この作品の持つよさとすべきであろう。」

永井龍男(当時72歳)
「これを迎えるジャーナリズムの過熱状態が果してこの新人の成長にプラスするか否か、(引用者中略)群像新人賞というふさわしい賞をすでに得ている、次作を待って賞をおくっても決して遅くはないと思った。まさに老婆心というところであろう。」

瀧井孝作(当時82歳)
「アメリカ軍の基地に近い酒場の女たち、麻薬常習の仲間たちのたわいのない、水の泡のような日常を描いたもの、と私はみた。この若い人の野放図の奔放な才気は一応認めるが……。」「私はこの人の尚洗練された第二作第三作をまちたかった。」

安岡章太郎(当時56歳)
「印象にのこった。」「候補に上る以前から、それこそ「はしゃぎ過ぎ」の感があるほど話題になった作品であるが、内容に較べて二百枚という長さは退屈である。」「何が言いたいのかサッパリわからない。ただ、この作品には繊細で延びのある感受性があり、それが風景描写などに生きている。」「私はこの作品に賞は出さない方がいいと思ったが、積極的に反対するだけの情熱もなかった。」

 「純文学」と「サブカルチャー」との境界があいまいになっていく時代の予感に各選考委員が戸惑っている様子がうかがえて、貴重な資料である(女性が一人もいないことと、委員の皆さんの年齢にもご注目)。ほぼ40年後の又吉直樹『火花』の受賞へのお膳立てはこの時に始まっていた。といってもいいのではないか。


☆☆☆☆☆☆☆




 なお、「昭和を代表する文芸批評家のひとり」である江藤淳は、まともにこの作品を評することはなかった。ただし週刊誌「サンデー毎日」(1976年7月25日号)に以下の一文が「談話」として発表され、のちのちまで物議をかもした。


「社会学の述語に”サブ・カルチャー”という言葉がある。”下位文化”と訳されているようだ。国語としてあまり熟していると思われないが、村上龍の作品は、結局一つの”サブ・カルチャー”の反映にすぎず、その”表現”にはなっていない、というのが、私の感想である。」


 残念ながらいまひとつ意味のわからぬ文章である。この人もまた、「純文学」と「サブカルチャー」との境界があいまいになっていく時代の予感に戸惑っていたのだ。
 なお江藤氏は村上春樹についても終生まともな論評を残さなかったが、1980年に「文藝」の新人賞に投稿された田中康夫『なんとなく、クリスタル』には激賞に近い評価を与えた。
 この評価の落差は、江藤氏じしんの「アメリカ」に対する屈折した思いに依るものだといわれているが、氏がかつて石原慎太郎が大好きであったのを考え合わせると、「一橋大卒で若くして寵児になって中年以降は政治家に転身するタイプの作家」に惹かれる資質があったのではないかとも思われる(どんな資質だ)。
 いずれにせよ、この時期、第一線で活躍する作家も批評家も、「サブカルチャー」について何もわかってなかったわけである。「サブカルなんぞ知るものか。」で作家が務まり、批評家が務まる。むしろ知ってるほうが恥ずかしい。1970年代とは、まだそんな時代であった。















いまどきのブンガクを考えるための5冊 アップデート版18.12

2018-12-15 | 純文学って何?
 先に当ブログでも紹介したとおり、岩波新書から斎藤美奈子『日本の同時代小説』が出たので、「いまどきのブンガクを考えるための10冊」のリストも、とうぜん更新されねばなりませぬ。そういうわけで、10冊を5冊に精選してのアップデート版です。本は年代順ではなく、ぼく自身が「重要」とみなす順に並べてますんでよろしく。


 01 日本の同時代小説 斎藤美奈子 岩波新書 2018年

 1960年代からイチゼロ年代まで、この50年あまりの「日本文学」をとにもかくにも新書サイズにまとめてみせた。しかも「純文学」にとどまらず、エンタメからラノベ、ケータイ小説までひっくるめてだ(それはまあ、ニホンのブンガクってものがそれだけ流動化しちまったってことでもあるのだが)。いや、けっこうな力業ですよ。
 いちばんの魅力は取り上げた作家の名前が多いことだろう。だから、ちょっとした小辞典として使える。「こんな本が欲しかった。」という本の見本みたいな本だけど(「本」って漢字を何回書くんだ)、なにぶんやってることが豪快だから、とうぜん偏りもある。だから若い人たちがこれを読んでまるっきり鵜呑みにするとまずいのだが、とりあえず今の時点では類書がないので、当面は手放せません。


 02 ニッポンの文学 佐々木敦 講談社現代新書 2016年

 「純文学とエンタメの閾(しきい)をオレが取っ払っちまうぜ!」って意気込みで書かれた本だったんだけど、わずか2年後に出た上記の斎藤さんが、「え? 純文学? え? エンタメ? そんなのなんか違いってあるの?」みたいな調子でやってるもんで、なんかその意気込み自体が今となっては空回りにみえてしまうというね……。まあ斎藤さんのほうがポストモダンってことだろうね。
 佐々木敦さんは同じ講談社現代新書から『ニッポンの思想』『ニッポンの音楽』も出してて、3部作になってます。ぼくは「思想」編がいちばん役に立ったけど、この文学編もいい。「土台がしっかりしている」という感じ。ただ、そのぶんフットワークが重い。佐々木さんは大学の教授で、斎藤さんは在野の文筆家。よかれあしかれその差ははっきり出てますね。ともあれ、どのジャンルにせよ今の日本で「小説」を書こうというならば、この2冊くらいは読んどいたほうがいいんじゃないか。


 03 戦後文学を問う―その体験と理念 川村湊 岩波新書 1995年

 これなんですよ。震災とオウム事件の年に出た本。てっきり絶版扱いだと思って、さっき調べたら、版元でも「在庫あり」になってる。版を重ねてるんだね。いやあ、よかった。ほんとに充実してるからね、これ。
 内容については、大手通販サイトで「モチヅキ」って方がレビューを書いてらして、これが素晴らしい。密度が高いので、改行を加えて、コピペさせて頂きます。

