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 季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

台所から

2014年03月01日 | 音楽


下宿の台所の窓辺に大きなリンゴの木があった。新緑の季節が近づいて、窓いっぱいに芽吹き始めた枝が広がり、次第に緑が増してゆく。

新芽はポッポッと無数に点火したように見え、それはやがて炎のようだと感じるようになった。熱を帯びない炎。

「ニーベルンゲンの指環」にローゲという火の神が出てくる。神性を奪われたブリュンヒルデを長い眠りにつかせ、神々の長ヴォータンはローゲに命じて彼女を火で囲ませる。火を恐れない真の英雄だけが彼女を眠りから目覚めさせることができる。

僕は窓いっぱいに広がる炎を眺めながら、自分が演出家だったらこのような炎でブリュンヒルデを囲みたいと空想した。

下宿もリンゴの木も元のまま立っているだろう。大家さんはとうに過去の人となったが、今住む人も窓いっぱいの新緑をもうじき見るのだろう。

気前のよい人

2014年03月01日 | 音楽
とうの昔に死んだ人の作品にばかり付き合っていると、その人たちが生きていたときを見たかったと切に思うことがある。

ウィーンのシューベルトが亡くなったという家、というか部屋を訪ねると、異様な感覚に襲われる。肖像画でおなじみの鼻眼鏡、小さい真ん丸い眼鏡と髪の毛が一房。作曲家が本当に生きていた、僕らと同じようにあくびをしたり腹が減るとグーと鳴ったりしていたのか、と改めて思う。

レッスン中は演奏を聴くだけであるから、頭は余裕があり、あらゆる方向に空想が働く。リストという人は、仮に生身のリストと親交があったならば、気持ちよく付き合える人物だったのではないか、なんて具合に。

こちらに際立った才能がない分、余計に気持ちよい付き合いができたのではないか。古今の作曲家の中ではいちばん親しみやすかっただろう。

ショパンなどは手紙を読んでも、なかなか気難しい、一筋縄ではいかぬ人のようだ。

シューマンが「諸君、脱帽したまえ」と高揚した調子でショパンを世に紹介したのは有名であるが、当のショパンは「あの変なドイツ人が・・・」と嬉しさをかみ殺しながらシューマンを揶揄している。

ベートーヴェンは会ってみたいが何しろあの顔でしょう。うっかり音楽のことなぞ口にしようものなら怒鳴り散らされるか、からからと笑い飛ばされるだろう。もっとも、この人は陰険なところはなかっただろう。チェルニー相手におじんギャグをかまして、ひとりで悦に入っていたのではないだろうか。

ただ、そうはいってもあの顔じゃあなぁ。シューベルトが散歩中のベートーヴェンをよく見かけて、遠くから畏敬の眼差しを送っていたと聞くが、こちらも遠くから眺めるだけでいいかな。

ワグナーは金を巻き上げられそうだし、もっとも僕は巻き上げられるほど持っていないからな、相手にもしてくれないだろう。シューマンはこちらがよほど気を遣わないと傷つきそうだし。ブラームスだって厭味をたくさん言うだろう。

そう思ってみれば死んだ人間は何も言わないから気持ち良い。

生きていたときにはどんなだったのだろう、と空想したら楽しかろうという話を始めたのに、死んでしまった人間は作品以外残らないから気持ちが良い、なんて実も蓋もない話になってしまった。

そうそう、リストの話であった。

気持ちよく付き合ってくれそうな人と言ったけれど、彼の作風を見ているとそう感じるというまことに無責任な感想なのである。

この人があっけらかんとした善意でしたであろう編曲ひとつとっても、およその想像はつこうというものだ。ヴェルディだろうがシューベルトだろうがお構いなし。シューベルトの編曲なぞはベタベタに塗りたくって辟易とする。

シューマンだって自分の歌曲をあそこまで「改作」されたらげんなりだったに違いない。

にもかかわらずこの人に悪意はないと感じないわけにはいかない。希代のアイデアマン。打ち捨てた様々の断片(たとえ完成していてもこの人のは断片というのがふさわしい)をワーグナーが丹念に鍛え上げる。するとそのワーグナーの曲をまたしても編曲して「諸君、天才の作品を紹介しよう」とやったのだろう。

我らのような無能の輩にはまことにありがたい親切な御仁だったに違いない。苦い顔をしたのは天才たちだけだ。よかった、天才に生まれずに。