当節は「純文学」が衰え、「物語」が世を覆っている。しかし物語とは、(ハリウッド映画によく見られるとおり)個別の人間をかんたんに「キャラ付け」して「味方」と「敵」とを分かち、じっさいには豊かでふくざつな「現実」を、陳腐にストーリー化してしまう。これはよくない。
と、いったようなことを力説していた。
「物語」は面白い(これもハリウッド映画を思い浮かべればわかる)。そのパワーは絶大だ。ただ、そんな「物語」にばかり浸っていると、状況に流され、きちんと自分でものを考えなくなってしまう。
そんな「物語」の威力に抗うために、やはり「純文学」は必要なのだ。みなさん純文学を読みましょう。
おおむねそういう論旨である。
間違ったことを言ってはいない……と今でも思うが、なんか空回りだなあ……との感は否めない。すくなくとも、今のぼくは、どのような形であれ、そこまで「純文学」を顕揚(けんよう)したい気分ではない。
たんじゅんな話、もし「物語」に対する免疫力をつけたいなら、べつに「純文学」ならずとも、「教養って何?」で紹介しているような、他のジャンルの優れた本を読んでもいいわけで。
ともあれ、2014年の9月にそういうことを書いて、いま2018年5月。「純文学うんぬん」というテーマにつき、このかんに起ったもっとも大きな出来事といえば、村上春樹の新作『騎士団長殺し』の発売……ではなくて、結局のところ、2015年下半期の又吉直樹『火花』芥川賞受賞だと思う。
小説としての『火花』については、2015年の9月7日に記事を書いた。読み返してみると、言うべきことはぜんぶ言ってて、とくに付け加えることはない。言っちゃなんだが、もともとそこまでたいそうな小説でもないのだ。
ただ、この作品はドラマになった(さらにそのあと映画化もされたが、そちらの話は割愛し、ここではドラマ版についてのみ述べる)。
製作から放映の経緯は、wikipediaによれば以下のとおりである。
「 2015年8月27日、有料動画配信のNetflixと吉本興業によって映像化されることが明らかになる。
同年11月上旬にクランクイン。全10話のドラマとなり、2016年春から、Netflixにて全10話一挙配信された。2017年2月26日から4月30日までNHK総合にて、約45分(最終回のみ50分)に再編集して放送された。」
ぼくは全話通して見たんだけれど、これがほんとに良い出来だった。原作を読んで感じた「物足りなさ」がことごとく丁寧に埋められ、情感あふれる青春ドラマに仕上がっていた。脚本も監督も、複数の方が分担で担当されていたらしいが、全体に筋が一本通って、冗漫なシーンはまったくなかった。主演の林遣都という青年がことのほか良くて、これまで見たテレビドラマの中でも五本の指に入ると思ったほどだ。
先輩芸人の神谷は、原作ではちょっと掴みどころがなく、芥川賞選者のひとり小川洋子さんなど、「天才気取りの詐欺師的理屈屋」とひどいことを言っておられたけれど、ドラマ版では、「才能はあるのに、性格が詰屈していて、客に媚びることができず、自分のスタイルにこだわりすぎて売れない」ところがきちんと出ていた。
ただ、波岡一喜という役者さんは、ぼくの思い描く神谷とはやや違っていた。ぼくの感じだと、あんなに鋭くはなくて、それこそ「天然ボケ」というか、もうちょっととぼけた空気を漂わせているように思うのだ。それでいて、滴るような色気がある。正直なところ、ぼくのなかでは、町田康さんのイメージが最初に読んだ時から確立していて、ほかのひとが浮かばないのである。これはまあしかし、極私的な思い入れです。波岡さん、スタッフの皆さん、ファンの皆さん、すいません。
ともあれ、よいドラマだったのだ。へんな話、あれを見たことで、原作に対する自分の評価が跳ね上がったのである。あのドラマを生む母体に、核(コア)になったのならば、『火花』はやはり名作だ。そう思った。
しかし、裏返していえば、それは小説としての『火花』が、あらためて弱さを露呈した、ということでもある。いわば大勢のスタッフやキャストたちとの「合作」によって初めて「作品」となりえた。文学作品として、独り立ちできてはいなかった。
版元の文藝春秋社にとって、『火花』は慶賀すべきヒット作であったろう。そのご、第二作をゲットした新潮社にも、その恩恵は及んだであろう。しかし、又吉直樹という作家の登場によって、ジャンルとしての「純文学」が息を吹き返した、というものではない。
ぼくとしては、失礼ながら、又吉さんの生みだす「小説」にはさほどの関心はない。むしろ、マスメディア(というか、テレビ業界)における又吉さんの受容ぶりのほうに興味をひかれる。
又吉サイドからいうならば、芥川賞作家となった芸人・又吉直樹の、テレビ業界における振舞い方、ということになるわけだが。
ぼくはめったにテレビを見ないので、はっきりしたことは言えないのだが、テレビの中の又吉さんは、和服を着て、長髪で、けっしてはしゃいだりはせず、ぼそぼそと、口ごもるように発言する、という印象がある。
その発言はことさら面白いわけでもないのだが、どこかしらユニークで、人情や世相の機微にふれている……。周りのひとは、ああ、やっぱりこの人は、ふつうの人とはちょっと違うな、作家なんだな、という目で彼を見直す……。
正鵠を射ているかどうかは不明ながら、ぼくが又吉という人に抱いているイメージはそんな感じだ。
これがもし当たっているとするならば、又吉さんは、この純文学不振の時代にあって、「文豪」のパロディーを演じることで、独特の存在感を放っている、ということになる。
「パロディー」というのもいささか荒い言い回しだけれど、「世間のもっているステレオタイプを弁えたうえで、それを自己流に演じ直して見せる」ことをパロディーと呼ぶなら、それはまさしくパロディーだろう。
文豪といっても、谷崎潤一郎や志賀直哉のごとく、「文壇に君臨する」といった感じではなく、このばあいは、人気はあっても終生ずっと異端者であり、けっして「権威」にはなりえなかった太宰治タイプである。繊細で、ナイーブで、青くさい。そのくせ結構したたかで、人を食ったところもある。
いいかえれば、それは「純文学」というジャンルそのものに対して、今も昔も世間が抱くパブリックイメージなのかもしれない。
そういう点では、おかしな話、村上春樹や村上龍や島田雅彦といった人たちよりも、又吉直樹ははるかに「純文学作家」ぽくって、少なくとも外見としてこれに匹敵するのは、世代としてはずうっと上の筒井康隆だけだ。
なお、筒井さんもまた、まさしく「文豪」と呼ばれるに足る業績の持ち主であると同時に、芸能プロに籍を置く俳優であり、自覚的な演技者である。
この高度ハイテク大衆消費社会にあって、「純文学」というジャンルの存在のありようを文字どおり「体現」しているのは、案外と又吉直樹(くどいようだが、その作品ではなく、ご本人そのもの)かもしれない……。
これもまた、「純文学は救いようのないところまで衰えた」といういつもの嘆きを、べつの表現で言いなおしているだけなんだけれども。
昨年のボブ・ディランにはびっくりしたが、カズオ・イシグロさんのノーベル賞受賞は妥当だと思った。ただ、これで春樹さんの目がまた遠のいたなあとも思う。イシグロ氏は英国籍で英国で暮らし英語で執筆するとはいえ長崎生まれの日本人なのだし、作風も、どこか通底しているところがある。少なくとも村上龍よりは明らかに似ているであろう。じっさいイシグロ氏とハルキ氏は親交もあり、お互いの作品のファンだと公言してもいる。会見の席でイシグロ氏は、「私よりも先に受賞すべき作家を思い巡らすと、まっ先に頭に浮かぶのは村上春樹さんだ」という意味のことを述べたという。かなりの気の使いようである。
スウェーデン・アカデミーによれば、受賞理由は「力強い感情の小説により、私たちが世界とつながっているという幻想に隠されている深い闇を明らかにした。」ことだそうである。「力強い感情の小説」って何だ。意味はわかるが、こなれない日本語である。「世界とつながっているという幻想に隠されている……」のくだりもくだくだしい。原文ではどうなってるんだろう。いずれにせよ、「世界とつながっている」ことが「私たち」の「幻想」だというのだから、ここでいう「深い闇」ってのは70年代くらいまでなら「実存的な不安」と呼ばれたものに近いだろう。『わたしを離さないで』なんてまさにそうだ。
ぼくは『日の名残り』と『わたしを離さないで』しか読んでいないのだけど、名優アンソニー・ホプキンス主演で映画化された『日の名残り』は、謹直な執事の仕える主人がじつはナチスの協力者だったのに、執事がそのことに目をつぶっていたばかりか、戦後になっても一切その事実と向き合おうとしてないところが最大のキモである。しかもそれが、長年にわたって自分にひそかな愛情を示してくれたミス・ケントンに対する彼の男性としての(もっというなら人間としての)鈍感さ、冷淡さと絡み合っている。そこが読者にやるせない余韻を残す。
臓器提供というショッキングな題材をSF的な設定で描いた『わたしを離さないで』もハリウッドで映画化されたし、ここ日本でも去年、綾瀬はるか主演でテレビドラマにもなったのに、今になってハヤカワepi文庫版が大手通販サイトで在庫切れになっている(ほかの作品も軒並み在庫切れ)。遅くとも2ヶ月以内には増刷する筈だから慌てることはないけれど、それにしてもなぜみんなせめてドラマ化の際に買って読んどかないんだろうなあ。