 戦後文学は「帰還」の主題から始まり、主として60年代に「対中国観」(政治と文学との関係)、「安保闘争」(若いエネルギー)、「皇室関係の筆禍事件」(目に見えない禁忌)、「ベトナム戦争」(当事者性、三角関係の構図)を主題化し、
 次いで「性・性差関係」(現実との緊張関係、肉体を通じた原初的な関係性、ジェンダーの問題)、「クルマ社会化」(移動する「個室」)、「家」(家庭崩壊)、「アメリカ化」(高度資本主義社会の拡散と自明化、越境の問題、サブカルチャーとの関係)、「在日文学」(多数派・少数派の民族的アイデンティティーの解体)を問うた。
 ここからは、戦後における「政治意識」の退潮(或いは変容)、更にはグローバル化を背景とした成熟社会化に伴う社会の複雑性の顕在化と社会秩序の危機、といった大きな流れが浮かび上がる。
 それを踏まえた上で、著者は新たな文学の予兆として、「孤児」(帰属対象の喪失)、「夢の世界」(現実性との境界侵犯)、「架空の地誌」への「漂流」傾向をやや批判的に挙げつつ、歴史認識問題の未解決をもって戦後文学が未だ(だらだらと)続いていることを主張している。文学の批評だけあってやや抽象的な感は否めないが、共感できるところは多い。漫画や映像との関係や戦前の文学との連続性の有無も気になるところだ。

 みごとな要約です。おそれいりました。で、この方が末尾に書いておられる「漫画や映像」、つまりサブカルの影響がむちゃくちゃ大きくなってきたのが、1995年以降の偽らざる趨勢なんですね。


 04 リトル・ピープルの時代 宇野常寛 幻冬舎文庫 2015年(単行本は2011年)


 最新刊『母性のディストピア』(集英社)ってのが凄そうなのだが、高くて買えないんで読めない。読んでない本は紹介できない。でもって、いま文庫化されてる主著2冊のうち、『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)とどっちを取るかって話なんだけど、より「ターゲットが絞り込まれてる」感のある、こちらのほうを選びましょう。村上春樹『1Q84』をベースにして、ウルトラマンから仮面ライダーへ、戦後日本の「ヒーロー像」の身の丈が縮小していったことの社会的な意味を浮き彫りにする論考。ただぼくは、同じニチアサ番組でも、プリキュアは見るけどライダーのことは一切まるでまったく全然興味がないので、いまひとつピンとこなかった。でも宇野さんの言ってることはわかったと思う。
 東浩紀よりさらに7歳若い宇野さんは、そのぶんサブカルへの親炙の度合いも深くて、サブカルと「ブンガク」との媒介物としてハルキ文学を捉えていると思うんだけど、村上春樹って大江健三郎のポップ版なんだよね、はっきり言って。まさに『万延元年のフットボール』が『1973年のピンボール』に変換されたって話ですよ。だから宇野さんみたいな人がいっぺん大江文学をじっくり読んで論を立てたらけっこう面白いことになると思うんだよな。そういうの、そろそろやってくれないかな。『大江健三郎全小説』の刊行もはじまったことだし。

追記) 『母性のディストピア』は2019年に上下巻でハヤカワ文庫に入った。宮崎駿、押井守、富野由悠季のアニメ3大巨匠の作品(だけ)を通じて現代ニホンを論じてみせた意欲作。たいそう面白かったです。書評はいずれまた。


 05 柄谷行人講演集成 柄谷行人(あたりまえだわな) ちくま学芸文庫(オリジナル編集) 2017年

 柄谷さんは読みづらい、と思われてて、そりゃまあじっさい読みやすくはないけども、アタマのわるい学者の文章みたいに「日本語が下手で何書いてんだか分からない」という読みづらさではなくて、いつも目いっぱい高度なことを言おうとしてるから難しくなっちゃうんだよね。論旨そのものはいつだって明快なんだ。ことにこれは講演録なんで、ふつうに書かれた論考よりも読みやすい。それでも難しいけどね。でも読みとおせば相当に視界がクリアになります。文学にかんしていえば、3番目に置かれた「近代文学の終り」は必読。中上健次論であり、日本の近代~現代文学論でもある「秋幸または幸徳秋水」も必読。それにしても、『岬』や『枯木灘』『地の果て 至上の時』の秋幸が「幸徳秋水」のアナグラムだって知ってましたか?





