パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

『時の滲む朝』について2

2008-09-01 18:12:32 | Weblog
 楊逸という人は、芥川賞をとったのだから文学者なんだろうが、とてもそうとは思えない。あまりにも思想的レベルが低すぎると書いたわけだが、これが決して中国人に対する偏見でそう言っているわけではないことを、具体的に、『時の滲む朝』から抜き書きしてみようと思って再度読んでみたが、なかなか難しい。でも、とりあえず、主人公たちが大学に入学し、「文学サロン」を作り、そこでいろいろ議論しているうち、北京で民主化運動が起きたことが伝えられる。その会話部分を抜き書きする。

 「最近噂に聞くけど、北京で民主の壁ができて、民主化するとかの話さ……」
 「それ本当ですよ。高校の同窓生で、北京の大学に行ってる友だちの手紙に書いてあったよ」
 「民主化ってなんですか」
 「つまり、中国もアメリカのような国にするってことだよ」
 「アメリカみたいな国? どうして?」
 「今、官僚の汚職が多いからでしょ。アメリカみたいな民主主義になれば、役人はすべて選挙で選ぶから、汚職はあり得ないし、腐敗もしないんだって」
 「帝国主義で資本主義のアメリカって、どこよりも腐敗しているんじゃないの?」
 「俺には資本主義だの、民主主義だの、帝国主義だのさっぱりだけど」
 「僕もわからないけど、でも雑誌とかを読んでいるとすごく怖そうな国だと思ったよ。アメリカに留学した女子学生が、半年後には下着モデルになったってさ」
 「授業の時に甘先生もチラっと触れたけど、中国も民主主義が必要で、監督する野党がなければ、官僚の腐敗はいつまでも根絶できないってさ」
 「これまでずっとアメリカを批判してきたのに、いきなりアメリカのようになろうっていうんだから」
 「甘先生のいうことだから、間違いないよ」
 「やっぱりよくわからないよ。アメリカがよいっていっても、誰か見てきたわけじゃないんでしょう?」


 芥川賞選出に賛成した人々はこのような記述に「素朴な力強さ」を見たのだろうが……私が思うに、この「素朴さ」は、民主主義に関する理解のレベルの低さに見合った会話なので、問題点が見えないだけのことで、ここで語られている民主主義は、喩えていうならば、ミッキーマウスとちっとも変わらない。本物のミッキーを見てみたいが、無理なら偽のミッキーでもいいよ、という話なのだ。

 要するに、『時の滲む朝』で語られている民主主義は、自分達にとって切実に必要だから語られているわけではなく、ブランドとして欲しいだけなのだ。

 そんな証拠がどこにある、といわれるかもしれないが、注目すべき記述が、彼らの「民主主義の先生」、甘先生の言葉だ。

 甘先生は生徒たちを引き連れ、当時の民主化運動の中心地、天安門広場にやってくる。

 『天安門広場は全国から集まってきた学生で埋め尽くされている。自由に憧れる学生たちの思いを象徴して人民英雄記念碑の脇に自由女神が立てられた。人生の一シーンを記録しようと、学生たちは貪欲に甘先生のカメラを使い回し、教科書の挿し絵でしか見たことのない名所に自分の姿を収めようとした。小柄の英露はバックの自由女神のポーズを作ってカメラの前に立った。
 「良いぞ。英露、そっくり、自由女神より女神だよ。……」』

 いやはや。

 先に彼ら学生たちの会話を引用したが、「民主主義=ミッキーマウス」説のためには、こちらを引用したほうがよかった。(選評を読み返してみたら、村上龍が、『主要登場人物の学生時代などに代表される「純粋さ」を評価するという意見もあった。だが私には、純粋さではなく、単なる無知に映った』と書いていた。そういうことだ。)

 それはともかく、甘先生と学生たち一行は「アッという間の二日間」の後、学校に戻るが、その帰途の列車の中の記述である。

 『列車の揺れで眼を醒ますと、車窓からの光でみんなの疲れた寝顔が茜色に染められていた。浩遠が目を擦って外を見ようとすると、光にぼやけて、甘先生の微笑む目に遭った。
 「素晴らしい朝日だ。この黄色い大地に日が昇ってくるのを見て、中華子孫としての血が騒ぎ出すんだ。」先生の目も眩しそうだった。』

 結局は、「民主化運動」も何もかも、ここに帰着する。すなわち、「中華子孫としての血」だ。『時が滲む朝』の「朝」も、誰も指摘してないみたいだが、この列車の中で迎えた朝の事を言っているのだろう。そしてそれ以外の事は何も書かれていない小説なのだ。

 別に、「中華子孫としての血」を称揚してはいけないと言うのではない。でも、それしかないというのはまずいだろうというのだ。受賞インタビューで、「チベット、ウィグル族問題について聞け」と前回書いたのも、このことを確認せよ、と言いたかったのだ。

 ちなみに、「それしかない」のだとしたら、唯一書かれている、「中華子孫としての血」も、実際には何も書かれていないに等しいだろう。「十八史略」「オデッセイ」のような古代文学ならいざ知らず、それが現代文学というものじゃないのか。


 錦織選手、グレイト! フェデラー、ナダルらと互角に渡りあえるテニス選手が日本人であり得るとは思っていなかった。