ぼくが読んだのは、2011年4月にETVが「カズオ・イシグロをさがして」という特集を組んだ時だった。自らもたいへんな名文家である生物学者の福岡伸一、女優のともさかりえといった方々が出て、イシグロ作品への熱い思いを語ったりなどしていたが、中でもぼくは、出演者の中のもうひとりの女優に目をひかれた。文学少女が美しく成長した、といった風情のひとで、硬質ですこし屈折した表情が印象に残った。いま調べたら、小橋めぐみという方だったらしい。イシグロ作品に限らず、よく本を読んでおられるようだ。こういう女性に愛読してもらえるような小説をおれも書きたいなあと痛切に思ったが、おそらく一生ムリだろう。イシグロ氏と違って、ぼくは育ちが甚だ悪く、どちらかといえば中上健次タイプだからである。
「カズオ・イシグロをさがして」は早晩また再放送すると思うが、こちらのサイトが(NHKの公式よりも)巧みにまとめておられるので、興味がおありの方はご覧になってみてはいかがでしょうか。
THE MUSIC PLANT 日記https://themusicplant.blogspot.jp/2011/04/etv.html
映画といえば、イシグロ氏は小津安二郎の作品、とりわけ原節子主演の「東京物語」や「晩秋」がお好きとのことで、作品への影響を指摘する論考も多い。このことからも知られるように、とにもかくにもイシグロ文学は上品にして繊細で、ぼくが氏の代表作の2作しか読んでないのもまさにそこのところに起因する。氏の小説はぼくには高潔すぎるのだ。大江健三郎さんは、性にかんしても暴力にかんしてももっとずっと露骨に踏み込んでいく。村上春樹とて、イシグロ氏に比べればはるかに暴力的でエロティックであろう。
しかし、それくらい抑制のきいた手法で人間と社会のかかえる深い闇を表現できるのならばそれに越したことはない。「これは面白いと心底思った小説100冊 and more」のリストに『わたしを離さないで』を入れておいたけれど、たんに面白いというのではなく、この作品が一生つきあえるだけの豊かさを湛えているのは間違いないことだ。
それに、節度を保っているがゆえに幅広い読者を獲得できるという面は確かにある。ぼくは長らく「大衆的な人気」と「文学性」とは相反するものだと考えてきて、だから村上春樹に対する評価も低かったんだけど、このところ、やはり小説ってのは読まれなくては話にならないんだから、人気があるのは大事なことだとつくづく思うようになった。その点においてもイシグロ氏の受賞は喜ばしいし、冒頭ではああ書いたけれど、ハルキさんにもできれば取ってほしいと思っている。
いちおうは直木賞作家だけど、純文学と娯楽小説との境を無効化するような独立不羈、ワン・アンド・オンリーの巨きな作家のひとりであった。謹んでご冥福をお祈りいたします。
ともあれ、作家案内はここでいったん一段落して、ブンガク関連のほかの記事を再掲しましょう。いま読み返してみたら、なんだか変に真面目に書いてて、あまり面白くなかったんだけど……。というか、いま読むとすっげぇ恥ずかしいんだけど……。このころは新人賞への投稿用の長編に掛かりきりで、けっこう煮詰まってたんだよなー。ただ、この「小説とは何か。」はろくでもないけど、この次にアップした「書キタイコトハ。」という記事と、それに頂いたコメントと、さらにそのコメントへのご返事として書いた「新人賞について。」という記事のほうは、ちょっとばかしオモロイかもしれない。だからこの「小説とは何か。」2本のほうは、とりあえずそのプロローグということで。
小説とは何か、
初出 2012年02月12日
という設問は、ぼくのばあい一般的ないし抽象的なものにはなりえない。小説を書いているからだ。たしか18の年にコクヨの原稿用紙を買ってきて40枚ほどの短編を仕上げ、しばらく大事に持っていた記憶があるから何とまあ、もうかれこれ30年近くも書き続けていることになる。いやしかし30年かあ。いま自分で書いててびっくりした。そんじょそこらの新進作家諸君・諸嬢よりもキャリアだけなら遥かに長く、じっさいに、さすがにまだ芥川賞の選考委員に年下はいないにせよ、そのための登竜門となる文學界・群像・新潮・すばる、つまりいわゆる「四大純文学誌」の選考委員にはそろそろ年少者が入ってきている。新人賞に投稿しちゃあ、年下の子らに「世界観が浅い。」「人間が描けてない。」「死ねぼけなす」とか言われてばっさばっさと落とされているわけである。(追記 いやいや、それは最終選考にまで残ったばあいの話で、現実にはその前の下読みの段階で落とされてますから)
しかしまあ、今ぼくはあえて面白おかしく書いているわけで、作り手のキャリアが生産物の商品価値、つまりこの場合は小説の質ってことになるが、それをなんら保証しないことはいうまでもない。将棋を例にとるならば、羽生善治はルールを覚えて10年ちょっとで竜王という最高位を取った。いっぽう、町の将棋道場にいけば、何十年と将棋を指し続けていながらアマ初段から三段どまりという方々が、(ぼくも含めて)いっぱいいる。才能ってのはそういうものだ。なにも羽生さんほどの大天才を例に出さずとも、およそプロになるほどの棋士なら小学生の時点で最低でもアマ四段が常識であり、さらにそこから試験を受けて「奨励会」という組織に入り、またその中で切磋琢磨して、激戦を勝ち抜いた一握りの俊英だけがプロの資格を許される。さらにこの奨励会には年齢制限があって、決められた年齢までに所定の段位に到達できねば強制的に退会させられる。一見すると冷酷なようだが、これはむしろ前途有為な若者になるべく早く見切りをつけさせ、ほかの進路を選ばせようという温情によるシステムなのである。しかし小説の場合は幸か不幸かプロ養成の機関もなく、年齢制限の規定もないため、ぼくみたいにアマチュアのままキャリアを重ねる者も少なくないわけだ。
むろんぼくとて30年間ひたすら小説に心血を注いできたわけではない。貴族でもなければ資産家の子息でもないからとうぜん正業をもっているわけで、そちらのほうが忙しくなったり、またプライベートで雑事に追われたりして、小説のことを完全に失念したまま歳月を送ったこともある。本当をいうと文芸誌の新人賞にもここ7~8年ほど投稿していない。ひとつにはブログを始めたせいもあるだろう。ブログというスタイルでエッセイを書き、しかも一定のアクセスを戴いていることで、小説の執筆に向かう心理的動機のかなりの部分が昇華されているのは確かである。しかしそれでもやっぱりこのところ、暇があったらパソコンを開いて小説ないし小説っぽいものを書いている。ここ一年半くらいブログの更新は週に一度のペースだけれど、もし小説を書いてなかったら最低二回は更新できるはずであり、つまりエッセイの形式ではどうしても表現できないものが、自分の中には常にわだかまっているということだ。ここでようやく話は冒頭に戻るが、ぼくにとって「小説とは何か?」という一般的ないし抽象的な問いは存在せず、ただ「自分にとっての小説とは何か?」、もっと言うなら「自分の書いている小説とは何か?」という、極めて卑近で切実な設問だけが成立しうることになる。
「自分にとって小説とは何か?」というテーマについてぼくがもっとも影響を受けたのは中上健次だ。若き日の中上のインタヴューの中に、「小説というのはオレにとって世界を認識する道具であり、オレが世界に対してわたりあっていくための武器なんだ。」という内容の発言があったのである。もう文献は手元にないし、とにかく昔のことだから半ば以上ぼく自身の言葉に入れ替わっているかもしれないが、たしかにそのような意味のことを中上健次は言っていた。その鮮烈な定義は今もなおぼくの座右の銘だ。とはいえ中上健次の小説はあくまでも中上健次のものなのであって、ぼく自身が世界を認識する道具ではないし、ぼく自身が世界とわたりあっていくための武器ともなりえない。ぼくには「路地」という濃密で猥雑で官能に満ちたトポスはない。ほかにも相違点はたくさんあり、むしろ最近つくづく思うのだが、じつは対極に近いのではないかという気がしている。対極に近いからこそ今までこれほど惹きつけられてきたのであり、これからは彼の引力圏から脱出を図るかたちで小説を書いていかねばならぬのではないかと、中上が逝去した年齢を迎えて、改めて心を巡らせている次第である。
「自分が世界を認識するための道具にして、世界とわたりあっていくための武器」という定義は、いわば小説なるものの「機能」の面を規定したものだと言えるかも知れない。これとは別に、いわば純粋に本質的な面から「小説とは何か?」という設問を投げかけることも当然できる。その場合ぼくは、「自分の書いている小説は、《言葉を使って何ができるか》の実験場なり。」と答えることにしている。むろん、「何ができるか」といったところで、自分ひとりでわけのわからないことを書いて悦に入っていても仕方ないから、「読者(の意識)にどのような変容を起こさせられるか?」と言い換えたほうがより精確だろう。これは筒井康隆の作品を思い浮かべて頂いたら分かりやすいと思うのだが、十代の半ばでツツイ作品を読んで周囲の空間が捩じ曲げられたような体験をした方は、ぼくと同世代なら少なくないのではなかろうか。といって、なにも初期~中期ツツイ作品のごときナンセンス、不条理、シュール、スラップスティック小説だけを指して《実験場》と称したいわけではない。司馬遼太郎だって塩野七生だって、城山三郎だって高杉良だって、みな言語を使った企みってことに変わりはないのである。司馬さんや塩野さんは言葉によって読者の意識に「歴史」や「社会」についての重厚かつ緻密な認識を打ちたてようとしているのであり、城山さんや高杉さんならば、この「」の中が「経済」や「政治」に置き換わるわけだ。それがフィクションであるかぎり、どれもみな一種の実験ってことに違いはない(仮に新聞記事や学術論文でさえ、言葉によって創られている以上フィクションじゃないかという議論は措いておく。あくまでも社会通念上フィクションとして書かれ、フィクションとして流通している文章についての話だ)。