新刊案内・斎藤美奈子『日本の同時代小説』

2018-12-07 | 純文学って何?
  このところアニメの話ばかりしてるけれども、これは文学ブログであるからして、そちら方面のキーワードから、検索を介して来られる方も少なくないようだ。そこで、「もしご存じなかったら」ということで、取り急ぎ新刊を一冊ご紹介したい。時間がないのであまり詳しくは書けないが、こういう速報性もブログの魅力のひとつだろう。
 斎藤美奈子『日本の同時代小説』(岩波新書)。11月20日 第一刷発行 となっているので、まさに新刊といっていい。
 岩波新書の文学史入門といったら中村光夫の『日本の近代小説』『日本の現代小説』というロングセラーがあって、ぼくなんかも高校の頃ぼろぼろになるほど読み返したもんだが、「現代小説」とはいっても大江健三郎の『万延元年のフットボール』(昭和42年)までで、高校時代のぼくにとってすら、「現代」とか「同時代」という感じではなかった。
 同時期に中公新書から出ていた奥野健男『日本文学史』も繰り返し読んだが、これは中村さんのを2冊まとめてコンパクトにしたような具合で、読み易くはあったがやはり万延元年で時間が止まっていた。
 昔は……といっても昭和40年代後半から50年代前半(西暦でいえば1970年代)のことだけど……まことに悠長なもので、この手の新書がとくに増補改訂もされずに十年以上版を重ねるのがふつうだったのである。
 いま手ごろに買える日本文学史の定番といえば加藤周一『日本文学史序説』(上下 ちくま学芸文庫)だろう。1994年に文庫化されたとき終章が増補されたが、これもやっぱり大江さんまでで、どうも大江健三郎という巨人のあとの現代文学史は誰にとっても書きづらかったようである。
 その大江さんがノーベル賞を取ったときに(1994=平成6年)軽く純文ブームが来て、まあ、ブームってほどではなかったが、今よりは多少はみんなが純文学に興味を示した。そんな風潮を追い風にして、講談社現代新書から川西政明『「死霊」から「キッチン」へ』が、岩波新書から川村湊『戦後文学を問う その体験と理念』が出た。川西さんはかつて高橋和巳を担当した昔気質の編集者のご出身だ。
 『「死霊」から「キッチン」へ』は、タイトルからもわかるとおり埴谷雄高から吉本ばなな(現・よしもとばなな)までを扱っている。ここではじめて中上健次、村上龍、村上春樹といった戦後生まれの作家を含む同時代文学史が新書サイズであらわれた。ふつうの高校生が夏休みにでもざっと読み上げて、感想文を書けるくらいのハンディな入門書ではあった。
 じつは川西さんはほぼ同じ時期に『小説の終焉』なる本も岩波新書から出していて、これも文学史ではあったのだが、「近代の終焉と共に小説も終わった」という趣旨の、いかにも気の滅入る内容だった。その後の純文学の衰亡ぶりを思い合わせると、たしかに予見的な本ではあったが、当時はまだ熱心に純文学を書いて(そして純文学誌に投稿しては落ち続けて)いたぼくは、この本を読み返す気にはなれなかった。
 ぼくが重宝したのは川村さんの『戦後文学を問う その体験と理念』のほうだ。これはほんとに巧くまとまっていて、あまり大っぴらには語られないウラ事情みたいなものも盛り込まれており、今でも読み返すほどだ。山田詠美、島田雅彦あたりまでが扱われている。もちろん同時代文学史として役に立ったのである。
 そのご、ぼくの知るかぎり、ゼロ年代には、少なくとも新書サイズでは適当な「日本文学ガイドブック」は出なかったと思う。佐々木敦『ニッポンの文学』が出たのは2016年で(講談社現代新書)で、これはもちろん今でも売っている。「純文学」と「エンタメ小説」との垣根を取っ払う、との謳い文句がウリの本である。
 斎藤さんの『日本の同時代小説』は、レーベルからしてもタイトルからしても『日本の近代小説』『日本の現代小説』を踏まえてるわけだが、中村光夫ほどの学術性というか、客観性を持ち得ているかというと、そこは疑わしい。ただ、そのこと自体がつまり「現代」であり、現代ブンガクの置かれた状況なんだとは思う。だいたい昔の文芸評論家ってのは半分はアタマが学者であった。対して斎藤さんは学者どころか「評論家」「批評家」でもなくて、ぼくの印象では「書評家」である。ジャーナリストに近い。フットワークは軽快だけど、深みがない。
 そのような方が天下の岩波新書からこういう本を出す。そのこと自体が「現代」であり、現代ブンガクの置かれた状況だなあと、ぼくはしみじみ思ったわけだ。
 こう書くとなんだか貶してるようだが、この本そのものは面白いのだ。小説に少しでも関心のある向きは手元に置いて損はない。何よりも、へんなブンガク趣味にとらわれず、ただただ「社会」と「世相」の写し絵として(のみ)「小説」というものを取り扱ってる点がいい。そこはさすがに岩波である。


公式の「内容紹介」をコピペしよう。

 メディア環境の急速な進化、世界情勢の転変、格差社会の深刻化、そして戦争に大震災──。創作の足元にある社会が激変を重ねたこの50年。「大文字の文学の終焉」が言われる中にも、新しい小説は常に書き続けられてきた! 今改めて振り返る時、そこにはどんな軌跡が浮かぶのか? ついに成る、私たちの「同時代の文学史」。

 別バージョン。

 この五〇年、日本の作家は何を書き、読者は何を読んできたか。「政治の季節」の終焉。ポストモダン文学の時代。メディア環境の激変。格差社会の到来と大震災―。「大文字の文学は終わった」と言われても、小説はたえず書き継がれ、読み続けられてきた。あなたが読んだ本もきっとある! ついに出た、みんなの同時代文学史。



 「社会」と「世相」の写し絵として(のみ)語られるそんなニホンの同時代小説は、80年代バブルを空しき絶頂として、あとはひたすら凋落の一途を辿る。ビンボーになり、職はなく、よき伴侶にも恵まれない。気持は荒み、暴力に走り、時にはテロにすら惹きつけられる。ひたすら陰鬱なのである。
 そして、「こんな時代だからこそ、文学はみんな挙(こぞ)ってゼツボーの歌ばかり歌ってないで、新しい希望のビジョンを提示しなきゃね。」との主張が述べられる。もっともな提言だとは思うが、ニッポンそのものが急激に衰亡へ向かってるのに、ファンタジーならともかく、リアル指向の純文学が希望を口にするのは実際のところ難しいですよ斎藤さん。
 なにしろ斎藤さんなので全体としてフェミニズム寄り。総じて女性作家に甘い。また、吉行淳之介、安岡章太郎といった大御所がまるっきり看過されている。ほかにも「なぜあの作家が落ちている?」と首を傾げたくなる箇所は多い。「誰を選び、誰を落としたか」そのものが批評になっているともいえる。
 だからこの一冊がスタンダードになってしまうのは困るので、もっともっと色んな人がこの手のものを書くべきだと思う(ぼくも他人事ではないが)。そういう試みが集まれば、「いやマジで純文学も捨てたもんじゃないな。」という空気になるかもしれないし、そこからまた新しい小説が生まれるかもしれない。てなわけで、とりあえずご紹介まで。

 

大江健三郎全小説・刊行はじまる

2018-12-01 | 純文学って何?

