ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

あらためて、純文学について。その02 「物語」について、もう少し緻密に。

2018-05-27 | 純文学って何?
 「物語」を批判して、「純文学」を持ち上げよう、てな趣旨でブログをやってるわけだけど、「物語」って用語はいかにも射程が広すぎて、ほんとは整理が必要なんである。たとえば、「ポストモダンとは、≪マルクス主義≫に代表される≪大きな物語≫が無効になった時代のことだ。」なんていうばあい、ここでの≪物語≫とは「人類全体がそれを目指して進みゆくべき理想の未来……を示すに足るだけの精密かつ壮大な理論体系」みたいな含意であって、ものすごくでっかい。バカでかい。
 とりあえず、これを「物語①」としておこう。
 いっぽう、「ロシアの民俗学者ヴラジミール・プロップは、物語を31の機能に分類した。」というばあい、まあ厳密にはこれは「ロシアの魔法昔話」に限定されるんだけど、ここでの「物語」とは、いわゆる「説話」である。「説話」にはおおよそのパターンがあって、いちばんわかりやすい例だと、「勇者」がいて「お姫様」がいて「ドラゴン(悪者)」がいて「勇者がピンチに陥ったとき助けてくれる奇特な人」がいて……みたいなことだ。
 「ドラゴン(悪者)」が「お姫様」を迫害し、むやみに追っかけ回したり、捕まえて塔とかに幽閉したりする。「勇者」はそれを敢然と救い出そうとするけれど、いかんせん力不足で、なかなか思うに任せない。反撃を食らって一敗地にまみれたりする。そこで、例えば「老師」であったり、「かつてのライバル(最初の敵)」であったり、なんかまあ、そういったような人たちが、何らかのかたちで力を貸してくれる。それによって勇者はふたたび立ち上がり、恐るべき「ドラゴン(悪者)」に再挑戦して勝利を得、「お姫様」を救出するわけだ。
 現代アニメでいうならば、宮崎駿のテレビアニメ『未来少年コナン』と、それを濃縮して映画版にしたような『天空の城ラピュタ』が典型的だけど(これをルパン三世の基本設定を借りてやったのがご存知『カリオストロの城』)、この基本パターンを変奏すれば娯楽作品の無限のバリエーションが得られる。スターウォーズももちろんそうで、こちらのばあい、さらに「父殺し」という本質的な物語要素も加わってくる。
 この「説話」のことを、「物語②」と呼んでみる。
 「物語①」と「物語②」とはもちろん違う。だからほんとは別個の名まえで呼ぶのが望ましいのだが、どうもいまいち、適切な用語が見つからなくてそのままになってる。これはこのブログだけのことじゃなく、世間に出ている評論なんかでもそうだ。たとえば宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫。とても有益な本だ)なんかでも、これらの「物語」がけっこう混在して使われている。
 これら二つと通底してはいるけれど、またちょっと別の意味の「物語」もある。前回のリストで二番目にあげた内田樹さんの『映画の構造分析』(文春文庫)21ページにあるやつだ。


「物語を語るな、ということは、知ることも、批評することも、コミュニケーションすることも、すべてを断念せよということです。そんなことできるはずがありません。
 私たちはどのような出来事についても、そこから「有意なデータ」を選び出し、「どうでもいいデータ」を棄て、ひとまとまりの「情報」単位を構成します。私たちはかならずデータの取捨選択を行っています。
 私はただそのデータの選択のことを、「お話を作る」というふうに言い換えているだけのことです。」


 ここで内田さんのいってる「お話」はもちろん「物語」と同じで、ようするに、「世の中にあふれる情報の海の中から取捨選択して、意味のあるひとつらなりの単位にまで再構成されたデータ」を「物語」と呼ぼうということだ。
 これを「物語③」とする。
 「物語③」は、より根本的で、一般的な「物語」だ。いちばん汎用性が高い用法である。そしてまた、日々の暮らしを送るうえで、意識してか無意識のうちにかに関わらず、誰しもがやってることでもある。このカオスのような世界から、適切な情報を抜き出し、それを再構成して自分にもっとも使い勝手のよい「ひとつらなりの単位」をつくる。むろん人生における経験値が増すほど、その「物語」は膨れあがり、複雑さの度を加えていくだろう。
 「物語」とひとくちにいっても、ざっと見ただけでこのとおり幾つも用例がある。それらはむろん、根底では繋がり合っているけれど、しかしやっぱり違うものではあるわけで、使うほうは自分のなかで仕分けてるからいいけれど、読むほうがぼんやりしていると、混乱を招くおそれもある。
 当ブログでもこれらの用法を一緒くたにしていて、それぞれに、なんか適切な言い換えはないもんかなあと思ってるのだが、そうやすやすとは見つからない。
 さて。冒頭へと戻って、「《物語》を批判して、《純文学》を持ち上げよう」というばあい、この《物語》ってのは、上で述べたいろいろなものを含むのだけれど、身近なところで、どうしても、「エンタメ小説」を指すことにもなる。
 エンタメ小説とは、たんじゅんにいえば「芥川賞」系に対する「直木賞」系だ。しかし直木賞受賞作なんて、一年を通じて最多でも4作までだから、ラノベまで含めた膨大な量の作品群をとうてい包摂しきれるものではない。
 ぼくは純文学を愛するあまり、ずっとエンタメ小説を敵視していた。ところが、現代史を描いたケン・フォレットの大作を読んで、それまで持っていたエンタメ小説への偏見がなくなり、熱心に読むようになった、という話を去年の夏くらいにした。
 定期的にブックオフを回って、100均の棚を漁り、目ぼしいやつをごっそり買いこむ。
 知っている名前も当然あるが(それこそ直木賞作家のものも)、まるっきり初見の名前のほうがはるかに多い。この100均の棚で出会わなければ、あるいはずっと知らないままに終わったかもしれない面々だ。
 それでまた、そんな作家たちの作品がめっぽう面白いのである。まあ「面白い」って形容の定義にもよるが、「どんどんページを繰ってしまう」という点においては、どう考えても「文學界」「群像」「新潮」「すばる」に載ってる小説とくらべて面白い。純文学バカのぼくの目から見てもそうなんだから、そりゃ一般の読者がこっちにばかり惹きつけられるのは当たり前だ。
 昨年の8月30日にやった「これは面白い。と心底思った小説100and more」には盛り切れなかったけれど、ほかにもエンタメ小説で、「めちゃオモロい」と思ったものは少なからずあるのだ。
 とはいえ、「これはぜったいエンタメ小説には逆立ちしてもできんぞ」という、純文学だけの「面白さ」もある。好きすぎて、これまで当ブログでもきちんと論じたことはないんだけれど、古井由吉さんの小説(というか文章)を読み進めるときの高ぶりは、ほかのいかなる小説からも、けっして味わえないものだ。
 ずいぶん前にも書いたけど、エンタメ小説と純文学とは鳥の両翼、どちらが欠けても一国の文芸はうまく飛べない。双方が補い合ってこその出版業界だと思う。「近代小説の成立からほぼ150年、純文学は終わった。」という説の可否をもふくめ、純文学について書くべきことは、まだ色々とあるはずだ。



あらためて、純文学について。その01

2018-05-18 | 純文学って何?
 「ダウンワード・パラダイス」は、2014年の9月に、今は亡きocnブログからここgooブログにお引越ししたのだけれど、その頃の記事を読み返してみると、当時はまだまだ「純文学」を信頼してたなあ……と思う。
 当節は「純文学」が衰え、「物語」が世を覆っている。しかし物語とは、(ハリウッド映画によく見られるとおり)個別の人間をかんたんに「キャラ付け」して「味方」と「敵」とを分かち、じっさいには豊かでふくざつな「現実」を、陳腐にストーリー化してしまう。これはよくない。
 と、いったようなことを力説していた。
 「物語」は面白い(これもハリウッド映画を思い浮かべればわかる)。そのパワーは絶大だ。ただ、そんな「物語」にばかり浸っていると、状況に流され、きちんと自分でものを考えなくなってしまう。
 そんな「物語」の威力に抗うために、やはり「純文学」は必要なのだ。みなさん純文学を読みましょう。
 おおむねそういう論旨である。
 間違ったことを言ってはいない……と今でも思うが、なんか空回りだなあ……との感は否めない。すくなくとも、今のぼくは、どのような形であれ、そこまで「純文学」を顕揚(けんよう)したい気分ではない。
 たんじゅんな話、もし「物語」に対する免疫力をつけたいなら、べつに「純文学」ならずとも、「教養って何?」で紹介しているような、他のジャンルの優れた本を読んでもいいわけで。
 ともあれ、2014年の9月にそういうことを書いて、いま2018年5月。「純文学うんぬん」というテーマにつき、このかんに起ったもっとも大きな出来事といえば、村上春樹の新作『騎士団長殺し』の発売……ではなくて、結局のところ、2015年下半期の又吉直樹『火花』芥川賞受賞だと思う。
 小説としての『火花』については、2015年の9月7日に記事を書いた。読み返してみると、言うべきことはぜんぶ言ってて、とくに付け加えることはない。言っちゃなんだが、もともとそこまでたいそうな小説でもないのだ。
 ただ、この作品はドラマになった(さらにそのあと映画化もされたが、そちらの話は割愛し、ここではドラマ版についてのみ述べる)。
 製作から放映の経緯は、wikipediaによれば以下のとおりである。

「 2015年8月27日、有料動画配信のNetflixと吉本興業によって映像化されることが明らかになる。
 同年11月上旬にクランクイン。全10話のドラマとなり、2016年春から、Netflixにて全10話一挙配信された。2017年2月26日から4月30日までNHK総合にて、約45分(最終回のみ50分)に再編集して放送された。」

 ぼくは全話通して見たんだけれど、これがほんとに良い出来だった。原作を読んで感じた「物足りなさ」がことごとく丁寧に埋められ、情感あふれる青春ドラマに仕上がっていた。脚本も監督も、複数の方が分担で担当されていたらしいが、全体に筋が一本通って、冗漫なシーンはまったくなかった。主演の林遣都という青年がことのほか良くて、これまで見たテレビドラマの中でも五本の指に入ると思ったほどだ。
 先輩芸人の神谷は、原作ではちょっと掴みどころがなく、芥川賞選者のひとり小川洋子さんなど、「天才気取りの詐欺師的理屈屋」とひどいことを言っておられたけれど、ドラマ版では、「才能はあるのに、性格が詰屈していて、客に媚びることができず、自分のスタイルにこだわりすぎて売れない」ところがきちんと出ていた。
 ただ、波岡一喜という役者さんは、ぼくの思い描く神谷とはやや違っていた。ぼくの感じだと、あんなに鋭くはなくて、それこそ「天然ボケ」というか、もうちょっととぼけた空気を漂わせているように思うのだ。それでいて、滴るような色気がある。正直なところ、ぼくのなかでは、町田康さんのイメージが最初に読んだ時から確立していて、ほかのひとが浮かばないのである。これはまあしかし、極私的な思い入れです。波岡さん、スタッフの皆さん、ファンの皆さん、すいません。
 ともあれ、よいドラマだったのだ。へんな話、あれを見たことで、原作に対する自分の評価が跳ね上がったのである。あのドラマを生む母体に、核(コア)になったのならば、『火花』はやはり名作だ。そう思った。
 しかし、裏返していえば、それは小説としての『火花』が、あらためて弱さを露呈した、ということでもある。いわば大勢のスタッフやキャストたちとの「合作」によって初めて「作品」となりえた。文学作品として、独り立ちできてはいなかった。
 版元の文藝春秋社にとって、『火花』は慶賀すべきヒット作であったろう。そのご、第二作をゲットした新潮社にも、その恩恵は及んだであろう。しかし、又吉直樹という作家の登場によって、ジャンルとしての「純文学」が息を吹き返した、というものではない。
 ぼくとしては、失礼ながら、又吉さんの生みだす「小説」にはさほどの関心はない。むしろ、マスメディア(というか、テレビ業界)における又吉さんの受容ぶりのほうに興味をひかれる。
 又吉サイドからいうならば、芥川賞作家となった芸人・又吉直樹の、テレビ業界における振舞い方、ということになるわけだが。
 ぼくはめったにテレビを見ないので、はっきりしたことは言えないのだが、テレビの中の又吉さんは、和服を着て、長髪で、けっしてはしゃいだりはせず、ぼそぼそと、口ごもるように発言する、という印象がある。
 その発言はことさら面白いわけでもないのだが、どこかしらユニークで、人情や世相の機微にふれている……。周りのひとは、ああ、やっぱりこの人は、ふつうの人とはちょっと違うな、作家なんだな、という目で彼を見直す……。
 正鵠を射ているかどうかは不明ながら、ぼくが又吉という人に抱いているイメージはそんな感じだ。
 これがもし当たっているとするならば、又吉さんは、この純文学不振の時代にあって、「文豪」のパロディーを演じることで、独特の存在感を放っている、ということになる。
 「パロディー」というのもいささか荒い言い回しだけれど、「世間のもっているステレオタイプを弁えたうえで、それを自己流に演じ直して見せる」ことをパロディーと呼ぶなら、それはまさしくパロディーだろう。
 文豪といっても、谷崎潤一郎や志賀直哉のごとく、「文壇に君臨する」といった感じではなく、このばあいは、人気はあっても終生ずっと異端者であり、けっして「権威」にはなりえなかった太宰治タイプである。繊細で、ナイーブで、青くさい。そのくせ結構したたかで、人を食ったところもある。
 いいかえれば、それは「純文学」というジャンルそのものに対して、今も昔も世間が抱くパブリックイメージなのかもしれない。
 そういう点では、おかしな話、村上春樹や村上龍や島田雅彦といった人たちよりも、又吉直樹ははるかに「純文学作家」ぽくって、少なくとも外見としてこれに匹敵するのは、世代としてはずうっと上の筒井康隆だけだ。
 なお、筒井さんもまた、まさしく「文豪」と呼ばれるに足る業績の持ち主であると同時に、芸能プロに籍を置く俳優であり、自覚的な演技者である。
 この高度ハイテク大衆消費社会にあって、「純文学」というジャンルの存在のありようを文字どおり「体現」しているのは、案外と又吉直樹(くどいようだが、その作品ではなく、ご本人そのもの)かもしれない……。
 これもまた、「純文学は救いようのないところまで衰えた」といういつもの嘆きを、べつの表現で言いなおしているだけなんだけれども。


いまどきのブンガクを考えるための10冊。

2017-10-20 | 純文学って何?
 「いまどきの、つまりポストモダン(苦笑)の文学について考えたいときに嫌でもまあ読んどかなけりゃしょうがない10冊。」というサブタイトルにしたかったんだけど、果たしてgooブログの字数制限に引っ掛ってしまった。べつにgooブログでなくてもどこのブログでも引っ掛かるとは思うが。

 芥川賞の放つ権威は、あれやこれやでジリジリと衰えつつもまだNHKニュースで報じられるくらいの余光を保ってはいる。ノーベル文学賞だって、発表されれば当の作家の本が在庫切れになるくらいの話題性はある。しかしそれらはごく限られた範囲の話で、全体としては、漱石・鷗外あたりから連綿と続いた「純文学」というシステムは、市場としてはほぼ30年前から気息奄々(きそくえんえん)、「もうダメなんじゃないの」などと言われつつ、一部有志(これは作家および編集者、そしてその周辺の人たちをふくむ)の奮闘によって辛うじて生き延びてるような状態である。そういう意味では、なんだかんだ言っても『火花』のヒットは良かったと思うし、村上春樹はえらいとも思う。業界ぜんたいを潤すわけだから。

 ありていにいって、働き盛りの中高年は忙しすぎて小説なんて読む暇がない。今も昔も、もっぱら小説を買い支えてきたのは比較てき若い世代だと思うんだけど、この人たちがさっぱり純文学を読まない。ただ、文字(ことば)で書かれた「物語」をまるっきり読まないのかというとそうでもなくて、イラストやマンガやアニメやゲームと連動した「ライトノベル」はけっこう読まれてるのである。ヒット作など累計100万部を超すそうな。どういうことじゃあ。

 と怒っていても始まらぬわけで、あくまでも「近代」のサイドに立って、「昨今の若者は劣化した。」だの「若いうちは本を読み、人格を陶冶し、教養を身に付けよ。」などと嘆いたり説教したって暖簾(のれん)に腕押し糠(ぬか)に釘、馬の耳に念仏。というのが偽らざる現実であるのだからして、ここは「それはそういうものなのだ。ニホンはそういう国になっちまったのだ」とすっぱり受け入れ、ポストモダンOK、ライトノベル上等と、そういう境地に達するよりほかないのであった。

 しかし私は長年にわたって純文学に「信仰」と呼べるくらいの思い入れを抱いてきたため、そこに達するまでにはなかなかの葛藤があった。とはいえ、よく考えてみたら10代終わりから20代はじめにかけてニーチェを熱心に読んでおり、じつにニーチェこそ、この「ポストモダン」状況を人間界にもたらした筆頭の人物ではないか。そうだったんだよなあ。これぞ灯台下暗し。(今日はコトワザが多いな)

 「ポストモダン」とは「大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する(ⓒ東浩紀)」時代のことだ。ニーチェは「神の死」という概念によってこの情況を的確かつ冷酷にあらわしたんだけど、そこでは社会(共同体)ぜんたいが挙(こぞ)って目指すべき「究極の目的」がなくなっちまったわけだから、極端にいえば、あとに残るのは「グローバル資本主義」の下で個々の競争者たち(私たちのことです)が自らの利害を賭して闘うラットレースのみ。ゆえに「人格」も「教養」も必要ないし、もっというなら「内面」や「自我」さえ余計であり、求められるのは効率よく勝ち抜いていくための「マニュアル」だけってことになる。わが国の純文学が明治このかた懸命に追求してきた数多のテーマが、ことごとく不要、というかむしろジャマにさえなってしまうのである。そう考えると、純文学が読まれないのはむしろ必然ってことにもなりかねぬ。なんてこった。

 むろんこのような時代でも、いやこのような時代だからこそ競争に疲れて精神の慰めをもとめる人々も少なからず出る。だがそういう層のためには、これもまたけっこう手際よくマニュアル化された「新宗教」とか「スピリチュアル系」が用意されていたりする。純文学の出番はなかなか回ってこない。

 そこでライトノベルなのだが、私はこの分野についてお勉強をはじめたばかりなので、まとまったことは今は言えない。これがたんなる「文字で書かれたマンガ」にすぎず、若い人たちが暇つぶしに消費しているだけなのか、あるいはもっと、本質的というかなんというか、より切実なリアリティーを希求して読み漁ってるのか、そこのところがわからない。今回のリストは、そんな私みたいな「純文学ならわりと読んできたけど、ライトノベルはよく知らない。でもちょっと興味はある」人に向けてのものである。でもそんな人がこの地球上に何人くらいおられるものか。


 01 ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2  東浩紀 講談社現代新書
 02 動物化するポストモダン 東浩紀 講談社現代新書
 03 ゼロ年代の想像力   宇野常寛 ハヤカワ文庫
 04 ニッポンの文学    佐々木敦 講談社現代新書
 05 戦闘美少女の精神分析 斎藤環   ちくま文庫
 06 物語論で読む村上春樹と宮崎駿    大塚英志 角川oneテーマ21   
 07 テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論 伊藤剛   星海社新書
 08 ユリイカ 2004年臨時増刊 西尾維新 青土社
 09 ユリイカ 2011年臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ 青土社
 10 ユリイカ 2016年9月号  新海誠 青土社





カズオ・イシグロさんのノーベル賞受賞

2017-10-07 | 純文学って何?

