季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

水と原生林の間で

2013年04月08日 | 
高校の国語の教科書だったと思うが、シュヴァイツァーの「水と原生林の間で」の一節が載っていた。

国語の教師は粗野な知性を露わにした人だった。

もう当時のことを思い出すことが殆んど無いのだが、この教師がシュヴァイツァーのアフリカでの活動を評して「独りよがりである。彼が救えたのはほんの一握りの人間であり、はるかに多くの人々は不幸なままだったはずである云々」と言うのを聞いて非常な違和感を覚えたことだけは思い出す。

当時僕はその違和感が何であるか、分からなかったのだが、今になってみるとよく分かる。

この教師の感じ方というか考え方が政治的見方の代表だったから僕は反撥を感じたのである。

政治的といっても誤解されるだろうから少し補足しておこう。

政治的というのは民主党や自民党に代表されるいわゆる政党政治あるいは近代民主主義を指しているのではない。

すでに例えば井上ひさし氏に関する文で触れたことを繰り返すしかないが、人の考え方、感じ方、行動などをある種の共通項をあてはめてひとくくりにする、それを政治的と言っているのである。

なるほど僕は音楽家である。ドイツに住んでいた。東京芸大に在籍したこともある。たぶん卒業もした。だからといって僕は現代の芸大生とどんな共通点がある?ドイツに住んだことがあるというだけでひとくくりにできるわけもないだろう。

共通点でくくるのは大変に便利だが、その中の個を見落とす危険がある。

シュヴァイツァーは大オルガニスト シャルル・ヴィドールの弟子であった。どうやってヴィドールに師事するに至ったかはシュヴァイツァー自身が自著の中で述べているから、関心がある人は読んでもらいたい。大変心を打たれる文章である。

また、ヴィドールもそのいきさつを「バッハ」への序文の中で書いている。これまた力のこもった文章だ。力がこもったというより心がこもった文章といいなおしておこうか。

音楽の世界、殊に研究の世界ではこの「バッハ」はかび臭い書物として記憶されている。しかし、次々と世に出る研究書からはなんの音も聞こえないのに対し、「バッハ」からははっきりとシュヴァイツァーの演奏の音が響いてくる。こればかりは否定のしようがない。

ひとつだけ、このオルガニストの言葉を紹介しておく。

多くの人々はバッハの音楽は教会のために書かれたのだから演奏は教会でなされるべきだという。わたしはこう答える。バッハが演奏されるところが教会になるのだ、と。ゴッホが跳びあがって喜びそうな言葉だ。



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