パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

異様な一日

2007-04-17 22:41:55 | Weblog
 今日は、朝から、アメリカ、バージニア大学の大量虐殺事件にかかりきりで過ごしてしまった。

 というのは、当初の報道で「犯人はアジア系」とあって、以後、情報は途絶えたまま。一方で、「昨年の八月、上海から、留学生ビザでアメリカにやってきた中国人」であるとか、駐米中国大使が、犯人が中国人であることを認めたという情報が流れたものの、一向に確定しない。それで、2chを中心に情報収集に半日を費やしてしまったというわけだ。反省。

 しかし、「反省」はともかく、報道の流れとして、犯人が中国人(アメリカ国籍を持つ“中国系アメリカ人”ではなく)であることを否定する報道はないので、犯人は、「アメリカに来たばかりの中国人」という線は固いのではないかと思う。

 で、これを前提にすると、いくつか、不思議……というか、興味深い中国人像が浮かび上がってくる。

 まず、第一に、あらゆる殺人の基本には、たとえば、人類初の殺人が父親(神)の依怙贔屓に発する兄弟間の殺人であったように(カインのアベル殺しのこと)、「怨恨」という感情が存在する。このことは、通り魔的な無動機殺人であれ、銀行強盗などに伴う殺人であれ、よくよく観察すれば、自分が所属する社会への不満がわだかまっていることを見い出すことができると思う。言い換えれば、殺人とは、基本的には、同族間で、同族故に起こるのである。したがって、「戦争」における「殺人」は、異なる部族(近代以降は「国家」)間で起こるので、容認されているのだと思う。

 「戦争」のことはさておき、「殺人は同族間で起こる」という原則を今回の大量殺人にあてはめれば、今回の事件は、そもそも「あり得ない」、ということになる。なぜなら、もし犯人がアメリカにやってきてまだ一年も経っていない外国人であるならば、その外国人は、アメリカ人に対して「怨恨」を持つまでにいたっていない筈であるからである。(もちろん、相手が一人や二人ならば、短期間の滞在でも特別な関係を結ぶこともあり得るだろうし、その結果の「殺人」なら、大いにあり得るだろうが。)

 ところが今回の犯人は、彼にとっては、いかなる共通の感情、利害によっても結ばれていない「外国人」であるアメリカ人を、まとめて(なんと、教室の扉を鎖で縛って、外へ逃げられないようにしたそうではないか!)殺してしまったのである。

 要するに、「あり得ないことが起きた」ということなのだが、しかし、例外があって、こんなことを言うと、嫌中意識が過ぎると思われるかも知れないが、それが中国人だ。
 たとえば、世界中のあらゆる都市にチャイナタウンがあるけれど、あれは、中国人の数が多いだけではない。中国人は、世界の何処で暮らしても、そこが「中国」になる。決して現地に同化しない。そしてそれは、近代的なナショナリズムとは違う、大家族主義に淵源する「同族意識」、すなわち「中華意識」の発現なのだ。

 だから、たとえば、去年だったと思うが、イタリアのチャイナタウンで、中国人の住民と警察が衝突してニュースとなったけれど、あれなんか、彼らの中華意識の格好な例だ。それは、たとえばアルバニアの住民が、隣国のイタリアに「出ばる」ような形で進出して、その結果、イタリア人と摩擦を起こす、というようなことだったら、ごく普通にあることだが、中国人の場合は違う。はるばるシルクロードの彼方からやってきてもなお、現地に同化せずに、自分の居住地は「中国」であると考える。実際、そういう場所が「チャイナタウン」なのだが、今回の大量虐殺事件の底には、このような中国人のメンタリティが存在しているのではないかと思うのだ。

 もちろん、このような、中国人独特のメンタリティーと、犯人の「動機」とはイコールではない。それはそれで別なのだが、どこへ行っても中国人として振る舞う、彼らの独特のメンタリティがなければ、今回のような事件はあり得ないのではないかと思う。
 たとえば、『水滸伝』の108人の中で中国人に最も人気のあるのは、黒旋風という2本のまさかりをふりまわして、手当りしだい、子供だろうが何だろうが、気の向くままに容赦なく殺してしまう、まさに「殺人鬼」としか言い様のないキャラクターなのだが、中国の評論家は、それを「童心」と呼んでいる。その「童心」を中国人は好きなのだと。日本の福岡で一家4人を惨殺したのも中国人留学生だったが、あれは、殺人鬼を「童心」と呼んで好む彼らが、外国(日本)に来ても、同様に振る舞った結果ではないかと思う。

 と書きながら、2chで新しい情報がないかとチェックしたら、なんと、長崎市長が狙撃されて重体だと! 

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