 今年の7月、「創業110周年記念企画」として、講談社から「大江健三郎全小説」全15巻の刊行がはじまった。これ、昨日までぼくは知らなくて、ひとから教えてもらってびっくりした。知ってたら、何はさておきすぐにブログに書いたろう。何といっても、これは文学ブログなのである(えっ、そうだったの?)。いやいや「宇宙よりも遠い場所」の話をしているばあいではない。

 pdf形式で出ている講談社からのウリ口上は次のとおり。

 

①レア作品の収録

雑誌初出以来、一度も書籍化されたことのない7つの短編およびいまや入手困難な6つの短編を収録。特に1961年の発表以来、政治的理由によって封印されてきた戦後文学最大のタブー、「政治少年死す」が初めて書籍化されます。つまり計13編のレア作品を収録。

 

②新しさ

今読んでこその意味。ブラックバイト、LGBTに引きこもり、テロリスト、落ちこぼれ、社会不適応者……現代に通じる数々の登場人物たち。半世紀以上前に書かれていたとは思えない先見性と新鮮さに瞠目。

 

③切実さ

大江さんは私小説家ではありませんが、作品の中心には私的な体験があります。たとえば『個人的な体験』は突然障害児の父となった若者の物語、『取り替え子(チェンジリング)』には長年の親友であり妻の兄である映画監督を自殺で失う作家の存在が描かれています。その胸に迫る切実さ。

 

④救いと癒し

大江作品の登場人物たちは、人生のさまざまな問題で苦悶しています。「現代人が抱える困難が描かれている」というのがノーベル賞の授賞理由。その上で、大江文学の目的は「その痛みと傷から癒され、恢復すること」。ここには「魂の救済」と「癒し」があります。

 

 

 さすがに的確な紹介である。とくに②に関しては、ぼくがこのブログでも何度か言ってきたことで(ここまで簡潔には言えなかったけど)、総じて異論はないし、付け加えることとて見当たらない(あえていうなら、「戦後文学最大のタブー」は深沢七郎の「風流夢譚」のほうじゃないか? ということくらいか)。

 さらに詳しい講談社の案内ページはこちら。

http://news.kodansha.co.jp/20170524_b01

 

 編集と、全巻の解説に携わった尾崎真理子さんによるさらに詳しい紹介文はこちら。

2018.07.16 圧倒的な体験が始まる——『大江健三郎全小説』刊行記念

(ここにアドレスを貼ったのだが、リンク禁止にしているのか、どうしてもページに飛べない。読みたい方は、「圧倒的な体験が始まる——『大江健三郎全小説』刊行記念」と検索窓に打ち込んで検索をかけてみてください。トップに出てくるはずです) 

 尾崎さんは長年にわたって大江さんを担当した編集者で、『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮文庫)という貴重なインタビューも出している。

 ぼくも当該ページを見ながらこれを書いているのだが、タイトルを一覧するだけでも面白いんで、「初期作品群」を網羅した1~3巻までの目次をコピペしましょう。

 

 

大江健三郎全小説 第1巻

【収録作品】

奇妙な仕事/他人の足/死者の奢り/石膏マスク/偽証の時/動物倉庫/飼育/人間の羊/運搬/鳩/芽むしり仔撃ち/見るまえに跳べ/暗い川・重い櫂/鳥/不意の唖/喝采/戦いの今日/部屋/われらの時代

──初期作品群その1

 

 

大江健三郎全小説 第2巻

 

【収録作品】

ここより他の場所/共同生活/上機嫌/勇敢な兵士の弟/報復する青年/後退青年研究所/孤独な青年の休暇/遅れてきた青年/下降生活者

──初期作品群その2

 

 

大江健三郎全小説 第3巻

【収録作品】

セヴンティーン/政治少年死す──セヴンティーン第二部/幸福な若いギリアク人/不満足/ヴィリリテ/善き人間/叫び声/スパルタ教育/性的人間/大人向き/敬老週間/アトミック・エイジの守護神/ブラジル風のポルトガル語/犬の世界

──初期作品群その3

 

 

 いやあ。鬱屈した青春の陰りが色濃く立ち昇ってきますなあ。たしかに平成末の日本の現状にぴったりだ。

 当全集、まだ完結はしておらず、年を跨いで刊行は続く。電子書籍版も出ている。

 かれこれ30年あまり大江さんを読みつづけ、それとともに現代小説の動向にもいちおうの関心を払ってきた者として言わせてもらえば、大江さんレベルの作家は世界全体でも10人くらいしかいない。大江文学をきちんとしたフルコースのディナーとすれば、たいがいの作家は、サンドイッチやハンバーガー、立ち食いうどん、さらにはポテトチップスやポップコーンやチョコレート、そんなもんである。みんながまともな食事を摂らず、そんなもんばっか食ってるから、骨格も筋肉もふにゃふにゃになってにっちもさっちもいかなくなった。それで腐った連中が政治を壟断(ろうだん)して若者たちにむちゃくちゃな労働環境を押しつけ、日本の資産を世界に向けて売りまくったあげく、「人手不足」と称して大量に移民を入れて国を亡ぼす。それが2018年のこの国が向かっている先だ。

 こういう世の中だからこそ、大江健三郎はあらためて読み返されねばならないし、何度でも、新しく読みはじめられねばならない。

 

 


芥川賞と「企業小説」

2018-07-03 | 純文学って何?
 (……前略)あらためて言うまでもなく、純文学は社会的にはキャラクター小説よりもはるかに大きな存在感を保っている。そして、その理由は必ずしも無根拠な権威化によるものとは言えない。というのも、キャラクター小説の読者は、数として多くても質的に限られているが、純文学の読者はさまざまな階層や年齢に散らばっているからである。
 そして、その多様さは、純文学が現実を描いているという「期待」で支えられている。そのような期待が端的に現れるのは、芥川賞受賞作をめぐる報道記事である。それらの記事では、多くの場合、小説の内容が社会問題と結びつけて語られる。ミステリやホラーは娯楽のために読むが、純文学は娯楽ではなく、社会を知るために(たとえば、ニートの現在や在日韓国人の現在や独身女性の現在を知るために)教養として読むという前提が、この国では半年ごとに再強化されている。むろん、純文学に別の可能性を見ている読者はいるだろうし、批評に親しんだ読者ならば、むしろこのような文学観に強い抵抗を覚えるだろう。しかし、ここ数年の話題作や、その語られ方を見るに、純文学への期待の中心がそのような素朴なリアリズムであることは否定しがたい。(……略)
 このような日本文学の状況は、歴史的には一種の反動だとも考えられる。少なくとも1980年代には、近代文学批判の言説は今よりも大きな影響力をもち、純文学とジャンル小説(引用者註・ミステリやホラーやSFやファンタジーなど)の融合や越境が積極的に試みられていた。(……略)
 しかし、1990年代後半に入ると状況は大きく変わってしまう。1995年(引用者註・もちろん、震災とオウム事件の年だ)以降、筆者が『動物化するポストモダン』で「動物の時代」と呼んだ時代が始まると、人々は複雑な理想や虚構ではなく単純な現実を求め始め、純文学は、文学的な実験の場所というよりも、むしろその素朴な欲望の受け皿として機能し始める。(……後略……)