ぼくのばあい、歴史や社会や経済や政治などに関する分厚い経験や知識がなく、かと言って凡庸なリアリズムはやる気がしないので、いきおい作風は幻想的となり、娯楽小説を試みたときにはそのものずばりファンタジーとなってしまう。それは往々にして子供っぽいと見なされがちだが、しかし先ほどからお名前を挙げている筒井さんをご覧になればお分かりのとおり、反リアリスティックな書き手であっても年齢を重ね、現実世界でいろいろと経験を積むうち作品には自ずと年輪が刻まれ、そこから単なる写生や私小説を超えた凄みが生じてくるものだ。今はそこに期待をかけている。自作の小説が商業レベルに達し、これ一本で身を立てられるようになればどんなにいいか(追記 まあ、そんなことを目論んでる人はこのニッポンに数万人規模でいるでしょうねえ……)。べつに自分の現状に不満を持ってるわけではないが、文筆だけに専念したほうが、もっと良いものをたくさん書ける(はずだ)からである。
小説とは何か。 学術?編
初出 2012年02月19日
いやどうも。このところ、小説のことで頭がいっぱいなので、前回に続いてもう少しそっち方面の話をします。ひきつづき面倒な記述になりそうでアレなんですが、御用とお急ぎでない方はお付き合いのほど。
古来より中国には「大説」と「小説」との別があり、「大説」とは例えば大新聞の社説のごとき、天下国家を正面きって論じる文章を、「小説」とは世俗に流布する雑談やら噂話の類いを指した。明治18年、坪内逍遥という人が、『小説神髄』なる書物を著し、英語のnovelに「小説」の訳語を当てた。これが本邦において「小説」という言葉が現在の意味で使われるようになった端緒らしい。この逍遥はまことに偉い人であり、彼の名前と『小説神髄』という書名は日本史の教科書にも載っている。ともかく、もともと小説なんてのは文字どおり「小さな説」の意に過ぎず、けっして立派なものではなかった。富国強兵、立身出世、実学本位、西欧列強に追いつき追い越せ、の開化期においては今よりもその傾向はなおいっそう顕著だったはずであり、とてもじゃないが、大の男が本気で取り組むものとは思われていなかった。されどその一方で明治政府は、たとえば漱石のような知識人のタマゴを倫敦に官費留学させるなどして、文化の移入に心血を注いでもいる。政治や経済や科学技術や法制度のみならず、文化面でも欧米に対する立ち遅れを痛感し、劣等感に苛まれ、馬鹿にされまいと必死になったあげくの涙ぐましい努力だったのだが、この点において我が国は、現在よりも明治期のほうが或る意味「文化国家」だったといえるかも知れない。国の根幹を支える柱のひとつとして、「文化」の意義を、はっきりと認めていたからだ。
漱石のような立場の人たちが明治国家から期待されていたのは「小説」というより「文学」であった。「文学」という語も漢語である以上もちろん中国由来であり、これも古くから用いられていたらしいのだが、literatureの訳語として現在の意味を付与したのは西周(にし・あまね)という人である。このひとは「哲学」という訳語の創始者としても知られ、これまた偉い人なのだが、高校の日本史の教科書に載っているかどうかは知らない。その明治の御世からかれこれ130年ほどの歳月が流れ、「小説」という概念も「文学」という概念も当然ながら変質を遂げていったのだが、それでもやっぱり「小説」のほうが「文学」に比べて軽く扱われている点は変わらない。「文学部」とは言っても「小説部」とは言わない。「純文学」とは言っても「純小説」とは言わない(「純粋小説」なる呼称が提唱されたこともあったが、定着しなかった)。「大衆文学」という言い方はしないでもないが、どちらかといえば「大衆小説」「娯楽小説」のほうが通りがよい。かくのごとく「文学」は「小説」よりも数ランク高次のものと見なされているが、しかし、大学という象牙の塔の中ならばともかく、われわれの住まうこの濁世にあっては、「文学」とは何よりもまず「小説」のことであり、両者がほぼ同義語として流通している。書店に行けば一目瞭然だ。「文学書」のコーナーにはほとんど小説しか置かれてはいない。
さりながら、ギリシア・ローマに端を発する西欧文学史の観点からすると、じつは詩と戯曲こそが「文学」の本道なのである。そちらのほうがもっとずっと古く、由緒正しい形式なのだ。むろん、神話やらホメロスのような叙事詩はさらに古い時代からあったが、それらはあくまで「物語」であって「小説」ではない。我が国の源氏物語が世界文学史上の奇蹟と称されるのは、11世紀の初頭にあって、「物語」の範疇をはるかに超えた精緻きわまる内面描写を成し遂げたゆえんだが、西欧において「novel」という形式が確立されるのはそれから600年くらい後である。ノヴェルという語はボジョーレ・ヌーヴォーとかヌーヴェル・ヴァーグとかいう場合の「ヌーヴォー」「ヌーヴェル」と同根であり、「新しい」、というかいっそ「新奇な」という意味を含んでいる。……と、ここまで調子に乗って書いてきて、ふと気になって確かめてみたら、「小説」という意味での「novel」はボッカチオの「デカメロン」など、中世イタリアの「novella」から派生したものであり、「新奇な」という意味の「novel」とはまた別の系統だそうだ。あらあら。そうなのか。うーん。いやはや。ま、こういう考証は知的パズルとしては面白いのだが、深入りすれば際限がなく、ただですら長い記事が果てしなく長大化して収拾がつかなくなるのでたいがいにしておきましょう。ともあれ、「小説」という形式が、近世~近代市民社会の成立とともに出来した、「風変わりな新参者」とでもいうべき立場だってことは事実である。
ここまで書いてきたことは、文学史の入門書を何冊か漁ればおおよそ身につく知識で、まずは定説といっていいと思うが、以下に書くことはぼく個人の見解だから眉に唾をつけてお読みください。近世~近代小説とは、いわば「詩」と「戯曲」の双方の要素を併せ持ったかたちで成り立っていたと思うのだ。単純にいえば《地の文》が《詩》の管轄で、登場人物のせりふをあらわす「」の中が《戯曲》の管轄ということになるわけだが、ゲーテやバルザックやディケンズやドストエフスキーといった巨匠たちの作品は、この戯曲的要素の構造がきわめて堅固であるゆえに、現代のふつうの読者にも読みやすいものになっているのだと思う。古典派からロマン派あたりのクラシックが聴きやすいのとよく似ている。これがたとえばサミュエル・ベケット以降の「現代小説」になってくると、登場人物の輪郭がだんだん溶融していって、ストーリーそのものも解体され、戯曲的要素は甚だしく薄らいでくる。いきおい地の文は詩的散文へと傾き、おそろしいほど緊密かつ緻密な、しかし一般読者にとってはお世辞にも読みやすいとはいえない作品ができあがるわけだ。
「純文学」と「大衆小説」との相違については、いろいろな定義が可能だと思うし、ぼくもこれまで当ブログにていくつかの定義を試みたが、より「詩」に近いのが「純文学」で、「戯曲」に近いのが「大衆小説」という括り方もできるかもしれない。
小松左京は最初に読んだ時にリアリティがないような感じがして…………というとそれはSFだから当然なのですが、
なんというか、すんなりハマれなくて、そのままになっています。面白いものがあったら教えてください。
投稿 かまどがま | 2013/05/11
小松さんは戦後まもない頃に高橋和巳らと共に京都大学に在学していたので、とうぜんマルキシズムの洗礼を受けているわけですが、そこは20世紀の作家なので、H・G・ウェルズの「タイムマシン」みたいに、思いっきり「階級対立的世界観」を打ち出した作品はないですね。もっとスケールが大きい。
宇宙論的な視座に立って、「人類という種」そのものの終焉と、その後に来るべきものは何か、というテーマに行ってしまいます。典型的なのは、長編『継ぐのは誰か?』でしょう。
『日本沈没』『首都消失』『復活の日』といった作品は、いわば社会派シミュレーションノベルですが、ぼくが好きなのはその系列ではなくて、この『継ぐのは誰か?』みたいな「本格SF」に属するものです。
これと並び称されるのが『果しなき流れの果に』で、これも物凄い小説(大説?)ですが、中盤あたりにかなり文章・構成の粗いところが見えます。
中編~短編では、ハルキ文庫の『結晶星団』および『ゴルディアスの結び目』に収録されている作品群が(そのすべてとは申しませんけども)、小松氏がその学識と想像力と文章力とを最大限に駆使した世界レベルの本格SFだと思います。
これとは別の系列で、落語や文楽、浄瑠璃といった古典の素養をSFっぽくアレンジした佳品も多く、ハルキ文庫の『くだんのはは』『高砂幻戯』に収録されています。こんなところでいかがでしょうか。
投稿 eminus | 2013/05/12
コメントを拝読して思い出しました。読んでピンとこなかったのが『果てしなき流れの果てに』。
eminusさんよりずっとずっと粗い流し読みなので印象のみだったのですが、それきりになってしまいました。
高橋和巳はやはりここの影響で、『邪宗門』を少しずつ読み進めています。
投稿 かまどがま | 2013/05/12
