ヨーロッパに住んでいないと絶対に体験できないものがパイプオルガンである。今でも多くの教会は昔ながらの古いオルガンを使っている。
かつてはヨーロッパでも、新しければただそれだけで立派だという気運が芽生えた時期があったらしい。古いオルガンは取り壊され、新式の楽器に替わっていくところであった。
シュヴァイツァー、マックス・レーガー、カール・ショトラウベが中心となって歴史的オルガンの音響上の美点を指摘し、たくさんのオルガンが取り壊される運命を免れた。カール・シュトラウベとはトーマス教会の合唱長を務めた、非常に優れた音楽家だったらしい。シュヴァイツァーとレーガーについては説明も不要だろう。
この人たちの努力は報われた。今日僕たちは彼らに感謝の念を抱きながら、歴史的オルガンの響きに身を浸す。
新しいオルガンと一口にくくって言ってくれるな、俺は少しばかり違うぜ、という製作者もいるだろう。彼らの喜びや努力を笑うわけではない。笑うどころか敬意を表する。しかしその響きの差は如何ともしがたい。言葉で柔らかい音と表現しても、どうしようもないもどかしさだけが残る。
オルガンの名器はおよそ3箇所に分布してある。シュトラスブールを中心としたアルザス地方、ドレスデンとその周囲、そして北ドイツからオランダにかけて。
歴史的オルガンは他にもあるけれど、この3つの地域の代表的なものをまず聴いておきたい。
春を過ぎ、気温が上がるころになるとオルガン演奏会が開かれるようになる。
僕の住居はリューベック(トーマス・マンの生誕地としても知られる)から南へ車で40分、リューネブルクから北へ車で40分走った辺りにあった。
オルガン演奏会はたしかどちらかが火曜日、もう一方が金曜日に開かれていた。よく一週間の間に両方を聴いたものだ。
リューベックのヤコビ教会のオルガンはじつに素晴らしい。放送では隣にあるマリア教会の新しい大オルガンをよく使用していたが、これは金属的で不快な音である。
ヤコビ教会のオルガンを聴くと、音が一条の光のように、体を差し抜いていくような心地がする。古いオルガン特有の、手で触れることができるような丸い柔らかい音。フォルテは新しいものだと空間に放り投げられたような響きがするけれど、古いものの音は錆が付いて凝固したような、締りのある響きである。
リューベックは7つの塔の町といわれるように、大して広くない町に教会がたくさんある。大聖堂にも大きなオルガンが備え付けられているが、これは一時期の金属的な音への反省から、マットな響きにしてみました、という緊張力のない駄作である。もちろん新しい。写真はヤコビ教会。(サイズが大きすぎてとんでもないものが載ったのであわてて差し替えた。)
一方リューネブルクは10代のバッハが数年住んでいた町である。ヨハネス教会にはゲオルグ・ベームがオルガニストとして仕えていた。
バッハが籍を置いた教会の名前を失念したが、ここのオルガンはもう新しくなっていて平凡である。
だが町がこじんまりとしてじつに美しいのでよく訪れた。この教会ではいろんな人が練習していて、レンガの建物の外に(壁に沿って歩くと)かすかにオルガンの響きが漏れてくる。
重い扉を開いたとたんに音が洪水のように溢れてくる。しばし耳を傾けた後ふたたび扉を開けて外に出る。ゆっくりと扉が閉まり、オルガンの響きは別の世界からのように遠のく。僕はこの感じが何ともいえず好きだった。
そうそう、肝腎のヨハネス教会のオルガンについて書くのだった。不思議な音である。桜の古木に洞が空いているでしょう、そんな感じ。
リューベックのような身体を刺し抜いていくのではない。音源のありかが分からなくて、船酔いに似た気持ちになる。バッハのパッサカリアの冒頭など、巨大な木管楽器がどこかで鳴っているかのようだ。ふいごが楽器になったらこんな音になるのだろうか。このような音は後にも先にも聴いたことがない。