 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社現代新書)より。だからこの「筆者」というのは東さんのことです。あ、それと、「キャラクター小説」とはいわゆるライトノベルのことです。
 で、長々と引用させてもらってアレだけど、ぼくはこの文章に一から十まで賛同しているわけではない。まず、東さんも承知のうえで言ってるんだとは思うけど、「芥川賞受賞作」と「純文学」とは必ずしも合致しないので、このふたつを一緒くたにするのはほんとはまずい。「純文学」がカテゴリー全体の総称で、「芥川賞受賞作」はその一部……ということもあるし、ほかにもいくつか問題がある。
 ただ、「社会がそれを純文学の右代表と見なしてる」という点では確かに芥川賞受賞作=純文学にはちがいない。だから今回のこの記事の中では、ぼくもあんまりややこしいことは言わないで、そのつもりで話を進めていきましょう。
 それともうひとつ、これもまたマニアックになるが、1980年代の「純文学」が、「ジャンル小説との融合や越境を積極的に試み」ていたってのも、ぼくには正しい認識とは思えない。とはいえ、これらはいずれも本筋とは無関係なので、これ以上は踏み込まないことにする。
 「純文学は娯楽ではなく、社会を知るために(たとえば、ニートの現在や在日韓国人の現在や独身女性の現在を知るために)教養として読むもの。」そう多くの人が思っている。ここが今回の記事のテーマである。
 池澤夏樹さんが選考委員の中に名を連ねていらした頃なら、「沖縄県民の現在を……」という一文を入れてもよかったろう。
 『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』は面白い本で、今でも版を重ねているが、初版が出たのは2007(平成18)年だ。11年まえ。このかん、円城塔さんの「道化師の蝶」、黒田夏子さんの「abさんご」といった異色作は単発的に出たものの、東さんのこの指摘は、今でも総じて有効だろう。
 いや有効どころか、楊逸(ヤン・イー)、津村記久子、西村賢太、村田沙耶香といった方々の受賞によって、より補強されているというべきか。社会派リアリズム小説としての芥川賞受賞作(純文学)、という定式。
 かといってそれは、たとえば池井戸潤さんみたいな、いわゆる企業小説でもない。正業をもった会社員が主人公に選ばれるほうが珍しく、そのばあいでも「大企業の役付き」なんてことはけっしてない。
 2009年の受賞者である磯崎健一郎さんなんて、当時は三井物産本店の人事総務部人材開発室次長を務めるエリートだったが、その「終の棲家」には、会社(組織)で働く主人公の姿は描かれていない。文学者としての磯崎さんは、ボルヘスやカフカやムージルを愛読書に挙げる学究タイプで、あの作品も、社会派どころか、むしろポストモダニスティックな実験小説だった。
 昔でいえば、たとえば城山三郎、深田祐介といった方々は「文學界」新人賞の受賞者で、つまり彼らの小説は「純文学」と見なされてたのだが、まさにこれらの方々の活躍によって「企業小説」というジャンルが成立してしまうと、「企業小説」は、「ミステリ」や「ホラー」や「時代小説」と並ぶ一つの「ジャンル小説」となり、潔癖症というべきか、「純文学」は自ら峻別をはかるべく、そこから離れていったのだ。おおむね昭和40年代半ば以降の話である。これもまた、読まれなくなった要因のひとつではあるのだが。
 とはいえ、明治期半ばに成立した頃から、「純文学」はもっぱら「立身出世」コースから外れた高踏遊民やら不平分子を中心に据えて生長してきた。とくに日本においてはそうなのだ。だから元来そういう指向をもっている。
 かくて、東さんが冒頭の一節を書いた11年前も今も、「純文学」にはフリーター、ニート、売れない芸人、主婦、大学生ないし高校生、時には犯罪者すれすれの人などといった、どう見ても社会の中枢を担っているとはいえない階層が頻出するわけである。
 ぼく個人は、こんな話はべつだん「文学」とは関係なくて、「社会学」に属する主題だろうと思っている。とはいえ、「芥川賞」は文学イベントである以上に社会的イベントでもあるわけで、そういう意味(に関するかぎり)では、避けては通れない話だとも思う。
 芥川賞受賞作は、年に2回、「文藝春秋」誌上に選評つきで掲載される。ご存知のとおり、文藝と名乗ってはいても、これは文学プロパーの雑誌ではなく、政治、経済、社会、あと中国への悪口といったもので構成される総合誌だ。
 いまの日本は非正規雇用者が増えているから一概には言えぬだろうが、やはり主たる購読者層はそこそこの齢の、正業をもった社会人、それも男性が大半だと思う。
 このような階層にとっては、フリーター、ニート、下積み芸人、主婦、一人暮らしの独身女性、ちょっと古い例だと身体改造に熱中するアブない娘や、クラスで浮いてる女子高生……たちの生活とか内面といったようなものは、東さんの「教養」という言葉が適切かどうかはともかく、それなりに興味をひかれるものではあろう。
 自らの属する社会的グループの近傍にありつつ、自分がとても入っていけないグループ。そういうものに対する興味ってのは、社会的動物たる人間にとって健全な知的好奇心ではある。
 芥川賞受賞作が、文学性とはまた別に、そういった「高級ルポルタージュ」的な側面を暗黙のうちに期待される傾向はこの先もつづくであろうと思われる。



