パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

AKB48畸形説

2011-06-18 16:18:27 | Weblog
 写真ブログ、更新したのでよろしく。 

 さて、本題。

 少し前に、岸田国士の『日本人畸形説』をとりあげた。

 その後、特に大震災が起きて以後、『日本人畸形説』に同感することが多く、読み直してみたいと思ったのだが、本棚から行方不明になってしまった。

 それが見つかったので、早速繙いてみると、冒頭、以下の文章が綴られている。

 日本人とは一体なんだろうか? 人はなんとでも言うがいい。私は私もその一人だということを前提として、こんな結論を下してみる。――日本人とはおおかた畸形的なものから成り立っている人間で、どうかするとそれをかえって自分たちの特色のように思い込み、もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調する一方、その畸形的なもののために絶えずおびやかされ、幻滅を味わい、その結果自分たちの世界以外に、「生命の全き姿」とでもいうべき人間の彫像を探し求めて、これに密かなあこがれの情をよせる人間群である。

 「オーマイガー」。

 私は嘆息せざるを得なかった。

 震災後の日本は、「もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調する」ばかりで、後半の、「その畸形的なもののために絶えずおびやかされ、幻滅を味わい、その結果自分たちの世界以外に……密かなあこがれの情をよせる」殊勝な姿すら、皆無ではないか。

 一週間ほど前、「AKB48」の総選挙がマスコミを賑わせていた頃、韓国の「少女時代」の「世界的活躍」を紹介した番組がNHKで放送されていたが、「少女時代」は、「AKB48」と年齢的にはそれほど違わない。

 なんなんだろう、この差は。

 もちろん、「少女時代」のメンバーの方が、「AKB48」のメンバーよりも大人だと、単純に言いたいのではない。

 ただ、「少女時代」は、戦略として明らかに「世界」を狙い、そのために「国際基準」をクリアすることを目的にし、メンバーも努力していると考えられる。

 一方、「AKB48」は……「もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調」している。

 日本のアイドルは、そもそもそういうものであったのだが、「AKB48」(というか、秋元プロデューサー)は、そういった自らの方向性にかなり意識的だと思われる。

 問題は、この「意識」がどこへ向かおうとしているのか、なのだが、これがどうも「少女時代」と同じように、「世界」を目指しているように思われるのだ。

 秋元プロデューサーはともかく、少なくとも、世界進出を目論む「少女時代」のプロモーションビデオを放映したNHKは、「AKB48」をはじめとする日本の(一部の)少女の好きな「畸形的ファッション」を「カワイイは、もはや国際語」と言って、世界に売り込みをはかっているという「実体」がある。

 もちろん、「畸形的なもの」を好む人は、日本人だけではない。

 世界には、「畸形的なもの=グロテスクなもの」を好む人が、一定の数はいるから、全然商売にならないということにはならないだろう。

 アニメファンしかり、盆栽ファンしかり、漫画ファンしかり、「カワイイ・ファッション」ファンしかり……。

 しかし、私が思うに、彼ら「日本の畸形文化ファン」は、その「畸形性」を自覚し、自覚した上でファンになっていると思うのだが、日本人は、それを自覚していない。

 否、「オタク」と呼ばれる、日本人の「日本の畸形文化ファン」は、自分の好みの「畸形性」を自覚していると思うのだが、そんな履歴をもたない連中が、自ら得たものでもない、2次情報を頼りに、「畸形文化」の輸出にトチ狂っているのだ。

 しかし、そんな彼らも、「自分たちの世界以外に、生命のまったき姿とでもいうべき人間の彫像を探し求める」ことを忘れてしまっているわけではないと思う。

 たとえば、またNHKだが、和歌山太地町の捕鯨を伝統文化として擁護しながら、昨日は、小笠原諸島の近海に群れ集うザトウ鯨のホエールウォッチングに興じていた。

 『日本人畸形説』に戻ると、太地町の鯨漁文化の紹介番組は、「どうかするとそれをかえって自分たちの特色のように思い込み、もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調する」ものであったが、C.W.ニコルが案内役の小笠原諸島の番組は、元来、小笠原諸島に西洋人の移民が住んでいたことも関係しているだろうが、「自分たちの世界以外に、生命のまったき姿とでもいうべき人間の彫像を探し求める」ていのもので、そのシンボルが、「ホエールウォッチング」であった。
 
 NHKの番組担当者は、この二つの作品の矛盾に気づくべきだし、気づいたら、その「矛盾」を説明しなければならない。

 具体的に言うと、それは、冒頭に引用した岸田国士の文章の前半と後半をつなぐもの、すなわち、岸田国士言うところの、「平衡感覚」である。
 
 実は、岸田は、「日本人畸形説」を発表して物議をかもした翌月、同じ雑誌に「平衡感覚について」という論文を発表している。

 1947年だから、敗戦後間もないこの当時、社会から「平衡」は失われていた。

 しかし、岸田は、それ自体は、現実においては是非もないことで、問題は「平衡感覚」が失われることだという。

 NHKの「太地町の捕鯨擁護」と「小笠原諸島のホエールウォッチング」で言えば、両者が矛盾していること、すなわち「平衡」が失われていること自体は大した問題でない。

 問題は、二つの番組において、「平衡」が失われていることを自覚している兆しすら見られなかったことだ。

 私が思うに、NHKの二つの番組は、技術的には完璧であるが、その「完璧さ」が問題の所在を隠してしまっているのだ。

 岸田曰く「平衡を保とうとする力そのものが、平衡という感覚の上に経っているか否か」が問題である。

 さもないと、「空白の全体を見るかわりに、自分の目に映ずる空白だけしか見ていない」ことになるからである――というのだが、いやはや、結構難解な論文である。