前回12月22日に「志賀直哉と布施弁天」を記したが、その時、「雪の遠足」の出だしだけを紹介し、具体的な布施弁天の描写を紹介出来なかったので、今回は、その辺を紹介します。
以下は志賀直哉「雪の遠足」から引用
「小犬を縁台の足に縛り、しばらく休んでから、私たちは寺を見物に行った。山門の下から見た本堂のあつい萱葺は立派なものだった。私たちは堂内の絵馬を見上げ、それから丘を裏へ下り,一夜にできたという池を見た。山師坊主の仕事で、その水が万病にきくと一時はやったが、今は警察に禁じられ、その辺にできたいくつかの掛け茶屋も立ちぐされになっていた。私たちはなお、寺の宝物――近年ここで掘り出された竜の頭蓋骨――を見、ふたたび前の茶屋に還ってきた。」
志賀直哉が布施弁天に参詣したのは、1920年(大正9年)で、「雪の遠足」発表したのは、それから9年たった1929年(昭和4年)で、もうこの時は我孫子にいません。なぜ発表まで間があいたか、ご存じの方おりましたらお教え下さい。
さて、上記の文で、注目したいのは2つ。一つ目は、10月31日に記した雑学2(弁天様と白蛇)で地元の古老から聞いて澄んだ池のことを書きましたが、周りに掛け茶屋があったことは知りませんでした。古文書によると1797年(寛政9年)布施村の某氏が布施弁天「霊薬目薬」を売り出しているというが、案外この池の水を使っていたのかな、わかりませんが。もちろん、その池は今はないですが。
2つ目は、「寺の宝物――近年ここで掘り出された竜の頭蓋骨頭――を見」と、書かれているが、それは、自分が12月2日の布施雑学7で書いた寺の宝物のことではないか。平成18年11月24日の柏市民新聞社のインタビューで東海寺住職下村氏が、「龍頭骨と言われる猪の頭があるそうだ」と言っているのは、直哉の言う「竜の頭蓋骨」のことだと思うが、直哉はさらっと事実のみを記載しているのみで、コメントは残していない。この辺が文人としての心やさしい配慮からであろうか。意外と文人が実体験を書いたものの中には、事実が書かれ、歴史検証の参考になるということを、今回、しみじみと知らされました。が、なぜ、弁天の印象が池と竜の頭蓋骨だったのでしょうかね?
写真は、我孫子市にある志賀直哉や武者小路実篤等の白樺派の作家の作品を集めている白樺文学館である。問い合わせ電話番号は、04―7169―8468で基本的に月曜日は休館。
以下は志賀直哉「雪の遠足」から引用
「小犬を縁台の足に縛り、しばらく休んでから、私たちは寺を見物に行った。山門の下から見た本堂のあつい萱葺は立派なものだった。私たちは堂内の絵馬を見上げ、それから丘を裏へ下り,一夜にできたという池を見た。山師坊主の仕事で、その水が万病にきくと一時はやったが、今は警察に禁じられ、その辺にできたいくつかの掛け茶屋も立ちぐされになっていた。私たちはなお、寺の宝物――近年ここで掘り出された竜の頭蓋骨――を見、ふたたび前の茶屋に還ってきた。」
志賀直哉が布施弁天に参詣したのは、1920年(大正9年)で、「雪の遠足」発表したのは、それから9年たった1929年(昭和4年)で、もうこの時は我孫子にいません。なぜ発表まで間があいたか、ご存じの方おりましたらお教え下さい。
さて、上記の文で、注目したいのは2つ。一つ目は、10月31日に記した雑学2(弁天様と白蛇)で地元の古老から聞いて澄んだ池のことを書きましたが、周りに掛け茶屋があったことは知りませんでした。古文書によると1797年(寛政9年)布施村の某氏が布施弁天「霊薬目薬」を売り出しているというが、案外この池の水を使っていたのかな、わかりませんが。もちろん、その池は今はないですが。
2つ目は、「寺の宝物――近年ここで掘り出された竜の頭蓋骨頭――を見」と、書かれているが、それは、自分が12月2日の布施雑学7で書いた寺の宝物のことではないか。平成18年11月24日の柏市民新聞社のインタビューで東海寺住職下村氏が、「龍頭骨と言われる猪の頭があるそうだ」と言っているのは、直哉の言う「竜の頭蓋骨」のことだと思うが、直哉はさらっと事実のみを記載しているのみで、コメントは残していない。この辺が文人としての心やさしい配慮からであろうか。意外と文人が実体験を書いたものの中には、事実が書かれ、歴史検証の参考になるということを、今回、しみじみと知らされました。が、なぜ、弁天の印象が池と竜の頭蓋骨だったのでしょうかね?
写真は、我孫子市にある志賀直哉や武者小路実篤等の白樺派の作家の作品を集めている白樺文学館である。問い合わせ電話番号は、04―7169―8468で基本的に月曜日は休館。
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