芥川賞と物語

2018-06-29 | 純文学って何?
 前回の投稿から9日も経ってるもんで驚いた。つい昨日くらいに思ってたんだがな……。ちょっと忙しくなるとブログのことがすっ飛んでしまう。「教養って何? みなさんの定義」の続きをやるつもりで、草稿もつくってたんだけど、ファイルがどこかに紛れてしまって見当たらない。しょうがないので別の話をしましょう。
 それではサッカーのこと……はさっぱり不案内なので、またまた「純文学」と「物語」ってことになるんだけども、ともあれ「物語」の威力なるものはまことに大きく、「純文学」の牙城であるはずの「芥川賞」の選考委員の皆さんとて、じつは全員が「物語作家」なのである。
 宮本輝さんは、いうならば「もっとも良質な通俗小説」の書き手なわけだし、村上龍さんが社会派のエンタメ作家であることも論を俟たない。高樹のぶ子さんは情感あふれる恋愛小説の手練れで、小川洋子さんはリアリズムのなかにSF(すこしフシギ)な感覚と微妙な悪意をからめてお話を作る名手。川上弘美さんも柔らかなことばでシュールな寓話や風変わりな大人の恋模様を紡ぐ優れた物語作家である。
 山田詠美さんはそもそもが直木賞系だし、島田雅彦さんもペダンチックで癖のある文体が身上とはいえけっして物語の破壊者ではない。奥泉光さんは一般にはむしろ巧緻なミステリー作家として知られているだろう。
 新しく加わった吉田修一さんもまた一流の語り部であることはここで強調するまでもない。堀江敏幸さんだけは、「文章の魅力で読ませる」タイプで、中ではもっとも物語性に乏しいけれど、いまどきの翻訳小説を思わせる工芸品のような小説をつくる。たとえば小川国夫のような狷介な作家のものと比べれば、読みやすさは明らかだ。
 「純文学」とは言いながら、長年にわたって一家を張ってるほどの小説家は、みな物語作家でもあるわけだ。村上春樹さんはいうまでもない。
 ここ十年ばかりにおいて、ほんとの意味での純文学というか、まさに「ことばの運動」だけで織り上げられたエクリチュールを提示したのは、ぼくの見たかぎりでは朝吹真理子さんの「流跡」(新潮文庫『流跡』所収)ただ一作だけれども、この路線を突き進むのか、と思いきや、次の「きことわ」はわりと普通の小説だった。おかげで芥川賞は取れたのだが、大手通販サイトのレビューでは「中身がない」「ストーリーが希薄」とさんざんである。ほとんどの読者は「小説」に「物語」(だけ)を期待している。「小説」とくに「純文学」と「物語」とは別物であり、別物なればこそ貴いのだが、なにぶん選考委員の皆さんからしてああなのだから、それを申し立てても詮無いことだ。
 いや……ことばの存在感が生々しく立ち上がる作品がもうひとつあった。黒田夏子さんの「abさんご」(文春文庫『abさんご・感受体のおどり』所収)。しかしこちらは、語り口というか、文体こそ極めて特異ではあれ、背後には相応の重さをもった「物語」がきっちり潜んでおり、「ことばの運動」そのものがスリリングな軌跡を描いて止まない「流跡」とはまた別様のものだった。


『ゼロ年代の想像力』における純文学の取り扱いについて。

2018-06-14 | 純文学って何?
「『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)のなかで、目につく「純文学作家」の名前は中上健次のみ。しかも、「(映画監督の)青山真治は、とても優秀なのだが、いつまでも中上健次にこだわってるのが玉に瑕だ」みたいな言い方で出てくるのだ。とほほ。」


