パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

助かりましたっ!

2011-06-23 15:42:50 | Weblog
 今、「風に吹かれて」につけた写真論のひとつのネタ本である、T・J・ロンバートの『ギブソンの生態学的心理学――その哲学的・科学史的背景』をおさらいしている。

 ギブソン(ジェームス・ギブソン)は、視知覚、つまり、「見ること」あるいは、「見えること」がいかなることであるかを研究している知覚心理学の専門家で、従来の西欧の哲学的伝統である心物二元論に真っ向から反するアフォーダンス理論を創始したことで一部にその名を知られている。

 その「一部」に、写真家のホンマ・タカシなんかがいるのだが、まだまだそんなに有名ではない。

 なにしろ、難しいのだ。

 それも、複雑で難しいのではなく、単純すぎて難しいのだが、それはさておき、ロンバートの上述の本は、まさにそのタイトル通り、「その哲学的・科学史的背景」を詳述したもので、従来の、というか、今でも主流の視覚論理がいかに複雑な過程を仮定しているか、それを理解するだけでぐったりしてしまうような本なのだが、ひとつ、疑問があった。

 それは、最初に読んだときから感じていたのだが、「動くもの」を見るとはどういうことかについての記述が全然ないというわけではないが、少ないのだ。

 「動くものを見る」とは、「動きながら見る」ことと同じである。

 たとえば、F1レースなんかで、ドライバーのヘルメットに小型カメラをつけて写したりするが、ドライバーの「視界」は、決してあんな風に揺れ動いているわけではない。

 もっと身近な例でいえば、本を読むとき、われわれの目は、行末から行頭へ、猛烈なスピードで動いているが、めまいを起こすことはない。

 この、「読書時の目(眼球)の急速な動き」は「サッケード」と言われるが、実のところ、本を読むときだけでなく、人間は常に目をきょろきょろ動かしているのだ。

 人間に限らない。

 あらゆる生物は、目を持つものは目を、持たないものは、自らの身体を常に動かして、環境が発する情報を得ているのだ。

 と言ってしまうのは、ちょっと性急かもしれないが、バクテリアの動きなんかを見ると、そんな感じがするのだ。

 それはさて、ギブソンがこの問題にどんな回答を与えているかというと、「目が動いても、見ている外の世界(環境)は動いていない」から、視界は安定しているのだ、と言う。

 この「目」とは、眼球、すなわち網膜である。

 もっと正確に言えば、網膜に写っている「像」である。

 この「像」自体は、人が、たとえ座禅中の禅坊主のように静止していたとしても、激しく動いているが、それでもめまいを起こすことが決してないのは、「見ている外の世界(環境)は動いていない」からだとギブソンは説明するのだ。

 ウーン、なんと説明したらいいのだろう

 そうだ!

 スキャナーに例えれば、いいのだ。

 スキャナーの場合(コピー機でもいいのだが)、スキャン対象(客体)は静止している一方、スキャナー自体(主体)は激しく動いている。

 われわれの「視界」が斯くあるのは、われわれの目が前方を向いているからだが、もし、われわれの目が「手の平」にあったらどうだろう。

 その場合には、われわれは相対している人の後ろに回って、相手の背中を見ることができる。

 もちろん、われわれ人類の目が手の平にあるのだったら、お互いに相対して挨拶をするなんて習慣自体、ないだろうから、「人の後ろに回る」なんて観念自体もないにちがいないのだが、それはそれとして、「人の後ろに回って見る」ことを、われわれは、「手鏡」と称して実際にやっているのだが、その「像」は極めて不安定である。

 この「不安定」は、われわれが「対象の像を見る」ことを、「対象を見る」ことと同一視していることから生じているのだが、この「同一視」を大いに助長しているのが、スチルカメラ、すなわち静止カメラの発明なのだ。

 では、動く対象を動くままに撮るカメラ、映画の発明は「視覚」の学的研究にどれほど寄与しているか?

 ドゥルーズの「シネマ」という論文を読んでいない限り、なんとも言えない…のかもしれないが、ドゥルーズは、伝えられるところではベルクソンの影響下にあるそうで、だとしたら、あまり期待できない。

 なんて、とんでもないことを書いてしまったが、ベルクソンの『創造的進化』中に収められている「映画論」は、「“動き”を映画はどう再現するのか」という問題意識に直接触れているので、赤線をばんばん引いて、一生懸命読んだのだが、結局何がなんだかわからなかった。

 ベンヤミンの映画論でもある「複製技術時代の芸術作品」にしても、「動きをどう捉えるか」という問題にはまったく触れていない。

 私の知る限り、私が抱いている疑問にストレートに答えているのはギブソンだけであり、その「答え」も、私は正解だと思うのだが、いかんせん、「写真論」にとってはサブテーマであろうと思い、「月光」の24号に掲載した「映画の研究」で詳述したものを、あえて割愛し、ベンヤミンの映画論である「複製技術時代の芸術作品」からは、その「物語概念」にしぼって考えたのだったが、今回、再読して、「映画の研究」は、「写真の研究」にとって、決してサブテーマなんかではないことに気がついた。

 そもそも、私は――『風に吹かれて』にも書いたのだが――「映画を撮るように、写真を撮ってきた」のだったし。

 まあ、ぼちぼちやります。

 ちなみに、というか、全然関係のない話だが、今、「日本VSクエート」戦をテレビでやっているが、相手チームがゴールミスしたときにアナウンサーが必ず叫ぶ、「助かりましたっ!」って、なんとも貧乏臭いというか、みっともない台詞、なんとかならないのか。

 この台詞は、「ナショナルゲームに限る」。

 このことが、「ことの本質」を暗示しているが、その「本質」を見据えれば、「相手の失敗に安堵する」ことが、いかに子どもっぽい言動であるかわかるはずである。

 だとしたら、そのことを認識し、「失敗に安堵」するのではなく、まず第一にプレイの素晴らしさを褒めるようにするのが、「大人」かつ「フェア」なアナウンスというものじゃないか。

 あれを止めることが、まず大事だ、なんて思ってしまう。