
かしわ記念なるダート1,600メートルの地方競馬G1が船橋競馬場にあるのをご存知であろうか?この詳細は、また書くとして、これは柏に競馬場があったことを示す記念のレースだそうだ。では、この柏競馬場なるものはどこにあったか?
柏中学校の裏の現豊四季台住宅団地一帯体は、昔、柏競馬場であった。この競馬場は、昭和初期に作られ、戦争中、閉鎖され、戦後復活したが、昭和27年に廃止され、今はその跡地に住宅団地が立っているのである。
さて、今回書くのは、戦後の話でなく、戦前、しかも開設当初の柏競馬場の話である。
ここに、柏競馬場ができたのは、柏市花野井の吉田甚左衛門が、私有地に誘致したからであり、オープンは昭和3年(1928年)5月である。同競馬場は千葉市椿森にあった椿森競馬場の後を受けてものである。着工は同年1月、全竣工は同年10月である。幅30メートル、トラックの長さ1,600メートルは、当時の地方競馬の中では随一、いや日本一だったらしい。屋根があるのは一等観覧席、ないのが2等観覧席。そして、昭和3年4月に、柏競馬場施行許可がおりたので、5月に3日間開催。出場馬は98頭。有料入場者数は、51,236人。売上高129、607円。
昭和4年10月1日の柏町の世帯数は1,265戸で、6,952人だから、なんと、町の人口の3倍近い人が、1日にやってきたのである。更に、同年6月には、地方競馬規則改正により、懸賞競馬場に柏と佐原が内定。
昭和3年の10月の秋季競馬には、3日間で69、305人の人が来場し、売り上げは196,351円だったそうです。なお、翌年の10月の賞金額は9,000円で地方競馬最高だったらしい。
更に、ここに、もうひとつ、すごいことが加わるのである。それは、同競馬場内に柏ゴルフ場が昭和3年11月に着工され、4年に完成するのである。場所はというと、現東葛飾高校脇から始まって、馬場の中に、9コース、3、085ヤードあったという。
すごいじゃありませんか。当時、ど田舎だった柏町は、まさに脚光をあびたのである。競馬場とゴルフ場が同居して。だから、東京から有名人がごぞって来柏。競馬場には小説家の菊池寛氏、ゴルフ場には、当時農商務省の役人だった岸信介氏等が遊びにきていたらしいのです。又、現在の旭消防署の後ろあたりの東武線に、昭和8年(1933年)7月20日柏競馬場前停車場も作られたようだが、競馬開催日以外は先の旧制東葛飾中学校の生徒のほかはあまり利用されなかったようですね。
こんなに栄えた柏競馬場も、戦争には勝てなく、日中戦争が激化しだした昭和15年、わずか12年で、1回目の柏競馬場の廃止となります。名前が、柏鍛錬競馬場と名称がかわり、先の駅名まで変わってしまうのです。娯楽が少なくなると、あまり世の中、よいことにはならないみたいですね。
さて、この話しはいったん、ここで閉めますが、戦争中と戦後復活した話しは、また、別に記載したいと思います。
柏中学校の裏の現豊四季台住宅団地一帯体は、昔、柏競馬場であった。この競馬場は、昭和初期に作られ、戦争中、閉鎖され、戦後復活したが、昭和27年に廃止され、今はその跡地に住宅団地が立っているのである。
さて、今回書くのは、戦後の話でなく、戦前、しかも開設当初の柏競馬場の話である。
ここに、柏競馬場ができたのは、柏市花野井の吉田甚左衛門が、私有地に誘致したからであり、オープンは昭和3年(1928年)5月である。同競馬場は千葉市椿森にあった椿森競馬場の後を受けてものである。着工は同年1月、全竣工は同年10月である。幅30メートル、トラックの長さ1,600メートルは、当時の地方競馬の中では随一、いや日本一だったらしい。屋根があるのは一等観覧席、ないのが2等観覧席。そして、昭和3年4月に、柏競馬場施行許可がおりたので、5月に3日間開催。出場馬は98頭。有料入場者数は、51,236人。売上高129、607円。
昭和4年10月1日の柏町の世帯数は1,265戸で、6,952人だから、なんと、町の人口の3倍近い人が、1日にやってきたのである。更に、同年6月には、地方競馬規則改正により、懸賞競馬場に柏と佐原が内定。
昭和3年の10月の秋季競馬には、3日間で69、305人の人が来場し、売り上げは196,351円だったそうです。なお、翌年の10月の賞金額は9,000円で地方競馬最高だったらしい。
更に、ここに、もうひとつ、すごいことが加わるのである。それは、同競馬場内に柏ゴルフ場が昭和3年11月に着工され、4年に完成するのである。場所はというと、現東葛飾高校脇から始まって、馬場の中に、9コース、3、085ヤードあったという。
すごいじゃありませんか。当時、ど田舎だった柏町は、まさに脚光をあびたのである。競馬場とゴルフ場が同居して。だから、東京から有名人がごぞって来柏。競馬場には小説家の菊池寛氏、ゴルフ場には、当時農商務省の役人だった岸信介氏等が遊びにきていたらしいのです。又、現在の旭消防署の後ろあたりの東武線に、昭和8年(1933年)7月20日柏競馬場前停車場も作られたようだが、競馬開催日以外は先の旧制東葛飾中学校の生徒のほかはあまり利用されなかったようですね。
こんなに栄えた柏競馬場も、戦争には勝てなく、日中戦争が激化しだした昭和15年、わずか12年で、1回目の柏競馬場の廃止となります。名前が、柏鍛錬競馬場と名称がかわり、先の駅名まで変わってしまうのです。娯楽が少なくなると、あまり世の中、よいことにはならないみたいですね。
さて、この話しはいったん、ここで閉めますが、戦争中と戦後復活した話しは、また、別に記載したいと思います。
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