パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

マダム・スシを注文します

2008-09-03 17:48:50 | Weblog
 ふん、投稿時ではなく、ようやくログインする際にパスワードチェックをするようになったみたいだな、OCN。でも、自分のブログに、しかも毎日ログインしているのに、何でチェックが必要なのか。もし、やるんだったら、一月に一回程度の「抜き打ち」ではなく、毎日やらなければ意味がないだろう。

 柔道の石井慧とかいうやつは本当に面白いやつのようだ。

 最初、金メダルをカメラマンに自慢げに見せている写真を見て、一見無表情に見えるのに、とても表情が豊かだと思った。コミュニケーション能力に長けているというか。

 それで、これは本当にそう思ったのだが、首相になれば面白いと思った。福田があまりにもコミュニケーション能力に欠けているからだ。

 「何をやるか」なんか、どうでもいい。やりたいことを、きちんと、国民にわかるように言葉で、言葉が無理の場合は、身振りで、あるいは目配せででも伝える。そういう気持ちが福田にはない。「俺はこういう人間なんだ」って、すねてばかりだ。

 じゃあ、あんたは政治家に向いていないのだから、辞めるべきだろう、と思っていたら本当に辞めてしまった。

 石井選手も、福田と握手をした時にそう思ったのだそうだ。「福田さんはいい人。政治家には向いていない」と。

 この発言に、テレビのコメンテーターが「超能力か?」とか言っていたが、バカかね。もちろん、超能力なんかじゃない。私にはできないが、できる人にはできる能力なのだ。

 有名……かどうか知らないが、この能力に長けていたと言われているのが、昭和天皇だ。

 昭和天皇の仕事は、「握手をすること」みたいなものなのだが、握手をすると、相手の本心がわかったらしい。

 ある日、昭和天皇は来日した満州国皇帝のフギと東京駅の駅頭で握手をした。昭和天皇は、フギの握手が心からのものではないことをすぐに感じ取ったので、ハンサムなフギの大ファンだった、昭和天皇の母(皇太后)に、あまり熱をあげすぎないように警告したが、皇太后にはそのような能力はなかったので、息子と喧嘩になった。(この問題だけでなく、二人は仲が悪く、しょっちゅう喧嘩していたのだ)

 果たして、戦後、フギの本心が明らかになった。東京裁判の法廷で、日本の力で満州国皇帝についたことを不快に思っていたことを明らかにしたのだ。

 という話だ。

 しかし、びっくりしたなモーである。こういうニュースに接するたび、細木和子はじめ、占い師はなにしてるんだと思うが、まあ、それはそれとして、麻生は首相になれるのだろうか? もちろん、今のままなら「大本命」で、決まりなんだろうが、ならないほうが本人のためにもいいんじゃないだろうかという気がしてならない。

 別に、麻生が嫌いなわけではない。掲げる政策がダメというわけでもない。(このことについてはそもそもよくわからないのだが)コミュニケーション能力に欠けるというわけでもないだろう。でも、なんか不安が残る。

 じゃあ、誰がいいかというと、これがマダム・スシだったりするのだ。

 日本にだって優秀なキャリアウーマンは少なからずいると思うが、小池百合子はそのなかでも特に優秀……というわけでもなさそうだ。でも、なんかはまりそうな気がする。

 と思っていたら、世論的には案外彼女がいいという人が多いみたいだ。いったい、何故なんだろう?

 思うに、安部、福田と二人続けて政治家として再起不能と思えるような、不本意な退陣劇を見せられているため、次の首相には、もし仮に失敗したとしても、平然としていられるような……ぶっちゃけていうならば、ダメでもともとと開き直れるようなキャリアの持ち主がいいんじゃないかと思っているのかもしれない。

 特に安部の場合なんか、とても見ていられなかった。一国の首相たるものが、こんな扱いを受け、苦しむ様は見ていられないようなものだった。「他人の不幸は蜜の味」とか言うけれど、そんな気持ちにはとてもなれなかった。

 福田も同じだ。「辞めろ」とずっと言ってきたから、「途中で投げ出すなんて無責任だ」とは言わないが、「辞職の決断を歓迎します」とも言えない。個人的に、見るに忍びないのだ。そして、麻生は、福田はもとより安倍にも匹敵する名門中の名門。2度あることは3度ある…。

 ということで、「見るに忍びない状況に陥っても、平気で見ていることができる人材」として、消去法的にマダム・スシが残ったのだが、本当に図太そうじゃないか、マダム・スシって。(逆ギレして、記者に、「なにいってンだよ!」とかののしったことがあるそうだが、聞いてみたい)

 追伸 今、2chのニュース速報スレッドを見ていたら、中国で「死体販売」業者が400名を殺害したとして逮捕されたというニュースがアップされていた。信じがたいのは,この死体販売の目的だ。なんと、火葬の身代わりなんだそうだ。

 こういうことだ。中国では火葬が奨励されているが、一般では土葬が普通である。それで、葬式では身代わりとして買った死体を焼き、実際には土葬にする。

 信じがたいのは,「火葬用の身代り死体」に対する需要があるってことだ。「息子が死んだが、火葬にはしたくない。でも葬式はしなければならない。ついては代わりの死体をお願いします」というわけだ。なんの良心の呵責もなく、斯く言う彼らは、もちろん、ごく普通の人たちだ。それが恐ろしい。(ちょっとでも「良心の呵責」があったら、身代り死体の注文なんてそもそもしないだろう。)

