季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

漢字伝来

2009年02月24日 | 
大島正二さんという人の「漢字伝来」という本は面白かった。僕たちは生まれてこの方ずっと漢字と付き合っているにもかかわらず、それについて知らないものだなあ、というのが真っ先にきた感想だ。

今、僕たちはと書いたでしょう、これは本当は間違いだ。僕という漢字のことではないよ、言っておくが。パソコンの変換キイのおかげで書き間違いはなくなったよ。とんでもない見落としはあるけれど。

こういう場合「僕たち」と全員がそうであるかの言葉を使うのはマスコミやキャスターの常套句である。「私たちはこんな贅沢をしていてよいのでしょうか」などと使用する。

贅沢していると感じているのはあんただろう、自分まで一緒にしないでもらいたい、と思ったことならば大抵の人があるだろう。マスコミから広がった(多分ね)この手の責任を共有して気が楽になりたい人の言い草を僕は好きになれない。

だから本当はこう書かねばならない。僕は生まれてこの方ずっと漢字に付き合っているにもかかわらず、それについて知らない、と。

ただ、この場合はそこまで厳密に言う必要はないだろう。偶然そう書いたからその機会を利用してマスコミ用語に苦言を呈しておきたかった。

万葉仮名なんて漠然とは知っていても、いつこういった使用方法から漢字と仮名の混交文になったか、それはまあ分かってもどんな理由でそうした知恵に結びついたか、僕たちに、じゃなかった、僕に分かるはずもない。

慕久似輪巣辺手無津蚊詩意。度鵜陀身名査磨予目瑠課音。万葉仮名で用いられている文字は、各人が好みに従って使用したそうだ。今の絵文字を使うような感覚なのかなあ。私はこの字が素敵だと思うなってね。どうも基本的にはそんな風なのだ。
絵文字を僕は使わないし、白眼視している人たちがいるのも承知しているが、なに、こういったものだって日本の文化的な背景が垣間見られると思うとおもしろいではないか。

仲間内で絵文字を多用する若い子たちも、僕に送るメールはじつに丁寧できちんとしている。僕は世間で言われているほど若い世代のマナーが悪いなんて、これっぽっちも感じないね。

と脱線したところで。

漢字は日本にだけではなくベトナム、朝鮮でも使われたことは知っていたけれど、ベトナムでは漢字仮名混交文のような試みがなされて、結局破棄されたことはまったくの初耳であった。

ハングルも、戦後の発明のように思っていたが、というより何も思っていなかったが、何世紀も前に考案されて、そのまま半ば忘れられていたのを再び使い出したのだとはじめて知った。音楽の、それも演奏なんて日常の時間ばかりとられることに携わっていると、視野も狭くなるなあ、と改めて反省した。

それにしても万葉仮名の時代から漢字仮名混交文への変遷がかなり速やかに行われたのは驚嘆に値する。

その経緯について詳しく書かれた本も当然あるのだが、細かすぎて精読する根気がない。本屋でまず立ち読みするが(僕がプロのタチヨミストであることはすでに書いたことがある)買う気すら起きない。当然読む根気もないだろうと察している。

それでも言葉の成り立ち、字の成り立ちに関心があるのでこうして読みかじっては空想にふける。

漢字仮名混交文への移行期においてはいろんな議論や模索が盛んだったのだろう。居合わせていたらさぞ楽しかっただろう。


ユダ

2009年02月03日 | 
河上徹太郎さんの全集の中にユダについて書かれているものがある。

河上さんは狩猟が趣味だった。今では宅地開発が進みきって山の陰すらなくなった東京町田市の近くに山小屋のような自宅を持っていた。

ある日の夕方、若い友人と囲炉裏の火をくべながら歓談していたとき、一本の薪が火がつかずにくすぶっていた。河上さんは口数の少ない人だったらしいが「まるで左翼だ」とつぶやいた。「なるほど」と相槌を打つ友人に対し「いや、僕は今ユダのことを考えていたんだ」と言ったという。

通常ユダは裏切り者として理解されているのであるが、河上さんはそうではないと言う。いや、もちろん彼は裏切り者なのであるが、イエスを裏切るのであるが、その裏切る理由を解き明かすのだ。

ユダはイエス一行の財布を任されていた。実務能力に長けていたわけである。ユダはイエスを真理の体現者と信じ、エルサレムには人々の歓喜の中を凱旋するように思い込んでいた。

実際はロバに跨り、惨めな、人々から嘲笑される小さなグループであるに過ぎなかった。彼らはそうやってエルサレムに到着したのだ。

ユダはまずそれに大変失望した。

マグダラのマリアが高価な香油をふんだんに使ってイエスの足を清めたときのこと、ユダは女をとがめる。そのような贅沢を神の教えでは禁じているではないか、と。それだけの金があったら何人もの貧しい人に施しを与えることができるだろうにと。

