布施弁天界隈の自然と歴史情報

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我孫子に住んだことがある武者小路実篤は、戦争支持派と一線か?

2010-01-11 | 歴史
今年は、第2次世界大戦が終わって65年となる節目の年である。戦争を知らない世代である自分としても、戦争のむごさだけは、これからも伝えていかねばならないと思う。しかし、その当時を、その現場を知らないものにとっては、その現場の悲惨さは伝えようがない。すると、できると範囲と言うのは限られるが、自分で理解される範囲でのものを伝えていく以外ない。
その意味で、平成22年1月4日(月)の朝日新聞朝刊一面に載っていた「武者小路実篤、戦争支持派と一線」という記事は、私の目を引きました。
日ごろ白樺派の文学について関心があるものとして、終戦後、公職追放を受けた武者小路実篤は、単純に戦争支持派と理解していた。
しかし、この記事によれば、そうとも言えない手紙の実物が出てきたとのこと。その手紙とは、魯迅の弟で文学者の周作人にあてたもので、周と戦争支持派の片岡鉄兵との論争を仲介する目的で実篤が書いたものらしい。1943年8月に開催された国策に協力する文学者の会議に、知日派とされる周が参加しないことで、片岡は周を国策に非協力と非難。これに対し、武者小路は、戦争協力を強いられた時代に、周に共感を示している。このことが、即、戦争に懐疑的になっていたとは、断定できないが、単純な戦争協力者ではなかったのではないかという記事である。もちろん、これは、今後の研究に待つしかないとも結んでいるが。
と言う具合に、人間の評価というのは、勝手な思い込みのレッテル貼りだけでは済まされないし、個々人はいとも簡単に戦争に翻弄される運命となってしまうということを、実感させられました。つまり、この記事から戦争の人間の運命に対する生命の殺戮ではない、精神へのむごさというのも教えられた気がしました。
そこで、早速、昔、武者小路実篤が住んでいたという隣の我孫子の船戸の手賀沼を望める小高い丘の林の中にある武者小路実篤の旧宅を訪ねてみました。ここには、1916年から1918年まで(大正5年~7年)を過ごした旧宅で、時代も戦争を感じさせる時ではなかったが、こんな美しい自然を愛した実篤が、なぜ、開戦当時、戦争を賛美する文章を発表し、戦争協力者に名をとどめたのか、不思議でなりません。
実篤は、この我孫子の船戸のこの地で、同じ白樺派の志賀直裁や柳宗悦と交流したのです。
だが、この旧宅は現在は、市内にある三協フロンティア㈱という企業の研修所となっており、平日は一般公開しておりません。今回、私は、門の外から、覗き込むようにして住んでいた屋敷等のあちこちを眺めました。というのは、見学は可能ですが、事前に電話で申し込まねばならなかったのです。月から金までの間に、所有者の三協フロンティア㈱秘書室に電話して、空いていれば見学も可能とか。電話番号は、0471-33-6666で、見学可能日は、土曜日と日曜日ですが、詳しいことは、そこにお尋ねください。なお、見学料は無料とのこと。
この実篤邸の手前左側の林の中には、コーヒー&お食事の『小綬鶏』(コジュケイ)というお店があり、そして、反対側は、閑静な一般の住宅が広がっておりますが、進入路は広くない。そして、この旧宅の門の前には、武者小路実篤の旧宅と刻まれた褐色の石碑と我孫子市が建てた説明看板がありますが、車の駐車場もないし、道路も狭いので、近所の方に迷惑がかかりそうなので、車での訪問は遠慮した方が良いと思います。私はミニバイクでした。歩いても、JR常磐線我孫子駅から徒歩約20分です。
この場所で、実篤は、「日本武尊」や「AとB」などを書いたのです。そして、「新しき村」の建設を唱え、宮崎県木城村の「新しき村」へ移るための発会式もこの邸内で開らいております。
約1,700坪あるこの広大な敷地内には、庭園はそのままですし、建物も外から見る限り当時のままのように見え、大正時代にタイム・スリップしたように思えます。
手賀沼の眺望は、志賀直哉の旧宅のそばにある杉村楚祖人冠公園の方が良いように思えますが、当時は、手賀沼はこの武者小路実篤邸の近くまで来ていたようですね。
こうした美しい自然を愛する人たちには、今後、決して、戦争の惨劇が再び訪れることが、ないことを、この門の前に佇み、祈念しました。
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