パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ミニミニタイムスリップ

2008-09-07 19:25:40 | Weblog
 先週の水曜日、テレビをつけたらタモリクラブのような番組をやっている。

 タモリクラブは嫌いではないけれど、特に必ず見るということはない。以前は、「空耳アワー」が楽しみだったが、いつ頃からか、2度聞かせるということをしなくなった。あらかじめ、「こういう風に聞こえるよ」という知識を与えておいて、あらためて聞くと、「聞こえる~!」となるわけなのに。

 それはともかく、タモリクラブといえば、金曜日の深夜という思い込みがあったので、別の番組だろうと思った。そう思うと、ちょっといつもとちがう雰囲気がする。

 それで、時計を見たら、金曜日の表示になっている。

 八月から九月に変わる時、うまくカレンダーが機能しなくて、セットし直したばかりだったので、時計の表示のほうが間違っているのだろうと、あくまでも、今日は水曜日だと思い込んでいたが、ニュースに切り替えたら、金曜日だった。

 一日、日付けをずれて思い込むということはあるけれど、二日というのははじめてだった。

 なんでだろう? やっぱり福田辞任が唐突でびっくりして、記憶が飛んだのだろうか?

 最近不人気らしいサッカー全日本対バーレーン戦を見る。

 最初から結構動きがよいように見えたので、勝ちそうな感じがしたが、実際、勝った。

 後半40分近くまで3対0だったのに、突如、バーレーンチームも驚いたにちがいないが、2点入ってしまってどうなるかと思ったが、なんとか逃げ切った。

 それはさておき、アラブ現地で行われる対アラブのサッカー試合というのは、見ていてあまり面白くない。なんで面白くないかというと、妙ちくりんに聞こえるアラブ音楽による応援で見ているほうもリズムが狂うということもあるが、第一の原因は、応援している観客に統一感がないのだ。

 その点、ヨーロッパのサッカーの場合、観客席を見ているだけで面白い。とくにプレミアリーグなんかは、すごい。スペインの勝利で幕を閉じたユーロ杯なんか、サッカーのプレイなんか見ていなくても、というと大袈裟だが、芝生、スタジオの美しさも含めて、観客席を見ているだけで充分楽しめた。

 話を戻すと、対中東といってもイラン戦となると、スタジアムの雰囲気がアラブとちょっとちがう。アラブ人の客席は「白い」が、イラン人の客席は「黒い」。

 いや、そもそもイランは「中東」ではないのかな?

 今、アラビアンナイトを読みかけて中断しているのだが、このお話に「外国人」と名指しされて登場する人物は、ほとんどイラン人だそうだ。イラン人――すなわちペルシャ人であり、だとしたらなんとなく、「なるほど」という気持ちになるが、「言われてみると」であって、アラブ人というのは、定義からして本当にわかりづらい。オサマ・ビンラディンは生っ粋のアラブ人だが、アルカイダのナンバー2はエジプト人だった。エジプト人はアラブ人なのだろうか? フセインのイラク人はどうだろう? 

 先年死んだ東京コミックショーのショパン猪狩のコスチュームは、いかにも「アラブ風」だが、実際はアフガニスタンじゃないかとも思うし。(というのは、日本に住んで事業を行っているアフガニスタン人が、アフガンの正装と称する服装でテレビに出ているのを見たことがあるのだが、まるっきり、「レッドスネークカモーン」だったのだ。)

 ブックオフで、三浦展の『下流社会』を購入。

 3年程前に発行され、格差社会の現実を指摘した本として評価が高い、と聞いていたのだが……まだパラパラと読んだに過ぎないが、これは酷い。こんなのを価値ある研究書として持ち上げたのは、いったいどこのどいつだ?

 『「下流」とは単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中にはだらだら歩き、だらだら生きているものも少なくない。そのほうが楽だからだ。』

 あまりにも表面的な観察!

 『山の上に登ろうとするのは、山の上に何か素晴らしいものがあると期待するからで、すでに七合目くらいにいて、しかも山の上に欲しいものなどなく、七合目にも欲しいものが沢山溢れているとわかったら、誰も山の上に登ろうとしなくなることは当然である。ディスカウントストアには、目を疑うような低価格で物が売られている。クラシックの歴史的名盤すら百円のCDになって売られている。こんな時代に、努力して働こうと思うほうがおかしいとすら言える。だらだら生きても生きられる。』

 いや、まったくごもっとも、と思うのだが、著者は、最近の若者は、要するに、「だらだら生きていても、生きていける」から、だらだら生きているが、これからの時代はそうではないと言う。これからは、上昇する意欲と能力をもつものだけが上昇し、それがないものはどんどん選別されて「下流社会」を形成して行くというのだ。

 「だらだらと生きるでもなく生きていける」が故に、「だらだらと生きるでもなく生きている」若者が増え、その彼らが「下流社会」を形成しつつあると著者は言いたいのだろうと思っていたが、そうではないらしい。著者曰く、「そういう時代を前にして、若い世代の価値観、生活、消費は今どう変わりつつあるのか。それが本書の最大のテーマである。」

 んんん?

 話が見えなくなってしまったが、中根千枝の「縦社会」を比べるなどしてみることにしよう。