パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

がんばれ、静香ちゃん(静香ちゃんは鬱病ではないので、がんばってと言ってもいいのだ)

2011-06-30 11:02:30 | Weblog
「熱中症対策は、ともかく水分と塩分をコマメにとること、屋外だけでなく、室内でもかかることがあるので、東北大震災のためにがんばろうということで、節電に協力なさっている方も多いと思うし、その心掛けは大切だが、必要最小限のクーラー、あるいは扇風機をまわすようにしてください云々カンヌン」

 こういった矛盾した台詞を、ひとつのためらいも無く、すらすらしゃべれてしまうのがマスコミ人なんだろうが、そもそも日本はこの20年間、ずっと鬱病(デフレ)状態であった。

 もちろん、マスコミにそういう認識があったかどうかは知らないが、固有の病としての鬱病の蔓延を問題視し、鬱病者に「がんばれ」は禁句である、むしろ「がんばるな」と言いたいと、マスコミは言い続けてきた。

 それが大震災で「がんばれニッポン」と、一転してしまったわけだ。

 「がんばろうニッポン」「ひとつになれニッポン」のスローガンがいつ頃からはじまったのか。

 私の記憶では、震災後一週間くらいにははじまっていたと思う。

 本当に「奇妙」に思った。

 議論なんかしている暇はないのだ!

 とスローガンの作者は考え、マスコミ人一同、そして政治家もそれに賛同したようだが、「議論」は絶対に必要だ。

 たとえば、財源をどこに求めるか、だ。

 この問題をきっちり議論しようと思ったら、政界再編がどうしても必要だが、再編しなければ議論ができないというわけではないだろう。

 そもそも、所属政党横断の組織、「議連」があまた存在するらしいし。

 振り返って思うに、前回の衆院選挙で、国民は民主党(のマニフェスト)を選んだのだった。

 しかし、民主党は、必ずしも一枚岩ではなく、1枚看板のマニフェストを一年前、党代表に就任した菅直人は、ひっこめてしまったのだった。

 じゃあ、菅直人は元来「反マニフェスト」派だったかというと、そうではないのだろう。

 ただ、「定見がない」、それにつきる。

 それで、その時々の「勘」のようなもので、姿勢が変わる。

 まあ、それならそれでもいいとは思う。

 むしろ「定見=イデオロギー」なんかにとらわれず、時々の「直感」で対処するほうがいいのかもしれないが、菅直人には、そんな「力」はなく、財務省の言いなりで政権を維持しようとしているだけだ。

 それが、与謝野を一本釣りしたことで露呈してしまったわけだが、まあそれはさておく。

 私は菅直人に、そもそも全然興味がなかった。

 とくに、鳩山が首相になって以後、名前だけはすごい役職についたように記憶しているが、まったく政治の前面に出てくることは無く、もう政治に対する熱意もアイデアも失っているではないかと思っていたので、去年の代表選に出馬したときには、驚いたのだった。

 しかも、あんなに支持を得るなんて。

 でもあの支持の多くは国会議員ではなく、地方票だった。

 小泉とそっくりだ。
 
 それはともかく、私は、正直言って亀井静香ファンで、亀井が首相になっていれば、とっくの昔にデフレは脱却しているだろうし、デフレを脱却していれば、大震災だって、原発問題だって、苦もなく、対応できただろうと思ったりしているのだ。

 実際、あれだけ少数の政党が、あれだけの存在感を見せているのは、亀井の力だろう。

 その亀井は、今何をしようとしているのか?

 どうやら、「政界再編」らしいのだが、実際、政界再編しないことにはにっちもさっちもどうにもならないことは確かだ。

 何故って、政界再編しない場合には、結局、「財務省」が裏で暗躍することになるからだ。

 財務省を「敵」とするか、「味方」とするか、いずれにせよ、彼らが前面にでる形、すなわち、結果責任を取る形を作らなければならない。

 財務官僚が、すべて経済学部ではなく、法科出身であることを不思議に思っていたが、最近、「ハハーン、そういうことか」と思うことしきりである。

 私は、財務省入省以後は、ある程度、経済学も学ぶのだろうと、好意的に思っていたが、全然何も知らないということはなくとも、本質的には「法律家」なのだ。

 原子力保安院しかりである。

 彼らは、原子力については何も知らないんだそうだ。

 もちろん、専門家はその分野についてすべて知っているわけではない。

 「知らない」ことは、そういうこととして「知っている」。

 それが専門家だ。

 官僚が知っているのは「法律」。

 基本的に、知らないことは「法律に書かれていないこと」だが、「法律に書かれていないこと」は、大陸法と英米法で、大きく異なっている。

 「法律に書かれていないこと」は存在しないとするのは、「なすべきことを明記する」大陸法の場合で、「してはいけないことを明記する」ことを基本とする英米法では、「法律に書かれていないこと」も、実質的に存在する。

 いずれにせよ、「法律」というのは、「独占された暴力」を背景にしている。

 これがやっぱり、すごいところなのだ。

 突如思い出したが、アフォーダンス理論のジェームス・ギブソンは、「見えないところも実際には見えている」と主張している。

 たとえば、今、誰かと話をしているとすると、その人の頭の後ろも「見えている」のだ。

 もちろん、その人の後頭部に「ハゲ」があって、それも「見えている」ということではなく、彼の頭の見えていない部分が「存在している」ことを知っている。

 この「知っている」は、実質「見えている」と言ってもいい、というか「言うべきだ」と、ギブソンは言っているようなのだが、もしかしたら、これは、英米人ならではの発想なのかもしれない。(ギブソンは、アメリカ人である)