小松左京の作品について、追記をしようと思ってブログを開けたら、ちょうどコメントを頂いていました。『果しなき流れの果に』は、中1くらいの時に近所の図書館で借りて読み、その後も何度か読み返していますが、ちょっと日本文学には類例のない形而上的エンタテイメントだから、好き嫌いが分かれるでしょうね。人によっては荒唐無稽と思うかもしれない。空間的にも時間的にも、舞台があまりに大きすぎるので……。『継ぐのは誰か?』のほうは、ミステリの体裁を取って、そこまで風呂敷を広げてはいません。
追記をしたかったのは、小松作品にみられる男性中心主義的傾向についてです。今日のフェミニズム批評の観点からすると、いろいろと問題があるかも知れない。ことに『ゴルディアスの結び目』所収の作品の中には、表題作をも含めて、性暴力を扱った作品があるので、そのことを申し添えておきます。むろん小松氏は卑しい俗情によってそれらの主題を前面に出しているわけではないですが、作品を手に取られたさい、不快の念を抱かれてはいけませんので……。
高橋和巳亡きあと、小松さんはSFというジャンルで彼のその「観念性」やら「大きすぎた問題意識」やら「志」を引き継ぎ、それを大衆レベルで存分に展開してみせた、という言い方もできるかもしれない……と以前にぼくは書きましたが、いま考えても、その評言はけして的外れではないと思っています。
投稿 eminus | 2013/05/13
『果てしなき流れの果てに』の内容をすっかり忘れているのに、よい印象は残っていない。その理由について、コメントを拝見して思い至りました(笑
ご指摘の「不快の念」だったはず……
「フェミニズム批評の観点」ではなくても、それはそういうものとしてなんの疑問も持たずに発言もしくは書かれたものと
もしかして、これを聞いたもしくは読んだ女性が不快に思うかもしれない、と少しでも念頭において発した言葉とには
大きな違いがあると感じています。
これはただ単に、年代または時代による認識の差のみかもしれませんが、
そう云う意味では吉本隆明も大西巨人も小松左京も同じで、ああ、この人たちはそういう概念に疑問も持たず暮らしてきた人たちなんだと
どこかで感じさせるもの言いをしていて、そう云う場面では不快とまではいかないけれど
諦めに似た感情は確かにあります。
若い人たちがそうと意識しながら書いたバイオレンスものとどちらがマシかという事ではないのですが、
読んだ瞬間に、なんだかんだリベラルなようでも、結局そうなのねと感じてしまうのです。
投稿 かまどがま | 2013/05/13
これはたいへん難しい問題ですね。これまで半年あまりにわたって色々とお話してきた中で、いちばん難しいかもしれない。というのも、ぼくのばあい、自分が小説を書いているので……。
世代のことはもちろんあるでしょうね。ただ、昭和ヒトケタである小松氏らの世代より、ぼくなどは遥かに「リベラル」であるはずですが、しかしそれでも、完全に女性の立場にたつことはできない。やはりそこには、「深くて暗い川(by野坂昭如)」が厳然と横たわっていると感じます。日常の暮らしの中でも、文学などの抽象化された媒体のうえでも。
商業誌に投稿するつもりで書き溜めている小説においては、ぼくもけっこう踏み込んだことを書いていまして……。それらのエピソードや描写の中には、「女性なら、ここは絶対こういう書き方はしないだろうな。」というものは少なからずあります。
きのう日曜美術館でフランシス・ベーコンの特集をしていましたが、芸術というものは(むろん、文学もまた芸術です)往々にして人を不快にさせたり、嫌悪感を与えたりすることもある。それを怖れては深奥に迫る表現はできない。
もとより悪意や偏見、そうでなくとも単なる無神経さ、鈍感さによって人を傷つけるのは論外とはいえ、ひとたび芸術として昇華されたもののばあい、そこに正確な線は引けるのだろうか……。
フェミニズム的な知性や感性が染み渡ってきた今日、これまで名作と目されてきた作品であっても、一般読者のみならず、プロの批評家のあいだでさえ、それを読んだ人の性別によって、評価が大きく異なるケースが増えてくるかもしれません。
まあ、小松左京の小説は、がっちりと論理的に構築されている反面、わりとフェミニズム批評の餌食になりそうな「ガードの甘さ」が見て取れますね。吉本隆明、大西巨人氏らの作品に対しては、ぼく自身は、そういったものをとくに感じたことはないのですが……。それはやっぱりぼくが男だからかな……。
ぼくが小説を書く際には、誰かに不快の念や嫌悪感を与えると思しき表現をする際には、「どうしてもこの表現は必要なのか? 自分がいま書いている作品は、それだけの値打ちのあるものか?」と自問する癖をつけていますが、きっとそれでも、その手の「自己検閲」をすり抜けているものは多いことでしょう……。
投稿 eminus | 2013/05/14
フェミニズム批判と一括りにするのにもどこか引っかかるのですが……、
亡父は昭和一桁世代ですが、
自分の娘がそういう扱いをされたら、そんなことなら戻ってこい、と云うはずのことを自分の妻にしているのに気がつかない、
自分より優秀な女性がいることをどうしても納得できない、幼児性としか思えない感覚をその年代の多くの人が持っています。
村上春樹は自分の作品を書いている時、無意識にも女性が読まないなどとは絶対に考えていないことが読みとれますが、
吉本隆明や大西巨人は、ひょっとしたら、読者を自分と違う性のものが読むことを微塵も考えていない可能性がある
と感じることがあります。
なんというか・・・著書の理解者に女性を想定していないというか・・・
性的対象以外に女性を考えて書かれていないというと極端ですが・・・立ち位置を男性に置き換えて読むことを無言で求められています。
読者が男だと、気がつかないのは当たり前なのです。男である人に向かっての言葉なのですから。
壁というか疎外感があるのです。
女性の立場に立ってということではなくて、普通にだれでも読むという意識が欠落していることを感じるのです。
投稿 かまどがま | 2013/05/14
何年か前にNHKのEテレが、糸井重里の主催した吉本隆明(1924=大正13年生)最晩年の講演会のもようを流していまして、その会場に女性の姿の多かったことが、とても印象に残っています。その方々がすべて吉本氏のよき読者ではないでしょうけど、自分が思っていたよりも、吉本隆明は女性に読まれているのかな?と感じました。若い世代への知名度の高さは、娘さんのおかげかも知れませんが……。
大西巨人はその吉本氏よりさらに五歳ほど年長ですが、たしかに『神聖喜劇』が多くの女性に愛読されているとは思えませんね……。ただ、これら二人の著述はきわめてロジカルで堅牢だから、「読者に女性を想定していない」というより、「読者に、論理的思考の訓練を積んでいない人を想定していない」といったほうが正確ではないかと、ぼく個人は感じます。それというのも、ぼく個人は、この方たちの著作を読んで、(まさに橋下発言に見られるような)「男性中心主義的イデオロギー」をまざまざと感じたことはないからです。
ただし、ジャック・デリダが喝破したように、いわゆるその「論理的思考」なるものがすでに「男性中心主義的イデオロギー」の産物であると言うならば、それは実際そうかも知れません。ぼくが哲学ではなく文学こそを一生の仕事と思い定めたのも、まさにその「論理的思考=男性中心主義的イデオロギー」から逃走したいと思ったからなので……。しかしこの話はあまりに広く深くなりすぎるから、ここではこの辺にしておきましょう。
「男性中心主義的イデオロギー」というならば、大西・吉本氏らより遥かに「やわらかい」小説を書いているはずの吉行淳之介(1924=大正13年生)、立原正秋(1926=大正15年生)といった人たちのほうに、ぼくはそれを感じますね……。「イデオロギー」というと何か信念のようにも響きますが、もっと生理の根っこに染みついたものです。それはほんとに骨がらみで、ちょっとやそっとじゃ治らない。というか、たぶんぜったい治らない。
ずっと後輩、1949=昭和24年生まれの村上春樹にも、じつはぼくはそれを感じるのですが、村上さんがあれだけ多くの女性の支持を受けているのを見ると、彼の「男性中心主義的イデオロギー」は、女性にとって魅力的に映るのだろうと判断せざるを得ません。このあたりの機微も、たいへん難しいところです。
ともかく、いろいろな点でものすごく大事なお話ですね。言いたいことが次々に湧いてきて際限がないので、とりあえずここまでと致しましょう。
投稿 eminus | 2013/05/15
なんと言ったらいいか・・・うまく伝わっていないかもしれないような・・・
『神聖喜劇』は愛読書です。だからこそ、立ち位置を微妙に踏み変えないと楽しめない部分が非常に気になるのです。
「男性中心主義的イデオロギー」以前の無意識の問題かもしれません、これはいつか場を改めた方が良いですね。
あと、村上春樹は、何度か述べましたが、私自身が読めていない(苦笑)ので、たとえとして出したのは間違っているかもしれません。
吉本隆明や大西巨人ほど魅力を感じていないので
この場合、出すべきではなかったと反省しています。すみません。
投稿 かまどがま | 2013/05/15
そうですね……。うまく伝わってない気がします(笑)。小説を書く者として、とても勉強になる問答なんですが、今回はこのくらいに致しましょうか。いずれまた、場所を改めて続きをお聞かせ頂けたら幸いです。最後にふたつ(三つ?)だけご質問させてください。高村薫さんは、言葉のもっともシンプルな意味で「男性的」な小説を書く方だと思うのですが、あの方の小説を読む際は、「立ち位置の変更」は必要ないですか? あと、野上弥生子さんの場合はどうでしょう?
