パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

アルトマン追悼

2006-11-26 21:38:20 | Weblog
 ちょっと前の話になってしまったが、アメリカの映画監督ロバート・アルトマン死去。81歳。
 81歳なら決して早死にではないが、エリア・カザン、ロバート・ワイズ、ビリー・ワイルダーといったあたりが軒並み90超、J・スチュアートも90近く、遊蕩の印象のあったケイリー・グラントですら、84、ボブ・ホープときたら、なんと100! 映画以外でも、少し前に報道された経済学者、ミルトン・フリードマンが96、同じ経済学者のガルブレイスが97……なんてニュースばかり目にしていると、81も若死に思えてしまう。(それに比べて、日本は、「長寿国」だそうだが、なんたる違いか……つまらんやつばかり長生きしているのか……おっと、これは禁句か)

 それはともかく、アルトマン作品で見たのは「ナッシュビル」と、あともう二本ぐらいしかないのだが、何がどうなってるのかわけわからないのに、でも見ている間中、「いいな、好きだな」と思い続けているのが、我ながらなんとも不思議な印象だった。なんでだろう……?(もちろん、アルトマン作品全部というわけではない。「バッファロービル」は、ちょっと……「ナッシュビル」で期待し過ぎたか、面白くなかった)

 一般的には、アンチハリウッド映画をマイペースで撮り続けた映画作家(作品自体、「マイペース」で、それが面白かったのだが)ということになっていて、ニュースなどもすべてこの線で報道していたが、この批評はいかにも彼の「反権力」ぶりを称揚しているみたいで、つまらないこと限り無い(大体、アルトマンは「反権力」なんかではないだろう)。しかし、アルトマンの映画が実際、アンチハリウッドスタイルであることも間違いない。それは、どういう点でかというと、ハリウッド映画が、事前の知識がなくても、劇場に入って画面を見れば、誰でもすぐに「わかる」ように作られているのに対し、アルトマン映画は「わかりにくい」。「ナッシュビル」なんか、予備知識なしにいきなり見てしまったのだが、入れ代わり立ち代わり色々な人が出てきて、音痴な歌を披露したりして、なにがなんだかわからない(でも面白いのだが)。
 では、「わかりやすい」と「わかりにくい」のどちらがいいかと言ったら、当然、「わかりやすい」ほうがいいわけだが、それでもアルトマン映画が、「わかりやすさ」最優先のハリウッド関係者自身の間でも、高い評価を受けていたのは何故なのか。
 これを、「わかりやすさ」を優先したためにハリウッド映画が欠落させてきた何かがアルトマン映画にはあったから、と説明すると、これまたなん~んか、つまらないのだが、つまるところは、そういうことなのだと思う。

 まず、ハリウッド映画のわかりやすさについて言うと、ハリウッド映画はストーリーを重視し、それをできるだけスムースに観客に伝えることを目的にしている。理想的には、自分が映画を見ているという自覚がないくらいのスムースさが求められる。つまり、観客は、「映画」というより、それにのせて伝えられるストーリーを見ているのだが、アルトマン映画はちがう。アルトマン映画の場合、たとえば「ナッシュビル」なら、ナッシュビルという場所とそこに集まる人々を直接そのまま「映画」にしてしまう。そんなことできるのかいな、と思えるようなことをやすやすとやってのけてしまう。(アルトマン映画は「群像映画」なんて言い方もされるみたいだが、それは、こういう、他の何ものにも還元させない、「直接的」な撮り方の結果だと思う。)
 要するに、彼の作品が「わかりにくい」と思うのは、ハリウッド的な、ストーリー中心の「わかりやすさ」を前提としているからで、それをとっぱらってしまえば、「わかる」。でも、その「分かり方」が見慣れないので、自分にも、どうわかっているのかよくわからない。それが、「不思議な印象」ということなのだろう。

 じゃあ、アルトマン映画はアルトマン以外には撮れないかというと、案外そうでもなくて、たとえば山本政志なんか、前からアルトマンっぽいと思っているのだが……。一番簡単に見て取れるのは、画面に映っている人々が同時にあちこちで喋り出したりするところで、見た瞬間、「あ、アルトマンだ」と思ったものだった。「ジャンクフード」の試写会に現れた本人が、「オレってなんてうまいんだろう」って言ってたが、たしかに、「画面そのものに語らせる」というのか、そこらへんが本当にうまい。(登場者があちこちで一斉に喋るという方法は、たしか「北京の西瓜」で、大林宣彦がやっていたが、惨澹たるものだった)他にも、たとえば「てなもんやコネクション」で、料理が山盛りに盛られた中華レストランの机が、CGか何かでワンショットのままからっぽの机に変じてしまうところなんか、アルトマンぽいように感じる。いや、フェリーニか。ヒッチコックかも。
 いずれにせよ、このような特殊撮影は初期の無声映画なんかでとっくにやられている(「ノスフェラトウ」で、朝日とともに消えるドラキュラとか)わけで、ということは、アルトマンは映画というメディアの「原初的在り方」に惹かれ続けていた人なのかもしれない。