パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

つまるところ…長友のお辞儀について他

2011-06-19 23:54:43 | Weblog
 「AKB」の三文字を使うと。アクセス数が伸びるかと思ったら、案の定、少しだが、伸びた。

 世間はミーハーである。

 昨日のことだが、下町に住む某から、同じマンションでも、スカイツリーが見える部屋と見えない部屋では、200万円近い差があるという話を聞いた。

 なんというミーハー!

 あんな鈍重な塔、見ているだけでクサクサしてくる、見えない方がいいと、私なんか思ってしまうのだが、世間はそうではないらしい。

  東京タワーだって、最近はすっかり東京名所だが、はっきり言って、あれを自慢する東京人はいないと思う。

 「あたしの家から、東京タワーが見えますのよ、オホホホ」と自慢する婦人の顔は、微苦笑のそれに違いない。

 だったら、富士山だって……ということにもなる。

 実際、富士山を見るのは、私は大好きだし、「月光」で特集だってやっているし、そのときには、寒風吹きすさぶ1月中旬、わざわざ富士吉田まで行って、強風逆巻く様子を、1時間近くも茫然と見つめていたくらいだ。

 しかし、そうやって見ている私は、どこにいたかというと、本当につまらない、そこにいるのが嫌になってしまうような、コンビニだかドライブインだかの敷地だったりするのだ。

 もちろん、この「聖」と「俗」の共存は、富士山の特徴でもあって、広重の五十三次も、北斎の富士も、そのような構図になっているし、藤原新也もそんな写真を撮っている。

 じゃあ、藤原新也の富士山とガスタンク、あるいはどこかの、多分、製紙工場の写真が、北斎の富士のような力を持っているかというと、そうは言えないだろう。

 単にシニカルな自己批評に過ぎない。

 ここでまた、岸田国士の『日本人畸形説』に戻ってしまうのだが、岸田は次のように書いている。

 「それが畸形的であろうとなかろうと、一人物の面白いところを描こうとする趣向は作家に共通なものであるけれど、その“面白さ”が、人間の破片に過ぎない場合が、日本の作家の場合には極めて多い。」

 藤原新也の「富士山とガスタンク」の写真も、つまるところ、風景の「破片」に過ぎない。

 風景に人が一人も写っていなくとも、それを写したのは人間であるから、「つまるところ」同じなのだ。

 スーザン・ソンタグは、彼女の『写真論』で次のように書いている。

 「(写真に写された)人間性とは何なのか。事物が写真となって眺められたとき、共通にもっている一つの性質である。」

 実は私は、アンセル・アダムスのロッキー山脈の写真が大好きなのだが、それは、アダムスの、ロッキーに対するアンセルの惚れ込み方が好きなのだ。

 岸田は、「フランス人がフランスを、イギリス人がイギリスを愛する愛し方のなかには、日本人にはないものがある。自惚れではなく、まったく惚れ込んでいるところがある」と書いているが、自国のシンボル「ロッキー」に対するアンセルの惚れ込み方も、「自惚れではなく、まったく惚れ込んでいる」ところがあり、それが写真に反映しているのだ。

 ところで、岸田の『日本人畸形説』は、近代西洋と日本を比較しての物言いであると一般に見られているし、岸田自身もそれを否定していないが、必ずしもそうとは言えない。

 というのは、岸田は、支那事変中に中国の某都市で映画館を経営している「同胞」、すなわち、日本人から「日本映画を上映すると、観衆は、あるところで決まって哄笑するのを不思議に思って、よく注意していると、彼らに撮っていちばんおかしいのは、日本人のお辞儀らしいことを発見した」というのである。

 岸田は、この話を聞いて、パリの映画館でニュース映画を見たとき、「日本のさる高貴な旅行者」が多くの随員を伴ってパリのエッフェル塔の下で、迎え出た高貴な人物に向かって恭しくお辞儀をしたとき、観衆がドッと笑ったことを思い出し、次のように結論する。

 「たしかに、そのときの日本人のお辞儀は、いかにもとってつけたような、わざとらしい、ギコチないお辞儀の仕方であって、普通礼式と呼ばれる一つの動作に織り込まれた形態の美しさはみじんもなく、むしろ表情を伴わない機械的な運動――ある種の昆虫の反復する肢体の動かし方に近いものがそこに見られたことは否定すべくもないのである。われわれが日本風のお辞儀として日常見過ごしているのは、実は、現代日本の、畸形化された、精神を失った、申訳的の、自分でもこれでいいとは思っていない、半分照れながら行う挨拶の印に過ぎないのだ。」

 インテルの長友の「お辞儀」がイタリアでは受けているみたいだが、あれも「畸形化された、精神を失った、申訳的の、自分でもこれでいいとは思っていない、半分照れながら行う挨拶の印」であるが故に、観客はドッと笑うのだ。

 悪意はないにしても、「笑う」とは、そういうことであり、長友は、来シーズンはあのパフォーマンスは止めるべきだと思う。

 お辞儀ではなく、堂々と握手で対すべきだし、そうすれば、イタリア人も、「おや、日本人は変わったな」と思うだろう。

 ところで、私は、お辞儀で感動したことがある。

 それはサイパン島に今上陛下が赴かれたとき、多数の同胞の死者に対し、深々とお辞儀をした、あのお辞儀である。

 あれは、決して「畸形化された、精神を失った、申訳的の、自分でもこれでいいとは思っていない、半分照れながら行う挨拶の印」なんかではなかったし、あれを見て笑った外国人はいないと思う。

 そのせいかどうかわからないが、陛下は、今回の大震災でも、現地で、同様の「お辞儀」をされたが、私が思うに、あれは不必要だった。

 何故って、今回の大震災の被害者に、天皇家は責任がないのだから。

 「お辞儀」をするのはいいにしても、明らかに「差」をつけるべきだった。

 逆に言うと、サイパンにおける「お辞儀」は、「天皇家」としての責任においてなされたパフォーマンスであり、それ故に「有意味」だったのだ。

 なんだか、思わぬところに話が飛んでしまったが、スカイツリーに話を戻すと、今、彼のださださタワーがそびえ立つ、「押上」の駅前には、一度、行ったことがあり、そのときには、「ああいい街だ」と思い、写真に撮ってみたいとも思ったりしたのだが……今では、写真に撮る動機そのものがない。

 ちなみに、「風に吹かれて」の、あの平々凡々たる風景に対して私は、アンセルにとってのロッキーと同様、「惚れ込んで」撮ったつもりである。