 昨年のボブ・ディランにはびっくりしたが、カズオ・イシグロさんのノーベル賞受賞は妥当だと思った。ただ、これで春樹さんの目がまた遠のいたなあとも思う。イシグロ氏は英国籍で英国で暮らし英語で執筆するとはいえ長崎生まれの日本人なのだし、作風も、どこか通底しているところがある。少なくとも村上龍よりは明らかに似ているであろう。じっさいイシグロ氏とハルキ氏は親交もあり、お互いの作品のファンだと公言してもいる。会見の席でイシグロ氏は、「私よりも先に受賞すべき作家を思い巡らすと、まっ先に頭に浮かぶのは村上春樹さんだ」という意味のことを述べたという。かなりの気の使いようである。

 スウェーデン・アカデミーによれば、受賞理由は「力強い感情の小説により、私たちが世界とつながっているという幻想に隠されている深い闇を明らかにした。」ことだそうである。「力強い感情の小説」って何だ。意味はわかるが、こなれない日本語である。「世界とつながっているという幻想に隠されている……」のくだりもくだくだしい。原文ではどうなってるんだろう。いずれにせよ、「世界とつながっている」ことが「私たち」の「幻想」だというのだから、ここでいう「深い闇」ってのは70年代くらいまでなら「実存的な不安」と呼ばれたものに近いだろう。『わたしを離さないで』なんてまさにそうだ。

 ぼくは『日の名残り』と『わたしを離さないで』しか読んでいないのだけど、名優アンソニー・ホプキンス主演で映画化された『日の名残り』は、謹直な執事の仕える主人がじつはナチスの協力者だったのに、執事がそのことに目をつぶっていたばかりか、戦後になっても一切その事実と向き合おうとしてないところが最大のキモである。しかもそれが、長年にわたって自分にひそかな愛情を示してくれたミス・ケントンに対する彼の男性としての(もっというなら人間としての)鈍感さ、冷淡さと絡み合っている。そこが読者にやるせない余韻を残す。

 臓器提供というショッキングな題材をSF的な設定で描いた『わたしを離さないで』もハリウッドで映画化されたし、ここ日本でも去年、綾瀬はるか主演でテレビドラマにもなったのに、今になってハヤカワepi文庫版が大手通販サイトで在庫切れになっている(ほかの作品も軒並み在庫切れ)。遅くとも2ヶ月以内には増刷する筈だから慌てることはないけれど、それにしてもなぜみんなせめてドラマ化の際に買って読んどかないんだろうなあ。

  ぼくが読んだのは、2011年4月にETVが「カズオ・イシグロをさがして」という特集を組んだ時だった。自らもたいへんな名文家である生物学者の福岡伸一、女優のともさかりえといった方々が出て、イシグロ作品への熱い思いを語ったりなどしていたが、中でもぼくは、出演者の中のもうひとりの女優に目をひかれた。文学少女が美しく成長した、といった風情のひとで、硬質ですこし屈折した表情が印象に残った。いま調べたら、小橋めぐみという方だったらしい。イシグロ作品に限らず、よく本を読んでおられるようだ。こういう女性に愛読してもらえるような小説をおれも書きたいなあと痛切に思ったが、おそらく一生ムリだろう。イシグロ氏と違って、ぼくは育ちが甚だ悪く、どちらかといえば中上健次タイプだからである。

 「カズオ・イシグロをさがして」は早晩また再放送すると思うが、こちらのサイトが(NHKの公式よりも)巧みにまとめておられるので、興味がおありの方はご覧になってみてはいかがでしょうか。

 THE MUSIC PLANT 日記https://themusicplant.blogspot.jp/2011/04/etv.html

 映画といえば、イシグロ氏は小津安二郎の作品、とりわけ原節子主演の「東京物語」や「晩秋」がお好きとのことで、作品への影響を指摘する論考も多い。このことからも知られるように、とにもかくにもイシグロ文学は上品にして繊細で、ぼくが氏の代表作の2作しか読んでないのもまさにそこのところに起因する。氏の小説はぼくには高潔すぎるのだ。大江健三郎さんは、性にかんしても暴力にかんしてももっとずっと露骨に踏み込んでいく。村上春樹とて、イシグロ氏に比べればはるかに暴力的でエロティックであろう。

 しかし、それくらい抑制のきいた手法で人間と社会のかかえる深い闇を表現できるのならばそれに越したことはない。「これは面白いと心底思った小説100冊 and more」のリストに『わたしを離さないで』を入れておいたけれど、たんに面白いというのではなく、この作品が一生つきあえるだけの豊かさを湛えているのは間違いないことだ。

 それに、節度を保っているがゆえに幅広い読者を獲得できるという面は確かにある。ぼくは長らく「大衆的な人気」と「文学性」とは相反するものだと考えてきて、だから村上春樹に対する評価も低かったんだけど、このところ、やはり小説ってのは読まれなくては話にならないんだから、人気があるのは大事なことだとつくづく思うようになった。その点においてもイシグロ氏の受賞は喜ばしいし、冒頭ではああ書いたけれど、ハルキさんにもできれば取ってほしいと思っている。

 


全集 現代文学の発見 目次

2017-04-03 | 純文学って何?
 学芸書林(学藝書林)の「現代文学の発見」シリーズのことをご存じの方は、まあ読書家としてもけっこうコアでディープなほうだろう。本は大好きだろうけど、まちがっても『騎士団長殺し』の発売日に並んだりはしないタイプだ。ぼくは二十代のはじめ、だからもう30年近く前になるが、たまたま寄った古本屋にて端本を見つけて買った。第七巻「存在の探究」の上巻だった。当時きわめて入手の難しかった埴谷雄高の「死霊」が(いまは講談社文芸文庫に入り、電子書籍化までされている)まるごと収録されて、500円くらいだったと覚えている。過去に贖った古書の中でもとりわけコストパフォーマンスのよい1冊であった。奥付を確かめると、1967年に出たもので、もともとの定価は750円。もちろん消費税はなし。このシリーズは2000年代初頭に復刊されて、一部は今でも手に入るが、そのときの価格は一冊当たりほぼ五千円だから、この50年で本がいかに高くなったかがわかる。
 このシリーズが16巻+別巻1の全17巻だとは知っていたが、これまで内容について詳しくは知らなかった。ネットが普及する前は、こんなことを調べるのさえ大変だったのだ(この点は、この50年間における喜ばしき変化ではある)。先日、ひょんなきっかけで思い立って検索を掛けてみたのだが、収録内容の細かいところを1ページで網羅してくれているサイトが見当たらなくて、ちょっとめんどうくさい思いをした。最終的には何とか調べがつきましたけどね。それで、纏めたものをここに書き写しておこうと思う。資料としても便利だし、目次とアオリ(内容紹介の宣伝コピー)を一望するだけで、なんというか、ひとつの時代精神ってものがありありと浮かび上がってくるのである。それはわれわれがあの80年代バブルのときにサヨナラしたもので、さらに、みんながスマホを弄り回している現代においては、かつてそんなものがあったことすら忘れ去られてしまったものだ。ひとことでいうならそれは、「実存の重さ」ってことになろうか。
 それでは、1960年代から70年代初頭におけるこの国の「時代精神」の一端をご確認ください。


第一巻 最初の衝撃

奴隷根性論ほか ; 日本脱出記 / 大杉栄
坑夫 / 宮嶋資夫
ですぺらより / 辻潤
性慾の触手 / 武林無想庵
アラベスクより ; 力闘より ; 展開より ; 私の未来主義と実行 / 平戸廉吉
ダダイスト新吉の詩より / 高橋新吉
死刑宣告より / 萩原恭次郎
頭の中の兵士 ; 勲章 ; 崖を登る / 壺井繁治
夜から朝へより ; 岡本潤集より / 岡本潤
第四階級の文学 ; 高村光太郎論 / 中野秀人
兵士について ; 何が道徳的か / 村山知義
唯物史観と文学 ; 第四階級の文学 / 平林初之輔
三等船客 / 前田河廣一郎
淫売婦 ; セメント樽の中の手紙 / 葉山嘉樹
ガトフ・フセグダア / 岩藤雪夫
施療室にて ; 殴る / 平林たい子
君は信ずるか / 小川未明
職工と微笑 / 松永延造
文芸批評というもの ; 芥川龍之介と志賀直哉 / 井上良雄



多くの読書人を魅了した幻の全集が、いまここに甦る!第一巻は、酒と恋と争闘の嵐が吹き荒れた大正時代を中心に、破壊と創造のエネルギーに満ちあふれた19人の小説・詩・評論30作品を収録。




第二巻 方法の実験

冥途 ; 旅順入城式 / 内田百閒
F・O・U / 佐藤春夫
蝿 ; 静かなる羅列 ; 時間 / 横光利一
水晶幻想 / 川端康成
猫町 / 萩原朔太郎
ゼーロン / 牧野信一
ルウベンスの偽画 / 堀辰雄
空想家とシナリオ / 中野重治
幽鬼の街 / 伊藤整
鷹 / 石川淳
虚空 / 埴谷雄高
月見座頭 / 神西清
赤い繭 / 安部公房
飛ぶ男 / 福永武彦
地の群れ / 井上光晴
大秘事 : 「小説平家」より / 花田清輝



第二巻『方法の実験』では、既成のリアリズム文学の打倒を目指した横光利一ら新感覚派から、安部公房をはじめとする戦後の方法的実験者たちにいたるまでの、夢と現実、生と死の交錯する16作家の小説19作品を収録。



第三巻 革命と転向

春さきの風 / 中野重治
キャラメル工場から / 佐多稲子
渦巻ける烏の群 / 黒島傳治
一九二八年三月十五日 / 小林多喜二
暴力 / 武田麟太郎
嵐に抗して / 木村良夫
過程 / 生江健次
党生活者 / 小林多喜二
牡丹のある家 / 佐多稲子
村の家 / 中野重治
団体 / 本庄陸男
欅の芽立 / 橋本英吉
日本プロレタリア文学運動の再認識 / 池田寿夫



昭和初年代から10年代にかけて革命運動に邁進した小林多喜二、中野重治らの秀作を中心に、たたかいやぶれ、やがて転向という心の屈折をも描く12作品と、プロレタリア文学運動の全体像を見せる池田寿夫の長篇評論を収録。



第四巻 政治と文学

五勺の酒 / 中野重治
審判 / 武田泰淳
顔の中の赤い月 / 野間宏
深尾正治の手記 / 椎名麟三
地下室から / 田中英光
書かれざる一章 / 井上光晴
夜の記憶 / 佐多稲子
パルタイ / 倉橋由美子
石こそ語れ / 真継伸彦
芸術・歴史・人間 / 本多秋五
原子核エネルギー (火) / 荒正人
反語的精神 / 林達夫
政治と文学 ; 「政治の優位性」とはなにか / 平野謙
一匹と九十九匹と / 福田恆存
批評の人間性 / 中野重治
日本共産党批判 / 竹内好
政治と文学 / 小林秀雄
組織と人間 / 伊藤整
政治のなかの死 / 埴谷雄高
「政治と文学」理論の破産 / 奥野健男
「革命運動の革命的批判」の問題 / 針生一郎
松川無罪確定の後 / 佐多稲子
政治と文学 / 高橋和巳



芸術は政治から自立しうるか。武田泰淳、野間宏、佐多稲子、倉橋由美子らの小説をはじめ、終戦後に巻き起こった「政治と文学」論争の中心となった中野重治、竹内好、奥野健男らの政治的論文を含む、21人の文学者の23作品を収録。



第五巻 日常のなかの危機

崖の下 / 嘉村礒多
かきつばた / 井伏鱒二
桜桃 / 太宰治
インテリゲンチア / 高見順
「愛」のかたち / 武田泰淳
野狐 / 田中英光
落穂拾い / 小山清
神の道化師 / 椎名麟三
死の棘 / 島尾敏雄
海辺の光景 / 安岡章太郎
プールサイド小景 / 庄野潤三
返照 / 小島信夫
青梅雨 / 永井龍男
幻化 / 梅崎春生



規則正しく営まれる日常。しかしそこには、運命を狂わせる突然の崩壊の危機がひそんでいる。戦後派作家を中心として、太宰治、武田泰淳、島尾敏雄らの私小説的作品から、安岡章太郎、庄野潤三、小島信夫ら「第三の新人」の代表作まで、14篇の小説を収める。



第六巻 黒いユーモア

朝の雨 / 内田百閒
曾呂利咄 / 石川淳
白毛 / 井伏鱒二
座頭H / 飯沢匡
崑崙山の人々 / 飯沢匡
第一のボタン / 武田泰淳
雑談屋 / 富士正晴
世相 / 織田作之助
棒 / 安部公房
鶏飼いのコムミュニスト / 平林彪吾
第七官界彷徨 / 尾崎翠
ジャンケンポン協定 / 佐木隆三
アクチュアルな女 / 泉大八
ああ無情 / 坂口安吾
マッチ売りの少女 / 野坂昭如
鳥獣戯話 / 花田清輝
果てしなき欲望 / 今村昌平, 山内久



黒いユーモアとは、喜劇なのか、悲劇なのか。陽気でエロティック、陰鬱で残虐、そのはざまに浮かびあがる諧謔のドラマたち。再評価高い内田百閒、尾崎翠をはじめ、井伏鱒二、織田作之助、野坂昭如らの、おかしくて、やがて哀しい17の物語。



第七巻 存在の探究 上
第八巻 存在の探究 下


上巻
桜の木の下には ; 闇の絵巻 / 梶井基次郎
いのちの初夜 / 北条民雄
悟浄出世 ; 悟浄歎異 / 中島敦
弥勒 / 稲垣足穂
深夜の酒宴 / 椎名麟三
死霊 / 埴谷雄高
ひかりごけ / 武田泰淳
スタヴローギンの現代性 / 椎名麟三
存在と非在とのっぺらぼう ; 夢について ; 可能性の作家 ; 不可能性の作家 / 埴谷雄高
滅亡について / 武田泰淳

下巻
自殺案内者 / 石上玄一郎
暗い絵 / 野間宏
摩天楼 ; 夢の中での日常 / 島尾敏雄
白痴 ; 堕落論 / 坂口安吾
野火 / 大岡昇平
S・カルマ氏の犯罪 -壁- / 安部公房
無尽燈 / 石川淳
胎内 / 三好十郎
極の誘い ; 穀物と葡萄の祝祭 ; 野性の幻影 / 吉田一穂
沙漠について ; 楕円幻想 : ヴィヨン / 花田清輝

存在とは何か。生の根源にせまるこの問いに、作家たちの想像力が挑む。幻の作品と言われた埴谷雄高の「死霊」をはじめ、稲垣足穂、北条民雄、中島敦ら、7人の作家による小説・評論15作品を収録。


存在とは何か。「死」を前にした時にあらわれるこの問いに、作家たちの想像力はどのように応えたか。窮極のテーマに挑んだ石上玄一郎、坂口安吾、野間宏、大岡昇平らの代表作を中心に、10人の作家による小説・評論15作品を収録。