イエスは、この女はイエスにあいまみえることがもうないことを知って、最上のもてなしをしたのであるから良いのだ、とたしなめる。

河上さんはこの場面、ここでのユダの心の動きに着目する。

ユダは誰もが知るとおり、イエスを裏切るのであるが、「成果」に失望しただけではなく、「教義」を無視したイエスにも失望したのだと河上さんはいう。ユダは「合理的」に教義を信じて、イエスという人(僕は信者ではないからイエスという人と言うけれど)を信じなかったというのだ。これは深い洞察である。

聖職にある、または信者と思われる人のサイトでは、この場面はどう扱われているのだろう。

ほんの少し垣間見ただけだから、当然いろいろに解釈されているはずだが、ある人は、ユダがすでにイエスが処刑されることを知っていて、そのイエスに高価な香油を使うのを惜しんだ、と言っていた。

こうした解釈というのは教徒の間では一般なのだろうか、僕は知らない。けれども、週刊誌のすっぱ抜きを思い出して思わず笑ってしまった。ご本人はいたって大真面目な感じのサイトであったが。ただ、この笑いは僕を楽しくするものではなかった。憂鬱になってしまった。

河上さんの説は文学者の中では有名だ。もっとも昨今の文学者たちのことは僕はまったく知らないけれど。

僕は文学者たちのような精緻な理論でこれを読んだわけではない。あまりそういう読み方はしたくないのである。ただ、イエスを信じないで彼の理の方を信じた、という河上さんの説に共感する。音楽の世界で、音楽学というものがこれほど盛んで、しかも行き詰まりを見せて、演奏理論、解釈といった面でも行き詰まり感が濃厚だと、自然と河上さんの言葉を思い出すのである。

音楽など芸術分野に限ったことではない。僕たちの日常生活でもいくらでも目にするはずである。人の情で汲み取らずに理屈だけを信じて行動していく人がたくさんいるはずである。ただ、情といっても、日本人は情で動くとか、土下座して情に働きかける政治家の考える情とはまったく違うのは断るまでもなかろう。

西岡常一さん

2008年12月26日 | 
知っている人はとっくに知っているから、いまさら紹介するのも気がひけるのだが。

この人は法隆寺付きの宮大工だった。

もうかれこれ20年になろうか、小学館から「木に学べ」という本が出ていて、その著者が西岡さんだった。西岡さんについて当時はまったく知らなかったのだが、一読して感服した。この本は今では文庫本として出版されています。若い人たちに、もちろん年配の人たちにも、ぜひ読んでもらいたい本だ。

道具についてずいぶん多くのページが割かれていて、それが退屈でぴんと来ない人はそこをとばして読んでも一応分かる。

しかし、本当は「槍カンナ」(本当はヤリガンナと読むが、関西弁のことだと思う人がいるような気がしてね、いや失礼)など、西岡さんが復元させた昔の大工道具などについての、詳しい解説を是非読んでもらいたいのだが。

ここで少しでも紹介しようと思って本棚を探したのだが見つからない。誰かに貸したような気もする。

こういうことが多い。そういえば数人に数百万円貸したような気もする。我が家に蓄えがないのはそのせいだったのか!安心した。借りた人がいたら返してね。

記憶に頼って書く。

西岡さんが携わった古代建築の修理や薬師寺再建の折、いわゆる建築学者と様式をめぐって激しいやりとりがあったという。学者はたとえば屋根の反りを玉虫厨子と同じにするべきだと主張する。西岡さんに言わせれば、学者は頭での様式論でしかものを言わない、玉虫厨子は模型だからあの反りが可能なので、実際の寺院建築では絶対に無理だという。最後には学者を現場に連れて行き、実際に木を組んで見せて「これでもあんたはできると言うか」とやり込めたという。

学者が何を言おうと、自分は実地で知り尽くしておるから慌てまへんな、と言い切るのである。こういう人は迫力がある。

薬師寺に行ったことのある人は西岡さんの仕事に直接触れているのである。随所に鉄筋やコンクリートが使用されているけれど、じつはただ申し訳においてある、そうしないと建築基準法(だったかな)にパスしないからで、本当は檜だけのほうがよっぽど長くもつのだという。

現代人は鉄やコンクリートに対して信仰といってよいほど信頼感を持っているけれど、いったい誰がコンクリートの本当の強度を科学的に知っているか。また、檜の本当の強度や特性を科学的に知っている人がいるのか。

こういうことになると学問が材料に及ばないではないか、と西岡さんは言う。まったく異論反論の余地はあるまい。

鉄にしたところで、昔のように鍛冶屋が何べんも何べんも打って鍛えたものは、鉄が何層にも重なっているから(パイの皮のようなイメージを持てばよい)一番上が錆びても次の層、また次の層となるので、法隆寺に使われている釘は千年でも保つ。しかし現代のように溶鉱炉から溶けて流れたものを型に流し込むようなものは百年ももたない、という。

彼の言うとおりだろう。学者より現場で腕を振るうひとの言を僕は信じる。西岡さんの本はそういう気迫、迫力に満ちている。それでいてもっとも深いところで謙虚なのである。

四国にひとり鍛冶屋がいて、その人が千年たってもまだ保つ釘を造るのだそうだ。一本に大変な労力を要し、もちろんそれでは食べていけないからふだんは鍋などを作っているらしい。

