下宿の台所の窓辺に大きなリンゴの木があった。新緑の季節が近づいて、窓いっぱいに芽吹き始めた枝が広がり、次第に緑が増してゆく。
新芽はポッポッと無数に点火したように見え、それはやがて炎のようだと感じるようになった。熱を帯びない炎。
「ニーベルンゲンの指環」にローゲという火の神が出てくる。神性を奪われたブリュンヒルデを長い眠りにつかせ、神々の長ヴォータンはローゲに命じて彼女を火で囲ませる。火を恐れない真の英雄だけが彼女を眠りから目覚めさせることができる。
僕は窓いっぱいに広がる炎を眺めながら、自分が演出家だったらこのような炎でブリュンヒルデを囲みたいと空想した。
下宿もリンゴの木も元のまま立っているだろう。大家さんはとうに過去の人となったが、今住む人も窓いっぱいの新緑をもうじき見るのだろう。