もうひとつ、古今東西の男性作家のうち、そういった抵抗を覚えることなく、しぜんに読み進めることのできる作家がいるならば、その名前をぜひお聞かせください。
投稿 eminus | 2013/05/15
高村薫は確かにとても硬質な小説ですが、野上弥生子同様、立ち位置の変更の必要は感じずに楽しめます。
論理的とかそういう事ではないのですよ・・・なんというか・・・
男性作家か・・・・・・・
ざっと本棚を見まわして、改めて読書体験の乏しさに愕然としたのですが・・・・
「脳内ファンタジーでは女性を物扱いすることは当然」と思っていない、と感じられる作家(笑
いや、思いつかないのですよなかなか・・・・普通にいるはずと思っていたのですが・・・・
チェーホフ、作家じゃないけど、なだいなだ・・・・・
戯曲しか思いつかない・・・
日本の現代作家特に男性はミステリーしか読んでいないというのが致命的です。
違和感を感じずに読めるのが、そう考えると、源氏物語まで遡っても女性作家しかいない?
そんなはずは、ない。と思いたいので、もう少し考えてみます・・・・
川の深さと暗さに、改めてたじろぎそうです(笑
投稿 かまどがま | 2013/05/15
ご返答ありがとうございます。ひとりの「男性作家」(笑)として、さらにいくつかお伺いしたいことが出てきましたけれど、ほんとうに際限がなくなりそうです……。続きはまた、場所を改めてということで……。
投稿 eminus | 2013/05/16
……と、ここまでが「伏線」です。このあと半年ほどのインターバルを挟んで(その間ももちろん、ほかの話題を巡って「かまどがま」さんとのやり取りは続いていました)、この時の問答にいちおうの決着が付きます。ここのところに、前回アップした山田風太郎の記事が入るとお考えください。以下はその記事に対するコメントとして頂いたものです。後半はさらに、沖縄特有の「ユタ」「ノロ」についての話にまで突入しますが……。
(「かまどがまさんのご父君は、知識人であられたのだろうと思います。ぼくの家だと、父はもちろん、祖父だって漢文が読めたとはとても思えないので……。」という、ぼくからの返事の一節を受けて……)
亡父は選良の家系などではなく、米屋の息子です。ただ、女系家族の中のやっと生まれた男子だったので猛烈に甘やかされて育ったことは確かで、空襲の記憶で、コレクションのレコードが焼夷弾で燃えるのを見てから防空壕に入ったなどと言っていたので、ふんだんに本は与えられていたかも知れません。年代から考えると漢籍ではなくて、教育勅語が口語体の基礎だったなどとは思いたくないがその可能性もあります……
ただ、戦況が厳しくなる前にぎりぎり基礎教育を終えている世代なので、eminus さんのお父様よりは学校も余裕があった時期だと思います。
その後の終戦含めて20年間くらいは社会が子どもの教育に心を配ることが良くも悪くも不十分だったと、今の少しだけ上の世代(団塊含める)を見て感じるところです。
積んである山田風太郎に食指が伸びないのは・・・そうか!エッセイだからですね(笑
正直に言うと、ちょっと見ても、時間を割いてというほど面白くない(笑 私がエッセイをあまり好みでないということもありますが・・・
今度図書館で見てみます。
フェミニズムのスタンスでは・・・もうこの、教育勅語を空で言える世代は全く話になりません。親に持って日々の言動を見ていたのだから確実です、リベラルなはずの吉本隆明も大西巨人も自称リベラルだった亡父も全く全然、話にならない。この線での彼らとの共通言語は無いです。
彼らにとって女性とは乳母・家政婦・娼婦のどれかでしかない。自分の娘だけが3つのどれにもカテゴライズしたくない存在・・・
それこそ、絶滅するのを待つしか対処のしようがない人たちです。
投稿 かまどがま | 2014/01/30
フェミニズムの話は、昨年の5月にも出まして、難しいのでそのままになっていたんですが……。
大西巨人(1919生)、吉本隆明(1924生)の名はあの時にも挙げられていましたが、この2名については、どのあたりが駄目なのか、じつはぼくにはよく分からないままです。
あの時にも述べたとおり、吉行淳之介(1924生)、立原正秋(1926生)の2人なら、これはもう、誰が見たってフェミニズム的に「問題あり」なのは明白なんですが……。ちなみに風太郎は1922年生まれです。三島由紀夫が1925年の生まれ。「昭和」と同い年ですね。
ご面倒でなければ、後学のために、大西巨人と吉本隆明のどこがダメなのか、具体的な作品を指してあげつらって頂くとありがたいです。ほぼ祖父と孫ほど年齢が離れているとはいえ、ぼくもいちおうオトコなので、同性の目からは視えにくいことも多いようでして。
あと、この名前はまあ、あまり耳にしたくもないでしょうけれど、石原慎太郎は1932年生まれで、いわゆる昭和ヒトケタですね。野坂昭如、五木寛之、開高健、小松左京あたりと同世代。そして筒井康隆、井上ひさし、大江健三郎らが2、3年遅れでこれに続きます。戦時下ゆえ、この時代の1年の違いはそうとう大きいと聞いています。徴兵されるか否かで、文字どおり「生死を分ける」ことにもなったので。
まあ、「作家」と聞いて、こうやって男の名前ばかりがずらずらっと浮かんでしまうところがすでにマズイよなあとも思いますが。しかし、書き手も読み手も今と比べて圧倒的に男性の比率が高かったのは事実でしょう。
「教育勅語」そのものは短くて、この内容自体に女性蔑視は含まれていないと思いますが、要するにまあ、これを暗唱させられて育った世代は、硬いことばで言うならば、「家父長専制型の封建主義的イデオロギー」に骨の髄まで毒されているということでしょうか。ただ、大西・吉本クラスの思想家(ぼくは大西巨人は作家というより思想家に近いと思っています)は、さすがにそこから知性の力で抜け出ていると思うので、かまどがまさんがお感じになっているこの二人の問題点を、ぜひお聞かせ願いたいのです。
さいごに風太郎の話を付け加えておきますと、お手持ちの書籍のうち、『人間臨終図巻』はかなり面白いと思いますよ。べつに慌てて読むほどのものではないとも思いますけども。ほかのエッセイのことはよく知りません。小説以外で凄いのは、エッセイではないですが、やはり『戦中派不戦日記』(講談社文庫/角川文庫)と『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)の二冊でしょう。20歳から23歳までの日記ですが、この年齢の若者が「銃後」の生活についてこれほどの質と量をもつ記録を留めている例は珍しいので、史料としても貴重なものだと思います。
投稿 eminus | 2014/01/31
『戦中派不戦日記』と『戦中派虫けら日記』も並んでいます。見てみますね。