西岡さんがこの人に目をつけ、薬師寺建立のための釘をつくってくれ、と依頼したという。

この鍛冶屋の仕事振りを昔テレビで見たことがある。胸を打たれた。仕事場に西岡さんの写真が掲げてあった。「この人なくして私はありませんでした」と語る姿も、昔風に言えば、ありがたかった。こういう世界もあるのだ。

勘違い

2008年12月19日 | 
「森林の思考 砂漠の思考」という鈴木孝夫さんの本を閉店間際の書店で見つけた。

僕は書名でおよその内容が関心を持てるかを速断して、次に著者を見、あとは時間があれば1,2分斜め読みをして買うか買わないか最終的に判断する。この日は閉店を知らせるアナウンスが流れていて、特別すばやい判断を迫られていた。もっとも本屋での決断は常にすばやい。レストランと本屋は速い。牛丼屋に行ったらなお速いのではないかとひそかに思っている。

帰宅して寝転んで読み始める。この本は最初に日本人とドイツ人が道を尋ねられたときの答え方の差について書かれていた。日本人は分からないと教えないが、ドイツ人は(これは著者がドイツに住んでいたことがあるからで、一般にヨーロッパ人はといっても良いと書かれている)断固とした口調で教えるが、それが正しいとは限らなかったという。

いつもの調子だなあ、と読み始めたところが、どうも変なのである。何だか文体がちがう。何気なく表紙を見て驚いた。鈴木孝夫さんだとばかり思っていたら、鈴木秀夫さんとあるではないか。もっと違いが分かりやすい名前をつけてくれよ。あわてて著者の紹介を見たら、地学の学者なのであった。閉店間際で気がせいていたためもあるが、こうしたうっかりをよくするのだ。

しかし、この勘違いというか失敗のおかげで、普段ならば絶対に買わなかったであろう本を買った。その上、これがなかなか面白いのである。

その上と書いたが、ちょっと読み進んで面白いものだから一気に通読したのである。つまらないものであれば、絶対に読まない。

ここの書店では少し前にも閉店間際に失敗をした。

買う予定の何冊かをまとめて他の本の上に置いて、もう一冊を立ち読みしているうちに閉店になった。あわてて置いた本を持ってレジに行き、帰宅後見たら、一冊経済学の本があった。どうやら隣だか下の本まで持ってきてしまったらしい。

関心のある人には立派な書物なのだろうが、僕には何の感興も湧かない。経済学の本を買うという不経済をしてしまった。きっと本の内容は不要な買い物はやめろ、とかあるんだろう、いまいましい。

というわけで、鈴木秀夫さんの本は僕にとって本当に面白かったということがおわかりだろう。この本は著者紹介によれば60刷近く出ているようだが、それも良く分かる。

地学と一口に言っても、その領域はきわめて広いことを知った。考えてみれば当たり前のことだが、たとえば文化人類学と重なり合う。言語学とも。紹介するのにこんな堅苦しい文字を並べ立てたって駄目だろうが。

最初に挙げた例は、砂漠の民は水のある場所へ行き着くのに、ある道を選ぶか選ばないかを「決断」しなければならない。それにひきかえ森林の民である日本人は、迷っていてもそれが直接死に結びつくわけではなく、いわば優しく守られた状態だという。ある道を選ぶ決断は必要ない。そこからさまざまの差異が生じるのだという。これはその通りだろう。

その他、この分野ではありとあらゆるデータを駆使して扱うということも知った。たとえばふつう日本人は北国の人が北方系で、南国は南方系だと信じて疑わない。ところがDNAレベルでの調査をすると、四国、九州が北方系で、東北以北は明らかに南方系であるという結論が導かれる。

あるいはある言い回しが(地名の読みなどもそれに含まれるけれど)それぞれ特定の地域を境にしてはっきり分かれる。それらを複雑に重ね合わせて、古代日本においての民族の移動を推察したりする。言語学の分野だとぼんやり思っていたのであるが、それは同時に地学の領域とも重なるのだ。

ひとつだけ具体例を挙げておく。

ヨーロッパは地名の研究が盛んなのだそうだが、日本はそれほどではないという。そのなかで、河川名における○○沢と○○谷の二つの地名分布を調べると、○○沢は近畿以西にはまったく無くて、○○谷は東北以北にはきわめて少ないという。これに他のさまざまな分布要素を重ねて、昔の生活の変化などを推察していくらしい。

いろいろ興味は尽きないのであるが、この人の性格が僕の関心をひいたところをもうひとつだけ挙げておく。正確な引用ではないが。

あまり細かいところで言い出すと異論を持ち出すことも可能であるが、自分はそういったやり方を好まない、というくだりがあった。学者にもこういう人がいるのだ。


脳内現象

2008年12月15日 | 
利根川進さんに触れた文を書いた折、野蛮な人だと言った。あらゆる精神は物質の働きに還元されて理解されるようになる、と断言するような人で、意見には承服できぬ点もあるが、面白い人だと感じたからだ。

