音楽を習う人は従順で、疑問を持つこと自体を避けようとする傾向がある。「音楽に関する素朴な疑問」という記事中にそんな内容を書いた(9月7日)。それが趣旨ではなかったのであるが、コメントでその点に触れた方がいらした。
その時に思いついた。僕が先生の「教え」を意図をもって否定したことの始まりを書いておく。コメント欄で書くにはどのくらいの長さになるか見当も付きかねたので。
僕の先生は厳しいことで有名だった。よく僕の前にレッスンを受けた人が泣きながら帰宅するのを見たものである。
僕はといえば、とんでもない餓鬼だったから、弾いている手に先生の平手打ちが見舞われる寸前にパッとよける技を身に付けていた。先生の平手打ちは空しく鍵盤を叩き、美しい不協和音を奏でるのであった。もしかすると僕は音楽よりも鬼ごっこに向いていたのかもしれない。
先生への感謝の念は持っている。僕の成長に大きな影響があったことは間違いないから。嫌な思いをしたこともなかった。それどころか親身になっていただいた。
理屈めいた世界に引きずり込まれなかっただけでも本当にありがたかったと思う。理屈なんかは後でどうにでも付けられるから。
非常にやかましく言われたのは表情のない演奏にならぬことだった。独特の言い回しで書き込まれた当時の楽譜を見ると、厳しさだけは思い出すのであるが、ではどんな表情を付けて弾いていたのかといくら思い出そうとしても思い出せない。
そんなものなんだな、記憶なんて。爺様たちがわし達の若いころは、と偉そうにのたまうのも、いろんなことをすっからかんと忘れるからだろう。
かろうじて覚えていることのひとつが、2つの音符間にスラーが付いているとき「必ず」2つ目の音を小さくする、ということであった。それが1拍目からの音型であれ、アウフタクトからの音型であれ。
この注意自体は今日でも言われる人が多いと思われる。
僕はそこに釈然としないものを感じた。音楽に魂を奪われだしたころのことだ。釈然としないというか、明らかに違っているだろうと思った。
そのころ僕はブラームスの4番シンフォニーに夢中だった。安物のポケットスコアを買い込んで、いっぱしの音楽家になったつもりで読みながらレコードをかけたりしていた。
1楽章の冒頭はアウフタクトのシと最初の小節のソの2音に対してスラーがかかっている。そして延々と2音間のスラーによってテーマが構築されてゆく。これを常日頃注意されているようにシからソに向かってディミヌエンドをする演奏家はいない。
2音のうち重心は明らかに後の音にある。ここでの演奏は例外の余地がないものだったから子供の僕にもすぐに理解できた。
ではこうしたスラーと拍の関係はどうなっているのか。当時の僕にはそこに思いをいたす才覚はなかった。ただ、先生の注意は少し無視して構わないぞ、というくらいの他愛ないものだった。先生と名のつく人の明らかな過ちを発見した喜びとでもいおうか。要するに楽譜の読み方全般に関する目が育ったわけではなかった。
それでも自立心といおうか、むしろ自尊心と言ったほうが適切かもしれない、それを手にしたことは後々役に立ったと今は思える。僕が他の注意はすっかり忘れてしまっているのに、このことはよく記憶しているのも、はじめて教師の言うことに反対意見を持ったためであろうか。
その時に思いついた。僕が先生の「教え」を意図をもって否定したことの始まりを書いておく。コメント欄で書くにはどのくらいの長さになるか見当も付きかねたので。
僕の先生は厳しいことで有名だった。よく僕の前にレッスンを受けた人が泣きながら帰宅するのを見たものである。
僕はといえば、とんでもない餓鬼だったから、弾いている手に先生の平手打ちが見舞われる寸前にパッとよける技を身に付けていた。先生の平手打ちは空しく鍵盤を叩き、美しい不協和音を奏でるのであった。もしかすると僕は音楽よりも鬼ごっこに向いていたのかもしれない。
先生への感謝の念は持っている。僕の成長に大きな影響があったことは間違いないから。嫌な思いをしたこともなかった。それどころか親身になっていただいた。
理屈めいた世界に引きずり込まれなかっただけでも本当にありがたかったと思う。理屈なんかは後でどうにでも付けられるから。
非常にやかましく言われたのは表情のない演奏にならぬことだった。独特の言い回しで書き込まれた当時の楽譜を見ると、厳しさだけは思い出すのであるが、ではどんな表情を付けて弾いていたのかといくら思い出そうとしても思い出せない。
そんなものなんだな、記憶なんて。爺様たちがわし達の若いころは、と偉そうにのたまうのも、いろんなことをすっからかんと忘れるからだろう。
かろうじて覚えていることのひとつが、2つの音符間にスラーが付いているとき「必ず」2つ目の音を小さくする、ということであった。それが1拍目からの音型であれ、アウフタクトからの音型であれ。
この注意自体は今日でも言われる人が多いと思われる。
僕はそこに釈然としないものを感じた。音楽に魂を奪われだしたころのことだ。釈然としないというか、明らかに違っているだろうと思った。
そのころ僕はブラームスの4番シンフォニーに夢中だった。安物のポケットスコアを買い込んで、いっぱしの音楽家になったつもりで読みながらレコードをかけたりしていた。
1楽章の冒頭はアウフタクトのシと最初の小節のソの2音に対してスラーがかかっている。そして延々と2音間のスラーによってテーマが構築されてゆく。これを常日頃注意されているようにシからソに向かってディミヌエンドをする演奏家はいない。
2音のうち重心は明らかに後の音にある。ここでの演奏は例外の余地がないものだったから子供の僕にもすぐに理解できた。
ではこうしたスラーと拍の関係はどうなっているのか。当時の僕にはそこに思いをいたす才覚はなかった。ただ、先生の注意は少し無視して構わないぞ、というくらいの他愛ないものだった。先生と名のつく人の明らかな過ちを発見した喜びとでもいおうか。要するに楽譜の読み方全般に関する目が育ったわけではなかった。
それでも自立心といおうか、むしろ自尊心と言ったほうが適切かもしれない、それを手にしたことは後々役に立ったと今は思える。僕が他の注意はすっかり忘れてしまっているのに、このことはよく記憶しているのも、はじめて教師の言うことに反対意見を持ったためであろうか。