季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

学校と事件

2015年07月14日 | その他

またしても中学生が自殺した。
色んな人が色んなことを言っているだろうから、僕は次の点だけ書いておく。

担任との間のノートに関してである。こうした形式について、ずっと前に河合隼雄氏を難じた記事を書いた。

そこでは生徒が教師を信頼しないのにノートを書くのは二重の心の隠蔽をすることになると書いた。

今回の件はそれともまた違う。生徒は必死に教師に訴えている。教師を信頼する人と見做したのだろう。にもかかわらず話題をそらせるかのような反応しか返ってこない。子供の心はそこで折れてしまった。

教師の責任を言うより、僕としては次のように思う。

絵に描いた餅のような、きれいごとの思いやりを出自とするノート、こんなことはやめたほうが良い、と。ノートをやめたところでいじめはなくなるはずもないし、自殺者がなくなる訳でもない。だが人の悩みを受け止めることなぞ、そう簡単に出来ることではない。力に余ることを無責任に引き受けることは、結局のところ次の悲劇を生むばかりだ。

空想的な原則論から一歩も動かないから、何一つ実際には変わることもなく、いつしか記憶が薄れていく。

以前やはり学校でのいじめを苦にして自殺した生徒が出たおり書いたが、投稿する気持ちにならぬままうっちゃっておいた文章を(つまり完成もしていないのだが)この際一緒に投稿しておく。うっちゃっておいて途中書き足したりしたものだから少し分かりづらい。



埼玉県の中学校で女生徒が自殺した。遺書には数人の実名を記しいじめられていたことが綴られていたという。こうした事件があると可哀想にという感想しか出てこない。

そして、事件のたびごとに感じるのは、学校というところは何か、ことを隠蔽したがる性質を持っているということだ。

第一に断っておきたいのは、僕は学校に責任があると主張したいのではない。それははっきり言っておきたい。

その上で、今までの数々の生徒がらみの事件、事故で常に感じてきたことを今回も感じると言いたいのである。

亡くなった当人がこれこれこういうことがあったと言っており、家族も不幸にして起こった出来事を知りたいと願った。そのときに、学校側の言い分、つまり亡くなった生徒は自殺の前日に親に叱られたこともあるのではっきりとした因果関係は認められない、という。このような言い方はいったいどこから出てくるのだろう。何と言えばよいのか、非情とでも言おうか心がない。

あったことはあったことで、調べて公表するなりすればよいではないか。それをしない理由に、他のことがらを(この場合には親に叱られたこと)挙げているのが解せない。

何をそんなに心配するのか。まさか学校はこの世における唯一の「地上の楽園」であり、清く正しく明るくあるべし、と思っているわけではあるまい。それともそうあるべきだと自ら演じているのか?

どれもこれも、反応がビクビクしていて僕には不愉快である。


ここまで書いて放っておいたからこの話題はとっくに忘れ去られているはずだ。

こうした事件は昨今の特徴かといえばそうではない。なぜか知らないけれど昔からある。学校を舞台にしたものも数多くある。

昔は(戦前)同級生を殺してしまうような事件がかなりあったようだ。そしてあろうことか、子供のけんかだからと注意しただけでおしまい、なんてことが普通だったらしい。いや、普通ではなかったかもしれないが、少なくとも非常にたくさんあったのは、当時のあらゆる地方新聞まで丹念に調べ上げている人の本、およびサイトで得た知識である。

理由は分からないけれど、人間はそういう動物なのかもしれない。ヒトという猿は最も残酷なサルだ。チンパンジーのある種は、ヒト同様仲間を殺すという。知恵の代償なのだろうか?

しかし今日、これだけ色々意識も変わったのだから、少なくとも学校の対応くらいは大人のそれになってもらいたい。

学校側以外にも色々問題はある、それも承知の上である。僕はただ、対応は血の通ったものになるべきだと言っているに過ぎない。

おわび会見に校長か教頭が出る。彼らは伝聞でしかことを知らされていないわけで、言葉に実感がこもらないのは、ある意味で当然なのである。だから、困惑しているのならば素直に困惑する姿を見せた方が良いのではないか。

閉ざされた社会で、人間という猿はどんな行動を取りやすいのか。それは冷静に観察されなければならない。


以上、今回の事件と関係ないことまであるのだが。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 違うもの | トップ | クロイツァー版 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
絵に描いた餅のような、きれいごと (緑葉)
2015-09-28 12:35:05
>>空想的な原則論から一歩も動かないから、何一つ実際には変わることもなく、いつしか記憶が薄れていく。

重松先生の上記の考えに共感するひとりです。

仕事などで議論になった場合もそうです。
反論できないような「きれいごと」を並べて
結局新たな行動を導き出すこともない。
無駄に決まり事は増えても、
機能せずの決まり事ばかりで
同じような問題がずっと繰り返されていきます。
この繰り返しにうんざりしています。

大概「きれいごと」=「効果の期待できない対策」を
決定するのは、当事者意識に欠ける責任者
なのではないでしょうか。

責任者は当事者の立場になって対策を考えるべき
なのに、責任者が他人事のように受け止めて
いることが一番の原因だと思います。
これがダメな責任者の実態です。

だから、不毛な対策ばかりが増え、問題が
解消していかないのだと思います。

したがって、責任者が矢面に立っているか
どうかを見極めることで、
この先期待できそうかどうかの判断基準に
なると私は思うのですが・・・

返信する

コメントを投稿

その他」カテゴリの最新記事