睡眠薬だけではまだ足りず、わけの分からぬ科学書を読みながら口を開けて眠ることにしている。何ページ読み進めるかは時の運だ。そのうちパブロフの犬のように、「量子力学」なんていう表紙を見たとたんにぱったり眠くなるといいと思う。大いに期待している。

プロの立ち読みを自認する僕でも買うことだってある。茂木健一郎さんという人の「脳内現象・私はいかに創られるか」というのが利根川さん式楽観論への僕の疑問に取り組んでいるように(立ち読みの一瞬でだけれども)思われて買った。

一読して面白かった。しかし結局は僕が僕を認識する、あるいはまた僕だと感じることを客観的につまり科学的に記述するのは容易ではないな、という「常識」を改めて思った。

茂木さんという人は趣味が多方面に向う人で精力的で人付き合いもスマートに出来るのではないかしらん、と感じる。

これを読み終わったころ、レッスンに来た人が「茂木健一郎さんが・・」と既知のひとを話すように言ったのでびっくりした。僕の心を読み取られたか、この人は宇宙人かもしれない、あるいは僕がたった今茂木さんのことを話題にしたのを忘れるほど健忘症が進んだのか。いずれにしても少々あせったが、よくよく聞いてみたら茂木さんという学者はNHKによく出演している気鋭の学者で、人気が高い人だという。テレビを見ない僕はそれと知らずに新しい人を発見したつもりでいた。

本を眺めてみればなるほど、NHKブックスとある。その後気をつけてみると、たくさんの一般向けの本を次々に出している。

少し芝居がかった文章が多いのが難点かな。話は当然生理学や物理学についてを噛み砕いてくれているのであるが、それでも難しいものは難しい。簡単に理解が進むわけではない。

通読した後、さてそれでは現代の学問による自我の理解は何だろうと問い直すと、結局ほとんど一歩も動いていない。

利根川さんのように、いずれ物質レベルで解明され尽くすという立場を取らずに、それでいて科学の立場からものを考えようという気構えだけは伝わってくる。そこが良いところかもしれない。

僕は実はシェルドレイクという生物物理学者の本を愛読しているのであるが、この人の魅力についてはいずれ書いておきたい。僕は自分の経験からシェルドレイクの立てたある仮説を「感覚的に」支持するものである。

この人といい茂木さんといい(シェルドレイクは異端扱いされている学者らしいから茂木さんは一緒にしないでくれと言うかもしれないがね)ベルグソンの著作と重なり合うところが面白い。

ベルグソンの作品も、所謂哲学者のように理解しているのではない。直感的に分かるとしかいえない。「創造的進化」という本や「物質と記憶」という読むのに難儀する本も、ピアノ弾きとして乱暴にいえば分かるところだけ読もうとすれば大変分かりやすい。

時折感じるのだが、専門家は何て細かいところにばかり拘泥しているのだろう。最近の文学批評をチラッと見ても、悩む種を強いて見つけ出しているとしか思えない。理屈のための理屈とでもいおうか。

茂木さんは今のところその手の心配はなさそうである。文字通りメモのような文になってしまった。僕の脳内は混乱していると見える。

ゼロの発見

2008年11月20日 | 
零の発見という本がある。数学の生いたちという副題が示すとおりの内容で、吉田洋一さんという人の本だ。たいへん面白い。岩波新書でもう90刷以上あるのではないか、昔から名著の誉れ高い。

だが、今回はこの本を紹介するつもりで書いたのではない。タイトルをもう一度見て貰いたい。零の発見は吉田さんだが、僕のはゼロの発見なのだ。僕なりのゼロの発見を書く。決して剽窃ではないのだ、といばっておこう。

昔、帰国したばかりのころ、ほとんど文無しの生活を送っていたころ、なぜかは思い出せないが僕は駅への道を急いでいた。

駅の少し手前に小さなオーディオの店があり、路上に商品を出して鳴らしていた。店も小さかったが、鳴っているスピーカーはもっと小さかった。当たり前だ、店より大きなスピーカーがどこにある、と言うなよ。高さ30センチにも満たない。それがえらく良い音なのだ。上等のスタインウェイとかハンゼン先生の音とか、一言でいうとヨーロッパでずっと聴きつづけた音を瞬間的に思い出す音だった。音を触ることができるとでもいおうか。

思わず足を止め、値札を見ると片方で20000円。左右両方で40000円である。帰国したばかりでレコードも聴けやしない、安物のステレオ装置を売らずに帰国するべきだった、と後悔していた折である。

これならば何とか買える。音も良いし小さいし、良いことづくめだ。

僕は買い物の決心をすると早い。駅に向かっていたはずが、いつのまにか店の奥に向かっていた。

「良い音ですねえ」と小僧さんみたような店員さんに話しかけると「そうでしょう」と嬉しそうに応える。「こりゃ良い音ですよ」「こういうのはむしろ楽器といいたいですね」と僕のほうが売り手のように褒めてしまった。

