パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

社会科授業あれこれ

2006-11-14 13:52:44 | Weblog
 数年前のことだけれど、新宿の旧事務所の近くにアメリカの地方大学の分校みたいなものがあって、そこの先生らしい、上下グレーのスーツに身を固めたフットボールのプロ選手のようながっしりとした大男の黒人が、日本人生徒十数人を引き連れ、商店街のお店を指差しながら何か話している。話し終わると、少し離れた別のお店の前でまた同じように生徒に話している。

 いったい、何をしているのだろうと思ったのだが、その後、アメリカ社会について書かれた本を何冊か読んでいるうちにわかった。あれが、アメリカ流の、「社会科」、つまり、コミュニティ教育なのだ。わが町はこうなっている、何々が必要ならあそこに行きなさい、困ったことが起きたらどこそこで対処してくれますよ、とか、本当に具体的に教える。教わった子供達は、家に帰って、親にそれを教える。
 もちろん、それは移民第一世代の家庭のことだけれど、最近、よく「しつけ教育は学校が行うべきか、家庭でやるべきか」なんて議論がなされているが、アメリカに限って言うならば、答は明らかで、「社会が行う」だ。家庭にそれを任せたら、出身国の文化習慣を教えることになって、アメリカ社会はバラバラになってしまうからだ。

 だったら、アメリカはアメリカ、日本は日本なのだから、日本は日本のやり方でやればいいじゃないかと思うのだけれど、周知の通り、アメリカが日本に来て真っ先にやったことは「教育改革」、なかんずく、社会科(コミュニティ)教育の導入だったのだ。
 アメリカ軍が日本を占領してまずやったこと、それは、アメリカに正面きって戦争を仕掛けるなんて無謀なことを人民が政府に許したのは何故かという問題で、彼らは、まず教育に問題があったのだろう、特に漢字の修得に時間をとられて、他の知識の修得に難があったのではないかと推測し、大規模な読み書きテストを実施した。ところが、その結果は、小学校もろくに出ていない者ですら、読み書きができる。(これはルビという便利なものがあったからだ)
 この予想外の結果を受けて、アメリカによる教育改革は尻すぼみになっていったが、すでに手をつけられていた社会科教育の導入はそのまま実行された(んじゃないかと想像するんだけどね)。

 その一つが、コミュニティ教育、すなわち社会科の導入だ。(教育委員会制度もこの時導入されたのだろう)
 今、思うに、その教育を真っ先に受けさせられたのは我々の世代だが、教わっていて、何がわからないといって、「社会科」程、わけのわからない授業はなかった。中身が難しいというのではなくて、いったい、何を教えたいのか、それがわからない。 例の黒人の先生みたいに、生徒をひきつれて街に出て、「これが炭屋さんです。坂田君の御両親のお店ですね」なんてやる方法もあったんだろうが(同級生の坂田君は、坂田炭店の子供だった)、でもやったとしても、「so what?」だ。これが、アメリカだったら、「この雑貨店は、ジョーのお店だ。ジョーはイタリアのミラノからやってきたんだ。ミラノには、こんなお店が沢山あるんだ」とかなるんだろうが(実際、雑貨屋経営はイタリア移民が圧倒的に多いらしい)、坂田君ちの話じゃなあ……まあ、それはそれで面白そうだが。

 一つ覚えているのがある。社会科を学んでいる○○君が、ある日、ビルの屋上から下を眺めた。下は交差点だ。やがて信号が赤になり、車が停止線で止まると、立ち止まっていた通行人たちが一斉に歩き始めた。「なるほど、社会ってこうなってるんだ」と○○君は思った、という話なのだが、当時唯一、「なるほど」と思った社会科授業だった。でも、「なるほど」とは思ったけれど、「信号を守らない車、人もいないわけではないだろうが、そういう場合は社会科ではどう教えるのだろう。きっと例外ということで教えたりはしないんだろうけど、なんだかなー」という疑問が残ったのも確かだ。

 しかし、その後、ン十年、この何がなんだかわけのわからない「社会観」が、一切、深まりを見せることなく、わけのわからないまま、来てしまった。実際、いじめ問題に関する「識者」のコメントのそこの浅いことといったら!だ。

 その意味で、話が飛ぶが、私は、「俺が日本史の教科書を書いちゃる!」と宣言して、今書いているらしい橋本治に期待する。橋本の日本史は、「貧乏は正しい!」シリーズの中で展開されていたもので、奈良時代に確立し、幕末まで続いた律令制度と平安時代末期に始まった武家制度の相互関係を中心とする制度史的観点から書かれていて、「制度史」というジャンルが一般的にそうであるように、恐ろしく難解なのだが、その分、解釈に挑戦するという楽しみがある。(「難解」なのは教科書には向かないと言われるかも知れないが、ビルの屋上から見た眺めで「社会」を語る難解さよりなんぼかましだ)