パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「忠臣蔵とは何か」とは何か

2008-09-26 15:42:44 | Weblog
 丸谷才一著、「忠臣蔵とは何か」をブックオフで購入。100円。

 丸谷才一という人はいろいろ評判のわかれる人のようだが、私は全然読んだことがなかった。別に読む必要があるとも、正直言って思わないのだが、100円だったので買った。「忠臣蔵とは何か」は丸谷の代表作と言われているし、読んでみるかと。

 ざっと読んだだけなのだが…本人,ものすごく自信があるみたいだけど…推敲したのかい?と聞きたくなるような雑然とした内容だ。本人としては「混沌」と言ってくれと言いたいところだろうが、私の見るところ、混沌と言ってみても、結局、論理に重大な欠陥があるのだ。

 丸谷の言いたいことは簡単に言えば、「忠臣蔵」は浅野内匠頭の恨みを晴らすため、すなわち、いわゆる怨霊退散を願う御霊信仰に基づく祝祭劇だというのだ。神田の三社祭りが平将門の怨霊鎮めのためのお祭りだというのと同じだというわけだ。

 その証拠として、実際に討ち入りのあった六年後の正月、三つあった歌舞伎の小屋が一斉に、当時怨霊退散祝祭劇の代表格であった、「曽我兄弟」ものを上演していることをあげている。

 というのは、四十七士に切腹を命じた将軍綱吉の生類憐れみの令をはじめとする悪政に江戸の庶民は怨嗟を抱いており、その気持ちを熟知していた歌舞伎の興行主たちは、一斉に「曽我兄弟」を上演し、実際,その上演直後、綱吉は死亡、旧年来3ヶ月近く続いていた日照りも一転土砂降りの雨となり、これは劇「曽我兄弟」のおかげとみな歓喜したが、実際には「曽我兄弟」は当て馬で、庶民たちは、本当は、数年前に主君の恨みを雪いだ赤穂浪士を言祝いだのだ、というのだ。そして、それを後に劇化したものが、「忠臣蔵」だというわけだ。

 全体としては,私もそんなところだろうと思うのだが、実はこれは、私自身が整理してみた結果で、本文そのものはえらく混乱しているのだ。そして、その混乱の元は、祝祭劇というものをどう考えるかという問題から発している。

 御霊信仰というのは周知の通り,恨みを抱いて死んだものの恨みの念が後世に仇をなすので、その恨みを抱いて死んだものを神様にして現世の平安を願うというものだけれど、いったん、それが祝祭劇という「表現」のレベルになると話がちがってくる。

 怨霊の恨みも晴らされ、世の中はすっかり太平無事な平和な世の中になりました、だからこうしてお祝いをしているのですよ、それは皆、あなた様のおかげです、という神様となった怨霊への報告が、祝祭劇なのだ。

 しかし、丸谷は祝祭劇の基本は一般大衆が、権力一般に抱いている恨みだというのだ。「忠臣蔵」で言えば、将軍綱吉に対する不満、さらに一般化して言えば、為政者としての徳川家に対する一貫した不満が歌舞伎18番に代表される祝祭劇を支え、それはまた、古代からの日本人の信仰の1つの原形である怨霊を恐れる気持ちに基づいているのだという。

 もちろん、世の中が不穏な時に、より多く祝祭劇が求められるという事実の深層に、「庶民の権力者への恨み」がないとは言わないが、それが祝祭劇の基本であると言ってしまうと、それでは劇、すなわち表現でなくなってしまう。

 劇表現としての祝祭劇とは、世の中こんなに平和ですよ、だから,私はこんなに喜んでいますよという感情を一つの型、すなわち劇として表現することによって、実際の世の中もそうであってほしいと願うことなのだ。歌舞伎の場合で言えば,たとえば曽我の五郎が憤怒の表情で見栄を切れば、すべての悪霊は退散したことを意味する。

 つまり、形だけとはいえ、目的はすでに実現していると考えるのだ。

 これに対し、丸谷のように、憤怒の表情の曽我の五郎に喝采を送る江戸の庶民の心の奥底には権力者への恨みが込められていると考えると、祝祭劇ではなくなってしまう。

 以上のようなわけで,記述が混乱していると思ったのだ。要するに,いかにも旧タイプの知識人の考えそうなことだというのが感想である。