ここで断っておくが、僕はオーディオ機器に何の関心もなかった。ドイツでも最低ランクの機械で満足していた。友人がY社のオーディオを買って、それまでは僕とどっこいどっこいの安物だったのが値が張るのを買ったらしく「Y社も悪くないぞ、スピーカーも凄く重いんだ」と自慢し、羨ましく思ったくらいだ。つまり良いスピーカーは重い、と思い(シャレではないぞ)込んでいた。相撲取りだって重ければよいとは限らないというのにうかつだった。でも、一応付け加えておくと、音響機器は振動が一番の敵で、僕たちのような素朴な人間にはスピーカーは重くあるべし、という観念が定着していた。

そんな僕の目の前に小さくて場所をとらず、しかも手頃な値段のスピーカーがあったのだ。

「あのスピーカーをいただきたい」僕の口調はいつにも増してきっぱりしていた。それでも即金では買えず、ローンの手続きを依頼して、店員が必要欄を埋めていくペン先の金額にふと気がついた。値段のところのゼロがひとつ多い!!仰天した。両方で400000円!

その時まで、僕は、ピアノの購入のとき同様、掘り出し物というのはオーディオの世界でもあるワイと思っていた。ところが、この世界はそんなに甘くなかった。良い音にはわけが、ではない、値があるのだ。

あんまりきっぱり言ったので、引っ込みがつかなくなり、帰国直後のやけくそな気分も手伝い、ええ面倒くさい、最長のローンで買ってしまえ、と相成った次第である。6年だったか8年だったか、月日が経つのは遅いなあ、とため息をつきながらものすごい金利を払ったはずである。今のような低金利時代ではなかった。プロミス並みの利子だった。

僕がゼロを発見した奴に恨みを持つのは当然である。ゼロの重みはずしりと堪えた。学校の0点なんか平気だったのだが、こちらのゼロは数年にわたって追いかけてくるのだからなあ。ふたつ見落とさなくてよかった、と今では思い直している。というのは、後に知ったところでは、そういう世界らしいのだ、オーディオ界とは。

その小さなスピーカー、おっと店はその道の人からは知られた店だったことを後に知った。もっと立派な店構えだったら立ち寄らなかったのに。

後日談がある。

以上からお分かりのように、僕はコンセント以外のケーブルは繋げないほど、機器に暗い。ある日、何だったか忘れたが、あまりに初歩的だと自分でも分かることで店に電話をした。格好悪いので名乗ることもしないで掛けた。

質問をしたら「重松先生ですね」と言うではないか。「おや、なぜお分かりになるのですか、耳が良いですね」「違いますよ、うちのお客さんでそんな質問をする人は先生しかいません」

世界は広いね。

最後に本家「零の発見」をもう一度。以上の漫文とちがって、理解しやすく格調高い。数学なんて苦手で、というひとも是非。


黄色人種

2008年11月02日 | 
鈴木孝夫さんという言語社会学者がいる。以前ほんのちょっと触れたことがあるが、その時は確か言語学者と紹介した。今回はきちんと調べて書いたから、言語社会学者が正解です。

たくさんの語学に通じ、というと、外国語コンプレックスの強い人は、わあすごい、とため息混じりに感嘆するかもしれない。

何を隠そう、書く申す僕もガチガチの外国語コンプレックスの持ち主だ。鈴木さんてすごいなあ。冷やかしているのではないです、本当にそういう才能のある人がいるのですね。

しかし僕は音楽という世界共通の言語を手中に収めている。と急に居丈高になるのが音楽家のずうずうしいところだ。そういう人になりたければ音楽家になるに限る。

この人の著作は結構たくさん読んだ。英語に関してのものが多かった。英語教師には耳が痛いだろうと思われる内容がたくさんある。耳が痛いのは教師というより文部官僚だろうか。

言われてみればそのとおり、というものばかりである。ジャパニーズイングリッシュで構わないとか、学校の所在地を教材に取り上げるべきだ、なぜなら見当がつき易く(見当をつけるのは語学で大変重要である)また、外国で話題として大切なのは自分の(つまり僕でいえば日本であり、東京、神奈川である)諸事情であるからだ、とかそのとおりです、と答えるしかない。同時に実行に移すには(学校では)なんだかんだと反対ばかり起こりそうなことだ。

目の付け所が面白い。

例えば虹は七色と僕たちは決めているけれど、諸外国ではどうなのだろう?とか。まったく考えたことも無かったが、5色とか4色とかの国もずいぶんあるらしい。2色という国まであるというから驚く。

2色と聞くと、ずいぶん乱暴な国だとつい思ってしまうが、そんなに無謀なものでもないようだ。暖色系と寒色系に別けているらしい。なるほど、7色だって厳密なわけではないものな。きちんと理が通っている。