大西巨人は全て手元になくて、吉本隆明は『共同幻想論』なので厄介この上ないのですが・・・
まず、大西巨人よお前もかと感じた部分は『神聖喜劇』の日本兵が中国人の女性を強姦殺戮した回顧の場面でした。場面が場面なのでフェミニズムとは最も遠いのは当然なのですが、状況が不快であるという意味では無くて、その場面の描き方に、それは至極当然のものとして描いたという感じを強く受けたのです。「惨い」という認識はあることは伝わったのですが、被害者側の持つであろう怒りや屈辱感が描く側の認識として無い・・・そう云う状況ではそういう事が当然起こると何の不条理もなくそう思っている。橋下のよく云う、そう云う状況なのだから、そう云う事は当然起こるでしょと白っと言える感覚を普通に持っていると感じました。現物が無いので引用できなくて申し訳ございません。
あと、個人的な日常風景を場面としたエッセイの中で、自分の妻を完璧に従順な所有物として認識していると感じたことがあります。
向かい合う対象ではなく、つき従うものとして保護する、飼っている愛犬に対する感情に近いものを感じました。酷い表現で申し訳ないです。
『共同幻想論』は読み進んで、対幻想で、性的な役割分担以外の差別はあってはならない、と言いながら、母性本能を自明のものであって当然の前提としていることに違和感があります。最初からの流れで行くと、これは社会的にあることにされて烙印されている幻想じゃないか?と思うのですが・・・これはもうページをぱらぱらめくって書ける事では無くて読書会をしないと正確に言っていることにはならないのですが・・・
大江健三郎は確かにわずか下ですが、意識は全く違いますね。躊躇なく虐げられる側に立てる、というか虐げられる側をテーマに描ける。
作家を挙げた時に、この時代は男性ばかりがでてくるのはもう状況として仕方がないと思いますが、その時代に女性で同じくらいの教養と財力があり物を書いていた人はわずかですが、そういう時代だからこそ透徹した見方は女性作家の方ができているのかと思います。と明治生まれの野上弥生子がすぐ浮かぶのですが・・
投稿 かまどがま | 2014/01/31
いやあ……こちらからお願いしておいてアレなんですが、これはまた、思っていた以上にたいへんな話になってしまいました(笑)。『神聖喜劇』(光文社文庫・全5巻)も『共同幻想論』(角川文庫)も、何度か読んではおりますが、これまで、ご指摘のような点が気になったことはないんです。もういちど、慎重に読み返してみましょう。
ことに『共同幻想論』のほうは、個幻想⇒対幻想⇒共同幻想への展開というのが立論の要になっているので、根底的な批判になりうるかも知れませんね。
『神聖喜劇』はいちおう小説であり、しかも戦争という異常な状況を描いたものだから、難しいところはあると思いますが……。ぎっしりと内容の詰まった大長編のため、すぐには当該箇所が見つからなかったんですよ。大前田軍曹の回想シーンだと思うのですが……。これもゆっくり読み返します。
大西さんのエッセイは読んだことがないのですが、ネットで探してみたところ、「大西巨人の随筆を読んだが、『妻』に対する家父長専制ぶりが目に余る。」という意味のことを書いている方がおられました。どうやら男性らしいのですが、大江健三郎氏が『家内』ということばを使うことにも腹を立てておられるので、そうとうにフェミニスティックな感性を備えた方のようです。
いずれにしても、大西・吉本両氏への批判について、昨年の5月からずっと引っかかっていたので、問題点を明らかにして頂いてすっきりしました。これから自分なりに検証していきます。
ぼくは高校のときに図書室にあった「新潮現代文学」全80巻を読み漁ることで文学の基礎を身に付けたと思っています。一人一冊の編集なので、80人の作家が取り上げられておりますが、女性は4分の1にも満たないんですね。昭和50年代半ばにあっては、まだそんな塩梅だったということです。もし同じ企画が今あれば、事情はがらりと変わるでしょう。
ちなみに収録された女性作家は以下のとおりです。
野上弥生子
宇野千代
佐多稲子
円地文子
幸田文
住井すゑ
山崎豊子
有吉佐和子
曽野綾子
瀬戸内晴美
河野多恵子
森茉莉
田辺聖子
倉橋由美子
いろいろと制約もあったのでしょうが、ざっと思いつくだけでも、網野菊、岡本かの子、宮本百合子、林芙美子、平林たい子、壷井栄、中里恒子、芝木好子、大原富枝、大庭みな子、宮尾登美子といったあたりが抜けているなあ、と感じますね。
投稿 eminus | 2014/02/01
そうそう、大前田軍曹の回想シーンでした。両方ともとにかく時間がかかる作品なので、読み返すのはなんだかお気の毒です。その他、神聖喜劇には大切に思う女性も出てきて、彼女の描き方にも女性との関わり方の立ち位置がなんとも・・・適切な言葉がなかなか思いつかないのですが、家父長的というか、自分に従属するものという感覚が大前提にあることを感じました。具体的に示せなくて本当に申し訳ないのですが。
『神聖喜劇』は一度しか読んでいなくて、その他、全体の流れはとても楽しめたのですが、これはこの時代に生まれ育った人の限界かもしれないと思いますし、その時代の男を親に持ちながらも、60年代後半から70年代にかけてのフェミニズムの興隆のど真ん中を経験し、母親とのやり取りをつぶさに見ていたからこそ過敏に感じ取ってしまうのかもしれません。ひょっとすると男性だとあまり気がつかないことかもしれません。以前ネットで神聖喜劇の読書会のようなことをして、私はHNでの書きこみで、長いこと意識して性別が明確になる書き方をしなかったのですが、大前田軍曹のこの話題ではじめて「もしかして女性ですか?」と聞かれてしまいました。たぶん強姦殺戮シーンがすでに不快なのでその不快さに隠れてしまうのかもしれません。
大西巨人の女性観に関してのみでしたら、『神聖喜劇』ではなくて、エッセイで充分だと思います。エッセイについてはネットで書いた記憶がないので読まれたのは別の男性だとは思います(笑
大江健三郎が妻を家内というのは、少し下とはいえこの世代の人に、言葉つかいの事で文句を言うのが気の毒というものです(笑
大江健三郎だから、作家だからという理由を考慮しても大目に見てあげたいなぁ、それ以外の人と比べると・・・
『共同幻想論』はもちろん、一回でサラッと読めるものではないし、私自身がどこまで読めているかという問題もあるのですが、確かに家父長的な感覚がもう120%大前提に考察が進んでいることに違和感があります。ただこれは『共同幻想論』のみからではなく、彼の他で書いたものを読んだ私の経験値からの思い込みという可能性もあります。
提示していただいた女性の作家を見てみると、 曽野綾子だけ異質ですね・・・何故でしょうね?
