パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

蜜蜂万歳!と、概念芸術

2006-05-14 13:41:31 | Weblog
 二、三日前、多分NHKスペシャルか何かの再放送なのだろうが、「蜜蜂」の生態に関するドキュメント映像を見た。中身的には別にどうということのないものだけれど、でも、「蜜蜂」はいいな~。蜜蜂さえいれば、人類は生き残れる、いや、全生物は生き残れる、ということは、地球が生き残れる……とまで、蜜蜂のドキュメント番組を見るといつも思う。
 その蜜蜂の蜜を人間は途中で奪ってしまう……というのは見かけで、蜜蜂の生命線は「花」なので、その花が枯れてしまう冬をどう生き残るかが、彼らにとっては非常な問題で、花が見つからないと全滅してしまう場合も多々あるそうだ。だとしたら、養蜂家が花を求めて一年中転々としていることは、蜜蜂自身にとって大変に有り難いことということになる。ただ殺されるだけの牛や豚とは大違いだ。
 「三国志」の中で劉備に散々撃ち破られ、炎天下をなんとか逃げ延びた袁術が、土地の老人に蜂蜜水を所望し、「蜂蜜水なんかあるもんですか。血の水ならあります」と言われて「おお!」と呻いて死んでしまう場面がある。たしかに! 三国志の時代に中国人は九割方死んでしまったそうだし、「血の水ならある」というのは、実感がこもっている。

 真っ暗の写真展、はじまる。よく来る、水戸のYさんに、「全然、何も見えないわよ。これで写真なの?」と突っ込まれていた。K君がどのように言い訳をしたかは、ちょっと聞こえなかったのだが、今朝、壁一つ隔てた隣のスペースを覗いたら、K君がコンビニ弁当を食っていた。壁のあっち側で概念的展示を行いながら、こっちで弁当を食う。この「ギャップ」をどう説明するか、ということに尽きるのではないか、結局。もちろん、概念的ではない作品の場合、作者はそんなことは求められないが、概念的な作品を提示した瞬間、そうでなくなる。

 概念芸術の創始者、マルセル・デュシャンは、次のように言っていたそうだ。

 『デュシャンはピエール・カバンヌとのインタビューで次のように応えている。
 「ウィーンの論理学者はある体系を練り上げたわけですが、それによれば、私が理解したかぎりでは、すべてはトートロジー、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へといくわけですが、すべては最初の定理のなかにあるのです。ですから、形而上学はトートロジー、宗教もトートロジー、すべてはトートロジーです、このブラック・コーヒーを除いて。なぜなら、ここには感覚の支配がありますから。」
 デュシャンはこの言及で、このブラック・コーヒーが存在する限り、トートロジーは完結しないということを言っている。それは分析的でトートロジカルなコンセプチュアル・アートは成り立たないということを、デュシャン自身が表明していると受けとめることができる。言い換えれば、デュシャンがこのように言うことできたのは、トートロジーの本質をつかみ、既にコンセプチュアル・アートの限界さえ捉えていたからだ。』(北川裕二という美術評論家らしい人のブログから)

 つまり、概念芸術とは、概念を示すことではなく、「概念の限界」を示すことなのだ。もちろん、それ以外に概念を示すことはできないということでもあるのだが。