このところアニメの話ばかりしてるけれども、これは文学ブログであるからして、そちら方面のキーワードから、検索を介して来られる方も少なくないようだ。そこで、「もしご存じなかったら」ということで、取り急ぎ新刊を一冊ご紹介したい。時間がないのであまり詳しくは書けないが、こういう速報性もブログの魅力のひとつだろう。
斎藤美奈子『日本の同時代小説』(岩波新書)。11月20日 第一刷発行 となっているので、まさに新刊といっていい。
岩波新書の文学史入門といったら中村光夫の『日本の近代小説』『日本の現代小説』というロングセラーがあって、ぼくなんかも高校の頃ぼろぼろになるほど読み返したもんだが、「現代小説」とはいっても大江健三郎の『万延元年のフットボール』(昭和42年)までで、高校時代のぼくにとってすら、「現代」とか「同時代」という感じではなかった。
同時期に中公新書から出ていた奥野健男『日本文学史』も繰り返し読んだが、これは中村さんのを2冊まとめてコンパクトにしたような具合で、読み易くはあったがやはり万延元年で時間が止まっていた。
昔は……といっても昭和40年代後半から50年代前半(西暦でいえば1970年代)のことだけど……まことに悠長なもので、この手の新書がとくに増補改訂もされずに十年以上版を重ねるのがふつうだったのである。
いま手ごろに買える日本文学史の定番といえば加藤周一『日本文学史序説』(上下 ちくま学芸文庫)だろう。1994年に文庫化されたとき終章が増補されたが、これもやっぱり大江さんまでで、どうも大江健三郎という巨人のあとの現代文学史は誰にとっても書きづらかったようである。
その大江さんがノーベル賞を取ったときに(1994=平成6年)軽く純文ブームが来て、まあ、ブームってほどではなかったが、今よりは多少はみんなが純文学に興味を示した。そんな風潮を追い風にして、講談社現代新書から川西政明『「死霊」から「キッチン」へ』が、岩波新書から川村湊『戦後文学を問う その体験と理念』が出た。川西さんはかつて高橋和巳を担当した昔気質の編集者のご出身だ。
『「死霊」から「キッチン」へ』は、タイトルからもわかるとおり埴谷雄高から吉本ばなな(現・よしもとばなな)までを扱っている。ここではじめて中上健次、村上龍、村上春樹といった戦後生まれの作家を含む同時代文学史が新書サイズであらわれた。ふつうの高校生が夏休みにでもざっと読み上げて、感想文を書けるくらいのハンディな入門書ではあった。
じつは川西さんはほぼ同じ時期に『小説の終焉』なる本も岩波新書から出していて、これも文学史ではあったのだが、「近代の終焉と共に小説も終わった」という趣旨の、いかにも気の滅入る内容だった。その後の純文学の衰亡ぶりを思い合わせると、たしかに予見的な本ではあったが、当時はまだ熱心に純文学を書いて(そして純文学誌に投稿しては落ち続けて)いたぼくは、この本を読み返す気にはなれなかった。
ぼくが重宝したのは川村さんの『戦後文学を問う その体験と理念』のほうだ。これはほんとに巧くまとまっていて、あまり大っぴらには語られないウラ事情みたいなものも盛り込まれており、今でも読み返すほどだ。山田詠美、島田雅彦あたりまでが扱われている。もちろん同時代文学史として役に立ったのである。
そのご、ぼくの知るかぎり、ゼロ年代には、少なくとも新書サイズでは適当な「日本文学ガイドブック」は出なかったと思う。佐々木敦『ニッポンの文学』が出たのは2016年で(講談社現代新書)で、これはもちろん今でも売っている。「純文学」と「エンタメ小説」との垣根を取っ払う、との謳い文句がウリの本である。
斎藤さんの『日本の同時代小説』は、レーベルからしてもタイトルからしても『日本の近代小説』『日本の現代小説』を踏まえてるわけだが、中村光夫ほどの学術性というか、客観性を持ち得ているかというと、そこは疑わしい。ただ、そのこと自体がつまり「現代」であり、現代ブンガクの置かれた状況なんだとは思う。だいたい昔の文芸評論家ってのは半分はアタマが学者であった。対して斎藤さんは学者どころか「評論家」「批評家」でもなくて、ぼくの印象では「書評家」である。ジャーナリストに近い。フットワークは軽快だけど、深みがない。
そのような方が天下の岩波新書からこういう本を出す。そのこと自体が「現代」であり、現代ブンガクの置かれた状況だなあと、ぼくはしみじみ思ったわけだ。
こう書くとなんだか貶してるようだが、この本そのものは面白いのだ。小説に少しでも関心のある向きは手元に置いて損はない。何よりも、へんなブンガク趣味にとらわれず、ただただ「社会」と「世相」の写し絵として(のみ)「小説」というものを取り扱ってる点がいい。そこはさすがに岩波である。
公式の「内容紹介」をコピペしよう。
メディア環境の急速な進化、世界情勢の転変、格差社会の深刻化、そして戦争に大震災──。創作の足元にある社会が激変を重ねたこの50年。「大文字の文学の終焉」が言われる中にも、新しい小説は常に書き続けられてきた! 今改めて振り返る時、そこにはどんな軌跡が浮かぶのか? ついに成る、私たちの「同時代の文学史」。
別バージョン。
この五〇年、日本の作家は何を書き、読者は何を読んできたか。「政治の季節」の終焉。ポストモダン文学の時代。メディア環境の激変。格差社会の到来と大震災―。「大文字の文学は終わった」と言われても、小説はたえず書き継がれ、読み続けられてきた。あなたが読んだ本もきっとある! ついに出た、みんなの同時代文学史。
「社会」と「世相」の写し絵として(のみ)語られるそんなニホンの同時代小説は、80年代バブルを空しき絶頂として、あとはひたすら凋落の一途を辿る。ビンボーになり、職はなく、よき伴侶にも恵まれない。気持は荒み、暴力に走り、時にはテロにすら惹きつけられる。ひたすら陰鬱なのである。
そして、「こんな時代だからこそ、文学はみんな挙(こぞ)ってゼツボーの歌ばかり歌ってないで、新しい希望のビジョンを提示しなきゃね。」との主張が述べられる。もっともな提言だとは思うが、ニッポンそのものが急激に衰亡へ向かってるのに、ファンタジーならともかく、リアル指向の純文学が希望を口にするのは実際のところ難しいですよ斎藤さん。
なにしろ斎藤さんなので全体としてフェミニズム寄り。総じて女性作家に甘い。また、吉行淳之介、安岡章太郎といった大御所がまるっきり看過されている。ほかにも「なぜあの作家が落ちている?」と首を傾げたくなる箇所は多い。「誰を選び、誰を落としたか」そのものが批評になっているともいえる。
だからこの一冊がスタンダードになってしまうのは困るので、もっともっと色んな人がこの手のものを書くべきだと思う(ぼくも他人事ではないが)。そういう試みが集まれば、「いやマジで純文学も捨てたもんじゃないな。」という空気になるかもしれないし、そこからまた新しい小説が生まれるかもしれない。てなわけで、とりあえずご紹介まで。