太陽は何色か?と問われれば何と答えますか。日本人は通常赤だと答えるのではないか。子供たちの絵をみれば、たしかにお日様は赤で塗っている。それがヨーロッパでは黄色なのだという。そんなことを意識して暮らしていなかったから、いまさら言われても思い出すことすらできない。惜しいことをした、とつい思うのはよほどの貧乏性であろうか。

あるいはりんご。赤いりんごにくちびる寄せて、だったか、そんな歌詞があったっけ。だれも違和感を持つまい。それが欧米では緑色のりんごがスタンダードな色だという。緑のりんごにくちびるは寄せないよなあ。ただし、いや、赤だろうと首をひねるヨーロッパ人もいるそうだが。

外国人の知り合いがいる人はひとつ試してみたらいかが。

鈴木さんが色の言い回しに関心を持つ理由はいろいろ挙げていて、それには著書を読むのが一番なのはいうまでもないのだが。

鈴木さんがある時アメリカでレンタカーでの迎えを依頼したところ、オレンジ色の車で行くとのことだった。ところが待てど暮らせどオレンジの車は現れない。そのうちに何やら人待ち顔の男が茶色い車から辺りをうかがっていることに気づいた。

これが依頼した車かもしれないと声をかけてみると果たしてそうだった。「失礼、オレンジ色の車だとうかがっていたもので」と謝ると「(この車は)オレンジ色だよ」と無愛想に答えたという。鈴木さんは永年の謎が解けて嬉しかったと書いている。

こうした例はオレンジ色ばかりではない。同様に、日本の茶封筒や、ベージュの封筒も黄色という言葉で表わすという。

今度は僕が嬉しくなる番だ。昔から黄色人種といったって黄色の肌の人間にお目にかかったことはなく、日本でも黄疸患者は顔が黄色くなる、という以外、黄色の肌なんて見たことがないのに、と不思議だったのだ。ベージュっぽい封筒までが黄色の範疇に入るのならば、アジアの人肌はなるほど黄色といっても差し支えない。黄色人種という謂れの謎がようやく解けた。





良寛と万葉集

2008年05月11日 | 
以下書くことはすべて、水上勉さんの「良寛」による。

と書き出して、はたと困った。良寛について書くことも、水上さんについて書くことも、何もない。

こういったのが、一応良心をもって文章を書こうとして、つまり知ったかぶりをせずに出典を明らかにして書こうとして、型どおりに断りを入れただけの一番よい例だ。

大学教授たちの論文にはこの手のものがうようよしている。それを批判していても同じ撤を踏むのさ。本当に常に肝に銘じておかないとね。

僕がふと思い立ったのは、次のようなたったひとつのことである。

良寛は周知のように、所謂こじき坊主だったが、常に文芸の道に励むことを怠らなかった。和歌を詠むだけではなく、俳句も詠めば、漢詩も作った。越後の片隅に住みながら、その名は江戸にまで聞こえた。江戸で有名な学者達も時折訪ねて問答をしていたという。その辺りが、今日の感覚では分かりづらい処だろう。

何のメディアもない時代なのに、どうやってその才覚というか、学識は人に知れるようになったのだろう。

それとも良寛はブログでも書いたのか?いま、有名になるにはどうしたら良いでしょう、と考えている(若い)人へ。良寛に訊ねなさい。

そうそう、思いだした。ある人が、和歌が上達する秘訣を訊ねたところ、万葉集を読むだけでよろしい、それをよく読むように、と教えた。(良寛自身は古今集もよく研究したようである)

「しかし、万葉集は難しすぎる」と質問者が言ったところ、「なに、判るところだけ読んでいけば良い」と答えたそうだ。こういう理解の仕方が僕はじつに好きだ。その通りなのだ。

芸事でもスポーツでも外国語でも、入り口は広い方が良いに決まっている。難しさはむこうから勝手にやってくる。

読書百遍、意自ずから通ず、というでしょう、これなども同じ源泉から出たことばです。音楽についても、空威張りのように難しいことを言う人を僕は信じない。

レッスンでも良寛風にできるかな。「先生、ここが難しいのですが」「おお、おお、弾ける所だけ弾けばよいのじゃ」と毬をつきながら言ったらどうかな。通用しないなぁ、やっぱり。

河合隼雄さん

2008年03月27日 | 
この人の本は何冊か読んだ。明恵上人についての「明恵 夢に生きる」「おはなしの知恵」これは日本昔話にあらわれる民族及び人間の深層心理の本、その他何冊か。もっとも書名は確認するひまもないから、うろ覚えです。

日本におけるユング派の心理学者の代表である。白州正子さんも彼を天才と呼んでいた。当然のことながら、交流は多岐にわたり、「河合隼雄その多様な世界」というシンポジウムの出席者の顔ぶれは大江健三郎さん、中村雄二郎さん、今江祥智さん、中村圭子さん、柳田邦男さんという多彩さだ。

