パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

アフォーダンス理論とは

2005-12-28 00:18:53 | Weblog
 詩人の鈴木志郎康さんが、毎朝、トイレで「脳と心」の本を読み、その報告を書いている。大分前から書いているようだけれど、先日、読み終わったとのこと。曰く、

 『22日の朝、トイレで読んで来た「脳と心の地形図」を読み終わった。最後のところで、自由意志を持った「私」という存在が形而上的な存在でなくあくまでも脳のニューロンの働きによるものであることが強調されていた。「次世代の人たちは、人間はプログラム可能な機械だという事実を、地球が丸いという事実と同じくらい当然だと考えるだろう。それは人間の尊厳をおとしめるどころか、人間の暮らしを飛躍的に向上させることになる」と書かれていた。』

 あくまでも、「報告」なので、志郎康さんが、この「脳と心の地形図」なる本の結語についてどう考えているかは書かれていない。そうなんだね、考えるのは「私」なのだが、それを踏まえて言うと、結局、「人間はプログラム可能な機械だという事実」を悪魔でも、いやあくまでも推進しおうという「ゾンビ説」がメジャーなのだ。たしかに、「ゾンビ説」でなければ、「ホムンクルス説」になってしまい、そうすると、「心」が「脳」とは別に独立して存在する(心身二元論)ことになってしまうから、どうしたってゾンビ説が残る。言い換えると、ホムンクルス説は、ゾンビ説に先行するが故に、ゾンビ説に反駁できない。
 では、ゾンビ説(「心は脳という物質的な現象のコインの裏面に過ぎない」)が視覚の研究に関する最終的解答かというと、そうではない。何故なら、ゾンビが「心身」のうち、「心」を削ったものであることで明らかなように、その理論的根拠は「心身二元論」にあるからだ。だから、たとえば、人間ならば幼児でも易々クリヤーする、「行為の選択」が、ゾンビ(ロボット)にはできない。いや、できないのではないのだけれど、「不要な行為」を全部チェックした後でないと、「必要な行為」にたどりつけない。ロボットがもたもた動くのは、このせいだ。
 これを「人工知能におけるフレーム問題」というらしいが、今書いたように、人間ならばまだ生まれて間もない幼児であっても、自分がしようとしていることに関係のないことを無意識のうちに「無視」している。つまり、人間は誰でも「選択」と「選択にかかわらないものの無視」を同時に行なうことができる。実際のところ、それが「行動」ということなのだが、これを言い換えると、人間は、自分をとりまく「環境」と一体化し、環境が変化すれば、自分も変化する。そして、それを可能にしているのが「知覚」なのだ。つまり、知覚とは、人間(生物)と環境の直接のつながりそのものである。
 ……というのが、最近ちょくちょく耳にする「アフォーダンス」ざんす。

 おやじギャグはともかく、アフォーダンスとは、「~を可能にする」という意味の「アフォード」から、この理論の創始者ジェームス・ギブソンが作った新造語で、要するに、「知覚者が作り出す価値ある情報」ということらしい。
 たとえば、従来の理論ならば、水晶体を通じて集められた光が網膜に像を結び、それが電気信号に変換されて脳に送られ……というプロセスで「視覚」を説明してきたが(この点では「ホムンクルス仮説」も「ゾンビ仮説」も変わらない)、アフォーダンス理論はこのような見方を一切否定し、視覚の本質とは、心身二元論的な「主客の分離プロセス」を伴わずに、直接に対象(環境)から情報を得ることであるという。すなわち、「知覚とは情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的に作り出すことではない」(佐々木正人)。
 そもそも、それができれば、別に「水晶体―網膜―脳」といったような図式に捕われる必要はないわけで、アフォーダンス理論は、かくのごとくえらく単純で、でもえらく難解である。

 というわけで、難しすぎてうまく説明できないというか、実際のところ、全然理解できてないんだろうけど、ソニーのアイボも、このアフォーダンス理論を導入した新ソフトを開発中だそうで、もしこれがうまくいったら、実は私はこれまでロボットなんかには全然興味なかったのだが、ちょっとすごいことになるかもしれない。

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2 コメント

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えー (kogure)
2005-12-28 03:18:07
「脳は命令しない」ってなことにはちょと賛成。

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アホウは踊る。 (うさぴょん)
2005-12-28 22:40:28
踊るアホウは簡単かもしれないが、アフォーダンス理論は難しい・・・ですね。
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