第九巻 性の追求

卍 (まんじ) / 谷崎潤一郎
私は海をだきしめていたい / 坂口安吾
遠めがねの春 / 室生犀星
鳩 / 大江健三郎
砂の上の植物群 / 吉行淳之介
エロ事師たち / 野坂昭如
僧侶 : 抄 / 吉岡実
未青年 : 抄 / 春日井建
A感覚とV感覚 / 稲垣足穂



多くの読書人を魅了した幻の全集が、いまここに甦る!性の追求とは、哲学であり、批評であり、人生の抽象であり、感覚の洗練でなければならない。耽美派の谷崎から、若き性の抒情をうたい上げる春日井建、独特なエロティシズムの本質を語る稲垣足穂まで、小説・詩・短歌9作品の、性をめぐる華やかな饗宴。



第十巻 証言としての文学

俘虜記 / 大岡昇平
夏の花 / 原民喜
戦艦大和ノ最期 / 吉田満
シベリヤ物語 / 長谷川四郎
イペリット眼 / 藤枝静男
童貞 / 富士正晴
曇り日 / 堀田善衛
発作 : ある青春の記録 / 石上玄一郎
C町でのノート / 西野辰吉
暗い火花 / 木下順二
裁きは終りぬ / 開高健
私はみた / 梅崎春生
松川裁判について / 広津和郎
想像する自由 : 内部の人間の犯罪 / 秋山駿
手紙 : 罪と死と愛と / 李珍宇



文学は時代の証言となりうるのか?第二次世界大戦の経験をテーマにした『夏の花』『戦艦大和ノ最期』『シベリア物語』『童貞』から、戦後の社会的事件に対する証言を中心とした作品群まで、虚構(フィクション)と記録(ドキュメント)による15の真実。



第十一巻 日本的なるものをめぐって

吉野葛 / 谷崎潤一郎
かげろうの日記遺文 / 室生犀星
おはん / 宇野千代
吹越の城 / 井伏鱒二
北斎 / 瀧口修造
箒(ははき) / 飯沢匡
月の道化 / 花田清輝
常陸坊海尊 / 秋元松代
日本の橋 / 保田與重郎
無常という事 / 小林秀雄
日本文化私観 / 坂口安吾
真田幸村論 / 中野秀人
秋成私論 / 石川淳
和泉式部論 / 寺田透
『和泉式部日記』序 / 寺田透
戦乱時代の回想録 / 杉浦明平
盲目の景清 / 廣末保



野卑か、絢爛か。「日本的なるもの」のなかに「非近代的な可能性」をとらえ、そして「近代」を超えるために、日本的な美意識を追求した谷崎潤一郎、保田与重郎、小林秀雄ほか、再評価高い秋元松代、広末保らの評論、小説、戯曲、十六篇を収録。



第十二巻 歴史への視点

山の民 : 蜂起 / 江馬修
さざなみ軍記 / 井伏鱒二
土佐兵の勇敢な話 / 中山義秀
李陵 / 中島敦
二流の人 / 坂口安吾
落城 / 田宮虎彦
楼蘭 / 井上靖
秘事法門 / 杉浦明平
婉という女 / 大原富枝 [著



歴史小説とは史実なのか、フィクションなのか。歴史と芸術の結晶「山の民」を巻頭に、作家の代表作「李陵」「楼蘭」「婉という女」をはじめ、異色作「土佐兵の勇敢な話」「秘事法門」など、多彩な九作品を収録。



第十三巻 言語空間の探検

軍艦茉莉 / 安西冬衛
戦争 / 北川冬彦
象牙海岸 / 竹中郁
Ambarvalia / 西脇順三郎
黒い火 / 北園克衛
瀧口修造の詩的実験1927~1937 / 瀧口修造
測量船 / 三好達治
十年 / 丸山薫
春と修羅 : 第1集 / 宮澤賢治
第百階級 ; 定本蛙 / 草野心平
逸見猶吉詩集 / 逸見猶吉
海の聖母 ; 故園の書 ; 稗子傳 ; 未來者 / 吉田一穂
山羊の歌 ; 在りし日の歌 / 中原中也
富永太郎詩集 / 富永太郎
鮫 ; 女たちへのエレジー / 金子光晴
山之口貘詩集 / 山之口貘
小熊秀雄詩集 / 小熊秀雄
大阪 ; 風景詩抄 / 小野十三郎
実在の岸辺 ; 抽象の城 ; 亡羊記 / 村野四郎
鮎川信夫詩集 / 鮎川信夫
囚人 ; 荒地詩集から / 三好豊一郎
四千の日と夜 / 田村隆一
蘭 ; 定本CALENDRIER / 安東次男
無言歌 / 中村稔
かるちえ・じやぽね / 山本太郎
絵の宿題 / 関根弘
パウロウの鶴 / 長谷川龍生
不安と遊撃 / 黒田喜夫
谷川雁詩集 / 谷川雁
花の店 ; 美男 / 安西均



これ一冊で代表的な現代詩を概観できる画期的アンソロジー。「現代詩」は何をめざしたか。方法論を追求した北川冬彦、西脇順三郎らから、愛と生の歎きや希望を謳い上げた宮沢賢治、中原中也らまで、現代短歌、俳句を含む51人の代表作を収録。



第十四巻 青春の屈折 上
第十五巻 青春の屈折 下

上巻
冬の蝿 / 梶井基次郎
かめれおん日記 / 中島敦
恢復期 / 堀辰雄
若い詩人の肖像 (抄) / 伊藤整
歌のわかれ / 中野重治
故旧忘れ得べき / 高見順
古都 / 坂口安吾
真珠 / 坂口安吾
ダス・ゲマイネ / 太宰治
花筐 / 檀一雄
萱草に寄す / 立原道造
編隊飛行 (抄) / 井上立士
琵琶湖疏水 / 田宮虎彦
焦土 / 西原啓
きけわだつみのこえ : 日本戦没学生の手記 (抄) / 日本戦没学生記念会編

下巻
崩解感覚 / 野間宏
異形の者 / 武田泰淳
ガダルカナル戦詩集 / 井上光晴
ドミノのお告げ / 久坂葉子
ガラスの靴 / 安岡章太郎
天使の生活 / 中村真一郎
驟雨 / 吉行淳之介
処刑の部屋 / 石原慎太郎
叫び声 / 大江健三郎
愛のごとく / 山川方夫
ひとりの女に / 黒田三郎
意志表示 / 岸上大作
田園に死す / 寺山修司
青春残酷物語 / 大島渚



早世した梶井基次郎、中島敦、堀辰雄らの自伝的作品から、若者の破滅と自殺を描く高見順「故旧忘れ得べき」、田宮虎彦「琵琶湖疏水」、檀一雄「花筐」、戦争をテーマにした西原啓「焦土」、「きけわだつみのこえ」まで、生と死をめぐって格闘する青春群像15編。



第十六巻 物語の饗宴

蘆刈 / 谷崎潤一郎
第二の巌窟 / 白井喬二
屋根裏の散歩者 / 江戸川乱歩
あやかしの鼓 / 夢野久作
完全犯罪 / 小栗虫太郎
舞踏会事件 / 貴司山治
鍵屋の辻 / 直木三十五
名月記 / 子母澤寛
喪神 / 五味康祐
おお、大砲 / 司馬遼太郎
母子像 / 久生十蘭
鍵 / 星新一
御先祖様万歳 / 小松左京
幻の女 / 五木寛之
浣腸とマリア / 野坂昭如
越後つついし親不知 / 水上勉
姨捨 / 井上靖
女の中の悪魔 / 由起しげ子



直木三十五の時代劇あり、江戸川乱歩の推理小説あり、夢野久作のサスペンスあり、水上勉の説話あり、星新一のショート・ショートあり。小松左京、司馬遼太郎の自選作をも収録。世にも不思議な18の物語。



別巻 孤独のたたかい

曠野の記録 / 堺誠一郎
ロッダム号の船長 / 竹之内静雄
はりつけ / 白井健三郎
競輪必勝法 / 能島廉
機械と太鼓 : プロパチンカアの独白 / 北田玲一郎
阿修羅王 / 浅井美英子
先導獣の話 / 古井由吉
可愛い娘 / 帯正子
詩・詩論 / 竹内勝太郎
松ヶ鼻渡しを渡るより / 田木繁
白い花より / 秋山清
中野鈴子詩集より / 中野鈴子
荒津寛子遺稿集より / 荒津寛子
明るい人 / 犬養健

多くの読書人を魅了した幻の全集が、いまここに甦る!新装版全集完結!過去の埋もれた作品と新人の発掘を目指した、全集史上画期的な一冊。古井由吉の初期代表作「先導獣の話」、単行本未収録の犬養健「明るい人」、公募作品から帯正子「可愛い娘」ほか、詩論、詩を含む厳選された14作品。

野坂昭如さんを悼む。

2015-12-10 | 純文学って何?
 日々の雑事の合間を縫って、「相良油田」の続きの下書きをちまちまと書き溜めているなかで、野坂昭如の訃報を聞く。悲しい。これでまたひとつ、「昭和」が遠くなった気がする。野坂文学との出会いを綴るなら、またしても例の高校の図書館へと遡らざるを得ないのだけれど、追悼の記事はいずれまた日を改めて書くとして、取り急ぎここでは、一点だけを書き留めておきたい。まだ文学青年でも何でもなく、芥川賞と直木賞との違いすら定かでなかった高2のぼくは、初夏の放課後、たまたま手近な書架にあった『死者の奢り・飼育』と『アメリカひじき・火垂るの墓』(ともに新潮文庫)とを持ってきて読んだ。そのとき受けた鈍痛に似たショックは、30余年が過ぎた今もなお、胃の腑のあたりに消えがたく残っているようだ。その衝撃が大江さんによって齎されたものか野坂さんから齎されたものか、両者が渾然一体となって、もはや弁別できないのである。昭和四十年代、脂が乗りきっていた頃の野坂昭如は、のちのノーベル賞作家に勝るとも劣らぬ作品を書いていたのだ。その後ぼくは、これまた当ブログをずっと読んで下さっている方にはお馴染みの「新潮現代文学」の野坂昭如の巻を借りて一気読みすることになるのだが、そのなかの「骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけのかずら)」こそ、日本文学史に暗然と(燦然と、ではなく)輝く不朽の名作と信じている。
 いちおうは直木賞作家だけど、純文学と娯楽小説との境を無効化するような独立不羈、ワン・アンド・オンリーの巨きな作家のひとりであった。謹んでご冥福をお祈りいたします。

書キタイコトハ。/新人賞について。

2015-11-12 | 純文学って何?
 というわけで、先ほどの「小説とは何か。」2本を前置きとして、いちおうこっちがメインになります。しかしこれも読み返してみると恥ずかしいなー。いまどきの若い子だったら「ハズい」とか言うのかな。いやその言い方ももう廃れたか。よく分からんがとにかくまあ、変なことに拘ってあれこれ書いてたもんである。こんなことを一所懸命考えてるヒマがあったら目の前の小説を1行でも先に進めよう、といまのぼくならば思うところだが……。
 古い友人から「お前が書きたいことは何だ。」と改めて問われ、不意をつかれて答えあぐねて、さらに家に帰って考えを巡らせたけれど答が出ません、というのがこの記事の主旨なんだけど、この時から3年半が過ぎて、今ならば明瞭な答を返すことができる。ぼくも多少は進歩しているらしい。ただ、その回答についてはこの場ではちょっと言いづらいので、いずれまたブログ本編でゆっくり書ければいいなと思う。
 この記事を面白いと判断したのは、コメントをくれた「ドリー」さんが、のちに村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のレビューでたいへんな数の支持を集めて一気に名を上げられたからである。この方とぼくとはたぶん親子くらい齢が違うと思うんだけど、ポスト・ロスジェネ世代がハルキ文学をどのように見ているかがわかってとても興味ぶかいレビューだった。でももちろん、ぼくの世代からはまた別の見方があるよってことは言っておきたい。
 また、もうおひとりの「たま」さんのコメントに答えて4人の作家を挙げているけれど、これを見ると、この時点での自分はほんとうに文学について堅苦しくも狭量な思い込みを抱いてたんだなあ……となんだか少し悲しくなる。このときにはまだ三島由紀夫さえ読めなかったのだ。純文バカにもほどがある。このあと山田風太郎を知り、エンタメやSFや幻想小説を読み漁るようになって文学観がいっぺんに猥雑になり放埓になった。「物語」についての警戒感は保ちながらも、それはそれとして、いわば官能的に物語のなかに溺れることができるようになった。
 やはり小説とは「文体」と「物語」とが縺れ合い絡み合って織りなされるものなのである。そんな当たり前のところに帰り着くまでにえらく時間がかかっちまった。やっぱりアホだ。
 なお、「書キタイコトハ。」とカタカナ表記になっているのは、たまたまこのころflipというバンドの「ホシイモノハ。」という曲をよく耳にして、なんかいいなと思ったからで、とくに他意はございません。では。





書キタイコトハ。

初出 2012/03/30


 このあいだ、久しぶりに大学時代の友人どうしで集まり、居酒屋で飲んだ。今回の発起人となった友人の選んだ店で、店主の方が職場の後輩の知り合いだそうだ。その縁もあって、貸し切りにしていただいた。こじんまりした良い店だ。集まったのは十人ほどだが、ちょうどいい広さだった。

 お品書きを見ると、日本酒と焼酎が充実していた。ぼくは酒にはまったく素人だが、ことに日本酒は、経験や知識がないという以上にどうも相性が悪い。路上ないしそれに準ずる場所で夜明かしをした体験は、覚えているかぎりで三回ほどあるが(いずれも20代の時の話ですよ)、そのすべてに日本酒が絡んでいる。店に入って「とりあえずビール」で始めて、途中からウィスキーに切り替え、そのまま洋酒だけで通した際には、かなり度を過ごした時でも、正体を失くすまでには至らなかった。悪酔いしたのは、決まって日本酒に手を出したときだ。

 ここ数年は外で飲む機会もめっきり減り、もっぱら家にて、スーパーで買った1800mlの酸化防止剤無添加ワインをちびちびやってるだけだから、自分の酒量がどうなってんだか分からない。まして相手は日本酒である。かなり不安はあったのだが、みんな早々とビールを切り上げ、周囲はすっかりポン酒モードに入っている。特製のコップになみなみと注がれたその透明な酒がまた、やたらと旨そうなのである。話を聞くと、やはりどれもなかなかの銘酒らしい。ついに我慢できなくなり、まあ一杯くらいは大丈夫だろうと、禁域に足を踏み入れた。

 五時間ちかく長居して、かれこれ三、四杯は飲んだと思うが、ありがたいことに、これがまったく悪酔いしなかったのだ。とにかく、ぼくがこれまでに飲んだ日本酒とは口当たりも匂いも違っていた。すこし口に含んだとたん、独特の臭みが舌に広がる、というのがぼくの日本酒に持つイメージだった。今回のお店で供されたお酒はまったくそんなことはなく、すんなりと喉の奥に落ちていった。「良い酒ほど水に似る。」というのはあのことかもしれない。してみると、ぼくが日本酒と相性が悪かったのは、たんに安い酒にばかり出会っていたせいなのか。なんてこった。なんか人生の大いなる欠落を思い知らされた気分だが、ぼくのばあい、ほかにもそんなことは山ほどあるんだろうな。なんせ世間が狭いからな。

 それはそれとして、宴もたけなわとなった頃、この店を紹介してくれた当の発起人の友人が側の席に来て、ちょっと議論を仕掛けてきた。たしか英文科の出身で、卒論はグレアム・グリーンだったと思う。大学に入った時分はけっこう意気投合して、卒業までに同人誌の一冊も出そうぜなんて話をした覚えもあるが、なんやかんやで取り紛れて、結局はなにも実現しなかった。面と向かってブンガクの話をすること自体、なんだかいかにも「(約)30年ぶり」という感じで、いささか面映い。ただ、新鮮といえば新鮮でもある。

 「お前はずっと小説を書き続けているようだが、そもそも書きたいことは何なのだ。」というのが彼の問いかけである。青臭いといえばこれほど青臭い設問もなく、学生時代ですらこんな話をした覚えはないが、むろん、それは極めて本質的な設問ということでもある。あまりにも本質的であるゆえに、ぐっと言葉に詰まってしまった。

 念のために断っておくが、素面だろうと酒席だろうと、ぼくはめったに自分からこの手の話はしない。適当な相手がいないということもあるし、それ以上に、アタマが付いていかないのである。このブログではいろいろと小難しい事柄を書き連ねており、一体どちらのインテリさんですかという趣きだけど、リアル世界でのぼくはしょっちゅう道に迷うし、物は落すし、はなはだぼんやりと日々を送っているのだ。ふつうに日常生活を営んでいる時と、文章を書く時とでは、脳の中のまったく違う部分を使ってる気がする。

 それでも30代前半くらいのぼくだったら、たぶんこんな具合に答えたと思う。「《書きたいこと》というのが題材のことを意味するのなら、『題材があって作品を書く。』というのがそもそも19世紀の発想である。現代文学というか、現代芸術というのは『何を書くか。』ではなく『いかに書くか。』を問題にしている。絵画を例にとると分かりやすい。ゴッホは向日葵を描いたから偉大なのではなく、向日葵をあのように描いたからこそ偉大なのだ。同じことは小説にもいえる。ジョイスにしてもプルーストにしても、題材よりむしろ表現手段ないし表現技術の革新によって、20世紀文学の源流と目されているはずだ……」