投稿 かまどがま | 2014/02/01
『神聖喜劇』も『共同幻想論』も、ぼくにはとても大切な本で、折にふれて読み返しているので、まったくノー・プロブレムです。大切な本だからこそ、神棚に祭り上げて妄従するのではなく、つねに批判を加えて新しく読み直していかねばならない。それこそが正しい読み手の姿勢であり、そういった批判に耐えうるのが真の書物というものでしょう。
たぶんまあ、人も書物も、まったく偏向してないってことはありえないわけで、最初の女性が男性の肋骨から創られたと主張して憚らない旧約聖書こそ、ジェンダー偏向の最たるものではないですか。西欧の文化史を紐解いても、「小説家」はともかく、「哲学者」はほとんどすべてが男性ばかり。それゆえに、フェミニズム思想、フェミニズム批評というものは、文化史そのものをひっくり返してしまうくらいの可能性を秘めていると思うんですよ。
アタマではそう思うんですが、じっさいにはまあ、医学的にも社会的にもいちおう男性でありまして、当然ながら、いろいろと桎梏に囚われてはいるんでしょう。だからこういう話は勉強になります。
ただ、わが国のばあいは、これは宮廷文化という特殊な背景の賜物ながら、紫式部をはじめとする才媛たちが咲き誇りましたね。「女性作家」が男性に引けを取るどころか、どうやらもっと優秀らしいってことは、早くから実証ずみだった。そのあと長らく続いた武家社会が、女性の力を抑え込んでいたということでしょう。
明治維新から敗戦までの約80年間も、極端にいえば、内実はほぼ軍事政権だったから、いわば武家社会みたいなもんです。「家父長専制的イデオロギー」が基盤をなしていたのも当然でした。
あまり安易に結びつけるのは危ういかとは思いますが、戦前のニホンが「半島(植民地)」や「中国」に対して、「男」が「女」を扱うように扱っていたということはあるのではないでしょうか。むろん、家父長専制的な男が、抑圧された「妻」を扱うように、ということですが。そのいっぽう、「欧米列強」からはあたかも「女」のように扱われ、きわめて屈折した情態に置かれていた……。むりやりに病理学的に分析すれば、そうなるんじゃないかなあ。
ちょっと話が大きくなりすぎました。しかし、いずれ準備が整えば、ブログ本編でも扱いたい題材です。
話を戻すと、大西巨人ほどの偉大なる「ロジカル・モンスター」でさえ、なおジェンダー偏向から逃れきれないという事実は、「性差」なるものの根の深さを窺わせるに十分ですねえ……。おそろしいことだ……。
大江健三郎さんのエッセイで「家内」という呼称を見かけると、ぼくはいつでも深い信頼と愛情をそこに感じ取りますね。ほんとうに家庭を守るということは、外に出て日々のたつきを稼いでくることに負けず劣らず困難で大変な仕事じゃないでしょうか。大江さんはそういうつもりで使っておられると思いますよ。感じ方は人それぞれなので、口を差し挟むつもりはありませんが、字面だけを捉えて難じるのではなく、もう少し深く心を配って頂けませんか、と、当のブログ主さんに言いたい気分はありますね。言いませんけどね。
曽野綾子という人を異質と感じるのは、それはまあ、評論家としては「右翼」で「タカ派」だからだと思いますけども、「小説家」としては、ぼくが読んだかぎりでは、そういう匂いはないんですよ。この人の『神の汚れた手』(文春文庫/たぶん絶版)という作品がけっこうぼくは好きでして……。中年の産婦人科医(男)を主人公に、「生命の尊厳」をテーマにしたもので、まあ、通俗小説ですけども。
こういうことを言うと、かまどがまさんは間違いなく不快に思われるでしょうが、「作家」として、と限定するならば、石原慎太郎なる人物も、じつはぼくは嫌いではありません。偏向ということでいうならば、まあ、あれくらい分かりやすく偏って歪んだ人格も稀でしょうけど、偏って歪んでいるゆえに(「にも関わらず」ではなく)優れた小説を書いてしまうケースも往々にしてあるわけで、そこが文学という異形のジャンルの困ったところだと思います。むろん、ろくでもない作品がほとんどなのですが、『わが人生の時の時』(新潮文庫/たぶん絶版)と、あと中期の2、3の作品だけはどうしても捨てがたいです。
投稿 eminus | 2014/02/02
石原慎太郎は天敵(笑 のような存在なので・・・ 『わが人生の時の時』は見たことが無いのですが、チャンスがあれば是非手にとってみます。
宮廷文化に触れておられましたが、沖縄の離島に住んでみて異文化性を一番感じるのが、儒教の影響が強いので強烈に家父長制が浸透していて、一家の主、その後継者である長男のたてまつられ方は驚くほどなのですが、それと同時に女性の位置が神に直結していて、地域の中の祭りは関東でいうお祭りという観光化した行事ではなく、その地域の人しか開催されていることも分からない本当に女たちが地域の神聖な場所に籠り、一家と地域の願い事を神に伝える行事が行われています。
普段は口答えすら許されない(蔭では女同志で集まってワイワイ言っているけど)、職場でも理不尽だと明確に分かっていても、ある線以上は男性の意見に逆らわないことが標準装備なのに、祖先や自然信仰の窓口は女性が受け持っていると云う微妙な力配分になっています。
このあたりをうっかりすると踏み外し、ある程度キチンと意見を言わなければいけない場面で、議論をそのまま進めてしまい、人間関係がぎくしゃくしてしまう失敗はあります(笑
家父長制と自然信仰は掘り下げるとかなり興味深いカテゴリーなのですが、とりあえず機会があるときに好奇心200%で耳を傾けるだけになっています。
自然信仰は、神の権威を表現した人造的な寺院仏閣を見たどの経験よりも、神聖とされる森の中のスポットなどは、神が降りるとしたらここに違いないという確信を持たせる神聖さがあるのですが、自然信仰そのものがどうしても欠落しているという個人的な経験値の違いがあり、そこに住んでいる者としてどうしても一歩遠慮したアプローチになるのが残念です。
投稿 かまどがま | 2014/02/02
興味ぶかいお話ですね……。「近代」の空間のあいだに、「古代」やら「中世」がミルフィーユみたいに層をなして入り混じっている感じとでもいうか……。これは現地に身を置かぬことにはなかなか実感できないでしょうね。
とっさに思い出したのは、『沖縄文学選』にも収められている又吉栄喜の芥川受賞作「豚の報い」でした。川村湊による行き届いた解説が附されていますが、そこには「ユタ」(霊性をそなえた女性シャーマン)「ノロ」(祝女)といった単語が見えます。なるほど。「神」の世界と「こちら側」とをつなぐ媒介者として、女性がしぜんに位置づけられているわけですか……。アスファルト・ジャングルとでもいうか、「近代」の最果てみたいな殺伐たる地域で生まれ育ったぼくには、ばくぜんと想像するしかありません。それだけにロマンティックな好奇心を覚えますが、ただ、自分がその社会で巧みに身を処していけるかと言われると、ちょっと自信がない……(笑)。
「家父長制」と「自然信仰」という二項対立からは少しずれるかも知れませんが、「男性原理」と「女性原理」との対立というか相克というか葛藤といったテーマであれば、これは大江文学のメインテーマのひとつでもあります。自然の豊かな小宇宙としての「森」の中で、女性たちが大地に根ざした根源的なパワーを発揮する展開がよく描かれる。もちろん、そんなシンプルな紋切り型で片づけられるものではなくて、多様なイメージを駆使して、重層的で錯綜するドラマが繰り広げられるわけですが。
さらに大江的作品世界においては、そのような女性の「力」の発露が、既成の秩序を転覆しかねないほどの「謀叛」や「反乱」にまで発展していく不穏さがあって、そこがたまらない魅力になっています。それはもちろん、シンタローなんてまるで問題にもなりません(笑)。
投稿 eminus | 2014/02/03
ユタとノロの存在ですが「神の世界」と「こちら側」の二つでは無くて、私の識別ですが、祖先を含めた死者の世界と神の世界なのです。亡くなった死者の霊と自然の中にいる神は明確に違う存在です。死者の霊が神にいつか神になるわけとはちょっと違うのですが、では神とは何かを聞かれるとそこまでは私は分からないのです(笑
ただユタとノロはあきらかに担当分野が違っていて、どちらに通じるかは偶然なのですが、姉妹に現れることが多いと聞いたことがあります。
県立病院が総合病院としてあるのですが、ここの精神科でどうしても手がつけられない症状の場合、ユタのアプローチであっさり治ることも珍しくなく、病院側から、ある時点でそれを勧められることもあるようです。内地では信じられないことですが、普通の認識として存在するのが興味深いです。
投稿 かまどがま | 2014/02/03
ますます興味ぶかいですね……。「死者(たち)の世界」と「神の世界」は別なんですね。それもたぶん、「神々」と複数形になるのではないかという気もしますが……。その二つの世界に、われわれの棲むこちら側の世界(現世)が入り混じっている感じなのかな? そのままマジック・リアリズムですね。
ここまでのやり取りがとても面白いので、ひとつにまとめて新たな記事としてアップさせて頂きました。もし支障があればお知らせください。
投稿 eminus | 2014/02/03
ユタとノロについては、これだけで生涯かけた研究テーマにしている方もある分野なのですが、余所から来た私なりの区分ということで書いております。地元の方、詳しい方のご指摘、ご教授、お叱り含めてどうかよろしくお願いいたします。
投稿 かまどがま | 2014/02/04
そうですね……。この話はものすごく深くて、いろいろとお伺いしたいところですが、あまりに深すぎるために、かえって何を訊いていいか分からないというか、こちらのほうも、もう少し勉強して知識を蓄えておかねば迂闊には入り込めないぞという気がしています。
