パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

i-phoneじゃなかったら、そんなのi-phoneじゃないんです

2011-06-14 01:49:48 | Weblog
 相変わらず続く「がんばれニッポン」、「ひとつになれニッポン」の連呼、また連呼。

 幸いなことに、自民と民主の「大連立」は頓挫しそうだが、救いは、野田総理を予想するニュースショーの合間に流れた街頭インタビューにおける若い女性の「ひとつになっちゃうと、民主主義が機能しなくなるのではないか」という発言。

 これこそ、マスコミが率先して言わなければならないことなのに。

 あと、「若い人に譲りたい」の菅発言に対しても、マスコミは、「若ければいいというものではない」の肝心の一言を欠いたまま、「若い人を見回しても、適任がいない」と、人々の政治不信を煽るばかり。

 まあ、それがいつものマスコミの視聴率、部数稼ぎの手段なのだが。

 ともかく、私の言いたいことは、「“いい人”ばかりで、構成された社会は、決して“いい社会”ではない」の一言に尽きる。

 悪い奴、怠け者、は、社会に必要不可欠なのだ。

 ところが、NHKときたら、「役に立たない技術も、いつか役に立つ」と、人型ロボット技術を相変わらず擁護し続ける。

 この理屈は、「悪い奴、怠け者、は社会に必要不可欠」の理屈と似ているようで似ていない。

 NHKも、原発事故に日本のロボットがまったく役に立たなかったことを反省し、「役に立たない技術も、いつか役に立つ」と理論武装を試みたと思われるが、放送されていた「人の動きを一瞬のうちに分析解析し、人と一緒に机を運ぶことのできるロボット」の技術だったら、もしかしたら産業用ロボットの進歩に少しは役立つかもしれないが、「人間の心を、ロボットはいつか必ずゲットする」と研究者が言っていたのは、まったくの眉唾。

 というか、まったくのホラ話。

 「人の心」は、i-phoneのCM「i-phoneじゃなかったら、そんなのi-phoneじゃないんです」じゃないが、「自己同一性」という、神秘の円環を描いている。

 「自殺するロボット」を作れるというのなら、ロボット技術者のホラ話もホラ話ではないと認めるが、それは無理でしょ、と言いたい。

 このロボット技術者の話は、ディープなんとかというシリーズだったが、同じシリーズで、先週、象使いを3人集めてやっていたが、そこで「絵を鼻で描く象」が、実は、象使いの指示で描いていることを、象使いが暴露していた。

 私は、「絵を描く象」が描いた絵を見て、象にはもしかしたら「心」があるのかもしれないと思ってしまったのだったが、象使いさん、ネタ晴らしをしてくれて、有り難う、だ。

 そもそも「絵」は、どんなに稚拙でも、否、稚拙であればあるほど「芸術性」を露にするものなのだが、象の描いた「花の絵」は、そういえば、「芸術」ではなかった。
 
 あれ?

 だとすると、別の番組で、チンパンジーの描いた、暴力的な「絵」を見たことがあるが、あれは、どうなんだろう。

 あれは、「チンパンジー使い」の指示ではなさそうだった。

 チンパンジーには「心」の欠片が認められるということなのか…?
 
 嗚呼、思い出した。

 私が書きたかったのは、今日、駅で見た、「古代ギリシャ彫刻」の広告のこと。

 上野の近代美術館でやるらしいのだが、これは是非見てみたい。

 死んだ、中川大臣が、思わず触ろうとしてベルを鳴らし、辞任を余儀なくされた人類の最高傑作「ラオコーン像」は、無さそうだが、円盤投げだって、ミケランジェロの作品を児戯と思わせるに充分。

 ミケランジェロって、本当に、ギリシャ彫刻に比べたら、「どうってこない」と思う。

 ギリシャ彫刻に匹敵するのは、むしろ、運慶快慶だと私は思う。

 とか言って、私が運慶快慶の彫刻を見たのは、はるか昔、中学のときに、修学旅行で見て以来、見ていないのだが、なんでそれをミケランジェロよりギリシャ彫刻に近いと思うのかというと、夏目漱石の「夢十夜」の記述がハイデガーのギリシャ彫刻の記述に近いと思ったからなのだが、それはまた、後で。