 しかしこの回答はいかにも一般論すぎるし、なんとなく、肝心なところをはぐらかしている気がした。それで、一呼吸おいて、とりあえずこう反問してみた。

「書きたいことってのはテーマのことかな? たとえば今なら《反原発》とか、《新自由主義の風潮に対する反発》とか。もしくは、もっと個人的なことなら《父親との葛藤》とかさ。もしそういう意味だとしたら、おれには《書きたいこと》は何もないけどね」

「書きたいことがないのに、なんで小説なんか書いてんだよ?」

「いや、だからもちろん表現衝動はあるんだよ。過剰なほどに。社会に対して言いたいことは、差しさわりのない範囲でブログのほうに書いている。つまりエッセイの形式で書くわけだ。ほとんど誰も読まないけどね。小説ってのは、そこで解消しきれない表現衝動を蕩尽するために書く。同じく言葉で書かれてはいても、まるで別物なんだよね、おれの中では」

「よく分からんが、そうやって書かれた小説が、現実の社会に対して何らかの力を持つとは思えんな」

「自分の小説が、社会に対して何らかの力を持つなんてことは端から期待してないよ。おれのばあい、なんでもいいからとりあえずさっさとデビューしろよって段階だしさ。早いとこ世に出て、少しでも多くの人に読んでもらわんことには始まらない。だから最近は純文学にもさほどこだわってないよ。娯楽小説もありだと思ってる」

「いや、だからそのへんが引っかかるんだよな。《読者が付こうが付くまいが、とにかく俺はこれを書きたい》という強烈な核みたいなものがないから、そういう按配になるんじゃないのか?」

「うーん、迎合主義ってことかなあ。そう言われればそうかもしれないけど、小説なんてまず読まれなきゃ話にならないもんな。とくに今みたいに、文字メディア以外に多チャンネルテレビやネットやビデオやゲームや、何が何だかわからんくらい時間つぶしの手段が溢れかえってる時代になると、作家が生き延びていくためには、《小説》という表現手段の特質を最大限に活かしつつ、自分から読者に擦り寄っていくしかない気がするんだけどね。『1Q84』の春樹さんがそうだとは言わないにせよ」

「どうもやっぱりすっきりせんな。なんかこう、社会に向かって正面からぶつかっていくのを避けて、うまいこと流れに乗っていきたいだけのように聞こえる。逆にこういう時代だからこそ、文学が生き延びていくためには、作家個人が自分のこだわりを思いっきり打ち出していくしかないんじゃないのか」


 こんな具合で結局のところ話は平行線を辿ったわけだが(なにしろお互い酔ってますしね)、ぼくとしても、けっこう痛いところを突かれた感触はあった。それで、あとになって思い出したのが石牟礼道子さんの『苦海浄土』(講談社文庫)のことである。水俣病の被害にあった患者たちとその家族を取材したルポルタージュの名作で、しかも第一級の文学作品でもある。彼が漠然とでも思い浮かべていたのがもし『苦海浄土』のごとき作品だったとするならば、それはまあぼくの書くものなんて、どれもみな他愛もない夢想の産物ってことになっちまうだろう。

 ぼくの場合、小説のアイデアは題材やテーマではなくて、ヴィジュアル的なイメージの形で得られることが多い。たとえば街の外れのスクラップ置き場で深夜、置き捨てられた廃物たちに青い生命の炎が宿るとか。どこか高台の空き地で仲のいい高校生たちが寝転がって星空を観てるとか。それを端緒にして一編の作品ができあがっていく。しかしこれには枚数の問題があって、十数枚~30枚くらいの短編ならばいいのだけれど、200枚を超す長編となるとそうもいかない。構成を立てて、素材を集め、きちんと組み上げていく必要がある。ただ、そのケースでも「これが書きたい」という題材やテーマが先にくるわけではない。たとえばいま書いているのは小さな劇団の話なのだが、これとて別に劇団のことが書きたかったのではなく、現実と虚構とが交じり合った小集団内での人間関係を描きたいからそういう設定を選んだだけである。じゃあ、「人間関係を書きたかった」ってことになるんじゃないかと言われそうだけど、もともと小説というのは人間関係を描くもんだから、それでは何も言ったことにはならないだろう。

 本音をいうと、「おまえの書きたいことは何なんだ?」といった類いの抽象論ないし観念論は知的ゲームとしては面白いけれど、そんなことを訊く前に、とりあえずオレの小説を読んでみてよと言いたい気持はある。本来ならば、答はぜんぶその中に入っているはずだから。読んでみて「なるほど」と思ってくれたら重畳だし、「アホかいな」と思われたならそれはそれで仕方がない。自分が未熟なことは百も承知しているし、どうやらあまり才能に恵まれてないってことにも気がついている(でなければとっくにプロになってますよね)。それでもまあ、この齢になってもわずかずつながら進歩しているという感覚があるから、せいぜい精勤に書いているわけである。

 改めて考えてみても、ぼくには「書きたいこと」はやっぱり無い。ただ、「書きたい」という衝動だけは一貫して在る。そして、衝動のままに書き続けることで、少しずつだけど、より高く、より深いところに足を進めている自覚はある。今のところ、そう答えておくしかないようだ。


コメント

はじめまして。いつも楽しく拝見させてもらっています。
ドリーと申すものです。

いきなり質問で恐縮なのですが、eminusさんは友人に小説を読ませて、

感想をもらったりしたことはないのでしょうか。もしあるのなら、記事にもあるように

そんな質問はされないと思いますが。

投稿 ドリー | 2012/04/08



 こんばんは。コメントありがとうございます。
 そうですね。いわゆる「文学仲間」みたいな存在はいませんが、作品が仕上がるたびに目を通してくれて、あたたかい批評をくれる友人はおりますよ。
 しかしお互いこの齢になると、相手も仕事のこととか子供のこととか、あれこれ忙しくなってくるのが分かるから、昔ほど気軽に「できたから、ちょっと読んでよ。」と言いにくい感じはありますね。
 この記事でネタにさせてもらった友人には、もう四半世紀も前の、ほとんど処女作に近い短編以来、まったく読んでもらってないんですよねー。
 でも今回、ブログをやってることは伝えたので、ここに載せた短編だけでも目を通してくれると嬉しいんですけどね。
 ただ、この2作だけだと、「読んだけど、そんで結局、おまえの書きたいことは何なんだよ。」と言われそうな気もしますが(笑)。


投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2012/04/09




  返信ありがとうございます。

 私もたまに小説を友達に読ませることもあって、

 この記事には非常に気づかされることがありました。

 もし人に自分の小説を読ませて、

 「おまえの書きたいことは何なんだよ」と返されたら、やっぱりそれは(その人にとって)あまり面白くなかったという

 ことなのではないでしょうか。

 面白かったならメッセージなどがなくてもそんなことは言われないだろうし(小説に何か主張を求めている人間は別として)面白ければ、なんだかよくわからなくても読む側からすれば多少許されるのではないかと思うのです(これは僕の実体験でそう思うのですが)

 いかがでしょう。

 

投稿 ドリー | 2012/04/10



 そうですね。もし誰かに小説を読んでもらって、「それで、これって何が書きたかったの?」と言われたならば、それはほぼ間違いなく、「詰まらんぞ。」もしくは「何だかよく分からん。」というメッセージでしょうね。
 だからふつうは、相手だってそんな言い方はしないでしょう。気まずくなるのが必定だから。もっと別のことばを選ぶと思います。
 ぼくが前回の返信で、ブログに載せた短編について、「そう言われそうな気がする。」と書いたのは、この二作だけでは、まだまだとうてい、自分の作品世界(?)を表現しきれていない、という意味です。
 というか、ドリーさんも小説をお書きになるんですね。
 ぼくのばあい、小説を書くことはブログの記事(エッセイ)を書くよりずっと難しいです。それはまさに、「書きたいこと」を持たざるが故だと思います。ほかの記事にも書いたとおり、「(自分にとっての)小説とは、言語を使って何ができるかの実験場」だと考えているので、「何かしら訴えるべき事柄があって、それを伝達するために小説という手段をとる。」わけではないんですよね。それだったら、論文かルポルタージュを書くでしょう。
 小説とはあくまでも虚構であり、現実とは別の次元に存在している。しかし、たんに狂言綺語というわけではない。あえて単純化して言ってしまえば、それは夢に似ていると思います。忘れ去ってしまえばそれまでだけど、記憶に留めて、きちんと分析していけば、そこから人生を豊かにするための沢山のヒントが得られるもの。そういうものだと思っています。

投稿 eminus | 2012/04/11



返信ありがとうございました。

なるほど、小説とは、言語を使って何ができるかの実験場・・・ですか。
まったく考えたことなかったです。

ちょっと話が横道にそれますがよろしいでしょうか。
eminusさんにお聞きしたいのですが、
新人賞を取れる作品と、とれずに落選する作品、決定的に何が違うと思いますか?

ずーっと考えて答えが出ないので、ぜひあなたの考えを訊きたいです。


投稿 ドリー | 2012/04/13



 返事を書いたら、長くなったので記事にしました。
 ぼく自身も気になっていた話なので、この機会に考えをまとめることができてよかったです。
 たいしたことは書いてませんが、よかったら、なにかの参考にしてください。

投稿 eminus | 2012/04/14



新人賞について。

初出 2012/04/13

 小説とは何ぞや、という定義にせよ、また、小説を書く方法にせよ、結局はひとりひとりの書き手が自分で探し出すものだろうから、ぼく自身の小説観を誰かに押しつけるつもりはまったくないんですけれど、「小説とは、言語を使って何ができるかの実験場」というのは、今のぼくにはいちばんしっくりきますね。大雑把なぶんだけ、射程が広い気がして。

 もっときちんと、格調たかく言うならば、「文学とは、個たる人間の根源において、その他者・社会・世界、ひいては宇宙とのつながりを全体的に把握しながら、人間であることの意味を認識してゆこうとする言葉の作業である。」というのもあります。『ゲド戦記』のあとがきに書かれた清水真砂子さんの言葉に、ぼくが少し手を加えました。「文学」についての定義として、個人的にはこれが決定版だと思っています。

 新人賞の話は難しいですね。むかし村上龍さんが、「新人賞に応募してる時点でもう駄目だよ。」といった意味のことをおっしゃっていた記憶があります。これはかなり際どい発言で、龍さん自身が群像新人賞からデビューした作家だからこそ、かろうじて暴言にならずに済んでるようなものですが……。ただ、言い方は極端にせよ、趣旨ははっきりしてますね。並外れた才能があれば、周りが放っておかないよ、ということでしょう。

 じっさい、例えば堀江敏幸さんは、新人賞を取ってデビューされたわけではないですよね。町田康さんもそうでしょう。片や大学の先生、片やパンク歌手の違いはあれ、ふだんから業界の周辺に身を置いて、エッセイなり書評なり詩なりに、傑出した文才を発揮していた。それで編集者が「ぜひいちど小説も書いてみてください。」と依頼した。よく知らないけど、たぶんそんな感じじゃないのかな。

 しかしまあ、これは才能ばかりじゃなくて、正直いって、あきらかにコネの問題もある。朝吹真理子さんは、「吉増剛造を囲む会にてスピーチしたところ、それを聞いていた編集者から小説を書くよう熱心に勧められた。」そうです(ウィキペディアより)。こういうことは、われわれのような一般人には望みがたい。そもそも、「吉増剛造を囲む会」なんぞに招かれる由もありませんから。

 そこで応募となるわけですが、まず、日本語として文章の体をなしていないもの、また、どうにかこうにかテニヲハは合っていても、小説とは言えないようなものなんかは、粗選りの段階で落とされるでしょうね。これは冗談ではありません。純文学の新人賞に中途半端なミステリや時代小説を送ってきたり、たんなる自叙伝みたいなものを送ってくる人も、けっこうおられるそうだから。

 一次審査を通過するのは、いちおうどれも、「小説」と呼ぶに値する作品なのであろうと思います。その中でさらに二次審査を通るのは、やはり技術レベルが卓越していたり、人間や社会や人生に対する深い洞察を湛えていたり、ディテールがことのほか精確に描かれていたり、従来の小説にはない新しさを放っているような作品などではないでしょうか(娯楽小説ならば、当然ながら「ストーリーの面白さ」が加わるのでしょうが、純文学の場合は必ずしもそうでもないから厄介です)。

 ただ、純文学業界においては、新人の低年齢化が進みすぎており、いま挙げた要素の中の「新しさ」ばかりが重視されている気がしますが……。じつをいうとぼくも、30も半ばを過ぎた辺りから、若い子たちの奔放な「純文学」よりも、藤沢周平、司馬遼太郎さんたちの成熟した「娯楽小説」のほうが好ましくなってきました。もちろん、「成熟した純文学」こそがいちばん好ましいわけですけれども。

 もしぼくが選者の立場であれば、綿矢りささんはもとより、いまや中堅となった阿部和重、吉田修一といった方々も、それどころか、すでに大家というべき島田雅彦、山田詠美さんでさえ、認めることができたかどうか分かりません。円熟味を増した近年の作品はともかく、デビューから1、2年くらいの作品は、かなり希薄で、荒っぽいものだったので……。はっきりいって、「新しさ」と「癖の強さ」以外に何もなかった。その一方、先ほど名を挙げた堀江さん、町田さん、朝吹さんといった方々は、さすがに第一作から「作家」と呼ぶに足る完成度を備えていました。

 ぼくは投稿歴こそ長いのですが、よくて二次選考どまりです。しかもここ7、8年くらいは出していないし、業界の内幕などはまるで知りません。ただ、外から見た印象だけで言うならば、20代のひとが挑戦するなら、やはり技術の巧拙以上に「新しさ」と「勢い」が高く買われるのかなあと思っています。しかし30代ともなると最早それだけでは駄目だろうし、まして、ぼくくらいの齢になってしまうと、いくら「実験場」だなんて言っても、そこに自ずから人生の年輪みたいなものが滲んでいないと、「アホか。」と一蹴されてしまうでしょうね。


コメント

①丁寧な長い記事にしていただいて、ありがとうございます。

 単刀直入に訊きたいのですが、その「新しさ」とは何でしょう?

 題材ですか? メッセージですか? それともスタイル?

投稿 ドリー | 2012/04/17



②純文学ではやはり三島でしょうか?
以前に比べると、文学なんてものは地に落ちているようです。その背景には文学の根源に社会を切り取る視点が変化したと思います。「美」意識が、シニズムなんかと合わさって文学からエッセイに低下しているのかも。
乱筆ですみません。

投稿 たま | 2012/04/17



 ドリーさんへ。
 小説における「メッセージ」というのは果たして何なのか、簡単な話のようでいて、よく考えると分からなくなったので、ここでは保留としておきます。
 あとの「題材」と「スタイル」ですが、これはどちらも新しさの対象になりうるでしょうね。
 ただ、題材の新しさ(1990年代初頭までの小説と比べれば、ケータイやネットのことを出すだけで、新しい風俗を描いたことになるでしょう)を書くだけならば、べつに純文学でなくてもいいですよね。
 近代文学史を瞥見しても、純文学の「新しさ」を保証するのはやはり「スタイル」、とりわけ「文体」の新しさでしょう。
 大江健三郎さんにしても村上春樹さんにしても、従来の日本文学になかった新しい文体を作り上げ、そのことによって若い世代の心情を鮮やかに掬い上げて、日本文学史に未踏の地平を切り開きました。
 これほど見事に一時代を画す才能はそう頻繁には現れませんが、やはり純文学の「新しさ」は、文体を中核とする形式(スタイル)の新しさにこそ存すると思います。
 ただ、当然のことながら、20代の人たちの書く文章は、べつにことさら自覚せずとも、年長の者の書く文章に対して、おのずから「新しい」に決まってるんですよね。この高度ハイテク社会にあっては、感性の基盤は日々更新されているわけだから。
 だから、もし新人賞に投稿する人の多くが20代だとすれば、そのような「新しさ」だけでは、自己を際立たせることはできないでしょう。
 やはり文体の裏打ちとして、自己や他者や社会や世界に対する認識の深さというものが不可欠であろうと思います。というか、新しい時代に真摯に向き合うところから、その人に固有の新しい文体が生まれてくるのではないでしょうか。



 たまさんへ。
 残念ながら、ぼくは昔から三島由紀夫という作家が駄目なんですよ。エッセイはわりと読めるんですが、小説のほうが駄目なんです。生理的に受けつけないとまで言ったら大げさですが、どうしても作品世界に入っていけない。「サーカス」とか、短編ではいくつか偏愛しているものもあるんですけど。
 いま存命の作家の中で、ぼくが心の底から大好きで、かつ尊敬もしているのは、大江健三郎、古井由吉、金井美恵子、丸山健二といった方々ですね。
 「文学なんてものは地に落ちている」「根源に社会を切り取る視点が変化した」「美意識が、シニズムなんかと合わさってエッセイに低下している」……たまさんのご指摘はどれもいちいち腑に落ちるところがありますが、私見では、少なくともここに列記した4名の作家は、このような時代にあってなお、真正の「文学」を構築し続けているんじゃないかと思っています。