子供達の間にいじめ(このことばはヨーロッパでそのまま通用するらしい)や自殺が頻繁に起こるようになり、なにか対応をしなければと焦った文科省は、心の問題の第一人者であるこの人に白羽の矢をたてた。名称は忘れてしまったが、なにかの諮問会議の座長に指名したのだったと思う。

その結果「こころのノート」というものができあがったらしい。文科省のサイトやウィキペディアを見てみると、ちょっと出ている。修身の復活だといった批判もあるそうだが、僕はそうしたことを語ってみたいわけではない。

こころのノートの目的のほんの一部、そこに引っかかりを感じるから、それについて書きたいのだ。

このノートには生徒が自分の悩みなどを正直に綴って、担任の教師はそれを読んで生徒の心の内側を理解する、という機能までもが期待されているらしい。最初にこの構想を耳にしたときは僕は耳を疑った。

これは、方法自体は目新しいものではない。河合さんが彼のクライアントに対してとった方法であり、それがなにがしかの効果があったからこそ、臨床心理士として名をなしたのだ。いや、なにがしかどころか、大きな効果があったのかもしれない。いずれにしても、この方法は河合隼雄という個人の、人の心に入り込む直感力、乃至経験に支えられたものなのである。

しかしそれを一般的な手法にできると考えたならばこれは、単なる耄碌である。少なくとも、河合さんが現代の病巣を真正面から見ていなかったと僕は考える。

クライアントは河合さんを信頼してやって来るのだ。そして河合さんもそれに応えるだけのものを備えていたのだ。その上、クライアントは、もしも気持ちが通じないと感じたら,河合さんから去る自由を持つのである。

では学校ではどうか。ためしに「教師 不祥事」で検索をかけてみればよい。教師に限ったことではあるまい、大人が大人の役割を果たしていないではないか。僕はきれい事について、大人が説く建前の(道徳心だの、国を愛する心だの)立派さについて言っているのではない。子供は動物的に、大人は信じるに足りない、と直感しているだけのことだ、と僕は感じている。だから教師を尊敬すると答える子供の数が世界的に見てきわめて低くなる。

しかも、その手のアンケートは、結果をどの方向から見るかが大切なのだ。新聞等の論調によれば、子供が教師を尊敬しないこと自体が由々しき問題のようだが、そう読み取るべきではなくて、単純に、尊敬されない教師が多すぎると読み解くべきだろう。子供はごく自然に、大人に対して反撥と尊敬の両方を持つものだ。自分たちの少年時を思い出せばよい。

そのような状態にあるというのに、なお子供達に、自分の悩みなどを正直に書くように指導するというのだろうか。だれがそのような「告白」をあえてする?かれらは河合さんのところへやってくるクライアントと違って、去る自由を持たないのである。現に僕が訊ねた子供達は異口同音に「適当なことを書いておくに決まっている」と言った。

こうした答えは予想がつく。けれど、本当は彼らの心は二重に閉ざされるのである。つまり、つかなくて済んだはずの嘘を書くわけだから。

人が他人の気持ちになってみる、などと言うが、これは容易なことではない。勿論厳密に言えば不可能だ。それを河合さんが知らなかったはずはない。

それを、人間として人並みの人情と知性を備えているかも疑わしい、赤の他人に、自分と同じ方法をとらせてみようと考える。僕には理解できないことだ。

「おはなしの知恵」では「桃太郎」は天才を育てる難しさとして読み解かれる。よろしい。頷ける。詳細を書くことはしないから、興味ある方は読んで欲しい。

しかし、現代の子供を巡る問題は、そういうところから、つまり民族の中に眠る無意識や、共同体としての感受性から僕たちが、いかに離れてしまったかを直感するところからしか始まるまい。しかも、本当はこうした心の問題は子供に限らない。

河合さんは、諮問会議の座長としては、問題の真ん中にある、(この場合は)救いがたい教師たちの実情、またそれに代表される大人たちの姿にこそ批判の矢を向けるべきだったのだ。

それをしなかった以上、天才というより、真実よりも自説の社会への浸透を願った俗人に見える。

ユングの本を読んでいて、これもただ頷くわけにはいかないけれど、なにかきな臭い感じだけはまったくしない。気持ちがよい。自分の意見をもういちど確認する、極めて冷静な眼が働いているのをはっきりと感じる。

そもそも、日本の文化人グループというのは、他国の事情はしらないけれど、きな臭い。河合隼雄その多様な世界に集う人たちも、なんだかエール交換をしているようでね。僕はそういう集まりに顔を出すひとの心自体を覗いてしまう。

結局河合さんの望んだ機能は、子供達からまったく無視され、机の中に眠ったままなのだ。当然である。

ついでに書いておきたい。子供達が自殺したり、殺人を犯したりすると、校長が全校生徒を集めて、「胸に手を当ててごらん、どっきんどっきん動いているでしょう。これが心臓で、これが止まったら人間は死んでしまいます」とかお話しする。あんなことはしないほうがよいのだ。各自が自分の胸に手を当てて自省する方がよい。若い人たちから「嘘っぽい」ということばを聞く度にそれを思う。