 臓器販売用に人を殺す方がまだわかる。葬式で焼くための身代わり死体を得るために、殺人とは…。記事によると、デート中の若い男女を襲って失敗、それがきっかけでバレたらしいが、歳と性別さえあっていれば、火葬の現場で係員に、「いや、この人ではないですよ」なんて疑われたりすることはないわけだから、やる方としては簡単な仕事だったのだろう。

 何があっても不思議ではない国、とはいえ、これには驚いた。

『時の滲む朝』について2

2008-09-01 18:12:32 | Weblog
 楊逸という人は、芥川賞をとったのだから文学者なんだろうが、とてもそうとは思えない。あまりにも思想的レベルが低すぎると書いたわけだが、これが決して中国人に対する偏見でそう言っているわけではないことを、具体的に、『時の滲む朝』から抜き書きしてみようと思って再度読んでみたが、なかなか難しい。でも、とりあえず、主人公たちが大学に入学し、「文学サロン」を作り、そこでいろいろ議論しているうち、北京で民主化運動が起きたことが伝えられる。その会話部分を抜き書きする。

 「最近噂に聞くけど、北京で民主の壁ができて、民主化するとかの話さ……」
 「それ本当ですよ。高校の同窓生で、北京の大学に行ってる友だちの手紙に書いてあったよ」
 「民主化ってなんですか」
 「つまり、中国もアメリカのような国にするってことだよ」
 「アメリカみたいな国? どうして?」
 「今、官僚の汚職が多いからでしょ。アメリカみたいな民主主義になれば、役人はすべて選挙で選ぶから、汚職はあり得ないし、腐敗もしないんだって」
 「帝国主義で資本主義のアメリカって、どこよりも腐敗しているんじゃないの?」
 「俺には資本主義だの、民主主義だの、帝国主義だのさっぱりだけど」
 「僕もわからないけど、でも雑誌とかを読んでいるとすごく怖そうな国だと思ったよ。アメリカに留学した女子学生が、半年後には下着モデルになったってさ」
 「授業の時に甘先生もチラっと触れたけど、中国も民主主義が必要で、監督する野党がなければ、官僚の腐敗はいつまでも根絶できないってさ」
 「これまでずっとアメリカを批判してきたのに、いきなりアメリカのようになろうっていうんだから」
 「甘先生のいうことだから、間違いないよ」
 「やっぱりよくわからないよ。アメリカがよいっていっても、誰か見てきたわけじゃないんでしょう?」


 芥川賞選出に賛成した人々はこのような記述に「素朴な力強さ」を見たのだろうが……私が思うに、この「素朴さ」は、民主主義に関する理解のレベルの低さに見合った会話なので、問題点が見えないだけのことで、ここで語られている民主主義は、喩えていうならば、ミッキーマウスとちっとも変わらない。本物のミッキーを見てみたいが、無理なら偽のミッキーでもいいよ、という話なのだ。

 要するに、『時の滲む朝』で語られている民主主義は、自分達にとって切実に必要だから語られているわけではなく、ブランドとして欲しいだけなのだ。

 そんな証拠がどこにある、といわれるかもしれないが、注目すべき記述が、彼らの「民主主義の先生」、甘先生の言葉だ。

 甘先生は生徒たちを引き連れ、当時の民主化運動の中心地、天安門広場にやってくる。

 『天安門広場は全国から集まってきた学生で埋め尽くされている。自由に憧れる学生たちの思いを象徴して人民英雄記念碑の脇に自由女神が立てられた。人生の一シーンを記録しようと、学生たちは貪欲に甘先生のカメラを使い回し、教科書の挿し絵でしか見たことのない名所に自分の姿を収めようとした。小柄の英露はバックの自由女神のポーズを作ってカメラの前に立った。
 「良いぞ。英露、そっくり、自由女神より女神だよ。……」』

 いやはや。

 先に彼ら学生たちの会話を引用したが、「民主主義=ミッキーマウス」説のためには、こちらを引用したほうがよかった。(選評を読み返してみたら、村上龍が、『主要登場人物の学生時代などに代表される「純粋さ」を評価するという意見もあった。だが私には、純粋さではなく、単なる無知に映った』と書いていた。そういうことだ。)

 それはともかく、甘先生と学生たち一行は「アッという間の二日間」の後、学校に戻るが、その帰途の列車の中の記述である。

 『列車の揺れで眼を醒ますと、車窓からの光でみんなの疲れた寝顔が茜色に染められていた。浩遠が目を擦って外を見ようとすると、光にぼやけて、甘先生の微笑む目に遭った。
 「素晴らしい朝日だ。この黄色い大地に日が昇ってくるのを見て、中華子孫としての血が騒ぎ出すんだ。」先生の目も眩しそうだった。』

 結局は、「民主化運動」も何もかも、ここに帰着する。すなわち、「中華子孫としての血」だ。『時が滲む朝』の「朝」も、誰も指摘してないみたいだが、この列車の中で迎えた朝の事を言っているのだろう。そしてそれ以外の事は何も書かれていない小説なのだ。

 別に、「中華子孫としての血」を称揚してはいけないと言うのではない。でも、それしかないというのはまずいだろうというのだ。受賞インタビューで、「チベット、ウィグル族問題について聞け」と前回書いたのも、このことを確認せよ、と言いたかったのだ。

 ちなみに、「それしかない」のだとしたら、唯一書かれている、「中華子孫としての血」も、実際には何も書かれていないに等しいだろう。「十八史略」「オデッセイ」のような古代文学ならいざ知らず、それが現代文学というものじゃないのか。


 錦織選手、グレイト! フェデラー、ナダルらと互角に渡りあえるテニス選手が日本人であり得るとは思っていなかった。