季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

マリア・チェボタリ

2016年06月20日 | 音楽
少し歌手についての紹介を続けたい。

ドイツに住んでいた時、知り合いの日本人歌手が我が家に滞在したことがある。二期会で誰もが知る、有名な歌手である。
僕は仕事に出かけるので申し訳ないけれど一人で時間を潰してもらうしかない。そこで、レコードを自由に使ってもらうことにし、特に歌手のコーナーがお勧めだと言い残して出かけた。

夜帰宅すると家は真っ暗なのである。寝てしまったのかと部屋に入ったところ、床にへたり込んでいるではないか。ことの顛末はこうである。

退屈なので僕の言った通りにレコードを聴くことにした。どの歌手も知らない名前ばかりだったという。一枚かけてその素晴らしい声に驚いたそうだ。そこで次にもう一枚聴いたらこれまた驚嘆するしかない声だ。

そうやって次から次に聴いたのだが、どれも素晴らしくて文字通り腰が抜け放心状態のところへ僕が帰宅したのだという。どれもが素晴らしい、これは事実だ。なけなしの生活費をはたいて適当なものを買うはずがない。

以前書いたことがあるが、演奏する人たちは所謂音楽愛好家と比べると聴くことははるかに少ないものだ。それにしても往年の名演奏家くらいは、せっかく記録があるのだ、聴いてもらいたいものだ。

前置きが長くなったが。

マリア・チェボタリというソプラノを紹介しておく。愛好家には知られた歌手だろうが、本ブログを覗く人たちには馴染みのない名前かもしれない。非常な美声であるが、38歳だったか、36歳だったか、いずれにせよ若くして亡くなった。

リヒャルト・シュトラウスのお気に入りで、「サロメ」はチェボタリと決めていたという。(因みに「アラベラ」はデラ・カーザを指名したそうだ)

曲はここでもドイツ語によるヴェルディを。こういったよく響く声を聴き続けること、耳を養うには他に方法はない、残念ながら。

残念ながら?いい気分になるだけで耳が育つのだ、こんなに割りの良い話がまたとあろうか。音楽の勉強という言い方には尻こそばゆい気持ちになる。

ヴェルディはイタリアオペラの中では別格だ。オーケストラの単純な伴奏形を味わってもらいたい。どれほどの迫力を以って迫ってくることか。弾き方次第では演歌にも盆踊りにも聞こえてしまう単純な音形が。

チェボタリが唯一無二の存在だったわけではない。当時のベルリンのアンサンブルの層の厚さ、質の高さは無類であった。ハンゼンからも幾度となく聞かされた。芋づる式鑑賞法により僕もはっきりとそれを感じる。

若くして亡くなった美貌の歌手にキャスリーン・フェリアがいる。しかしこの人は戦後の人で、よく知られている。それにひきかえチェボタリは戦時中に活躍したような年代の人だからか、日本では一般には知られていない。それはいかにも残念なのである。本ブログを読んだ人の中から芋づる式に名歌手を知る人が出てくれたら嬉しいことこの上ない。

音楽の源流は歌にこそあるのだから。

芋づる式の手伝いをしておこう。チェボタリとペーター・アンダースの「ボエーム」のデュエットを。このテノールも働き盛りで交通事故で亡くなった。クナッパーツブッシュは彼の死を悲しみ、オペラハウスの楽員にこういったそうである。「諸君は私が寡黙であることを承知している。しかし今私は、彼の死によって我々はワグナーのテノールをもう有することはあるまい、と言っておきたい。諸君は後年私の言葉が正しかったことを思い出すだろう」


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