パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

善悪の真相

2006-11-17 17:03:10 | Weblog
 倉田由美は倉田真由実の間違いでした。倉田由美って、漫画家いなかったかなーと思ってグーグルで調べたら、漫画家にはまったくヒットせず、同名の救助犬のトレーナーがいた。

 オビナタさんのミクシー日記を見たら、鈴木志郎康さんのブログ日記がリンクされていたので、久し振りにのぞいたら、毎朝恒例の「便所読書報告」が載っていて、ここ暫くは、「知覚と意識」についての読書報告をやっているらしい。私は、今回の「月光」で、かなり詳しく総合的にその問題を扱ったので、乞う御期待、と大風呂敷。

 その後、ほぼ一年前のBNを見たら、ハンナ・アレントの「暗い時代の人々」の報告をしていた。
 アレントとは、ユダヤ人の女性哲学者で、左寄りだが積極的に時局発言を行っているので、あちこちで名前だけはよく眼にする。特に青土社系の雑誌(「現代思想」とか)で。でも、全然読んだことはない。柄谷行人とか浅田彰とか頭の良さそうな人々がいろいろ難しいことを言っているので、敬遠しているのだ、実は。

 それはそうと、鈴木志郎康さんの日記では、次のように書かれていた。

 アレントの「暗い時代の人々」の代表者はドイツの劇作家ブレヒトで、ブレヒトは、「人が世界を去らねばならぬ日に、自分自身が善良であることよりも自分のあとによりよい世界を残すことの方が意味が大きい」といったようなことを言っている。
 ――これは、なる程と思わせる言葉というか、思想で、鈴木志郎康さんもそのような感想を書いているのだが、アレントは、「ブレヒトがナチスから逃れて亡命してから、彼自身は現実に密着しているつもりだったが、誤った現実認識を持ち、現実離れした詩人になって行き、東ドイツに戻って、虐殺者スターリンへの頌詩を書くなど完全に詩人ではなくなった」と非難しているということだ。「ブレヒトはナチスのユダヤ人虐殺という民族問題を捉えられなかった」と。

 アレントのブレヒト非難は、「自分自身が善良であることよりも自分のあとによりよい世界を残すことの方が意味が大きい」という言葉を、ブレヒトの卑怯な自己弁護とみなしたのだろう。そして、「自分のあとによりよい世界を残すことの方が意味が大きい」という自己弁護をもし受け入れてしまうと、「悪」すなわち、ナチスをも容認しかねないと。

 うーん、難しい問題、なんて言うもおこがましいことだが、私は、ブレヒトの肩を持ちたい。

 そもそもブレヒトは、戦前、ハリウッドに招かれて脚本を書いていた。ハリウッドは資本主義の牙城と思われがちだが、実は、そうでもなくて、西部劇の幌馬車の後ろに「鎌とハンマー」を交差させてぶら下げたりして、ソビエトのボルシェビキ(共産党員)への連帯の意思表示なんかをしている。この「鎌とハンマー」事件は、冷戦のぼっ発に伴って戦後間もなく起きた、有名な「赤狩り事件」にまで尾を引き、ハリウッドの十数人のシナリオライター、監督が、赤狩りの法廷(もちろん、アメリカの国会に設けられた糾明の場のことだが)に召喚された。その法廷で寝返って、仲間を売ったということで非難されたのがエリア・カザンだが、ブレヒトは、法廷に出廷せず、母国東ドイツに逃げてしまったのだ。アレントの、「彼自身は現実に密着しているつもりだったが、誤った現実認識を持ち、現実離れした詩人になって行き、東ドイツに戻って、虐殺者スターリンへの頌詩を書くなど完全に詩人ではなくなった」という批判は、そのことを指しているのだ。

 その後、半世紀以上の時間が過ぎ、もう潮時だろうと思ったアカデミー委員会は(つい数年前のことだが)、アカデミー賞授賞式に高齢ながら、生き残っていたカザンを招き、特別功労賞を授けたが、委員会の目論見は外れた。カザンのスピーチに対し、出席者はすべて歓迎はしなかったのだ。一部の人は席を立って拍手した。一部の人々は、席に座ったまま拍手した。残りは、座ったまま拍手もしなかったと三つに分かれたのだ。(会場の外でプラカードをもって抗議したリチャード・ドレイファスなんて極左もいたが)

 アレントのブレヒト批判は、以上のようなストーリーが背後にあるわけだが、私としては、それでもやっぱりブレヒトを支持したい。何故なら、善人は、どうしても「善」に頼ろうとする。これがなんとも噴飯ものというか、嫌いなのだ。神様も多分同じだろう。善人をサディスティックなまでに試そうとし、悪人はいわば、放置だ。
 いや、神様にかまってもらえる分、善人はもって瞑すべしかも。