 と、前回の記事で書いたのだけれど、あらためて確認したら、これは正確ではなかった。
 円城塔『Self-Reference ENGINE』、諏訪哲史『アサッテの人』、川上未映子『わたくし率イン歯―、または世界』、岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終り』。
 この4作が、「2007年はある種のポストモダン文学のリバイバル・ブームが起きた年として記憶されるだろう。」との前置きを附して、リストアップされている。
 諏訪哲史『アサッテの人』は芥川賞受賞作である。岡田さんの『わたしたちに許された特別な時間の終り』は芥川賞の候補にすらならなかったが(なぜだろう)、大江健三郎さんが単独で選考を務める「大江健三郎賞」に選ばれ、作品そのものの面白さもあって話題になったし映画化もされた。円城さんと川上さんは、この作品では選ばれなかったけれど、のちに芥川賞を取った。
 こういう実力派たちに目をつけてるんだから、宇野さんはけっして、純文学をおろそかにしてるわけではない。
 その前の段には、黒川創の名前もある。
 そもそもこの本の序盤では、W村上(春樹&龍)および吉本ばななと、定番のビッグネームをちゃんと抑えてあったのだ。後のほうでは、綿矢りさ、金原ひとみの名も見える。
 ほかに辻仁成、佐藤友哉、津村記久子らの名もある。なかなかどうして、「中上健次のみ」どころじゃない。くまなく目配りしてるのだ。
 ただ、W村上とばななについては軽くコメントがなされているが、綿矢、金原、そして辻、佐藤、津村ら各氏については、ほかとのカラミで名前を挙げてるだけである。
 円城、諏訪、川上、岡田、それに黒川さんを加えた5人については、本文ではなく、ポイントの小さい活字で組まれた「註」のなかでふれられてるんだけど、宇野さんはどうやら、この5人に対しては、一定の評価を与えているようだ。ほかの作家には、わりと冷たい。
 中上健次は論外として(とほほ……)、龍もばななも、もはや「現代」をきちんと捉えてはいない。ただし春樹さんだけは別格。ほかの作家たちは、どうもいまいち。しかしその中で、円城塔と諏訪哲史と川上未映子と岡田利規と黒川創は健闘している。そのように、宇野常寛は評価を下している(とぼくには読める)。
 念のためいうが、この文庫がでたのは2011年で、その親本となる単行本は2008年刊、宇野さんがこの論考を書いたのはたぶん2007年の終り頃だ。そのご、純文学シーンもかわっているし、宇野さんの考えも大きくかわっているだろう。ぼくがここで、10年も前のハナシをしてるってことは、アタマに留めて頂きたい。
 さて、「2007年はある種のポストモダン文学のリバイバル・ブームが起きた年として記憶され」ているんだろうか。世間は純文学になんか興味ないので、たぶん誰もそんなもん記憶してないと思うが、とにもかくにも宇野さんが、『Self-Reference ENGINE』『アサッテの人』『わたくし率イン歯―、または世界』『わたしたちに許された特別な時間の終り』の4作を、「ある種のポストモダン文学」として捉えてるのは間違いない。
 はい。ポストモダン文学って何ですか。
 答は風に吹かれている。じゃなくて、はっきりと同じパラグラフの中に書かれている。
 「広義の意味で、近代的な主体の解体を描く作品」である。
 ここんとこ、すこぶる重要なんで、ぼくのことばで補おう。
 「近代的な主体」とは、いいかえれば「近代的自我」だ。ぼくがこれまでの記事のなかで述べてきたとおり、「内面」をもち、「苦悩」をかかえ、それを「告白」したりなんかする、めんどくさそうな主体のことである。
 いや、この「めんどくさそう」と感じるセンスがまさしく「ポストモダン」の産物であって、「近代(モダン)」においては、それはけっしておかしなことではなかった。
 そういう主体がいま解体されている。それに伴って「世界」もまた壊れつつある。だって、「世界」を認識して意味づけるのは主体(自我)なんだから、これが崩れりゃ世界のほうも崩れますわな。
 そんなポストモダンな状況を作品化してるのが、2007年度における優れた「純文学」だ、というわけだ。
 ところが、そんな姿勢すらもう古いぜ、と宇野さんはここでいうのである。
「しかし、円城塔に象徴的だが、彼らが描くような意味で世界が≪壊れて≫いるということはもはや前提化しており、むしろ彼らが描くポストモダン的な解体の結果として、現在の物語回帰は存在している。(後略)」
 つまり、今さら「近代的な主体の解体」なんかをテーマに掲げて作品化したって、べつに新しかねぇんだよ純文学さんよ、状況は、つーか現実はもっとシビアに切羽詰まってて、むしろ「物語」がまた復権してきてるんだよ、と宇野さんはいっておられるわけである。そのことは、芥川賞受賞作よりも『バトル・ロワイヤル』のほうを重要視する(!)この『ゼロ年代の想像力』の論調をみればおのずから明らかだ。
 春樹さんに対する評価の高さもここからわかる。だって、村上春樹って純文学作家というより、純文学くさい物語作家じゃん。
 ところでぼく自身は、復権もなにも、物語ってのは今も昔も圧倒的な市場を誇ってて、純文学なんて、もはやその傍らで細々とやってるだけなんだから、そもそも同じ俎上(そじょう)で論じることがムリなんじゃないかなあ、と考える。
 ここでの、というか、『ゼロ年代の想像力』における「物語」とは、エンタメ小説(活字の物語)だけでなく、例によってドラマ、アニメ、マンガ、特撮、ゲームなどを含む。こういうものは、復権もなにも、以前から強いし、ネットの普及でさらにまた強い。これについてはぼくも、ここんとこ何回かにわたってずっと述べてきた。
 純文学は、物語に回収されぬからこそ純文学なわけであり、そこにこそ存在意義(レーゾンデートル)があるわけだから、「いまどきの純文学には物語がないからダメ」というのは、魚屋さんに行って、「人参と玉ねぎとじゃが芋を売ってないからダメ」というようなものだ。
 あっ。いやいや。ちょっと待った。それより何より。
 ぼくは批評は読むのもやるのも好きだけれども、いちおうは実作者でもある。
 実作者としての立場からいうと、そもそも、『Self-Reference ENGINE』『アサッテの人』『わたくし率イン歯―、または世界』『わたしたちに許された特別な時間の終り』の4作を、「ポストモダン文学」と一括りにすることはできない。
 それがおかしい、というのではない。もちろん妥当である。もしぼくが批評プロパーでやってたら、たぶんそうするだろう。
 だが、じっさい手に取って、つぶさに読んでみるならば、とうぜんながらこの4作、それぞれに肌合いも違えば作者の問題意識もちがう。
 『Self-Reference ENGINE』はポップなSFだ。サイエンス・フィクション(科学小説)というよりスペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)のほうだが。
 『アサッテの人』は、これはもうメタフィクっぽい哲学小説としかいいようがない。よく芥川賞を取ったもんである。
 『わたくし率イン歯―、または世界』は、初期の川上さんらしい、身体性をそなえた瑞々しい佳品だ。
 『わたしたちに許された特別な時間の終り』は、物語性には乏しいが、この中では、いちばんふつうの小説に近くて読みやすい。
 いずれも「広義の意味で、近代的な主体の解体を描く作品」には違いないけれど、技術てきなこと、方法論、コトバの手ざわり、それぞれに味わいがあって、こちらの心がけしだいでは、たっぷりと可能性を秘めている。じつに旨そうな素材なのである。
 ゆえに、「あっこいつらポストモダン小説、それ古い、それダメ」と、あっさり切り捨てることはできない。
 『ゼロ年代の想像力』は、面白くて勉強になる一冊だけど、とりあえず、ぼくの専門分野たる純文学にかんしては、このほかにも、異を唱えたいところがいくつかある。むろんそれは、「刺激的」ということでもあり、それゆえにこそ面白いわけだが。





