布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

布施弁天に参詣した俳人(補足)

2007-01-12 | 歴史
12月14日に私が書き込んだ「俳人の詠んだ布施」で、布施弁天に参詣した俳人とその句を紹介したが、事実関係を確認できなかった関係上、年代を省いてしまいました。今回、柏市年表より事実関係を確認できましたので、紹介します。     
1701年(元禄14年)、宝井其角は布施弁天に参詣して「玉つばき昼と見えて布施籠」の句を詠む。
1811年(文化8年)正月十三日の一茶の日記には、この日は晴れで、「今日西林寺出立、布施ノ渡シ、花ノ井、大室、大黒新田、大黒、三輪山、加村、流山ニ入」と書かれております。
そして、翌年の1812年(文化9年)、一茶は、布施弁天に参詣し、「米蒔も罪ぞよ鶏がけ合ぞよ」の句を残している。この句碑は、11月18日の「小林一茶と布施弁天」で紹介したようにあけぼの山の一角にあります。
1815年(文化12年)、布施弁天境内に上記の其角の句が建てられ、石工は戸頭村の又衛門となっています。
1815年(文化12年)、麦秋の句碑「闇に寝た目を曙のさくらかな」を建立。本多伯耆守正温の筆と言われていますが、いつ麦秋が来たかはわかりませんでした。
今回は其角を中心に書きますが、彼は、1707年に没していますから、その6年前に布施弁天に参詣し、更に句碑ができたのは、なんと、それから110年後ということですね。
では、其角について少し紹介します。彼は、寛文元年(1661年)に、江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。延宝年間(1673年 ― 1681年)の初めの頃、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り俳諧を学びます。はじめ、母方の榎本姓を名乗っていたが、のちに宝井と改めます。蕉門十哲の第一の門弟と言われているが、芭蕉の没後に日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となります。宝永4年(1707年)、永年の飲酒が祟ってか47歳の若さで亡くなっています。
写真は、布施弁天の本堂脇に立っています其角等の句碑です。
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