投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2012/04/18


小説とは何か。

2015-11-12 | 純文学って何?
 古いブログから作家案内の記事を引っ張ってくるこの企画、さすがにそろそろタネ切れになってまいりました。自分にとっての大事な作家は、古井由吉先生をはじめまだまだ一杯おられるわけですが、あまりに大事でありすぎるためにアプローチの仕方が難しく、結局のところ独立した論は立てられぬまま徒(いたずら。「悪戯」じゃないよ)に月日ばかりが流れちまったんですねー。これではいかんと発奮して、こちらで新たに「戦後短篇小説再発見」のシリーズを始めたりもしたけど、それもただいま小川国夫「相良油田」の半ばで中断しちゃってるという。まあ、ぼくみたいな菲才にとっては、人生なんてのは何をやるにも忙しすぎるし、短すぎるってことです。
 ともあれ、作家案内はここでいったん一段落して、ブンガク関連のほかの記事を再掲しましょう。いま読み返してみたら、なんだか変に真面目に書いてて、あまり面白くなかったんだけど……。というか、いま読むとすっげぇ恥ずかしいんだけど……。このころは新人賞への投稿用の長編に掛かりきりで、けっこう煮詰まってたんだよなー。ただ、この「小説とは何か。」はろくでもないけど、この次にアップした「書キタイコトハ。」という記事と、それに頂いたコメントと、さらにそのコメントへのご返事として書いた「新人賞について。」という記事のほうは、ちょっとばかしオモロイかもしれない。だからこの「小説とは何か。」2本のほうは、とりあえずそのプロローグということで。



小説とは何か、

初出 2012年02月12日


 という設問は、ぼくのばあい一般的ないし抽象的なものにはなりえない。小説を書いているからだ。たしか18の年にコクヨの原稿用紙を買ってきて40枚ほどの短編を仕上げ、しばらく大事に持っていた記憶があるから何とまあ、もうかれこれ30年近くも書き続けていることになる。いやしかし30年かあ。いま自分で書いててびっくりした。そんじょそこらの新進作家諸君・諸嬢よりもキャリアだけなら遥かに長く、じっさいに、さすがにまだ芥川賞の選考委員に年下はいないにせよ、そのための登竜門となる文學界・群像・新潮・すばる、つまりいわゆる「四大純文学誌」の選考委員にはそろそろ年少者が入ってきている。新人賞に投稿しちゃあ、年下の子らに「世界観が浅い。」「人間が描けてない。」「死ねぼけなす」とか言われてばっさばっさと落とされているわけである。(追記 いやいや、それは最終選考にまで残ったばあいの話で、現実にはその前の下読みの段階で落とされてますから)

 しかしまあ、今ぼくはあえて面白おかしく書いているわけで、作り手のキャリアが生産物の商品価値、つまりこの場合は小説の質ってことになるが、それをなんら保証しないことはいうまでもない。将棋を例にとるならば、羽生善治はルールを覚えて10年ちょっとで竜王という最高位を取った。いっぽう、町の将棋道場にいけば、何十年と将棋を指し続けていながらアマ初段から三段どまりという方々が、(ぼくも含めて)いっぱいいる。才能ってのはそういうものだ。なにも羽生さんほどの大天才を例に出さずとも、およそプロになるほどの棋士なら小学生の時点で最低でもアマ四段が常識であり、さらにそこから試験を受けて「奨励会」という組織に入り、またその中で切磋琢磨して、激戦を勝ち抜いた一握りの俊英だけがプロの資格を許される。さらにこの奨励会には年齢制限があって、決められた年齢までに所定の段位に到達できねば強制的に退会させられる。一見すると冷酷なようだが、これはむしろ前途有為な若者になるべく早く見切りをつけさせ、ほかの進路を選ばせようという温情によるシステムなのである。しかし小説の場合は幸か不幸かプロ養成の機関もなく、年齢制限の規定もないため、ぼくみたいにアマチュアのままキャリアを重ねる者も少なくないわけだ。

 むろんぼくとて30年間ひたすら小説に心血を注いできたわけではない。貴族でもなければ資産家の子息でもないからとうぜん正業をもっているわけで、そちらのほうが忙しくなったり、またプライベートで雑事に追われたりして、小説のことを完全に失念したまま歳月を送ったこともある。本当をいうと文芸誌の新人賞にもここ7~8年ほど投稿していない。ひとつにはブログを始めたせいもあるだろう。ブログというスタイルでエッセイを書き、しかも一定のアクセスを戴いていることで、小説の執筆に向かう心理的動機のかなりの部分が昇華されているのは確かである。しかしそれでもやっぱりこのところ、暇があったらパソコンを開いて小説ないし小説っぽいものを書いている。ここ一年半くらいブログの更新は週に一度のペースだけれど、もし小説を書いてなかったら最低二回は更新できるはずであり、つまりエッセイの形式ではどうしても表現できないものが、自分の中には常にわだかまっているということだ。ここでようやく話は冒頭に戻るが、ぼくにとって「小説とは何か?」という一般的ないし抽象的な問いは存在せず、ただ「自分にとっての小説とは何か?」、もっと言うなら「自分の書いている小説とは何か?」という、極めて卑近で切実な設問だけが成立しうることになる。

 「自分にとって小説とは何か?」というテーマについてぼくがもっとも影響を受けたのは中上健次だ。若き日の中上のインタヴューの中に、「小説というのはオレにとって世界を認識する道具であり、オレが世界に対してわたりあっていくための武器なんだ。」という内容の発言があったのである。もう文献は手元にないし、とにかく昔のことだから半ば以上ぼく自身の言葉に入れ替わっているかもしれないが、たしかにそのような意味のことを中上健次は言っていた。その鮮烈な定義は今もなおぼくの座右の銘だ。とはいえ中上健次の小説はあくまでも中上健次のものなのであって、ぼく自身が世界を認識する道具ではないし、ぼく自身が世界とわたりあっていくための武器ともなりえない。ぼくには「路地」という濃密で猥雑で官能に満ちたトポスはない。ほかにも相違点はたくさんあり、むしろ最近つくづく思うのだが、じつは対極に近いのではないかという気がしている。対極に近いからこそ今までこれほど惹きつけられてきたのであり、これからは彼の引力圏から脱出を図るかたちで小説を書いていかねばならぬのではないかと、中上が逝去した年齢を迎えて、改めて心を巡らせている次第である。

 「自分が世界を認識するための道具にして、世界とわたりあっていくための武器」という定義は、いわば小説なるものの「機能」の面を規定したものだと言えるかも知れない。これとは別に、いわば純粋に本質的な面から「小説とは何か?」という設問を投げかけることも当然できる。その場合ぼくは、「自分の書いている小説は、《言葉を使って何ができるか》の実験場なり。」と答えることにしている。むろん、「何ができるか」といったところで、自分ひとりでわけのわからないことを書いて悦に入っていても仕方ないから、「読者(の意識)にどのような変容を起こさせられるか?」と言い換えたほうがより精確だろう。これは筒井康隆の作品を思い浮かべて頂いたら分かりやすいと思うのだが、十代の半ばでツツイ作品を読んで周囲の空間が捩じ曲げられたような体験をした方は、ぼくと同世代なら少なくないのではなかろうか。といって、なにも初期~中期ツツイ作品のごときナンセンス、不条理、シュール、スラップスティック小説だけを指して《実験場》と称したいわけではない。司馬遼太郎だって塩野七生だって、城山三郎だって高杉良だって、みな言語を使った企みってことに変わりはないのである。司馬さんや塩野さんは言葉によって読者の意識に「歴史」や「社会」についての重厚かつ緻密な認識を打ちたてようとしているのであり、城山さんや高杉さんならば、この「」の中が「経済」や「政治」に置き換わるわけだ。それがフィクションであるかぎり、どれもみな一種の実験ってことに違いはない(仮に新聞記事や学術論文でさえ、言葉によって創られている以上フィクションじゃないかという議論は措いておく。あくまでも社会通念上フィクションとして書かれ、フィクションとして流通している文章についての話だ)。

 ぼくのばあい、歴史や社会や経済や政治などに関する分厚い経験や知識がなく、かと言って凡庸なリアリズムはやる気がしないので、いきおい作風は幻想的となり、娯楽小説を試みたときにはそのものずばりファンタジーとなってしまう。それは往々にして子供っぽいと見なされがちだが、しかし先ほどからお名前を挙げている筒井さんをご覧になればお分かりのとおり、反リアリスティックな書き手であっても年齢を重ね、現実世界でいろいろと経験を積むうち作品には自ずと年輪が刻まれ、そこから単なる写生や私小説を超えた凄みが生じてくるものだ。今はそこに期待をかけている。自作の小説が商業レベルに達し、これ一本で身を立てられるようになればどんなにいいか(追記 まあ、そんなことを目論んでる人はこのニッポンに数万人規模でいるでしょうねえ……)。べつに自分の現状に不満を持ってるわけではないが、文筆だけに専念したほうが、もっと良いものをたくさん書ける(はずだ)からである。




小説とは何か。 学術?編

初出 2012年02月19日



 いやどうも。このところ、小説のことで頭がいっぱいなので、前回に続いてもう少しそっち方面の話をします。ひきつづき面倒な記述になりそうでアレなんですが、御用とお急ぎでない方はお付き合いのほど。

 古来より中国には「大説」と「小説」との別があり、「大説」とは例えば大新聞の社説のごとき、天下国家を正面きって論じる文章を、「小説」とは世俗に流布する雑談やら噂話の類いを指した。明治18年、坪内逍遥という人が、『小説神髄』なる書物を著し、英語のnovelに「小説」の訳語を当てた。これが本邦において「小説」という言葉が現在の意味で使われるようになった端緒らしい。この逍遥はまことに偉い人であり、彼の名前と『小説神髄』という書名は日本史の教科書にも載っている。ともかく、もともと小説なんてのは文字どおり「小さな説」の意に過ぎず、けっして立派なものではなかった。富国強兵、立身出世、実学本位、西欧列強に追いつき追い越せ、の開化期においては今よりもその傾向はなおいっそう顕著だったはずであり、とてもじゃないが、大の男が本気で取り組むものとは思われていなかった。されどその一方で明治政府は、たとえば漱石のような知識人のタマゴを倫敦に官費留学させるなどして、文化の移入に心血を注いでもいる。政治や経済や科学技術や法制度のみならず、文化面でも欧米に対する立ち遅れを痛感し、劣等感に苛まれ、馬鹿にされまいと必死になったあげくの涙ぐましい努力だったのだが、この点において我が国は、現在よりも明治期のほうが或る意味「文化国家」だったといえるかも知れない。国の根幹を支える柱のひとつとして、「文化」の意義を、はっきりと認めていたからだ。

 漱石のような立場の人たちが明治国家から期待されていたのは「小説」というより「文学」であった。「文学」という語も漢語である以上もちろん中国由来であり、これも古くから用いられていたらしいのだが、literatureの訳語として現在の意味を付与したのは西周(にし・あまね)という人である。このひとは「哲学」という訳語の創始者としても知られ、これまた偉い人なのだが、高校の日本史の教科書に載っているかどうかは知らない。その明治の御世からかれこれ130年ほどの歳月が流れ、「小説」という概念も「文学」という概念も当然ながら変質を遂げていったのだが、それでもやっぱり「小説」のほうが「文学」に比べて軽く扱われている点は変わらない。「文学部」とは言っても「小説部」とは言わない。「純文学」とは言っても「純小説」とは言わない(「純粋小説」なる呼称が提唱されたこともあったが、定着しなかった)。「大衆文学」という言い方はしないでもないが、どちらかといえば「大衆小説」「娯楽小説」のほうが通りがよい。かくのごとく「文学」は「小説」よりも数ランク高次のものと見なされているが、しかし、大学という象牙の塔の中ならばともかく、われわれの住まうこの濁世にあっては、「文学」とは何よりもまず「小説」のことであり、両者がほぼ同義語として流通している。書店に行けば一目瞭然だ。「文学書」のコーナーにはほとんど小説しか置かれてはいない。

 さりながら、ギリシア・ローマに端を発する西欧文学史の観点からすると、じつは詩と戯曲こそが「文学」の本道なのである。そちらのほうがもっとずっと古く、由緒正しい形式なのだ。むろん、神話やらホメロスのような叙事詩はさらに古い時代からあったが、それらはあくまで「物語」であって「小説」ではない。我が国の源氏物語が世界文学史上の奇蹟と称されるのは、11世紀の初頭にあって、「物語」の範疇をはるかに超えた精緻きわまる内面描写を成し遂げたゆえんだが、西欧において「novel」という形式が確立されるのはそれから600年くらい後である。ノヴェルという語はボジョーレ・ヌーヴォーとかヌーヴェル・ヴァーグとかいう場合の「ヌーヴォー」「ヌーヴェル」と同根であり、「新しい」、というかいっそ「新奇な」という意味を含んでいる。……と、ここまで調子に乗って書いてきて、ふと気になって確かめてみたら、「小説」という意味での「novel」はボッカチオの「デカメロン」など、中世イタリアの「novella」から派生したものであり、「新奇な」という意味の「novel」とはまた別の系統だそうだ。あらあら。そうなのか。うーん。いやはや。ま、こういう考証は知的パズルとしては面白いのだが、深入りすれば際限がなく、ただですら長い記事が果てしなく長大化して収拾がつかなくなるのでたいがいにしておきましょう。ともあれ、「小説」という形式が、近世~近代市民社会の成立とともに出来した、「風変わりな新参者」とでもいうべき立場だってことは事実である。

 ここまで書いてきたことは、文学史の入門書を何冊か漁ればおおよそ身につく知識で、まずは定説といっていいと思うが、以下に書くことはぼく個人の見解だから眉に唾をつけてお読みください。近世~近代小説とは、いわば「詩」と「戯曲」の双方の要素を併せ持ったかたちで成り立っていたと思うのだ。単純にいえば《地の文》が《詩》の管轄で、登場人物のせりふをあらわす「」の中が《戯曲》の管轄ということになるわけだが、ゲーテやバルザックやディケンズやドストエフスキーといった巨匠たちの作品は、この戯曲的要素の構造がきわめて堅固であるゆえに、現代のふつうの読者にも読みやすいものになっているのだと思う。古典派からロマン派あたりのクラシックが聴きやすいのとよく似ている。これがたとえばサミュエル・ベケット以降の「現代小説」になってくると、登場人物の輪郭がだんだん溶融していって、ストーリーそのものも解体され、戯曲的要素は甚だしく薄らいでくる。いきおい地の文は詩的散文へと傾き、おそろしいほど緊密かつ緻密な、しかし一般読者にとってはお世辞にも読みやすいとはいえない作品ができあがるわけだ。

 「純文学」と「大衆小説」との相違については、いろいろな定義が可能だと思うし、ぼくもこれまで当ブログにていくつかの定義を試みたが、より「詩」に近いのが「純文学」で、「戯曲」に近いのが「大衆小説」という括り方もできるかもしれない。


フェミニズムをめぐるやり取り。

2015-11-07 | 純文学って何?
 昨日は山田風太郎についての過去記事を再アップして、そのあとに、頂戴したコメントを添えておいたのだけれど、じつはあれにはまだまだ続きがござんす。ただ、その続きの部分は、以前に頂戴したコメントが伏線になっているために、そこだけを切り取って貼っても何だかよくわからない。でもそれは、フェミニズムに関するとても面白いものになっていたので、捨ててしまうのはもったいない。mottainaiは国際語。というわけで、その「伏線」の部分まで遡って、再編集のうえで再掲することにいたしましょう。やり取りのお相手は、gooブログに引っ越ししてくるまで当ブログの常連だった、沖縄在住の「かまどがま」さんです。では、まず小松左京をめぐる軽いジャブから……。



小松左京は最初に読んだ時にリアリティがないような感じがして…………というとそれはSFだから当然なのですが、
なんというか、すんなりハマれなくて、そのままになっています。面白いものがあったら教えてください。

投稿 かまどがま | 2013/05/11



 小松さんは戦後まもない頃に高橋和巳らと共に京都大学に在学していたので、とうぜんマルキシズムの洗礼を受けているわけですが、そこは20世紀の作家なので、H・G・ウェルズの「タイムマシン」みたいに、思いっきり「階級対立的世界観」を打ち出した作品はないですね。もっとスケールが大きい。
 宇宙論的な視座に立って、「人類という種」そのものの終焉と、その後に来るべきものは何か、というテーマに行ってしまいます。典型的なのは、長編『継ぐのは誰か?』でしょう。
 『日本沈没』『首都消失』『復活の日』といった作品は、いわば社会派シミュレーションノベルですが、ぼくが好きなのはその系列ではなくて、この『継ぐのは誰か?』みたいな「本格SF」に属するものです。
 これと並び称されるのが『果しなき流れの果に』で、これも物凄い小説(大説?)ですが、中盤あたりにかなり文章・構成の粗いところが見えます。
 中編~短編では、ハルキ文庫の『結晶星団』および『ゴルディアスの結び目』に収録されている作品群が(そのすべてとは申しませんけども)、小松氏がその学識と想像力と文章力とを最大限に駆使した世界レベルの本格SFだと思います。
 これとは別の系列で、落語や文楽、浄瑠璃といった古典の素養をSFっぽくアレンジした佳品も多く、ハルキ文庫の『くだんのはは』『高砂幻戯』に収録されています。こんなところでいかがでしょうか。

投稿 eminus | 2013/05/12


コメントを拝読して思い出しました。読んでピンとこなかったのが『果てしなき流れの果てに』。
eminusさんよりずっとずっと粗い流し読みなので印象のみだったのですが、それきりになってしまいました。
高橋和巳はやはりここの影響で、『邪宗門』を少しずつ読み進めています。