あらためて、純文学について。その02 「物語」について、もう少し緻密に。

2018-05-27 | 純文学って何?
 「物語」を批判して、「純文学」を持ち上げよう、てな趣旨でブログをやってるわけだけど、「物語」って用語はいかにも射程が広すぎて、ほんとは整理が必要なんである。たとえば、「ポストモダンとは、≪マルクス主義≫に代表される≪大きな物語≫が無効になった時代のことだ。」なんていうばあい、ここでの≪物語≫とは「人類全体がそれを目指して進みゆくべき理想の未来……を示すに足るだけの精密かつ壮大な理論体系」みたいな含意であって、ものすごくでっかい。バカでかい。
 とりあえず、これを「物語①」としておこう。
 いっぽう、「ロシアの民俗学者ヴラジミール・プロップは、物語を31の機能に分類した。」というばあい、まあ厳密にはこれは「ロシアの魔法昔話」に限定されるんだけど、ここでの「物語」とは、いわゆる「説話」である。「説話」にはおおよそのパターンがあって、いちばんわかりやすい例だと、「勇者」がいて「お姫様」がいて「ドラゴン(悪者)」がいて「勇者がピンチに陥ったとき助けてくれる奇特な人」がいて……みたいなことだ。
 「ドラゴン(悪者)」が「お姫様」を迫害し、むやみに追っかけ回したり、捕まえて塔とかに幽閉したりする。「勇者」はそれを敢然と救い出そうとするけれど、いかんせん力不足で、なかなか思うに任せない。反撃を食らって一敗地にまみれたりする。そこで、例えば「老師」であったり、「かつてのライバル(最初の敵)」であったり、なんかまあ、そういったような人たちが、何らかのかたちで力を貸してくれる。それによって勇者はふたたび立ち上がり、恐るべき「ドラゴン(悪者)」に再挑戦して勝利を得、「お姫様」を救出するわけだ。
 現代アニメでいうならば、宮崎駿のテレビアニメ『未来少年コナン』と、それを濃縮して映画版にしたような『天空の城ラピュタ』が典型的だけど(これをルパン三世の基本設定を借りてやったのがご存知『カリオストロの城』)、この基本パターンを変奏すれば娯楽作品の無限のバリエーションが得られる。スターウォーズももちろんそうで、こちらのばあい、さらに「父殺し」という本質的な物語要素も加わってくる。
 この「説話」のことを、「物語②」と呼んでみる。
 「物語①」と「物語②」とはもちろん違う。だからほんとは別個の名まえで呼ぶのが望ましいのだが、どうもいまいち、適切な用語が見つからなくてそのままになってる。これはこのブログだけのことじゃなく、世間に出ている評論なんかでもそうだ。たとえば宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫。とても有益な本だ)なんかでも、これらの「物語」がけっこう混在して使われている。
 これら二つと通底してはいるけれど、またちょっと別の意味の「物語」もある。前回のリストで二番目にあげた内田樹さんの『映画の構造分析』(文春文庫)21ページにあるやつだ。


「物語を語るな、ということは、知ることも、批評することも、コミュニケーションすることも、すべてを断念せよということです。そんなことできるはずがありません。
 私たちはどのような出来事についても、そこから「有意なデータ」を選び出し、「どうでもいいデータ」を棄て、ひとまとまりの「情報」単位を構成します。私たちはかならずデータの取捨選択を行っています。
 私はただそのデータの選択のことを、「お話を作る」というふうに言い換えているだけのことです。」


 ここで内田さんのいってる「お話」はもちろん「物語」と同じで、ようするに、「世の中にあふれる情報の海の中から取捨選択して、意味のあるひとつらなりの単位にまで再構成されたデータ」を「物語」と呼ぼうということだ。
 これを「物語③」とする。
 「物語③」は、より根本的で、一般的な「物語」だ。いちばん汎用性が高い用法である。そしてまた、日々の暮らしを送るうえで、意識してか無意識のうちにかに関わらず、誰しもがやってることでもある。このカオスのような世界から、適切な情報を抜き出し、それを再構成して自分にもっとも使い勝手のよい「ひとつらなりの単位」をつくる。むろん人生における経験値が増すほど、その「物語」は膨れあがり、複雑さの度を加えていくだろう。
 「物語」とひとくちにいっても、ざっと見ただけでこのとおり幾つも用例がある。それらはむろん、根底では繋がり合っているけれど、しかしやっぱり違うものではあるわけで、使うほうは自分のなかで仕分けてるからいいけれど、読むほうがぼんやりしていると、混乱を招くおそれもある。
 当ブログでもこれらの用法を一緒くたにしていて、それぞれに、なんか適切な言い換えはないもんかなあと思ってるのだが、そうやすやすとは見つからない。
 さて。冒頭へと戻って、「《物語》を批判して、《純文学》を持ち上げよう」というばあい、この《物語》ってのは、上で述べたいろいろなものを含むのだけれど、身近なところで、どうしても、「エンタメ小説」を指すことにもなる。
 エンタメ小説とは、たんじゅんにいえば「芥川賞」系に対する「直木賞」系だ。しかし直木賞受賞作なんて、一年を通じて最多でも4作までだから、ラノベまで含めた膨大な量の作品群をとうてい包摂しきれるものではない。
 ぼくは純文学を愛するあまり、ずっとエンタメ小説を敵視していた。ところが、現代史を描いたケン・フォレットの大作を読んで、それまで持っていたエンタメ小説への偏見がなくなり、熱心に読むようになった、という話を去年の夏くらいにした。
 定期的にブックオフを回って、100均の棚を漁り、目ぼしいやつをごっそり買いこむ。
 知っている名前も当然あるが(それこそ直木賞作家のものも)、まるっきり初見の名前のほうがはるかに多い。この100均の棚で出会わなければ、あるいはずっと知らないままに終わったかもしれない面々だ。
 それでまた、そんな作家たちの作品がめっぽう面白いのである。まあ「面白い」って形容の定義にもよるが、「どんどんページを繰ってしまう」という点においては、どう考えても「文學界」「群像」「新潮」「すばる」に載ってる小説とくらべて面白い。純文学バカのぼくの目から見てもそうなんだから、そりゃ一般の読者がこっちにばかり惹きつけられるのは当たり前だ。
 昨年の8月30日にやった「これは面白い。と心底思った小説100and more」には盛り切れなかったけれど、ほかにもエンタメ小説で、「めちゃオモロい」と思ったものは少なからずあるのだ。
 とはいえ、「これはぜったいエンタメ小説には逆立ちしてもできんぞ」という、純文学だけの「面白さ」もある。好きすぎて、これまで当ブログでもきちんと論じたことはないんだけれど、古井由吉さんの小説(というか文章)を読み進めるときの高ぶりは、ほかのいかなる小説からも、けっして味わえないものだ。
 ずいぶん前にも書いたけど、エンタメ小説と純文学とは鳥の両翼、どちらが欠けても一国の文芸はうまく飛べない。双方が補い合ってこその出版業界だと思う。「近代小説の成立からほぼ150年、純文学は終わった。」という説の可否をもふくめ、純文学について書くべきことは、まだ色々とあるはずだ。