パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

新燃岳を新萌岳に

2011-02-09 13:46:00 | Weblog
 鹿児島の新燃岳の噴火とか、裏日本(今は「日本海側」というのかな)の大雪とか、被害にあっている人の多くが高齢者であることにニュースのスポットが当たっていて、事実だからしょうがないにしても、見ていて気が重くなる。

 若ければ、山中鹿之介じゃないが、「我に艱難辛苦を与えよ」と頑張れるが、年を取っちゃうとねえ。

 はっきり言って、高齢者問題とは、地方生まれの若者の多くが都会に出てきてしまうという、経済的問題をあるだろうが、もう一つ、昔は大半の人が高齢に達する前に死んじゃうということもあったのだろう。

 河上肇の「貧乏物語」を読んで、昔の人がいかに労働にエネルギーを使っていたか、ため息が出た。

 最高にカロリーを要求されるのが「木こり」で、なんと一日七千キロカロリー。

 水泳のフェルプス選手がトレーニングに要するカロリーと同じだ。

 もちろん、昔は、みんな、特に労働者は貧乏だったから十分な食事をすることはできない。

 若死にするのもやむを得ない…と、「貧乏物語」を読んで思った。

 そんなこんなで、今は「いい時代」のはずなのだが、それなのに、「希望」が語られないのは何故だ?

 「希望」は、「若者」の特権だから?

 いや、若者の持っているものは「希望だけ」であって、それが実現することは、スポーツ等をのぞき、ほとんどない。

 結局、年寄りたちが有する膨大な資産をどう有効活用するかということだが、そのためには、年寄りが、どう「希望」を持つかにかかっている。

 年寄りだって、5年単位、くらいなら「希望」を持てるし、ケインズだって、人間にとっての「未来」は、高々5年と言っていた。

 要するに、現在の延長線上にある「未来」は5年くらい。

 それ以上先のことははわからない。

 わかっているのは、遠い将来には我々、生きているものは、みんな死んでしまうということだけである。

 とケインズは言ったのだった。

 それはさておき、新燃岳は、新萌岳と改名すべきではないか。

 「希望」に、萌え~だ。