投稿 かまどがま | 2013/05/12



 小松左京の作品について、追記をしようと思ってブログを開けたら、ちょうどコメントを頂いていました。『果しなき流れの果に』は、中1くらいの時に近所の図書館で借りて読み、その後も何度か読み返していますが、ちょっと日本文学には類例のない形而上的エンタテイメントだから、好き嫌いが分かれるでしょうね。人によっては荒唐無稽と思うかもしれない。空間的にも時間的にも、舞台があまりに大きすぎるので……。『継ぐのは誰か?』のほうは、ミステリの体裁を取って、そこまで風呂敷を広げてはいません。
 追記をしたかったのは、小松作品にみられる男性中心主義的傾向についてです。今日のフェミニズム批評の観点からすると、いろいろと問題があるかも知れない。ことに『ゴルディアスの結び目』所収の作品の中には、表題作をも含めて、性暴力を扱った作品があるので、そのことを申し添えておきます。むろん小松氏は卑しい俗情によってそれらの主題を前面に出しているわけではないですが、作品を手に取られたさい、不快の念を抱かれてはいけませんので……。
 高橋和巳亡きあと、小松さんはSFというジャンルで彼のその「観念性」やら「大きすぎた問題意識」やら「志」を引き継ぎ、それを大衆レベルで存分に展開してみせた、という言い方もできるかもしれない……と以前にぼくは書きましたが、いま考えても、その評言はけして的外れではないと思っています。

投稿 eminus | 2013/05/13




『果てしなき流れの果てに』の内容をすっかり忘れているのに、よい印象は残っていない。その理由について、コメントを拝見して思い至りました(笑
ご指摘の「不快の念」だったはず……
「フェミニズム批評の観点」ではなくても、それはそういうものとしてなんの疑問も持たずに発言もしくは書かれたものと
もしかして、これを聞いたもしくは読んだ女性が不快に思うかもしれない、と少しでも念頭において発した言葉とには
大きな違いがあると感じています。

これはただ単に、年代または時代による認識の差のみかもしれませんが、
そう云う意味では吉本隆明も大西巨人も小松左京も同じで、ああ、この人たちはそういう概念に疑問も持たず暮らしてきた人たちなんだと
どこかで感じさせるもの言いをしていて、そう云う場面では不快とまではいかないけれど
諦めに似た感情は確かにあります。

若い人たちがそうと意識しながら書いたバイオレンスものとどちらがマシかという事ではないのですが、
読んだ瞬間に、なんだかんだリベラルなようでも、結局そうなのねと感じてしまうのです。


投稿 かまどがま | 2013/05/13



 これはたいへん難しい問題ですね。これまで半年あまりにわたって色々とお話してきた中で、いちばん難しいかもしれない。というのも、ぼくのばあい、自分が小説を書いているので……。
 世代のことはもちろんあるでしょうね。ただ、昭和ヒトケタである小松氏らの世代より、ぼくなどは遥かに「リベラル」であるはずですが、しかしそれでも、完全に女性の立場にたつことはできない。やはりそこには、「深くて暗い川(by野坂昭如)」が厳然と横たわっていると感じます。日常の暮らしの中でも、文学などの抽象化された媒体のうえでも。
 商業誌に投稿するつもりで書き溜めている小説においては、ぼくもけっこう踏み込んだことを書いていまして……。それらのエピソードや描写の中には、「女性なら、ここは絶対こういう書き方はしないだろうな。」というものは少なからずあります。
 きのう日曜美術館でフランシス・ベーコンの特集をしていましたが、芸術というものは(むろん、文学もまた芸術です)往々にして人を不快にさせたり、嫌悪感を与えたりすることもある。それを怖れては深奥に迫る表現はできない。
 もとより悪意や偏見、そうでなくとも単なる無神経さ、鈍感さによって人を傷つけるのは論外とはいえ、ひとたび芸術として昇華されたもののばあい、そこに正確な線は引けるのだろうか……。
 フェミニズム的な知性や感性が染み渡ってきた今日、これまで名作と目されてきた作品であっても、一般読者のみならず、プロの批評家のあいだでさえ、それを読んだ人の性別によって、評価が大きく異なるケースが増えてくるかもしれません。
 まあ、小松左京の小説は、がっちりと論理的に構築されている反面、わりとフェミニズム批評の餌食になりそうな「ガードの甘さ」が見て取れますね。吉本隆明、大西巨人氏らの作品に対しては、ぼく自身は、そういったものをとくに感じたことはないのですが……。それはやっぱりぼくが男だからかな……。
 ぼくが小説を書く際には、誰かに不快の念や嫌悪感を与えると思しき表現をする際には、「どうしてもこの表現は必要なのか? 自分がいま書いている作品は、それだけの値打ちのあるものか?」と自問する癖をつけていますが、きっとそれでも、その手の「自己検閲」をすり抜けているものは多いことでしょう……。

投稿 eminus | 2013/05/14


フェミニズム批判と一括りにするのにもどこか引っかかるのですが……、
亡父は昭和一桁世代ですが、
自分の娘がそういう扱いをされたら、そんなことなら戻ってこい、と云うはずのことを自分の妻にしているのに気がつかない、
自分より優秀な女性がいることをどうしても納得できない、幼児性としか思えない感覚をその年代の多くの人が持っています。

村上春樹は自分の作品を書いている時、無意識にも女性が読まないなどとは絶対に考えていないことが読みとれますが、
吉本隆明や大西巨人は、ひょっとしたら、読者を自分と違う性のものが読むことを微塵も考えていない可能性がある
と感じることがあります。
なんというか・・・著書の理解者に女性を想定していないというか・・・
性的対象以外に女性を考えて書かれていないというと極端ですが・・・立ち位置を男性に置き換えて読むことを無言で求められています。

読者が男だと、気がつかないのは当たり前なのです。男である人に向かっての言葉なのですから。
壁というか疎外感があるのです。
女性の立場に立ってということではなくて、普通にだれでも読むという意識が欠落していることを感じるのです。


投稿 かまどがま | 2013/05/14


 何年か前にNHKのEテレが、糸井重里の主催した吉本隆明(1924=大正13年生)最晩年の講演会のもようを流していまして、その会場に女性の姿の多かったことが、とても印象に残っています。その方々がすべて吉本氏のよき読者ではないでしょうけど、自分が思っていたよりも、吉本隆明は女性に読まれているのかな?と感じました。若い世代への知名度の高さは、娘さんのおかげかも知れませんが……。
 大西巨人はその吉本氏よりさらに五歳ほど年長ですが、たしかに『神聖喜劇』が多くの女性に愛読されているとは思えませんね……。ただ、これら二人の著述はきわめてロジカルで堅牢だから、「読者に女性を想定していない」というより、「読者に、論理的思考の訓練を積んでいない人を想定していない」といったほうが正確ではないかと、ぼく個人は感じます。それというのも、ぼく個人は、この方たちの著作を読んで、(まさに橋下発言に見られるような)「男性中心主義的イデオロギー」をまざまざと感じたことはないからです。
 ただし、ジャック・デリダが喝破したように、いわゆるその「論理的思考」なるものがすでに「男性中心主義的イデオロギー」の産物であると言うならば、それは実際そうかも知れません。ぼくが哲学ではなく文学こそを一生の仕事と思い定めたのも、まさにその「論理的思考=男性中心主義的イデオロギー」から逃走したいと思ったからなので……。しかしこの話はあまりに広く深くなりすぎるから、ここではこの辺にしておきましょう。
 「男性中心主義的イデオロギー」というならば、大西・吉本氏らより遥かに「やわらかい」小説を書いているはずの吉行淳之介(1924=大正13年生)、立原正秋(1926=大正15年生)といった人たちのほうに、ぼくはそれを感じますね……。「イデオロギー」というと何か信念のようにも響きますが、もっと生理の根っこに染みついたものです。それはほんとに骨がらみで、ちょっとやそっとじゃ治らない。というか、たぶんぜったい治らない。
 ずっと後輩、1949=昭和24年生まれの村上春樹にも、じつはぼくはそれを感じるのですが、村上さんがあれだけ多くの女性の支持を受けているのを見ると、彼の「男性中心主義的イデオロギー」は、女性にとって魅力的に映るのだろうと判断せざるを得ません。このあたりの機微も、たいへん難しいところです。
 ともかく、いろいろな点でものすごく大事なお話ですね。言いたいことが次々に湧いてきて際限がないので、とりあえずここまでと致しましょう。

投稿 eminus | 2013/05/15




なんと言ったらいいか・・・うまく伝わっていないかもしれないような・・・
『神聖喜劇』は愛読書です。だからこそ、立ち位置を微妙に踏み変えないと楽しめない部分が非常に気になるのです。
「男性中心主義的イデオロギー」以前の無意識の問題かもしれません、これはいつか場を改めた方が良いですね。

あと、村上春樹は、何度か述べましたが、私自身が読めていない(苦笑)ので、たとえとして出したのは間違っているかもしれません。
吉本隆明や大西巨人ほど魅力を感じていないので
この場合、出すべきではなかったと反省しています。すみません。

投稿 かまどがま | 2013/05/15



 そうですね……。うまく伝わってない気がします(笑)。小説を書く者として、とても勉強になる問答なんですが、今回はこのくらいに致しましょうか。いずれまた、場所を改めて続きをお聞かせ頂けたら幸いです。最後にふたつ(三つ?)だけご質問させてください。高村薫さんは、言葉のもっともシンプルな意味で「男性的」な小説を書く方だと思うのですが、あの方の小説を読む際は、「立ち位置の変更」は必要ないですか? あと、野上弥生子さんの場合はどうでしょう?
 もうひとつ、古今東西の男性作家のうち、そういった抵抗を覚えることなく、しぜんに読み進めることのできる作家がいるならば、その名前をぜひお聞かせください。


投稿 eminus | 2013/05/15




高村薫は確かにとても硬質な小説ですが、野上弥生子同様、立ち位置の変更の必要は感じずに楽しめます。
論理的とかそういう事ではないのですよ・・・なんというか・・・

男性作家か・・・・・・・
ざっと本棚を見まわして、改めて読書体験の乏しさに愕然としたのですが・・・・

「脳内ファンタジーでは女性を物扱いすることは当然」と思っていない、と感じられる作家(笑

いや、思いつかないのですよなかなか・・・・普通にいるはずと思っていたのですが・・・・

チェーホフ、作家じゃないけど、なだいなだ・・・・・
戯曲しか思いつかない・・・
日本の現代作家特に男性はミステリーしか読んでいないというのが致命的です。

違和感を感じずに読めるのが、そう考えると、源氏物語まで遡っても女性作家しかいない?
そんなはずは、ない。と思いたいので、もう少し考えてみます・・・・

川の深さと暗さに、改めてたじろぎそうです(笑

投稿 かまどがま | 2013/05/15



 ご返答ありがとうございます。ひとりの「男性作家」(笑)として、さらにいくつかお伺いしたいことが出てきましたけれど、ほんとうに際限がなくなりそうです……。続きはまた、場所を改めてということで……。

投稿 eminus | 2013/05/16


 ……と、ここまでが「伏線」です。このあと半年ほどのインターバルを挟んで(その間ももちろん、ほかの話題を巡って「かまどがま」さんとのやり取りは続いていました)、この時の問答にいちおうの決着が付きます。ここのところに、前回アップした山田風太郎の記事が入るとお考えください。以下はその記事に対するコメントとして頂いたものです。後半はさらに、沖縄特有の「ユタ」「ノロ」についての話にまで突入しますが……。


 (「かまどがまさんのご父君は、知識人であられたのだろうと思います。ぼくの家だと、父はもちろん、祖父だって漢文が読めたとはとても思えないので……。」という、ぼくからの返事の一節を受けて……)

 亡父は選良の家系などではなく、米屋の息子です。ただ、女系家族の中のやっと生まれた男子だったので猛烈に甘やかされて育ったことは確かで、空襲の記憶で、コレクションのレコードが焼夷弾で燃えるのを見てから防空壕に入ったなどと言っていたので、ふんだんに本は与えられていたかも知れません。年代から考えると漢籍ではなくて、教育勅語が口語体の基礎だったなどとは思いたくないがその可能性もあります……
ただ、戦況が厳しくなる前にぎりぎり基礎教育を終えている世代なので、eminus さんのお父様よりは学校も余裕があった時期だと思います。
その後の終戦含めて20年間くらいは社会が子どもの教育に心を配ることが良くも悪くも不十分だったと、今の少しだけ上の世代(団塊含める)を見て感じるところです。
積んである山田風太郎に食指が伸びないのは・・・そうか!エッセイだからですね(笑
正直に言うと、ちょっと見ても、時間を割いてというほど面白くない(笑 私がエッセイをあまり好みでないということもありますが・・・
今度図書館で見てみます。
フェミニズムのスタンスでは・・・もうこの、教育勅語を空で言える世代は全く話になりません。親に持って日々の言動を見ていたのだから確実です、リベラルなはずの吉本隆明も大西巨人も自称リベラルだった亡父も全く全然、話にならない。この線での彼らとの共通言語は無いです。
彼らにとって女性とは乳母・家政婦・娼婦のどれかでしかない。自分の娘だけが3つのどれにもカテゴライズしたくない存在・・・
それこそ、絶滅するのを待つしか対処のしようがない人たちです。


投稿 かまどがま | 2014/01/30


 フェミニズムの話は、昨年の5月にも出まして、難しいのでそのままになっていたんですが……。
 大西巨人(1919生)、吉本隆明(1924生)の名はあの時にも挙げられていましたが、この2名については、どのあたりが駄目なのか、じつはぼくにはよく分からないままです。
 あの時にも述べたとおり、吉行淳之介(1924生)、立原正秋(1926生)の2人なら、これはもう、誰が見たってフェミニズム的に「問題あり」なのは明白なんですが……。ちなみに風太郎は1922年生まれです。三島由紀夫が1925年の生まれ。「昭和」と同い年ですね。
 ご面倒でなければ、後学のために、大西巨人と吉本隆明のどこがダメなのか、具体的な作品を指してあげつらって頂くとありがたいです。ほぼ祖父と孫ほど年齢が離れているとはいえ、ぼくもいちおうオトコなので、同性の目からは視えにくいことも多いようでして。
 あと、この名前はまあ、あまり耳にしたくもないでしょうけれど、石原慎太郎は1932年生まれで、いわゆる昭和ヒトケタですね。野坂昭如、五木寛之、開高健、小松左京あたりと同世代。そして筒井康隆、井上ひさし、大江健三郎らが2、3年遅れでこれに続きます。戦時下ゆえ、この時代の1年の違いはそうとう大きいと聞いています。徴兵されるか否かで、文字どおり「生死を分ける」ことにもなったので。
 まあ、「作家」と聞いて、こうやって男の名前ばかりがずらずらっと浮かんでしまうところがすでにマズイよなあとも思いますが。しかし、書き手も読み手も今と比べて圧倒的に男性の比率が高かったのは事実でしょう。
 「教育勅語」そのものは短くて、この内容自体に女性蔑視は含まれていないと思いますが、要するにまあ、これを暗唱させられて育った世代は、硬いことばで言うならば、「家父長専制型の封建主義的イデオロギー」に骨の髄まで毒されているということでしょうか。ただ、大西・吉本クラスの思想家(ぼくは大西巨人は作家というより思想家に近いと思っています)は、さすがにそこから知性の力で抜け出ていると思うので、かまどがまさんがお感じになっているこの二人の問題点を、ぜひお聞かせ願いたいのです。
 さいごに風太郎の話を付け加えておきますと、お手持ちの書籍のうち、『人間臨終図巻』はかなり面白いと思いますよ。べつに慌てて読むほどのものではないとも思いますけども。ほかのエッセイのことはよく知りません。小説以外で凄いのは、エッセイではないですが、やはり『戦中派不戦日記』(講談社文庫/角川文庫)と『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)の二冊でしょう。20歳から23歳までの日記ですが、この年齢の若者が「銃後」の生活についてこれほどの質と量をもつ記録を留めている例は珍しいので、史料としても貴重なものだと思います。


投稿 eminus | 2014/01/31




『戦中派不戦日記』と『戦中派虫けら日記』も並んでいます。見てみますね。

大西巨人は全て手元になくて、吉本隆明は『共同幻想論』なので厄介この上ないのですが・・・
まず、大西巨人よお前もかと感じた部分は『神聖喜劇』の日本兵が中国人の女性を強姦殺戮した回顧の場面でした。場面が場面なのでフェミニズムとは最も遠いのは当然なのですが、状況が不快であるという意味では無くて、その場面の描き方に、それは至極当然のものとして描いたという感じを強く受けたのです。「惨い」という認識はあることは伝わったのですが、被害者側の持つであろう怒りや屈辱感が描く側の認識として無い・・・そう云う状況ではそういう事が当然起こると何の不条理もなくそう思っている。橋下のよく云う、そう云う状況なのだから、そう云う事は当然起こるでしょと白っと言える感覚を普通に持っていると感じました。現物が無いので引用できなくて申し訳ございません。
あと、個人的な日常風景を場面としたエッセイの中で、自分の妻を完璧に従順な所有物として認識していると感じたことがあります。
向かい合う対象ではなく、つき従うものとして保護する、飼っている愛犬に対する感情に近いものを感じました。酷い表現で申し訳ないです。

『共同幻想論』は読み進んで、対幻想で、性的な役割分担以外の差別はあってはならない、と言いながら、母性本能を自明のものであって当然の前提としていることに違和感があります。最初からの流れで行くと、これは社会的にあることにされて烙印されている幻想じゃないか?と思うのですが・・・これはもうページをぱらぱらめくって書ける事では無くて読書会をしないと正確に言っていることにはならないのですが・・・