勉強といっても、ぼくがいつもやってるように、ただ関連書籍を読み漁るだけではダメで、ここはやっぱり、じっさいにその土地に足を踏み入れて、その場所の「気」を身を以って感じ、そのうえで、さまざまな方からの話をお伺いしたり、もし可能なら、「神おろし」(……と呼んでいいのでしょうか?)の現場に居合わせたりして、少しずつ体感していくべきことなんでしょうが……。
ともあれ、ほかの場所から移り住まれた方だからこそ、その土地では当たり前のようになっている事象を真新しく感じ、それをこうやって部外者のぼくなどにも言葉を使って伝えて下さることができるわけで、それはひとつの貴重なポジションだと思います。おかげで、「豚の報い」や「水滴」、崎山多美さんの「風水譚」といった作品が、「ふむふむ。ようするに沖縄流マジック・リアリズムだよね……」という浅はかな理解を超えて、ひどく生々しく、実感をもって読めるようになりました。そのせいかどうか分かりませんが、昨日の夜はずっと元ちとせを聴いていました。あの人は奄美ですけども。
沖縄の地から、若い(いや別に若くなくてもいいけど)女性の作家が登場することを期待します。
投稿 eminus | 2014/02/04
eminusさんのコメント一行目「いろいろお伺いしたいところですが」で、えっ?深く尋ねられても・・・とオロオロしたのですが(笑 私にではないのでほっとしました(笑
本当に奥が深すぎて、入り口あたりにふれるだけでもドキドキです。
沖縄の文化の持つ異次元性のようなものは、文学で表現するとたぶん新しい分野が開けるほど摩訶不思議な世界感なのですが、それらは古典で表現されているようで、読み終えていないのですが『球陽』などが不思議な感覚を味わえます。
ただやはり現代文学は数は少なく、女性のものもあまりなくて、どちらかというと、ダイレクトにユタに入っていく女性や音楽などの表現の方がやりやすいようです。
その理由として思い当るのは、文学表現でつかう言語は、書き文字の日本語になるのですが、霊的な異次元感覚を表現する場合はどうしても地元の言葉で不思議な感覚などを現わすので、書き言葉に変換するとニュアンスが違ってしまうのです。
言葉と感覚双方でバイリンガルが登場するのを待つしかないですね。
映画『ウンタマギルー』をご覧になるとなんとなくわかると思いますが、あれは、格好をつけて字幕にしているのではなくて、言葉を内地の言語にすると全く違うものになってしまうからなのです。
と、考えると、海外の翻訳小説というのは、かなり正確に感じているのではないのかも・・・と不安にもなるのですが(笑
投稿 かまどがま | 2014/02/05
そういえば沖縄絵画というのは目にしませんが……音楽はふかく浸透してますね。安室奈美恵をはじめ、沖縄出身のアーティストも多いし、独特の音階がポップスにもよく応用されていて……。「レ」と「ラ」を抜いた「ドミファソシド」のペンタトニックでしたっけ。
『球陽』(きゅうよう)は史書なんですね。いま調べて初めて知りました。沖縄の古語で記されていたら、それだけで言霊(ことだま)がざわざわ立ち上ってくる感じでしょうが……。『おもろさうし』は上下巻が岩波文庫で出ていましたが、品切れのようです。
新刊で、伊波普猷の『古琉球』というのが出てますね。これはちょっと見てみたいな。
音楽や絵画はダイレクトに右脳に訴えかけるから広がりやすいんだけど、たしかにコトバというのはむずかしい。翻訳しちゃったら意味ないし、そのままだと何がなんだかわからない。そこらあたりの兼ね合いがね……。「内地」の作家ですけども、ぼくが大江さんと並んで畏敬している古井由吉という作家がいまして、このひとの文章というのはもはや通常の日本語の概念を越境しています。近代のなかに中世や古代が入り混じっている感じ。ぼくなんか、読むたびに最高級のウイスキーをあおったみたいに酔い痴れますが、鴎外の「舞姫」や一葉の「たけくらべ」にすら翻訳が入り用な若い人たちには、ちょっと読めないかもしれない。
読み手の側のスキルアップを望みたい気分はありますね。さらさらと読んで「あー面白かった」というのではない、いくばくかの忍耐と労力を費やす読書もあると知ってほしい。それはけっして苦役ではなく、必ずや、より高い次元の快楽へとつながっているわけだから。
勉誠出版の『沖縄文学選』にも短編「風水譚」が収録されている崎山多美さんですが、このひとの『ゆらてぃくゆりてぃく』(講談社)という作品を四方田犬彦が褒めていました。短い書評を読むかぎり、かなり面白そうです。2003年刊で、残念ながら入手は困難のようですが……。
投稿 eminus | 2014/02/06
そう云えば女性作家では崎山多美がいましたね。『ゆらてぃく~』はまだ読んでいません。何か短編集の中のものを読んだことがあります。文体は読みにくいような記憶がありますが世界感が独特でした。
球陽は『琉球民話集―球陽外巻 遺老説伝口語訳』というのが神話と民話の中間のような話が読めます。古書店で3000円くらいで出るときがあります。
沖縄のものは県内の図書館で観ることが出来るのでこちらにいると助かります。
音楽はおきなわんポップスとは全く別ですが、いわゆる民謡がかなり生活に定着しており三線(サンシン)と歌ですが古典があって、その他に酒の席などで延々と即興で弾くことがあり、興に乗るとどんどん歌が続き、数人で掛け合いのように勝手に歌が続いて行くというものがあります。地元の言葉が分からないと面白さも半分以下で残念です。
もちろん地元の言葉なので、これを自在に操れる人の年齢が限られるのでこの先どうなるのか心配です。
20代になると聞けても話せない人がほとんどになります。
投稿 かまどがま | 2014/02/06
球陽は、外伝の「民話集」ですか。民話というのも神話と共に物語の宝庫ですよね。『琉球民話集―球陽外巻 遺老説伝口語訳』は、とりあえずamazonでは中古で6800円からとなってますね。
インド神話の「マハーバーラタ」に興味がわいて、ちくま学芸文庫版を探したら品切になってました。聖書の4倍くらいの規模だそうです(四方田犬彦氏は16倍と書いてます。何を基準に勘定するかで変わるのかな? とにかくまあ、膨大なものには違いありません)。ちくま学芸文庫版の翻訳は、訳者の逝去によって惜しくも中断したそうですが、それでも500ページ近いものが8巻まで出ました。これも死ぬまでに一度は読んでみたいけど……。
こうやって、「いずれ大きな図書館に行ったら探したい本ノート」がどんどん分厚くなっていきます。
酒席に三線(サンシン)を持ち込んで、アドリブの歌が掛け合いで延々と続いていくというのは面白いですねえ。そういうノリは、ちょっとほかの地域では見られないんじゃないでしょうか。
講談社文芸文庫から2011年に出た『現代沖縄文学選』には、崎山多美「見えないマチからションカネーが」と山入端信子「鬼火」が収められてるようですね。10人中、女性はこの2人だけです。山入端さんについては、ほかに情報がありません。
「見えないマチからションカネーが」は、既に死んでいる水商売の女性二人が、琉球方言を交えて語るものがたりとのこと。「鬼火」も、愛人に殺された母子が、珊瑚とウツボのいる海中で語るお話とのことです。みんな語り手が死者という(笑)。これぞユタの世界でしょうか。
若い世代の使うコトバがどんどん貧しくなってるのは(記号化している、とぼくなんかは言いたいですけど)、いずこも同じで、ほんとうに悲しいことですが……、それでも、20代の人たちが耳で聞いてわかるというのはすごい。映画「ウンタマギルー」は、むかしむかし、深夜テレビでやったのを観ましたが、台詞はまったく分かりませんでした。じつは内容もよく覚えてないんです(泣)。機会があれば改めて観てみたい、という気分ではおります(笑)。
投稿 eminus | 2014/02/07
若い人たちが沖縄言葉を聞いて分かるのは、経済的に貧しかったので子どもを持つ母親のほとんどがパートや畑に出て働いていて、子守りは外で働けないおばあさん、ひいおばあさんたちの役割だったことでかろうじて聞けるようになっています。
核家族化が浸透するのは、いなかに行くほど遅れているのですが、今の小さい子は完全に保育所に行っているので、それも伝わっていないはずです。
仕事関連で地域の人と話し込んだり、女性たちの集まりで一緒に作業をしていると、歌が出たり、そう云えば・・・風な話が広がったりするのですが、以前に亡くなった人の意志が今生きている人の様に語られたり、亡くなった人の魂が当たり前に出てきたりするのは不思議な面白さがあります。
怪談のように怖くなくて、生活空間に普通に亡くなった人の思いが流通している感じなのです。
そういう時は部分的に方言が飛び交い、流れを断ち切らない程度に、興味しんしんで質問をさしはさんでいますが、良くて8割しか理解できていないです。
投稿 かまどがま | 2014/02/07
なるほど……世代をひとつ隔てた交わりによって、ことばが継承されたわけですか。前からふしぎに思ってたんですが、疑問がほぐれました。
歌であるとか、亡くなった人の魂についての会話の際に方言(沖縄ことば)が出るというのは、とても象徴的ですね。ことばというものはけっして意識と切り離せなくて、深いところに関わる時には、ことばもまた深いところから出てくるということなんだろうと思います。
死者の魂といったものが、恐ろしいものとしてではなく、なにか温かみをもって受け容れられているあたりが、いかにも土地柄ですね。やはり南方だからでしょうか……。
そういったお話を聞くと、つくづく自分は、子供のころから「近代」に(それもきわめて中途半端な「近代」に)毒されてきたんだなあ、というふうにも感じますが、それはそれで、もう、そういう場所から自分なりの文学をつくっていくしか仕方がないです。でもさいきんは自分も、よかれあしかれ近代からはみ出してきたかなあ……と自負(?)してますけど……ぼくのいま書いている小説には、生死すら定かならざるおかしな存在がうじゃらうじゃらと登場するのです。
投稿 eminus | 2014/02/08