季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

トバク

2010年03月17日 | その他
賭博と書かずにトバクと書いた理由はそのうち分ってもらえるだろう。

僕が子供のころ、男の子はメンコ、ビー玉、ベーゴマに、女の子はおはじきに夢中だった。おはじきは学校内で、男の子の遊びは放課後の空き地でという違いはあったけれど。

僕は男の子の遊びも女の子の遊びも好きで、つまり一日中遊んでいたのかと突っ込まれたら、ああそうだ、と言わざるを得ないなあ。

おはじきはずいぶん強かった。勝ってはまき上げ、家で母親の使い古しのバッグにぎっしり詰め込んでいた。

しかし男の子の遊びメンコとビー玉は弱く、放課後近所で遊んでは取上げられていた。強い子の家の縁の下などにはみかん箱(当時は木製)にぎっしりメンコが詰まっていたものだ。

近所の子供たちが主な相手だったが、そいつらが強いんだな。年上年下入り交じって、勝った負けたをしていた。

ベーゴマは少し離れたところで「ご開帳」していて遠征することが多かった。

最近の子供は外で遊ばない、ゲームばかりしているという。たしかにそうだとは思う。僕はトバク以外にも野原で野球をしたり田んぼでキャッチボールをしたりしていた。

昔の遊びを今の子達にも体験させてあげようと、ベーゴマを(人為的に)流行らせてみたりしたようだが効果は長続きしなかったようだ。ベイブレードとかいったな。

よく胸に手を当てて考えてみれば当然ではなかろうか。メンコやビー玉はいったいそんなに面白いものだろうか?どうも違うような気がする。僕が今そう感じるだけだろうか?

単純すぎる?ブラックジャックだって単純そのものではないか。それなのに昔から今までずっと続いている。ゴルフだって単純だよね。単純すぎるから面白くないというのは短絡に過ぎよう。僕はゴルフをしないけれど。

では当時子供たちはなぜそんな単純作業に夢中になれたか。

おそらく勝ったら巻き上げ、負けたら失うというバクチ性の故なのである。上記のブラックジャックで思い出したのであるが、ドイツ時代、友人たちと(まあ今の麻雀仲間だが)3人、夜を徹してブラックジャックをしたことがあった。ここでもまた、お前は何をしていたのだと言われそうだが、言われても仕方ないな。

内緒だが賭けていたのさ。もう時効です。ものすごいインフレルールを自分たちで作って、本気で遊んでいた。さてもう疲れたから止めようと点数を計算したところ、ひとりが10円勝ち、ひとりが原点のまま、ひとりが10円負け、という信じがたい結果になった。この時ほど過ぎ去った時間を虚しく感じたことはなかった。

こんな馬鹿が(単純極まるゲームで)できるのも、賭けをしていたからだろう。メンコやビー玉は子供から見たら立派な賭けだったのだ。

現代になって賭けの要素を抜いてやらせようと思っても、誰もしないと思うね。

僕はこのいバクチ性をたいへん健全であったと考えるのである。いつどういう理由で子供社会から姿を消したのか、僕には興味がある.
検索をしてみたら、今でも細々と文化の継承をしようと努める人がいるようだが。

健全というのは少し説明が要るかな。

僕は前述のようにこの手のバクチに弱かったから、すってんてんになったものだ。あとは指をくわえて見ているしかない。そこで忍耐力を養った。ウソだけどね。

強い奴はいつも勝つから、しまいには相手がいなくなる。子供といえど経済観念はきちんとあるから、次々に小遣いを注ぎこむ奴もいないのだ。

すると強者は弱者に「おい、これやるからよお」と札束ならぬメンコ束を差し出すのである。このもらう瞬間は、何だかえらく儲けた気分がしたのを今も思い出す。それは数日後に再び巻き上げられるのだが。

強者は、世の中独り勝ちというのはあり得ないと知る。どうです、偽善のかけらもなくてきちんと回っていくのです。もちろんどこかではとんでもなく使い込んでしまう子供も出ただろうが、ふつうは大人の余計な善意さえなければ子供はこんな風に「社会」をつくっていけるのだ。社会を体験すると称して国会ごっこや裁判ごっこをするよりはるかにましなのである。

子供が自然に形成する社会を、大人が大人の目で見て「賭け事をするなんて」と咎めた。そんなことではなかろうか。当の大人はパチンコ、競輪、競馬、と博打三昧で、株にいたっては社会を動かす最重要になっている。

今更バクチを解禁できないだろう。何から何まで変わってしまった今、急にバクチをすることはバクチに過ぎる。

大人が子供と同等レベルで判断すると碌なことがない好例だと思う。

今思い出したことがあるのだが、長くなるからまた次に。


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