大江健三郎は確かにわずか下ですが、意識は全く違いますね。躊躇なく虐げられる側に立てる、というか虐げられる側をテーマに描ける。


作家を挙げた時に、この時代は男性ばかりがでてくるのはもう状況として仕方がないと思いますが、その時代に女性で同じくらいの教養と財力があり物を書いていた人はわずかですが、そういう時代だからこそ透徹した見方は女性作家の方ができているのかと思います。と明治生まれの野上弥生子がすぐ浮かぶのですが・・

投稿 かまどがま | 2014/01/31



 いやあ……こちらからお願いしておいてアレなんですが、これはまた、思っていた以上にたいへんな話になってしまいました(笑)。『神聖喜劇』(光文社文庫・全5巻)も『共同幻想論』(角川文庫)も、何度か読んではおりますが、これまで、ご指摘のような点が気になったことはないんです。もういちど、慎重に読み返してみましょう。
 ことに『共同幻想論』のほうは、個幻想⇒対幻想⇒共同幻想への展開というのが立論の要になっているので、根底的な批判になりうるかも知れませんね。
 『神聖喜劇』はいちおう小説であり、しかも戦争という異常な状況を描いたものだから、難しいところはあると思いますが……。ぎっしりと内容の詰まった大長編のため、すぐには当該箇所が見つからなかったんですよ。大前田軍曹の回想シーンだと思うのですが……。これもゆっくり読み返します。
 大西さんのエッセイは読んだことがないのですが、ネットで探してみたところ、「大西巨人の随筆を読んだが、『妻』に対する家父長専制ぶりが目に余る。」という意味のことを書いている方がおられました。どうやら男性らしいのですが、大江健三郎氏が『家内』ということばを使うことにも腹を立てておられるので、そうとうにフェミニスティックな感性を備えた方のようです。
 いずれにしても、大西・吉本両氏への批判について、昨年の5月からずっと引っかかっていたので、問題点を明らかにして頂いてすっきりしました。これから自分なりに検証していきます。
 ぼくは高校のときに図書室にあった「新潮現代文学」全80巻を読み漁ることで文学の基礎を身に付けたと思っています。一人一冊の編集なので、80人の作家が取り上げられておりますが、女性は4分の1にも満たないんですね。昭和50年代半ばにあっては、まだそんな塩梅だったということです。もし同じ企画が今あれば、事情はがらりと変わるでしょう。
 ちなみに収録された女性作家は以下のとおりです。
 野上弥生子
 宇野千代
 佐多稲子
 円地文子
 幸田文
 住井すゑ
 山崎豊子
 有吉佐和子
 曽野綾子
 瀬戸内晴美
 河野多恵子
 森茉莉
 田辺聖子
 倉橋由美子

 いろいろと制約もあったのでしょうが、ざっと思いつくだけでも、網野菊、岡本かの子、宮本百合子、林芙美子、平林たい子、壷井栄、中里恒子、芝木好子、大原富枝、大庭みな子、宮尾登美子といったあたりが抜けているなあ、と感じますね。


投稿 eminus | 2014/02/01




そうそう、大前田軍曹の回想シーンでした。両方ともとにかく時間がかかる作品なので、読み返すのはなんだかお気の毒です。その他、神聖喜劇には大切に思う女性も出てきて、彼女の描き方にも女性との関わり方の立ち位置がなんとも・・・適切な言葉がなかなか思いつかないのですが、家父長的というか、自分に従属するものという感覚が大前提にあることを感じました。具体的に示せなくて本当に申し訳ないのですが。
『神聖喜劇』は一度しか読んでいなくて、その他、全体の流れはとても楽しめたのですが、これはこの時代に生まれ育った人の限界かもしれないと思いますし、その時代の男を親に持ちながらも、60年代後半から70年代にかけてのフェミニズムの興隆のど真ん中を経験し、母親とのやり取りをつぶさに見ていたからこそ過敏に感じ取ってしまうのかもしれません。ひょっとすると男性だとあまり気がつかないことかもしれません。以前ネットで神聖喜劇の読書会のようなことをして、私はHNでの書きこみで、長いこと意識して性別が明確になる書き方をしなかったのですが、大前田軍曹のこの話題ではじめて「もしかして女性ですか?」と聞かれてしまいました。たぶん強姦殺戮シーンがすでに不快なのでその不快さに隠れてしまうのかもしれません。
大西巨人の女性観に関してのみでしたら、『神聖喜劇』ではなくて、エッセイで充分だと思います。エッセイについてはネットで書いた記憶がないので読まれたのは別の男性だとは思います(笑

大江健三郎が妻を家内というのは、少し下とはいえこの世代の人に、言葉つかいの事で文句を言うのが気の毒というものです(笑
大江健三郎だから、作家だからという理由を考慮しても大目に見てあげたいなぁ、それ以外の人と比べると・・・

『共同幻想論』はもちろん、一回でサラッと読めるものではないし、私自身がどこまで読めているかという問題もあるのですが、確かに家父長的な感覚がもう120%大前提に考察が進んでいることに違和感があります。ただこれは『共同幻想論』のみからではなく、彼の他で書いたものを読んだ私の経験値からの思い込みという可能性もあります。

提示していただいた女性の作家を見てみると、 曽野綾子だけ異質ですね・・・何故でしょうね?

投稿 かまどがま | 2014/02/01



 『神聖喜劇』も『共同幻想論』も、ぼくにはとても大切な本で、折にふれて読み返しているので、まったくノー・プロブレムです。大切な本だからこそ、神棚に祭り上げて妄従するのではなく、つねに批判を加えて新しく読み直していかねばならない。それこそが正しい読み手の姿勢であり、そういった批判に耐えうるのが真の書物というものでしょう。
 たぶんまあ、人も書物も、まったく偏向してないってことはありえないわけで、最初の女性が男性の肋骨から創られたと主張して憚らない旧約聖書こそ、ジェンダー偏向の最たるものではないですか。西欧の文化史を紐解いても、「小説家」はともかく、「哲学者」はほとんどすべてが男性ばかり。それゆえに、フェミニズム思想、フェミニズム批評というものは、文化史そのものをひっくり返してしまうくらいの可能性を秘めていると思うんですよ。
 アタマではそう思うんですが、じっさいにはまあ、医学的にも社会的にもいちおう男性でありまして、当然ながら、いろいろと桎梏に囚われてはいるんでしょう。だからこういう話は勉強になります。
 ただ、わが国のばあいは、これは宮廷文化という特殊な背景の賜物ながら、紫式部をはじめとする才媛たちが咲き誇りましたね。「女性作家」が男性に引けを取るどころか、どうやらもっと優秀らしいってことは、早くから実証ずみだった。そのあと長らく続いた武家社会が、女性の力を抑え込んでいたということでしょう。
 明治維新から敗戦までの約80年間も、極端にいえば、内実はほぼ軍事政権だったから、いわば武家社会みたいなもんです。「家父長専制的イデオロギー」が基盤をなしていたのも当然でした。
 あまり安易に結びつけるのは危ういかとは思いますが、戦前のニホンが「半島(植民地)」や「中国」に対して、「男」が「女」を扱うように扱っていたということはあるのではないでしょうか。むろん、家父長専制的な男が、抑圧された「妻」を扱うように、ということですが。そのいっぽう、「欧米列強」からはあたかも「女」のように扱われ、きわめて屈折した情態に置かれていた……。むりやりに病理学的に分析すれば、そうなるんじゃないかなあ。
 ちょっと話が大きくなりすぎました。しかし、いずれ準備が整えば、ブログ本編でも扱いたい題材です。
 話を戻すと、大西巨人ほどの偉大なる「ロジカル・モンスター」でさえ、なおジェンダー偏向から逃れきれないという事実は、「性差」なるものの根の深さを窺わせるに十分ですねえ……。おそろしいことだ……。
 大江健三郎さんのエッセイで「家内」という呼称を見かけると、ぼくはいつでも深い信頼と愛情をそこに感じ取りますね。ほんとうに家庭を守るということは、外に出て日々のたつきを稼いでくることに負けず劣らず困難で大変な仕事じゃないでしょうか。大江さんはそういうつもりで使っておられると思いますよ。感じ方は人それぞれなので、口を差し挟むつもりはありませんが、字面だけを捉えて難じるのではなく、もう少し深く心を配って頂けませんか、と、当のブログ主さんに言いたい気分はありますね。言いませんけどね。
 曽野綾子という人を異質と感じるのは、それはまあ、評論家としては「右翼」で「タカ派」だからだと思いますけども、「小説家」としては、ぼくが読んだかぎりでは、そういう匂いはないんですよ。この人の『神の汚れた手』(文春文庫/たぶん絶版)という作品がけっこうぼくは好きでして……。中年の産婦人科医(男)を主人公に、「生命の尊厳」をテーマにしたもので、まあ、通俗小説ですけども。
 こういうことを言うと、かまどがまさんは間違いなく不快に思われるでしょうが、「作家」として、と限定するならば、石原慎太郎なる人物も、じつはぼくは嫌いではありません。偏向ということでいうならば、まあ、あれくらい分かりやすく偏って歪んだ人格も稀でしょうけど、偏って歪んでいるゆえに(「にも関わらず」ではなく)優れた小説を書いてしまうケースも往々にしてあるわけで、そこが文学という異形のジャンルの困ったところだと思います。むろん、ろくでもない作品がほとんどなのですが、『わが人生の時の時』(新潮文庫/たぶん絶版)と、あと中期の2、3の作品だけはどうしても捨てがたいです。


投稿 eminus | 2014/02/02



石原慎太郎は天敵(笑 のような存在なので・・・ 『わが人生の時の時』は見たことが無いのですが、チャンスがあれば是非手にとってみます。

宮廷文化に触れておられましたが、沖縄の離島に住んでみて異文化性を一番感じるのが、儒教の影響が強いので強烈に家父長制が浸透していて、一家の主、その後継者である長男のたてまつられ方は驚くほどなのですが、それと同時に女性の位置が神に直結していて、地域の中の祭りは関東でいうお祭りという観光化した行事ではなく、その地域の人しか開催されていることも分からない本当に女たちが地域の神聖な場所に籠り、一家と地域の願い事を神に伝える行事が行われています。
普段は口答えすら許されない(蔭では女同志で集まってワイワイ言っているけど)、職場でも理不尽だと明確に分かっていても、ある線以上は男性の意見に逆らわないことが標準装備なのに、祖先や自然信仰の窓口は女性が受け持っていると云う微妙な力配分になっています。
このあたりをうっかりすると踏み外し、ある程度キチンと意見を言わなければいけない場面で、議論をそのまま進めてしまい、人間関係がぎくしゃくしてしまう失敗はあります(笑
家父長制と自然信仰は掘り下げるとかなり興味深いカテゴリーなのですが、とりあえず機会があるときに好奇心200%で耳を傾けるだけになっています。

自然信仰は、神の権威を表現した人造的な寺院仏閣を見たどの経験よりも、神聖とされる森の中のスポットなどは、神が降りるとしたらここに違いないという確信を持たせる神聖さがあるのですが、自然信仰そのものがどうしても欠落しているという個人的な経験値の違いがあり、そこに住んでいる者としてどうしても一歩遠慮したアプローチになるのが残念です。

投稿 かまどがま | 2014/02/02



 興味ぶかいお話ですね……。「近代」の空間のあいだに、「古代」やら「中世」がミルフィーユみたいに層をなして入り混じっている感じとでもいうか……。これは現地に身を置かぬことにはなかなか実感できないでしょうね。
 とっさに思い出したのは、『沖縄文学選』にも収められている又吉栄喜の芥川受賞作「豚の報い」でした。川村湊による行き届いた解説が附されていますが、そこには「ユタ」(霊性をそなえた女性シャーマン)「ノロ」(祝女)といった単語が見えます。なるほど。「神」の世界と「こちら側」とをつなぐ媒介者として、女性がしぜんに位置づけられているわけですか……。アスファルト・ジャングルとでもいうか、「近代」の最果てみたいな殺伐たる地域で生まれ育ったぼくには、ばくぜんと想像するしかありません。それだけにロマンティックな好奇心を覚えますが、ただ、自分がその社会で巧みに身を処していけるかと言われると、ちょっと自信がない……(笑)。
 「家父長制」と「自然信仰」という二項対立からは少しずれるかも知れませんが、「男性原理」と「女性原理」との対立というか相克というか葛藤といったテーマであれば、これは大江文学のメインテーマのひとつでもあります。自然の豊かな小宇宙としての「森」の中で、女性たちが大地に根ざした根源的なパワーを発揮する展開がよく描かれる。もちろん、そんなシンプルな紋切り型で片づけられるものではなくて、多様なイメージを駆使して、重層的で錯綜するドラマが繰り広げられるわけですが。
 さらに大江的作品世界においては、そのような女性の「力」の発露が、既成の秩序を転覆しかねないほどの「謀叛」や「反乱」にまで発展していく不穏さがあって、そこがたまらない魅力になっています。それはもちろん、シンタローなんてまるで問題にもなりません(笑)。


投稿 eminus | 2014/02/03



ユタとノロの存在ですが「神の世界」と「こちら側」の二つでは無くて、私の識別ですが、祖先を含めた死者の世界と神の世界なのです。亡くなった死者の霊と自然の中にいる神は明確に違う存在です。死者の霊が神にいつか神になるわけとはちょっと違うのですが、では神とは何かを聞かれるとそこまでは私は分からないのです(笑
ただユタとノロはあきらかに担当分野が違っていて、どちらに通じるかは偶然なのですが、姉妹に現れることが多いと聞いたことがあります。
県立病院が総合病院としてあるのですが、ここの精神科でどうしても手がつけられない症状の場合、ユタのアプローチであっさり治ることも珍しくなく、病院側から、ある時点でそれを勧められることもあるようです。内地では信じられないことですが、普通の認識として存在するのが興味深いです。

投稿 かまどがま | 2014/02/03



 ますます興味ぶかいですね……。「死者(たち)の世界」と「神の世界」は別なんですね。それもたぶん、「神々」と複数形になるのではないかという気もしますが……。その二つの世界に、われわれの棲むこちら側の世界(現世)が入り混じっている感じなのかな? そのままマジック・リアリズムですね。
 ここまでのやり取りがとても面白いので、ひとつにまとめて新たな記事としてアップさせて頂きました。もし支障があればお知らせください。


投稿 eminus | 2014/02/03


ユタとノロについては、これだけで生涯かけた研究テーマにしている方もある分野なのですが、余所から来た私なりの区分ということで書いております。地元の方、詳しい方のご指摘、ご教授、お叱り含めてどうかよろしくお願いいたします。

投稿 かまどがま | 2014/02/04



 そうですね……。この話はものすごく深くて、いろいろとお伺いしたいところですが、あまりに深すぎるために、かえって何を訊いていいか分からないというか、こちらのほうも、もう少し勉強して知識を蓄えておかねば迂闊には入り込めないぞという気がしています。
 勉強といっても、ぼくがいつもやってるように、ただ関連書籍を読み漁るだけではダメで、ここはやっぱり、じっさいにその土地に足を踏み入れて、その場所の「気」を身を以って感じ、そのうえで、さまざまな方からの話をお伺いしたり、もし可能なら、「神おろし」(……と呼んでいいのでしょうか?)の現場に居合わせたりして、少しずつ体感していくべきことなんでしょうが……。
 ともあれ、ほかの場所から移り住まれた方だからこそ、その土地では当たり前のようになっている事象を真新しく感じ、それをこうやって部外者のぼくなどにも言葉を使って伝えて下さることができるわけで、それはひとつの貴重なポジションだと思います。おかげで、「豚の報い」や「水滴」、崎山多美さんの「風水譚」といった作品が、「ふむふむ。ようするに沖縄流マジック・リアリズムだよね……」という浅はかな理解を超えて、ひどく生々しく、実感をもって読めるようになりました。そのせいかどうか分かりませんが、昨日の夜はずっと元ちとせを聴いていました。あの人は奄美ですけども。
 沖縄の地から、若い(いや別に若くなくてもいいけど)女性の作家が登場することを期待します。


投稿 eminus | 2014/02/04



eminusさんのコメント一行目「いろいろお伺いしたいところですが」で、えっ?深く尋ねられても・・・とオロオロしたのですが(笑 私にではないのでほっとしました(笑
本当に奥が深すぎて、入り口あたりにふれるだけでもドキドキです。
沖縄の文化の持つ異次元性のようなものは、文学で表現するとたぶん新しい分野が開けるほど摩訶不思議な世界感なのですが、それらは古典で表現されているようで、読み終えていないのですが『球陽』などが不思議な感覚を味わえます。
ただやはり現代文学は数は少なく、女性のものもあまりなくて、どちらかというと、ダイレクトにユタに入っていく女性や音楽などの表現の方がやりやすいようです。
その理由として思い当るのは、文学表現でつかう言語は、書き文字の日本語になるのですが、霊的な異次元感覚を表現する場合はどうしても地元の言葉で不思議な感覚などを現わすので、書き言葉に変換するとニュアンスが違ってしまうのです。
言葉と感覚双方でバイリンガルが登場するのを待つしかないですね。
映画『ウンタマギルー』をご覧になるとなんとなくわかると思いますが、あれは、格好をつけて字幕にしているのではなくて、言葉を内地の言語にすると全く違うものになってしまうからなのです。