かつてはヨーロッパでも、新しければただそれだけで立派だという気運が芽生えた時期があったらしい。古いオルガンは取り壊され、新式の楽器に替わっていくところであった。
シュヴァイツァー、マックス・レーガー、カール・ショトラウベが中心となって歴史的オルガンの音響上の美点を指摘し、たくさんのオルガンが取り壊される運命を免れた。カール・シュトラウベとはトーマス教会の合唱長を務めた、非常に優れた音楽家だったらしい。シュヴァイツァーとレーガーについては説明も不要だろう。
この人たちの努力は報われた。今日僕たちは彼らに感謝の念を抱きながら、歴史的オルガンの響きに身を浸す。
新しいオルガンと一口にくくって言ってくれるな、俺は少しばかり違うぜ、という製作者もいるだろう。彼らの喜びや努力を笑うわけではない。笑うどころか敬意を表する。しかしその響きの差は如何ともしがたい。言葉で柔らかい音と表現しても、どうしようもないもどかしさだけが残る。
オルガンの名器はおよそ3箇所に分布してある。シュトラスブールを中心としたアルザス地方、ドレスデンとその周囲、そして北ドイツからオランダにかけて。
歴史的オルガンは他にもあるけれど、この3つの地域の代表的なものをまず聴いておきたい。
春を過ぎ、気温が上がるころになるとオルガン演奏会が開かれるようになる。
僕の住居はリューベック(トーマス・マンの生誕地としても知られる)から南へ車で40分、リューネブルクから北へ車で40分走った辺りにあった。
オルガン演奏会はたしかどちらかが火曜日、もう一方が金曜日に開かれていた。よく一週間の間に両方を聴いたものだ。
リューベックのヤコビ教会のオルガンはじつに素晴らしい。放送では隣にあるマリア教会の新しい大オルガンをよく使用していたが、これは金属的で不快な音である。
ヤコビ教会のオルガンを聴くと、音が一条の光のように、体を差し抜いていくような心地がする。古いオルガン特有の、手で触れることができるような丸い柔らかい音。フォルテは新しいものだと空間に放り投げられたような響きがするけれど、古いものの音は錆が付いて凝固したような、締りのある響きである。
リューベックは7つの塔の町といわれるように、大して広くない町に教会がたくさんある。大聖堂にも大きなオルガンが備え付けられているが、これは一時期の金属的な音への反省から、マットな響きにしてみました、という緊張力のない駄作である。もちろん新しい。写真はヤコビ教会。(サイズが大きすぎてとんでもないものが載ったのであわてて差し替えた。)
一方リューネブルクは10代のバッハが数年住んでいた町である。ヨハネス教会にはゲオルグ・ベームがオルガニストとして仕えていた。
バッハが籍を置いた教会の名前を失念したが、ここのオルガンはもう新しくなっていて平凡である。
だが町がこじんまりとしてじつに美しいのでよく訪れた。この教会ではいろんな人が練習していて、レンガの建物の外に(壁に沿って歩くと)かすかにオルガンの響きが漏れてくる。
重い扉を開いたとたんに音が洪水のように溢れてくる。しばし耳を傾けた後ふたたび扉を開けて外に出る。ゆっくりと扉が閉まり、オルガンの響きは別の世界からのように遠のく。僕はこの感じが何ともいえず好きだった。
そうそう、肝腎のヨハネス教会のオルガンについて書くのだった。不思議な音である。桜の古木に洞が空いているでしょう、そんな感じ。
リューベックのような身体を刺し抜いていくのではない。音源のありかが分からなくて、船酔いに似た気持ちになる。バッハのパッサカリアの冒頭など、巨大な木管楽器がどこかで鳴っているかのようだ。ふいごが楽器になったらこんな音になるのだろうか。このような音は後にも先にも聴いたことがない。