「風に吹かれて」のブログを更新したので、よろしく。
テーマは、「写真の本質としての写真のつまらなさ」について。
これは、実際のところ、いろいろな言い方が可能だが、たとえば、「ある部屋の扉を開けたら、真っ暗だったので、灯りをつけたら、見えるようになった」――とも表現できる。
写真(の在りよう)は、このたとえ話に近い。
誰も「たとえ話」とは思わないかもしれないが、アリストテレス風に言えば、「光が部屋を透明にした結果、部屋が見えるようになった」のである。
アリストテレスによれば、「光」は、それが照らすものに「透明性」という力を与えるのだ。
写真は、普通、日常を写すものだが、アリストテレス風に言えば、写真自体が光源となって日常に透明性を与え、「日常」として照らし出すのだ。
こうして写真に写された「日常」は、決してつまらないものではないが、あえて「つまらない」と言った方が、その本質をより正しく伝えることができるにちがいないと思ったのだ。
なんだか、またしても、あえて話を長くしてしまったような気がするが、まあ、よろしく。
テーマは、「写真の本質としての写真のつまらなさ」について。
これは、実際のところ、いろいろな言い方が可能だが、たとえば、「ある部屋の扉を開けたら、真っ暗だったので、灯りをつけたら、見えるようになった」――とも表現できる。
写真(の在りよう)は、このたとえ話に近い。
誰も「たとえ話」とは思わないかもしれないが、アリストテレス風に言えば、「光が部屋を透明にした結果、部屋が見えるようになった」のである。
アリストテレスによれば、「光」は、それが照らすものに「透明性」という力を与えるのだ。
写真は、普通、日常を写すものだが、アリストテレス風に言えば、写真自体が光源となって日常に透明性を与え、「日常」として照らし出すのだ。
こうして写真に写された「日常」は、決してつまらないものではないが、あえて「つまらない」と言った方が、その本質をより正しく伝えることができるにちがいないと思ったのだ。
なんだか、またしても、あえて話を長くしてしまったような気がするが、まあ、よろしく。