と、考えると、海外の翻訳小説というのは、かなり正確に感じているのではないのかも・・・と不安にもなるのですが(笑

投稿 かまどがま | 2014/02/05



 そういえば沖縄絵画というのは目にしませんが……音楽はふかく浸透してますね。安室奈美恵をはじめ、沖縄出身のアーティストも多いし、独特の音階がポップスにもよく応用されていて……。「レ」と「ラ」を抜いた「ドミファソシド」のペンタトニックでしたっけ。
 『球陽』(きゅうよう)は史書なんですね。いま調べて初めて知りました。沖縄の古語で記されていたら、それだけで言霊(ことだま)がざわざわ立ち上ってくる感じでしょうが……。『おもろさうし』は上下巻が岩波文庫で出ていましたが、品切れのようです。
 新刊で、伊波普猷の『古琉球』というのが出てますね。これはちょっと見てみたいな。
 音楽や絵画はダイレクトに右脳に訴えかけるから広がりやすいんだけど、たしかにコトバというのはむずかしい。翻訳しちゃったら意味ないし、そのままだと何がなんだかわからない。そこらあたりの兼ね合いがね……。「内地」の作家ですけども、ぼくが大江さんと並んで畏敬している古井由吉という作家がいまして、このひとの文章というのはもはや通常の日本語の概念を越境しています。近代のなかに中世や古代が入り混じっている感じ。ぼくなんか、読むたびに最高級のウイスキーをあおったみたいに酔い痴れますが、鴎外の「舞姫」や一葉の「たけくらべ」にすら翻訳が入り用な若い人たちには、ちょっと読めないかもしれない。
 読み手の側のスキルアップを望みたい気分はありますね。さらさらと読んで「あー面白かった」というのではない、いくばくかの忍耐と労力を費やす読書もあると知ってほしい。それはけっして苦役ではなく、必ずや、より高い次元の快楽へとつながっているわけだから。
 勉誠出版の『沖縄文学選』にも短編「風水譚」が収録されている崎山多美さんですが、このひとの『ゆらてぃくゆりてぃく』(講談社)という作品を四方田犬彦が褒めていました。短い書評を読むかぎり、かなり面白そうです。2003年刊で、残念ながら入手は困難のようですが……。


投稿 eminus | 2014/02/06



そう云えば女性作家では崎山多美がいましたね。『ゆらてぃく~』はまだ読んでいません。何か短編集の中のものを読んだことがあります。文体は読みにくいような記憶がありますが世界感が独特でした。
球陽は『琉球民話集―球陽外巻 遺老説伝口語訳』というのが神話と民話の中間のような話が読めます。古書店で3000円くらいで出るときがあります。
沖縄のものは県内の図書館で観ることが出来るのでこちらにいると助かります。

音楽はおきなわんポップスとは全く別ですが、いわゆる民謡がかなり生活に定着しており三線(サンシン)と歌ですが古典があって、その他に酒の席などで延々と即興で弾くことがあり、興に乗るとどんどん歌が続き、数人で掛け合いのように勝手に歌が続いて行くというものがあります。地元の言葉が分からないと面白さも半分以下で残念です。
もちろん地元の言葉なので、これを自在に操れる人の年齢が限られるのでこの先どうなるのか心配です。
20代になると聞けても話せない人がほとんどになります。

投稿 かまどがま | 2014/02/06



 球陽は、外伝の「民話集」ですか。民話というのも神話と共に物語の宝庫ですよね。『琉球民話集―球陽外巻 遺老説伝口語訳』は、とりあえずamazonでは中古で6800円からとなってますね。
 インド神話の「マハーバーラタ」に興味がわいて、ちくま学芸文庫版を探したら品切になってました。聖書の4倍くらいの規模だそうです(四方田犬彦氏は16倍と書いてます。何を基準に勘定するかで変わるのかな? とにかくまあ、膨大なものには違いありません)。ちくま学芸文庫版の翻訳は、訳者の逝去によって惜しくも中断したそうですが、それでも500ページ近いものが8巻まで出ました。これも死ぬまでに一度は読んでみたいけど……。
 こうやって、「いずれ大きな図書館に行ったら探したい本ノート」がどんどん分厚くなっていきます。
 酒席に三線(サンシン)を持ち込んで、アドリブの歌が掛け合いで延々と続いていくというのは面白いですねえ。そういうノリは、ちょっとほかの地域では見られないんじゃないでしょうか。
 講談社文芸文庫から2011年に出た『現代沖縄文学選』には、崎山多美「見えないマチからションカネーが」と山入端信子「鬼火」が収められてるようですね。10人中、女性はこの2人だけです。山入端さんについては、ほかに情報がありません。
 「見えないマチからションカネーが」は、既に死んでいる水商売の女性二人が、琉球方言を交えて語るものがたりとのこと。「鬼火」も、愛人に殺された母子が、珊瑚とウツボのいる海中で語るお話とのことです。みんな語り手が死者という(笑)。これぞユタの世界でしょうか。
 若い世代の使うコトバがどんどん貧しくなってるのは(記号化している、とぼくなんかは言いたいですけど)、いずこも同じで、ほんとうに悲しいことですが……、それでも、20代の人たちが耳で聞いてわかるというのはすごい。映画「ウンタマギルー」は、むかしむかし、深夜テレビでやったのを観ましたが、台詞はまったく分かりませんでした。じつは内容もよく覚えてないんです(泣)。機会があれば改めて観てみたい、という気分ではおります(笑)。


投稿 eminus | 2014/02/07




若い人たちが沖縄言葉を聞いて分かるのは、経済的に貧しかったので子どもを持つ母親のほとんどがパートや畑に出て働いていて、子守りは外で働けないおばあさん、ひいおばあさんたちの役割だったことでかろうじて聞けるようになっています。
核家族化が浸透するのは、いなかに行くほど遅れているのですが、今の小さい子は完全に保育所に行っているので、それも伝わっていないはずです。
仕事関連で地域の人と話し込んだり、女性たちの集まりで一緒に作業をしていると、歌が出たり、そう云えば・・・風な話が広がったりするのですが、以前に亡くなった人の意志が今生きている人の様に語られたり、亡くなった人の魂が当たり前に出てきたりするのは不思議な面白さがあります。
怪談のように怖くなくて、生活空間に普通に亡くなった人の思いが流通している感じなのです。
そういう時は部分的に方言が飛び交い、流れを断ち切らない程度に、興味しんしんで質問をさしはさんでいますが、良くて8割しか理解できていないです。

投稿 かまどがま | 2014/02/07



 なるほど……世代をひとつ隔てた交わりによって、ことばが継承されたわけですか。前からふしぎに思ってたんですが、疑問がほぐれました。
 歌であるとか、亡くなった人の魂についての会話の際に方言(沖縄ことば)が出るというのは、とても象徴的ですね。ことばというものはけっして意識と切り離せなくて、深いところに関わる時には、ことばもまた深いところから出てくるということなんだろうと思います。
 死者の魂といったものが、恐ろしいものとしてではなく、なにか温かみをもって受け容れられているあたりが、いかにも土地柄ですね。やはり南方だからでしょうか……。
 そういったお話を聞くと、つくづく自分は、子供のころから「近代」に(それもきわめて中途半端な「近代」に)毒されてきたんだなあ、というふうにも感じますが、それはそれで、もう、そういう場所から自分なりの文学をつくっていくしか仕方がないです。でもさいきんは自分も、よかれあしかれ近代からはみ出してきたかなあ……と自負(?)してますけど……ぼくのいま書いている小説には、生死すら定かならざるおかしな存在がうじゃらうじゃらと登場するのです。

投稿 eminus | 2014/02/08

高橋源一郎って、やっぱしあんま好きになれんわ。

2015-10-30 | 純文学って何?
 さて。昔のブログからブンガク関係の記事を引っ張ってきてるんだけど、どれを読んでも必ずいちどは「ワタシは高2のときに文学に目覚めてうんぬん」という話をやってて、自分でもちょいと厭になりました。だけどまあ、ブンガクってものは自然科学と違って「オレと世界との関わり」を扱うものだから自分語りになっちゃうのもしょうがないかな、とも思い直しているところ。前回の丸谷さんでぜんぶ移し終えたと思ってたけど、まだ何人かの分が残ってました。それで、まずは高橋源一郎。
 なんかこのひと、今は作家というよりニューリベラル派の論客みたいになってるらしいんだけど、ごめん、そっちの話にも興味ないし、それ以上に高橋源一郎の現在についても興味がないのでよくわかりません。ここに再掲するのは5年前に書いた記事だけど、高橋さんに対するぼくの考えは、この時と比べてほとんど変化していない。
 マガジンハウスの雑誌「BRUTUS(ブルータス)」が創刊30周年を記念して、「ポップカルチャーの教科書」なる特集を組んだんですね。5年前に。「ポップカルチャー・お笑い・ゲーム・広告・文学・映画・女子・音楽・デジタル・デザイン・マンガ・演劇・通信・思想・写真・服飾・アイドル・サブカルチャー・労働文化・夜遊び・アート」という21の項目を立てて、それぞれのジャンルで1980年から2010年までの30年間を総括しようという企画。
 たとえば「音楽」の項なら菊地成孔。といった具合に、それぞれに適当な、じゃなかった適切な書き手が寄稿していたわけだけど、その「文学」の項の担当が高橋源一郎だったのです。ぼくは21項目すべてにわたり、五回に分けて感想を記したんだけど、文学はやっぱりホームグラウンドなんで、これだけは一回分をまるまる当てて独立した記事に仕立てた。それがこれ。2010年時点での「ニホン文学この30年」の総括に寄り添いながら、プチ高橋源一郎論にもなっているのがミソっていうか。例によってうざったい自分語りも入ってますが、そのあたりはご寛恕のほど。では。


BRUTUS創刊30周年記念・ポップカルチャーの教科書~その2
初出 2010/05/28


 BRUTUS創刊30周年記念特集「ポップカルチャーの教科書」を叩き台にして、あれこれ感想を綴りつつ、この30年間の文化状況に関するぼく自身の思いがちょっとでも浮かび上がればいいな、という企画の2回目。今回は五番めの項目「文学」です。
 案の定というべきか、この項目の執筆者は高橋源一郎なんだけど、この高橋さんという方には、個人的にたっぷり思い入れがある。と言ってももちろんご本人に面識はないので、その作品とか作風とか、文学シーンにおけるポジションへの思い入れなんだけど。大学時代、ぼくが文芸部の部長をしていたとき、そこに困った人がいた。現役の学生ながら、中途入学のうえ休学やら留年を重ねてすでに齢30近く。屈折していて自意識過剰で常識がなく我がままでかつ甘ったれで、ぼくはひそかに「才能のない太宰」と呼んでいたが、まさに「文学青年の成れの果て」といった感じで、文学をやっててこんな具合になっちまうんなら、早く見切りをつけたほうがいいかと思い、経済学部への転部を考えた。それくらい難儀なおっさんでした。
 顔を合わすたび議論というか口論になったが、今もよく覚えてるのが高橋源一郎への評価で、当時はまだ『さようなら、ギャングたち』くらいしか目ぼしい作品は出てなかったものの、「あれこそが日本文学の未来を担う才能だっ!」と息巻く彼に対して、ぼくは「あんなもん、ブローティガンとバーセルミ、あとヴィアンの『うたかたの日々』を混ぜ合わせて水道水で割っただけの安いカクテルじゃないスか。」と真っ向から反論した。当時ぼくが心酔していた吉本隆明が高橋さんを褒め上げてることを引き合いに出された時は、「ああいうものに騙されるから、吉本さんは若手の批評家から『脳軟化』なんて言われるんですよ。」と応じた。「高橋源一郎なんて読んでる暇があったら、あなたももっと古典の勉強したらどうスか?」なんてことも言った気がする。まあ、こっちの生意気さ加減も相当だったネ。
 とはいえ、高橋源一郎という作家に関するぼくの評価は、この方がすっかり大家となった今でもさほど変わっていない。あの頃はきちんと言葉にできなかったけど、ぼくがほんとに言いたかったのはこういうことだ。高橋さんが『さようなら、ギャングたち』でやったことは、純文学やマルクシズムにどっぷり浸かって自我を形成してきた世代、つまり絵に描いたような「内面」=「近代的自我」の持ち主にとっては斬新に映ったのかも知れないけど、そもそもマンガやアニメと一緒に育ったぼくたちにとっては別に目新しくもない。とくにぼくなんか、小学生のときはマンガに夢中で、中学になってもその延長でSFやハードボイルドを読み耽り、え? 文学って何のこと? みたいな調子でずっと来ていた。もともとが数学少年だったし。
 それが一変したのは高2のころで、たぶん自分を取り巻く状況の複雑さゆえに内面がふつふつ煮え立ってきて、これを制御するためのコトバが必要になってきたってことなんだろうけど、それこそ純文学や評論や、そういった系統の書物を図書館で借りて貪り読むようになった。そんなところに『ギャングたち』みたいなのを持ってこられても、「なんなんすか今更これ?」というよりほかにないではないか。これならわざわざ小説の形で読む必要はありません、マンガとアニメで充分に間に合ってますよ、と。だからほんとは、むしろあの困った先輩のほうが「ブンガクの未来を真摯に考えるマジメな文学青年」であり、ぼくのほうがずっと、ブンガクに対して冷淡であったのだと思う。今にして思えばよくわかる。世の中がバブルに向かって雪崩れ込んでいく80年代、「文学」が本気で延命を図るつもりなら、たしかにそっち方面に舵を切るしかなかったのだ。
 この「ポップカルチャーの教科書」の「文学」の項で高橋さんが言ってることは、彼がふだんから述べてることの要約だけど、それだけにちょっとした集大成の感もある。引用しよう。
「本屋に行くと、《日本文学》の棚には、いつも新刊が溢れていた。……(中略)……若者たちも、けっこう《日本文学》を読んでいた。『正直いうと、なんか違うかも。』と思ったが、それを口に出しては言わなかった。……(中略)……それが1980年の《日本文学》だった。」
「風が変わったような気がした。なんとなく、だけれど。その始まりが1980年だった。2月、村上春樹が雑誌に『1973年のピンボール』を発表した。村上春樹は、その前の年、『風の歌を聴け』でデビューしていた。彼の作品を支持したのは若者と、《変化》に敏感な一部の読者だけだった。《日本文学》のエラい人たちや《文壇》や文芸雑誌やその周辺に棲息している評論家や関係者たちは、《アメリカかぶれ》とか《翻訳っぽくて不自然な文章》とか《わけがわからない》とか《日本文学を知らない》とか言った。同じようなことがこの年もう一度起きた。……(中略)……田中康夫が『文藝賞』を『なんとなく、クリスタル』で受賞した。これもまた前代未聞のわけのわからない小説だった。」
 この辺りの状況把握と描写はさすがに的確で、あの頃の文学シーンはまさにそういう感じだった。「純文学」という権威が玉座から滑り落ちていき、「文壇」というギルドが少しずつ解体されていく。じつをいえばそれは1976年の村上龍『限りなく透明に近いブルー』に端を発していたのだが、今回の企画は80年から話を始めるってお約束だから、そこはまあしょうがない。で、この二人のあとに列挙されるのは、当の高橋自身をはじめ、『1980 アイコ十六歳』、『家族ゲーム』、島田雅彦、池澤夏樹、山田詠美、吉本ばなな、水村美苗、『ノーライフキング』、辻仁成(ここまで80年代)、保坂和志、多和田葉子、阿部和重、川上弘美、中原昌也、町田康、平野啓一郎(ここまで90年代)、嶽本野ばら、舞城王太郎、綿矢りさ、金原ひとみ、山崎ナオコーラ、モブ・ノリオ、岡田利則、楊逸、川上未映子といった固有名詞たち。その中に少なからぬ数の芥川賞受賞者を含むこの顔ぶれを見ていけば、たしかにあれから30年を経て、「純文学」ってやつは完膚なきまでに液状化したなァ、と納得がいく。まあ、池澤さんだけは格が違うと思うけどね。
(註 ここに2015年の又吉直樹の名を加えれば、日本の「純文学崩壊史」はほぼ完成する。)
 しかし、ひとつ言っておくべきことがある。じつは80年代から90年代半ばにかけて、もっとも圧倒的なセールスを誇った作家といえばハルキさんでもばななでも、もちろん高橋さんでもない。赤川次郎だ。これも大学時代、例の困った先輩相手に言ったことだが、「売れる」ということを基準とすれば、高橋源一郎より赤川次郎のほうがはるかに「ポップ」なのである。だけど、そんな言い方はだれもしない。それはアンディー・ウォーホルやロイ・リキテンスタインなど、いわゆる「ポップ・アート」の画家たちが、ぜんぜん「ポップ」じゃないのとよく似ている。20世紀のアメリカでいちばんポップな画家といったら、ウォルト・ディズニーに決まってるじゃないか。同様に、今の日本でポップな画家は村上隆でも奈良美智でも会田誠でもなくて、宮崎駿を頂点とするアニメ作家たちにほかならない。このへんに、「ポップカルチャー」なる概念の括りの微妙さがある。つまり、ベタに分かりやす過ぎてはだめで、必ずや相応のインテリくささが不可欠なのだ。このことは、「文学」だけに留まらず、今回の企画で扱われたすべてのジャンルにも関わってくるだろう。