前にツィメルマンが、巨匠の真似はメディアが発達した今、しようと思ったら意外にたやすくできる。そこから巨匠風の演奏家が多く輩出する、といった主旨の発言をしたことに反撥を感じる旨を書いた。
真似というと、否定的な響きがあるけれど(真似事とか、人真似にすぎないとか)正直に考えてみると、僕たちの生活は殆どが真似である。
僕のドイツ語能力は大したことがない。それでも、ふとした時に、当時下宿していた家の大家さんの相づちの打ち方をそのまま真似ている自分に気付いたことがある。
また、伴奏をしていた女の子がよく使うことばをいつの間にか僕も使っていて、日本語だとそこまで意識することはないのだが、外国語を使うと頭だけはことば以上に展開するから、けっこういろんなことに気付かされる。こんな経験も真似とかオリジナルとかいう事柄をよく考えてみるきっかけにはなった。
昔、野辺地勝久さんというピアニストがいた。僕が学生だったころも知っている人は知っていた。ただし、どちらかといえば、変わり者としての方が多かったように記憶する。
僕は昔から楽壇情報には疎く、他の人はきちんと知っていたのかもしれない。でも、きっとそれほど大々的に取り上げられてはいなかったのだろう。大々的に取り上げられる人のことは、さすがに僕の耳にも入ってきたから。
この人はコルトーを尊敬して、ずいぶん真似をしたらしい。ずっとずっと後になってから聞いた話だが。そのとき初めて演奏の録音を聴いたのである。決して巧みではないが、きわめて良い演奏なのである。まず、死んだ音がない。(これなどは分かる人には分かる、としか言いようのない表現の最たるものだ。ただし、本当はもう少し具体的な説明はできる。今思いついたから、近いうちに書くことを予定している。脱線するにはちょいと話がつまらないもので)
そして音が美しい。これは今日ではまったくといって良いほど見かけなくなった特徴である。
コルトーを真似したと言いながら、この音はコルトーのそれではない。もう少ししっとりした情感を含んだ音だ。
僕がこう言うのを聞いて、野辺地さんは悲しむだろうか?私はコルトーになりたかった、と。
徹底的に真似をしようとすれば、どこかにずれができるらしい。その「ずれ」を個性というのだ。野辺地さんはそこまで行き着いて、「図らずも」自分独自のものに突き当たったのだと言い直しても良い。
僕は最初に挙げたツィメルマンの言葉を文脈の中で読んだわけではないから、彼について述べることは避けておく。ただ、僕だったら真似るのは思ったより易しいなんて、口が裂けても言わないね。フィッシャーの出す音を真似してご覧、できやしない。真似というのは、人が思うほど表面的なことではないのだ。
モーツァルトは19歳くらいのとき、僕はもう誰の真似もできてしまう。グルックの真似もチマローザの真似も。いったいこれからどうしたらよいのか、と嘆いている。
では、この時期の彼の作品は、モーツァルト的ではないのだろうか?
どうです、問題はあっというまに難しくなるでしょう。
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