季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

偉大なものは滅びやすい

2009年09月16日 | 芸術
偉大なものは不滅である、というのが通常の人の感覚であろう。巨人軍は不滅です、というフレーズには笑わせてもらったけれど、偉大なものならば不滅とまではいかなくても、他のものよりはずっと長持ちする、というのが素直な感想だろうね。少なくともそうあってほしいと願うのが人情か。

さてここに、小林秀雄さんの言葉で(出典が確かめられぬままだが。例によってね。しかしどこかに必ずあります。疑う人は全集を見てごらん)偉大なものは滅びやすい、という一見逆説めいたのがある。

この言葉は、僕にはじつに素直に入ってくるのだが、皆さんにはどうだろう。

偉大な思想にせよ、芸術にせよ、偉大であるがゆえに必ず信奉者の列をともなう。小林さんはたしか柳田国男と柳田学派、ユングとユング学派について語っていたと思う。

柳田さんの学説は柳田という個人の鋭敏な感受性に支えられたものであるが、その「説」は感受性抜きでも受け継がれる。それどころか柳田さんの「説」を発展させたり、それによって柳田さんの説を未熟なものと見做すことさえできる。ユングの場合でも事情は同じだ。

後継者と称する人たちはこうして「偉大な」思想、作品をこねくり回す作業に陥りやすい。

小林さんが「滅びる」というのはそういうことだ。だから続けて言う。「(偉大ではないものは)滅びることすらできない」と。さらに「(時間を越えた、場合によっては国さえ違った)自分のような存在のうちにふたたびよみがることも可能なのは同じ理由によるのである」とも。

小林さんは、よく逆説的論説をする人といわれるけれど、僕はそう感じたことがない。むしろ当たり前のことを正直に言う人だと思う。文学者はよくまああんな迷い方をするなあと半ば呆れている。

僕たちが無反省に「偉大なものは不滅である」と決め込んで惰眠を貪っているときに滅びやすいというフレーズが飛び込んでくる。それに驚いた人が逆説的だと論評するのではないか。

このごろ、僕はこのことばをよく思い出す。音楽の世界では「再び甦る」ことは大変難しいだろうと思うから。つまり偉大なものは滅びやすい、までは真実であるが、ふたたびよみがることは、こと音楽においてはありえるのだろうか、という気持ちが強いのである。

造られた楽器を見るでしょう、あるメーカーのものは最近良くなった。まあ、1970年ころは、戦前からあるメーカーも、ひどいものだったことを考えると当たっていなくもない。といっても喜べるものではない。それ以前が悪すぎたのだから。戦前に造られた楽器は、どこのメーカーをとっても実に美しいのだが。

良くなった、それはどこも似通った「道具」を作るようになった、失敗作は造らなくなった、くらいの意味だ。

あるいはオーケストラで各奏者同士を「騒音」から隔離できるような防音壁の開発が待たれる、との「正論」を聞かされたり。

この「正論」はおかしい、という別の「正論」だってある。良心的にものを考える人はそちらの「正論」に傾くことが多いようだ。

それにしたところで単なる「意見」であって耳ではないから、防音壁がなくて「自然」を標榜する音の前には簡単に、これこそ本物だと認めてしまうだろう。そう思うと力が抜けてしまう。ちょうど「手作り○○」と銘打てば味や品質が保証されたような気がしてくるのに似ている。

オーケストラが現在人々が知る形態になってようやく百年ちょっとだ。しかもオーケストラがオーケストラとして機能したのはもうだいぶ昔のことになった。そうしてみると所謂クラシック音楽といわれるものは何と短命で果敢ないものか。

音大の比較的若い教師(つまり世間から見れば立派なプロだ)が、学生たちを前に「ベートーヴェンなんか、小学生並だ。有名な第九だって、ファーソララソファミレーミファファーミミなんて誰でも思いつくじゃないか」と得意然と言い放った、とその講義に出席した生徒から聞いた。

このばか者の言うことはある意味で本当のことだ。僕にも思い出がある。こんなばか者は放っておけばよいのだろうが、納得してしまう学生も多いと聞けば、そういうわけにもいかない。

ある意味で本当で、この男がどうばか者であるのか、それは後で書く。その男が本ブログを閲覧する偶然があらんことを。








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