アンケートで「人間は死んでしまったあと、生き返ると思いますか」という問に、数値は忘れたが異様に高い率で「思う」とあって、おとなは動揺を隠しきれなかったが、僕に言わせると、子供をなめるなよ、ということだ。僕が子供だったら意地でも「生き返る」と答えるね。だれだって馬鹿にするなと思うだろう。

河合さんはそうした馬鹿げた取り上げかたにこそ警鐘を鳴らすべきだったのだ。心から心へと願ったのはベートーヴェンだけではない。心を知るは心なりけり、と歌ったのも西行法師だけではないはずだ。

文字変換(福田恒存さん「私の国語教室」)

2008年03月04日 | 

キーボードを使って書くのは便利といえば便利だ。

僕は十年ちかく日本を離れていて、その間ほとんど漢字を書く機会がなかったため、ずいぶん多くの字を忘れている。きっとそのせいだと堅く信じている。

ただうっかりするととんでもない変換になる。とくに字面が似ていると注意が必要だ。古伊万里について書いてふと気付いたら椀が腕になっていた。とんでもない間違いをするところだった。きっと他にもあるに違いない。

手書きだったらこういうことはまずないだろう。椀という字を忘れることはあっても、腕とは書くまい。

実はこの文章はもうずっと以前に書いてしまって(大体一月先くらいまで書きためてある)公開する日時を適当に散らしてある。ついさきごろ友人から誤字脱字が多いと指摘され、読み返したらなるほど、椀どころの騒ぎではなかった。それよりも何よりも、誤字誤読の王様というべき友人から指摘されたのはショックであった。

変換機能をつかって改めて思うのは、日本語表記のでたらめさである。世界中と書くためにせかいじゅうと打ち込むのはかなりの抵抗がある。午前中と書く場合ちゅうでしょう。それならぢゅうのはずではないか。地面をじめんも本当にいやだ。じめ、だなんて黴が生えそうではないですか。

こんな経験はたいていの人がしているはずだ。今日の表記の仕方、つまり仮名遣いは戦後しばらく経って確立されたものだ。

仮名遣いは古くは藤原定家から常に論議されてきたそうだが、歴史的仮名遣い、いわゆる旧仮名づかいの方がずっと論理上の一貫性はある。戦後の教育を立派に受けた僕はむろん歴史的仮名遣いを駆使することはできないのだが。

戦後のあらゆるどさくさ、それは現代人にとってすでに過去のものと映るであろうが、それはただそう見えるだけである。

仮名遣いの問題もそれら一連のどさくさの中で、主として文部省(現文科省)主導のもと、強引に変えられたもののひとつである。

その経緯を僕は福田恒存(恒ではなく旧字体だが、どうやって出したらよいか分からない。福田さんにはたいへん申し訳なく思う)さんの「私の國語教室」(文春文庫)で詳しく知った。(これは大変な労作というべきで、この人の緻密な、徹底した思考がよく出ている本だ。)

日本語表記をローマ字化しようという動きはずいぶん昔からあるそうで、その運動にかかわった人たちと表音文字という夢に取り憑かれた人たちが呉越同舟、勝手気ままに強引に振る舞った結果だと知った。それをふまえた上で福田さんの本の一節を紹介する。ぜひ読んで頂きたい本です。

座興までに、その種の俗論の一例として、最近、ある綜合雑誌に掲載された「漢字全廃論」の一節を紹介しておきませう。

カナづかいについては、こんな思い出がある。大正末、私が出席した、何かの会議で急進的な、カナづかいの改革案として、テニヲハのヲを全部母音のオで書くことを審議しつつあったとき、「顔を覆って泣く」の場合は、「カホヲオホッテ」、であるべきなのに、「カオオオオッテナク」になる、とても読めるものではない、と叱られた。「君らの主張はどうか」といわれて、しぶしぶ私が立った。

私は立ったものの反対する論拠が乏しい。そのときフト啓示がひらめいた。「われわれの主張では、母は歯医者に行く、または母は八幡へ帰るときに、ハハワハイシャ、ハハワハチマンとなるが、あなたがたの主張だとハハハハイシャかハハハハチマンということになる」といった。すると同じ委員の一人であり、朝日新聞の編集長であった高原操さんからの「勝負あった、カナモジ屋さんの勝ち」との御たく宣でケリがついた。

馬鹿につける薬はないと言ひますが、この三人、揃ひも揃って薬の効かない手合いです。  中略  こんな論文が堂々と綜合雑誌にのり、天下に通用するのです。  中略  筆者は余生を「カナモジ運動」に捧げて悔いぬと悲壮な決意を固めている老実業家であり  中略  恐るべきことに彼はまた國語審議會の委員なのであります。

以上。福田さんの文章は理路整然、一滴の水も漏れぬほどで、金田一京助さんも(改革派の論客であった)太刀打ちできなかったものだ。その分読むのに努力を要するかもしれないが、ぜひ読んでいただきたい。僕が生まれて間もないころ、日本語はこんな扱いを受けて変質していったのだ。